第二章 海
僕は海が好きだ。波の音が聞こえるくらい海が近い家に住んでいたからだろうか海を自分の一部みたいに感じることがある。自殺を考えたとき僕の頭には溺死以外は有り得ないと思った。ふわふわとした足取りで海へ向かう。以前公園に来た時よりも遥かに早く波の音が聞こえだす。その音に引かれて歩調が速くなっていく。あぁ、今日で全部終わるんだ。サッサッと砂を踏む音がする。だんだんと砂が細かくなっていき、少し砂が湿った海の目の前に着く。靴も靴下も脱ぎ捨てると足で砂を感じる。砂を押して一歩一歩と歩みを進める。濃くなる海の威圧感を受けて5年前の夏を思い出す。
夏休みは毎日のように海に行っていた。あの日も家族4人で海に出かけた。僕はもう5年生だったから泳ぐことができたけど、妹の愛はまだ1年生だったからずっと両親と砂浜で遊んでいた。父さんも母さんも娘を欲しがっていたから妹とは本当に楽しそうに遊んでいたな、僕のことなんて気にも留めずに。なのに愛は海で溺れて死んだ。二人がほんの数分目を離したときに海に入っていったらしい。愛が死んでからの我が家は酷いものだった。父さんと母さんはお互いに「なんで目を離したんだ」と罵りあい、挙句の果てに「お前が海で泳いでいたからそれを追いかけたんだ」「お前のせいで愛は死んだんだ」なんて罵声を僕に浴びせてきた。二人が波の音のせいで眠れなくなったから家を引っ越し、愛を殺した僕とは口を利いてくれなくなった。僕も愛が死んで落ち込んだし、哀しかったけれど日に日に家族をこんな状況に追い込んだ愛の死に憤るようになった。愛のせいにすれば、父さんと母さんのせいにしなければまだこの家族は修復可能だと思っていたんだ。
「ふっ、ばかだな」
自嘲的な声が漏れる。愛、ごめんな。俺もそっちに行くよ。海は苦しいのか。そっちは楽しいのか。もっとうまくやれたんだろうな、僕ら。ちゃぷちゃぷという音がだんだんとしなくなる。水をかき分けて進むともう胸のあたりまで海に浸かっている。足が着かなくなるところまで泳ごうと足にグッと力を込めたとき、
「律くんだよね、待って」
という声が聞こえた。ゆっくりと振り返ると一人の青年が立っていた。その顔を見ると心臓がドンッと爆音を鳴らす。ひかるくんだ。橘ひかるくん。僕の救いの少年だ。僕は必死になって砂浜に戻る。バッシャバッシャと波を荒立ててひかるくんのもとに向かう。正直、曖昧な記憶だと思っていたがその顔を見ると鮮明に名前を思い出したから驚いた。僕よりひと回りくらい大きくて変わらない雰囲気に感動する。
「なんでここにいるの」
僕が聞くと
「久しぶりにこの辺に遊びに来たら海のなかに歩いて行く人影が見えたから。まさか律くんだとは思わなかったよ」
「そうだったんだ。会えてうれしい」
「僕もだよ。もしかしたら会えるかなって思ってあの公園も行っちゃったよ」
「うん、ずっと会いたかったんだよ」
上手く話がまとまらない。伝えたいこともいっぱいあるはずなのに言葉にならない。その行き場のない思いが涙になって逃げていく。ひかるくんは黙って横にいてくれる。その優しさが懐かしくて嬉しい。話したくないことは話さなくていいんだよ、というあたたかな雰囲気。
「ありがとう、ひかるくん」
「気にしないでいいよ。びちゃびちゃだけど寒くない?」
「大丈夫、ありがとう」
「そうかよ。じゃあ寝っ転がろう。服も乾くでしょ」
「うん、ありがとう」
この数分で何度ありがとうと言ったのだろうか。ひかるくんは僕の救いなんだとしみじみと思う。二人で砂浜に寝転がる。しばらく黙っていたけれどひかるくんにはつい甘えてしまう。
「僕、死のうとしてたんだ。学校も家族もうまくいかなくて、頑張ってた勉強ですら落ちこぼれた。もう未来にほんの少しの希望も見いだせなくなっちゃったんだ」
「うん、大変だったね。頑張って生きてくれてありがとう。おかげで今日会うことができた」
「うん、うん」
僕らは日が暮れるまでぽつぽつと話しながら砂浜に寝っ転がっていた。
「明日は公園で待ってるね」
「やった。また明日」
僕はひかるくんの誘いにこう応えて家に帰った。
翌日の学校ではずっとひかるくんのことを考えていた。そのおかげで余計なことは考えないまま学校を終えられた。学校から駅まで走る。まだ日が出ていて暑いけどそんなことは気にしない。ホームに着くと汗がどっと噴き出す。目に汗が沁みるがそれも気にしない。電車に乗り込むと浮き立つ心が少し落ち着いた。昨日のことを思い出す。ひかるくんがあと1分でも遅く海に来ていたら僕たちはもう二度と会うことができなかった。本当に奇跡みたいな再会だった。ひかるくんは僕の救い、なぜひかるくんだけが特別なのかはわからないけれどひかるくんにだけ何か感じるものがあるのは確かだ。ものすごく安い言葉を使うと運命とでもいうのだろうか。それも適切な表現ではないような気がするけど。
駅からも走って公園に着くと、ひかるくんはブランコでアイスを食べて待っていた。
「ごめん、待たせちゃった」
「ううん、そんなに待ってないよ。ほら、アイスも溶けてない」
ひかるくんの笑顔が輝いて見える。
ーーーあぁ、この人が好きだな。
ひかるくんを見て強くそう思う。愛でも恋でも友情でもない、好意という言葉もぴんとこないような言語化できない感情。ずっと心の中にいるとてつもなく大きな存在。
「そんなに待っていないなら良かったよ」
「待ってたとしてもきにしないでいいけど」
「ひかるくんは優しいね。でも待たせすぎたらきにしちゃうよ」
「だよね。俺もその気にしちゃうほうだわ」
こんな会話がこれ以上ないほど幸せに感じる、「生きていて良かった」と思えるほどに。
気がつくと日が落ちていた。あっという間に時間が過ぎて驚く。
「俺もう帰らなきゃ。また明日もここにいるね」
ひかりくんはそう言って公園を去っていった。
次の日もその次の日も学校がある日もない日もとにかく毎日僕らは公園で話した。そうして日々を送っているうちに夏休みになった。これでずっとひかるくんと一緒にいられる。この日々のなかで僕のメンタルは完全に復活、むしろここ数年で一番調子が良くなった。そんな状態で夏休みを迎えられることが嬉しい。ひかるくんとの夏が始まったのだ、としみじみ思う。