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「婚約解消、して頂けないでしょうか」
私、ステラ・スウィントン侯爵令嬢は、婚約者であるエディ・ルース公爵令息に静かに告げた。
彼はまさか私からそんな言葉が出るなんて思ってもみなかったのだろう。いつもその切れ長で青く、冷たい瞳を私に向けていたが今だけは少し大きく開いていた。
「ステラ、理由を聞いてもいいだろうか。」
「私はもう、疲れたのです。」
そう、ただ私は疲れたのだ。彼をただ愛するだけの日々に。
「……父には俺の方から伝えておこう。そのうち君の父君の方にも話が伝わるだろう」
物分かりのいい彼はそれだけを告げるともう用はないとばかりに席から立ち上がり、私に背を向けた。
私も同じように席を立ち、彼に向けて今までのお礼も込めて告げた。
「ありがとうございます、エディ様。10年、あなたの婚約者でいられて夢心地でした。」
彼は珍しく立ち止まり、少し振り返り私に視線も向けず、何かを考え込んでいるようだった。
「エディ様?」
「…ステラ、」
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもない」
そうして今度こそ、彼は歩みを進めたのだ。
彼の姿が見えなくなったのを確認し、後ろを振り返って侍女のリリアにいつもと変わらぬ笑みを向けた。
「さあ、リリア。新しい恋をするわよ」
「お、お嬢様…いくらなんでも…」
リリアは幼い頃から私に仕えてくれている。だから私のこの幼稚で、醜くて、受け取ってもらえなかった恋心も知っている。だから彼女はこれで本当にいいのかという顔をするのだ。
「いいのよ、リリア。次は家のために結婚するわ。お父様に我が儘を言って結んでもらった婚約だったから、次はお父様のためになる方を選ぶわ」
「旦那様はお嬢様が幸せになることを望んでおらますよ。だからお嬢様が好きな相手と結ばれることを願っているかと思います…たぶん」
「ふふ、そうね。」
お父様は一人娘である私を溺愛している。
むしろずっと家にいろと言ってきそうだ。
「とりあえず、お父様のところへ行きましょうか」
「はい、お嬢様」
リリアが中庭から屋敷へと続く扉を開けてくれる。私はそれにお礼を告げ、扉をくぐった。
彼が本当に好きだった。あの黒髪も、空と同じ色の青い目も、全部。でもこれからは彼の幸せを祈らなくちゃ。
とりあえず、目先の目標は新しい婚約者様ね、と私決意を新たにしてお父様のいるであろう書斎へと急ぐのだった。
***
「お父様、少しよろしいですか?」
ノックと同時にお父様の書斎に入る。マナーとしてはどうかと言われるだろうけれど、お父様にしかやらないことなので許して欲しい。
「私の可愛いステラ、どうしたんだ?」
お父様は私と同じ榛色の瞳を細め、手に持っていた書類を机の上に置き、嬉しそうに笑ってくれた。
隣で家令のエドモンドーーエドがやれやれという顔をしてるのが視界に入る限り、お父様はまた仕事をためていたようだ。
「お父様、またお仕事をためていたのですか?」
「誤解だよ、ステラ。私ではなく、エドがためていたんだ」
そんなわけないだろうと呆れながら、お父様は娘である私に叱られないように適当に言葉を紡いでくる。
「エドは全く悪い奴だな。…それで、何の用だい?今日はエディ君と会う日だろう?」
お父様はいつも通り完全にエドを悪者にし、これ以上追及されないように私に用件を尋ねる言葉を重ねた。これはきっと後でエドに更に仕事を増やされるだろうに…まあいつもお父様は反省しないから日常風景だ。
「エディ様は先ほど帰られましたわ。それで、私、エディ様に婚約解消のお願いをして、了承されました。お父様にはルース公爵経由でお話がそのうち伝わるかと思いますが…先にご報告をと思いまして」
お父様は私の言葉に目を細めたまま嬉しそうに聞いていたが、婚約解消と聞いて目を見開いた。さすがのお父様も驚いただろうとは思うけれど、もう私は疲れてしまったから仕方ない。彼も好きでもない女と婚約解消できて満更でもないだろう。
「エディ君は本当に了承したのかね?…彼は……いや、うん、わかった。ルース公爵からの書類が届いたら手続きを進めるよ」
お父様は意外そうな顔をしていたが、すぐに思い直したように了承してくれた。
「彼は…なんですか?」
お父様が言いかけた事が気になり、そう返したけれどお父様は「なんでもないよ」と言うだけだった。私はなんだったのだろうと少し思案したが、考えても仕方ないことだと諦めた。
お父様に反対されるとは思っていなかったけれど、すんなりと了承が出たことに安堵した。
「それで、お父様。次の婚約者はお父様に選んで頂きたいのです。我が家の為になるような方と、と思っております」
「ステラ、その想いは嬉しいけれど、急ぐことはないよ。とりあえず、しばらくはゆっくりして、それから考えればいい」
「お父様、でも私はもう16歳です。後2年も経てば結婚していない貴族は殆どいない年齢になってきますよ」
この国、エイド皇国の貴族は男女共に18〜20歳頃が結婚適齢期とされている。16歳ともなれば婚約者のいない貴族の方が少なくなっている。焦る気持ちはお父様にだってわかるはずだ。
「わかってるよ、ステラ。でもまだ解消すると決まったばかりだ。あと1ヶ月はゆっくりしなさい」
「……わかりました」
お父様はあまり納得していない私を尻目に、そろそろエドの視線に耐えきれなかったようで書類仕事を再開した。
私は仕方なく、お父様の書斎を後にしようと思い扉に手をかけたのだった。