第四章 現実
強い日差しを受けて駅に向かう。夏休みが終わり今日から新学期が始まったが、気分としてはそこまで悪くはない。学校は必要なものだと思うし、多少嫌なことがあってもひかるくんがいる。ひかるくんさえいれば僕はどんなことでも頑張れるのだ。大丈夫、大丈夫。
教室の扉を開けるとクラスメイトが僕を見て、さっと目を逸らす。その目はとても不愉快なものだった。嫌悪でも軽蔑でもなく好奇の目だ。なぜだろうか、確かにクラスで浮いてはいたが夏休み前後でクラス内の評価が変わるとは思えない。不思議に思ったがそれについて尋ねる勇気などない。その後も好奇の視線を浴びながらも気づけば帰りのホームルームの時間となった。はぁ、やっと一日が終わる、と思ったとき先生が僕の名前を呼ぶ。
「基井くん、ホームルーム終わったら生徒指導室にきてください」
「えっ」
思わず声が漏れる。
「大丈夫、怒ったりしないから」
怒ったりしないってそもそも心当たりが少しもないんだけど…。納得のいかない気持ちを抱えたまま生徒指導室に向かう。ノックをして中に入る。
「失礼します」
「あぁ、とりあえず座っていいよ」
「はい」
緊張で締まる心臓を落ち着けるように軽い深呼吸をしてから椅子に座る。
「用ってなんですか?本当に心当たりがないんですけど」
先生は少し苦い顔をしてから切り出す。
「基井くんは何か幻覚を見ているんじゃないかという話をある生徒がしていた。先日の花火大会で君が虚空を見つめて何かを呟いていた、いや何かと会話しているように見えたと。実は俺も基井くんのことを心配していたんだ。クラスともあまり上手くいっていなそうだし、親御さんもあんな感じだろう。その、病んだりしているんじゃなかろうかと思ってね」
「は?」
意味が分からない。何を言っているんだ。幻覚?そんなものは見ていない。クラスとか家族のことにずけずけと意見してきやがって、今じゃねーだろうが。ふざけんなよ。おせーよ。邪魔すんなよ。あぁ、イライラする。くそ、思考がまとまらない。意味不明なこと言い出すからだ。
ーーー本当に?本当に意味不明なことなのかな?
え?いや、意味不明でしょ。
「すみませんが、放っておいてください。家族のこともクラスのことも大丈夫なんで。幻覚とか病んでるとか見当違いも甚だしいですよ」
沸々と湧き上がる脳みそに任せて僕は生徒指導室を出た。
電車の中で考える。僕の中のもやもやは何なんだろうか。馬鹿みたいな意見に耳を貸して悩む必要なんてないと分かっているのに。とにかくひかるくんと話せばもやもやも消えるだろう。電車を降りて急ぎ足で公園に向かう。公園までの道のりが異様に長く感じられる、というか公園に行くのが恐いという気持ちがわずかに働いている気がする。なにを不安に感じているのだろうか。
公園に着くとそこにひかるくんはいなかった。今まで1度もこんなことはなかったのに。胸が激しく痛んで、猛烈な不安に襲われる。もう一生会えないんじゃなかろうか、という考えがよぎる。
「いや、そんなわけない」
はっきりと言葉に出して、ふーーっと息を吐くとほんの少しだけ落ち着いた。ブランコに座ってひかるくんを待つ。ただ、日が落ちてもひかるくんが現れることはなかった。
ひかるくんに会えなくなってから1週間が経った。その間いろいろなことを考えたが、考えれば考えるほど先生の話が現実味を帯びてくる。信じたくなけれど信じる根拠はたくさんある。会いに行こうと思ってもひかるくんがどこに住んでいるのかを知らない。それどころかなんでこの地に訪れたのかも定かではなく、思い返せばタイミングが良すぎたとも思える。ただ、僕が「橘ひかる」という存在を信じてさえいればまた現れてくれる、そんな気もする。そう思い込んだ方が幸せだと思う。だからそう祈りながらブランコに座り続けるのだ。僕のひかるくん、あぁどこにいるの。
家に帰るともう19時になっていた。
「ごめん、遅くなっちゃった。もうご飯なの?」
返事はない。
「僕も食べようかな」
ご飯をよそって椅子に座る。
「いただきます」
ご飯を食べていると無性に泣き出したくなってくるが、グッとこらえる。
「ご馳走様でした」
ご飯を食べ終わるとすぐに皿を洗い、それが終わると洗濯物を畳む。ひかるくんがいなくなっても僕はこの習慣を続けている。だってひかるくんがやった方がいいって言ったから。お風呂に入り、歯を磨くとすぐに自室で勉強をする。
「ふわぁぁー」
眠くなってきたのでベッドに入る。明日はひかるくんに会えますように。
「律くん、頑張って生きてね」
ひかるくんがベッドの横に立っている。間接照明に照らされる暖かいほほえみ。
「ひかるくん、久しぶりだね」
ひかるくんは何も言わない。
「どうしたの?何か用があるの?」
やはりひかるくんは何も言わない。
「なんで最近は公園に来なかったの?忙しかったんだよね」
「でも、会えてよかったよ。明日からはまた公園で会えるかな?」
「ねぇ、なんか答えてよ。ねぇってば」
仄暗い部屋で沈黙が響く。何秒も何十秒もいや数分、数十分以上の経っていたかもしれない。とにかく時間が止まったような、一生にも一瞬にも感じられるような苦しい時間であった。心臓も胃もその他の臓器も締め付けられるように痛む。脳みそのなかで何かが暴れまわっている。
ーーーもう全部分かってるよ。
ふいにひかるくんと目が合う。あぁ、もう無理だ。これ以上は抗えない。
「なんでここに来ちゃうんだよ。だめだろ、ここに来たら。そうしたらもう分かっちゃうじゃんか。ねぇ、ひかるくん、本当は、君はいないんだろう。僕が求めた救いなんだろう」
ひかるくんは僕の大好きな笑顔を僕に向けて消えた。
体が動かない。ひかるくんはもういないという現実を受け止められない。今日は学校があるのに、今日までどれだけつらくても登校してきたのに今日は無理そうだ。ひかるくんとの思い出が鮮明に蘇ってくる。
夏休み最終日、僕らはいつも通り公園のブランコに座って話していた。
「今日で夏休みも終わりかぁ」
「あはは、大変だね。でも律くんなら大丈夫だよ」
「ありがとう。ひかるくんがそう言ってくれるなら頑張れるよ」
「うん、応援してるから頑張れ。一緒にいなくてもずっと応援してるからな」
ーーーあぁ、分かったよひかるくん。
ひかるくんがいるのかいないのか、本当に重要なのはそこじゃない。今残っているのは「橘ひかる」のおかげで救われた一つの命だ。生きてさえいればまたひかるくんに会えるかもしれないという希望だ。生きていくなら楽しい方がいい。自分から沼に沈んでいく必要なんてない。なにも上手くいかなくても頑張ってさえいれば自分を少しだけ好きになれる。それだけでちょっとだけ幸せになれるんだ。7時12分、今から準備すれば学校に間に合う。僕はベッドを出て呟く。
「よし、頑張ろう」