外の世界
チリリリリリン!!!………………チリリリ……カチッ。
俺は枕元に置いていた目覚まし時計を寝転がったまま手の甲で止めた。今時こんなのを使ってるのは俺くらいだろう。
そんなことを思いながら腹筋に力を入れて体を起こす。
「夢の生活も今日で終わりか」
今日は俺の人生においての1つの転換点になる。
俺は普段よりも数時間早く洗面所へと向かった。
水を手で掬って顔を洗い、歯磨き粉のついた歯ブラシを口に入れて丁寧に歯を磨きながら俺は物思いに耽る。
9年。ずっと日陰で暮らしてきた。
好き好んで外に出ることは殆どなく、ライトノベルや漫画、ゲームといった娯楽に明け暮れた毎日を送っていた。
ただ、そういった作品に触れる中で、'また'他人と話したいという気持ちは芽生えたし、頭の良し悪しや体格、清潔感などの容姿が相手に与える印象に関する知識はあった。
だから、俺は運動と勉強だけは怠ることがなかった。
そうして今年、唐突に俺の暮らす国、東亜連邦の皇女が
三帝同士で競い合いを始めると言い出した。三帝間の不干渉は誕生してから今日までおよそ500年続いてきた。
それが、なぜ今更重たい腰をあげたのかというと、
皇女曰く
「なんで戦わないんだ。昔はやってたのに」
「やったら優劣がついちゃうでしょ。誇りの問題」
「用は怖がってるってことだろ」
といったネット上で飛び交う国民の意志を汲み取ったから、ということ'らしい'。まあ、これは十中八九建前で、実際は国民の不満を放置しておくことによる皇女自身の支持率の低下やそれに伴う王位脱却を危惧したから、って所だろう。
彼女が普通の王様だったら。
ま、何はともあれ結果は上々。
今ネット上ではその話題で持ちきり'らしい'。
誰が言い出したのか"三帝競争"という言葉まで生まれ、
かなりの盛り上がりを見せているそうだ。
歯磨きを終えた俺はコップで水を汲み、口の中を濯ぐ。
そして、スッキリしたところで次は朝風呂だ。
脱衣所で乱雑に服を脱ぎ捨て、足先から湯船に体を沈める。
全身に伝わる熱はとても心地よくて自然と瞼が閉じる。
俺の家は小さな山の頂上に建っており、いくつかの部屋からは目下に広がる街並みを見渡せる。だから必然と、他の建物がうちとは雰囲気が違うことに気がついた。
下に見える建物は上に伸びていたが、うちは廊下が横に伸びる1階建て。素材も石と木で全然違う。
それに加えて、うちの敷地は山1つまるごととかなり広い。
要するに、俺の育ってきた環境は明らかに特殊という事だ。
そして、それが関係しているかは分からないが、親には
『学校に通わなくとも結果が出せれば問題無い』という考えがあった。学校に通いたくなかった俺はその考えに乗り、毎日家でテストを受け、親父の儲けた合格点を超える限り学校には通わなくていい、という約束を取り付けた。つまり、その結果、今日までその生活が続いたというわけだ。
俺はいつか再び家を出たいと思っていた。
けど、それは今じゃなくていいとも思っていた。
小中学校の友達で大人になっても会う奴なんて殆どいないという話を聞いたし、昔痛い思いもしたからな。
幸い親の設けたテストは比較的簡単で、好きなことに多くの時間を使うことができた。まさに天国だったんだが…
この平穏な日々は崩されることとなった。
プライドの高い親父が約束を守り続けている俺に対して
来年から学校に通えと言い出した。
急な話にとても納得できなかったが、7年家に居させてもらった恩も感じていた俺は仕方なく高校に行くことを承諾した。
そして今日がその入学式。
俺は制服を着て黒い靴を履き、鞄を片手に玄関を出る。
すると、そこにあったのは見慣れた光景。
雲1つ無い空に浮かぶ太陽に照らされ緑が際立つ木々。
激しく落水を繰り返す滝とそこから伸びる透き通った川。
妖艶な音色を響かせながら舞う小鳥達。
その目に入った光景1つ1つに名残惜しさを感じながら、俺は延々と続く石の階段を1つずつゆっくりと降りていった。
今日から俺が通う高校は"東亜学院"。
首都"新蘭"に一昨年建てられた寮制の学校だ。
家からはまあまあな距離があるらしく、親からはエレキバスを使うように言われた。ちなみにエレキバスというのはAIによって操作される自律式電動バスのことをいう'らしい'。
そう。
"らしい"だ。
実を言うと、俺は携帯もテレビも持っていない。
東亜学院に関しては家に届いた書類から、
三帝競争に関しては親から聞いた情報。要するに、俺は漫画や小説で得た、事実かどうかすら分からない不明瞭な知識と教科書に載っている程度のことしか知らないわけだ。
傍から見れば原始人みたいなもんだろう。
だけど俺の中では上手くやっていけるかという不安よりも、
すぐそこに見えていた場所に、興味がありつつも後回しにしていた世界に踏み込めるという好奇心の方が優に勝っていた。勿論、今までの生活を続けたかったのが本心なんだが、決まったことは何を言っても仕方がない。
楽しもう。
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どれだけ脚を動かし続けただろうか。
ようやく"門"が見えてきた。門は黒く網目状の作りをしており、その左右には周囲の木よりも高い鉄柵が並んでいる。
家の敷地内に柵。それも高さは10m以上。
これじゃあまるで、怪物でも飼ってるみたいだな。
此処まで来るのはかなり久しぶり。
というか、門の外に出ること自体いつ振りか分からない。
ただ、此処は未だに森の中で麓はまだ先だ。
ここからは車で舗装された道を通って下山する。
大きく開いた門の前には1台の黒い車と1人の女性が立っていた。女性は藍色の浴衣を着て、長い黒髪を上で纏めている。
そしてそれによって曝け(さらけ)出されたうなじは色気を感じさせ、近づく度に香水のいい匂いが強くなる。
これぞ大人の女性といった感じだ。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
「……ああ」
若干の緊張もあって質素な返事になってしまったが、とりあえず俺は彼女が親切にも開けてくれた後部座席へと乗り込む。
彼女自身は運転席に座った。
どうやら自動運転では無いらしい。
俺達2人を乗せた車は静かに発車した。
俺は彼女のことをあまり知らない。
親父と一緒にいる姿は何度か目にしたことがあったが、一方的に見たことがあるだけで話をしたことは一度もなかった。
ただ、この先話をするのは初対面の人ばかり。
会話の練習にはいい機会だが、
「………」
ダメだな。言葉が出てこな…
「小さい頃のことで何か覚えていることはありますか?」
(……っっ)
びっくりした。まさか逆に話しかけれるとは。
けど、なるほど質問形式ならいけるな。
「毎日いろんなゲームをしていた記憶はありますね」
「それはいったい誰と?」
「誰でしたかね」
「………」
あれ、俺の答え方がまずかったのか?
結局あれから話しかける言葉を見つけることはできず、
話しかけられることも無く、気づけば車は停車していた。
そしてふとすぐ隣の窓から外を眺めると、目と鼻の先には巨大な建造物が広がっていた。
あまりの迫力に呆気に取られていたところ、無造作に目の前の扉が開けられた。
「どうぞ」
操られたように車を降りると、目下に広がる光景に俺は暫く目を奪われていた。
「この階段を下りると街です。この辺りは田舎ですから人は少なくて動きやすいと思います。では、こちらをどうぞ」
そう言って手渡されたのは、金属製の薄い板と1枚の紙だ。
「これは?」
「携帯電話とその説明書です。
蓮様のお父上から渡すように申し付けられておりました」
これが携帯電話か。思ったよりも薄いし、軽い。
楽しみが増えたな。そういえば…
「ちなみにエレキバスっていうのには何処から乗ればいい?」
「全て自分で調べろとの事です」
「そうですか…」
「では、私はこれで」
他に用事があるのか、彼女は足早に去っていった。
俺、今無意識に会話できてたな。
変にゴチャゴチャと考えない方がいいのかもしれない。
とりあえず時間までに東亜学院に行かなくちゃならない。
説明書を読み終えた俺は、早速携帯電話の操作を始めた。