海より高く
「まずいまずいまずい」
秋蔵は冷や汗をかきながら、パソコン画面をみた。
「どうしたの?」
コーヒーカップを口に着けて、ルナは秋蔵をみた。
「催促のメールが来ていた。気が付かなかった。これはまずい。なんとかしないと」
「……博士はどうして休憩室でお仕事してるの?」
「体調検査がどうもいやでね。毎回サボっているんだが……、今年はパウロ君が担当だったはずだから、なあなあで終わらない。彼、仕事に厳格だから」
秋蔵の言葉はどこか自分に言い聞かせるように聞こえた。
そもそも今日は秋蔵は仕事はない。しみついた癖のように、研究に関する書類を見ているだけだ。
それから「困った困った」とかそんな聞こえるかわからないようなボリュームでブツブツ言っていた。
秋蔵は髪をかき上げて、大きく息を吸った。
――よし。
「僕は、ここから移動する。ルナちゃんはここに誰か来ても、僕がさっきまでいたことを言ってはいけないよ? いい?」
パウロはどんな手を使ってでも、秋蔵に体調検査を受けさせるだろう。パウロからのメールで、ここにいたらフィオナが言いふらす危険性にも今、気が付いた。
「……いや」
「は?」
「博士はもうちょっとここにいるほうがいいの」
「それはぁ……困るなぁ」
秋蔵は子供をあやす声を、慣れていないなりに出そうとしたが。
「ここからいなくなるなら、言いふらす。大声で博士の居場所を言いふらす」
かえってそれはルナを馬鹿にしたような結果になってしまった。ルナはご立腹な様子だ。
ルナは秋蔵をじっと見つめた。黒い水晶のような瞳に秋蔵が反射する。
――……っ!
秋蔵はルナに何かを感じた。それは愛情や甘酸っぱいロマンスを代表するようなものではなく。
――これがこの子の強さか。
自分の思い通りにならないことを許さないという執着。ルナのうちに眠る推進力の根本。
――この僕に対して、……交渉か。
「博士はここにいて。一緒にいて」
決して弱い口調ではない。その言葉は命令に近い。
ルナの我の強さに秋蔵は、感心し、恐ろしく感じ、同時にさびしく思った。
この瞬間に、秋蔵は思い描けた。将来、ジーニアス計画の産物として、ルナが宇宙で研究をする姿を。目の前の幼い執念のせいで、いとも具体的に想像できてしまった。
――将来は僕の部下になるのか。それは笑える冗談だ。
この時、そんな想像に対して、秋蔵はルナに対する一つの、答えを秋蔵は考え付いた。些か子供だましの気もあるが、この際言葉遊びでも関係ない。
――子供だまし。なるほど言い得て妙だ。それこそルナと僕の関係に限って許されるではないか。
これらの思考はわずか一秒のうちに行われ、秋蔵は口を開いた。
「じゃあ、こうしよう。僕は君にプレゼントを用意する。用意するために、ここらから出ていくんだ。それでもダメかい?」
「……プレゼント?」
「そう、今思いついた。君にプレゼントがある。あとで受け取ってくれるかい?」
「うん」
「それなら僕に準備をさせてほしい。休憩室から出る必要がある」
「だったら、いいよ。待ってる」
「よし、交渉成立だ」
秋蔵はノートパソコンなど自分の荷物をまとめて、休憩室を出るとき、ルナは最後に尋ねた。
「どこに行くの?」
――ここで答えないと、また交渉が始まるか。
「東条という学生がいてね。彼の部屋でかくまってもらおうかなと考えている」
と、秋蔵は答えた。
◆
秋蔵は東条明彦の部屋に足を運んだ。扉の前までこそこそ歩いて、さっと部屋に入り、電気をつけた。
「東条ってば鍵を閉めないんだねぇ。不用心ったらないわね」
そこには、フィオナがいた。
「みてみて。カレンダーにメールって書いてる。彼女かな。ぷふふ」
「篠崎博士。あなた悪役みたいですよ」
フィオナはボールペンを手で遊びながら答えた。
「友達だろ? 私たち。そういうこと言うなよ」
――なんでだ。どうしてこうなった……。
秋蔵は嫌な予感がした。パウロの差し金である可能性が高い。秋蔵が東条の部屋に隠れると予想できる人間は、フィオナしかいない。
「秋蔵君は、前に東条の部屋から小説冊子を盗みだしたじゃない? それを私にくれたわけだけど。悪ふざけでも、可哀想だとおもうのよね。私」
「……僕が東条の部屋に出入りしていることを知っているのは篠崎博士だけか……。正直パウロがここまでするとは思っていなかった」
「篠崎博士は止めてよー。同じ研究室の中じゃん。私は秋蔵君の友達として言うけど、東条が可哀想」
「君も人のこと言えないだろ! 僕が君に渡した小説冊子をだれかれ構わず貸してるらしいじゃないか」
「……」
「……」
「ぷふふふ」
「あはははは」
二人で笑いあった。
「君と僕。どっちもどっちだ。最悪だ」
「そうね。二人で東条にごめんなさいしましょう。秋蔵君」
フィオナは秋蔵の気の置けない友人である。真面目な話もするし、砕けた話もする。いたずらっぽいこともする。お互い子供っぽい。
「秋蔵君は東条の小説どう思った?」
「僕の趣味じゃないとだけ。世界観だけ先行して、物語に入っていけなかったよ」
「厳しいこと言うのね……私はまあ悪くないと思うけどね」
「それを本人に言ってやればいい」
「そうなんだけど、東条はまだふらふらしてるじゃない? いろいろと。まだ若いし」
「まだ若いしって、笑えるな」
「ぷふふふ。ちょっと笑わせないでよ。東条は小説の事誉めちゃうと、きっと仕事しなくなるわよ」
「……ああ、確かにな」
東条の部屋で談笑するが、本人はいないところが、なんだかおかしいと、秋蔵は思った。
しかし、フィオナの電話が鳴って――秋蔵は我に返った。
「あ、パウロだ」
「げ」
フィオナは電話を出た。
「うん、いるよ。秋蔵君。代わろうか?」
――ここまでか。
秋蔵は東条の部屋に逃げ込んだ時点で詰んでいたのだ。
諦めるような表情で秋蔵は電話を受け取った。
『やあ、秋蔵。君は現在四時間の遅刻をしている。すぐに医務室までくるといい。でないと俺がそっちに行く羽目になる。もちろんそれでも構わないが』
「ああ、行くよ。降参だ」
『秋蔵らしい聡明な返事で、助かった』
「じゃあ、もう切るぞ?」
『ああ、それともう一つ』
「なんだ?」
『勝手に部下の部屋に入るのはどうかと思う』
「……それは悪いと思ってる」
それじゃあ、と言ってパウロは電話を切った。
ため息一杯に、秋蔵はフィオナに電話を返した。
「じゃ、そういうことだから、秋蔵君。一緒に行こうか」
「一人でも行ける」
「ついていきまーす。そういうパウロとの約束でーす」
「君たち、親子はそんなんばっかか。もう」
二人は、東条の部屋から出て、医務室に向かった。
◆
東条明彦が地球で学生をやっていた頃、彼は執筆という趣味を見つけた。
当時は十五歳だっただろうか、正確な時期は覚えていないが、彼はそのとき学問にしか興味がなかった。そんな彼が何の気なしに手に取った図書室の漫画に何かを揺さぶられてしまった。
それが発端。創作ということについて、はじめて関心が湧いた。
ただ、東条には絵を描く才能も、それに見合った努力や背景の一切が欠けていた。
だから彼は活字で物語を綴ることを選んだ。
選んだ。
選んだ。
逃げたのではなく。
妥協したのでもなく。
自ら選び取った。東条はそういうことにしていた。
それについて、自分で責めるようなことはしない。単純に自分がしたいことは何か、確認すればよいだけの事である。
魂の震えた物語は、絵やコマ割りがあったから、その形を成していたのか。確かにそれもあるだろう。
しかし東条は、漫画に会って小説にもある、何かを必死に見出そうとしていた。
彼は、自分の能力と、願望の形の間で必死にもがいていた。
その後、彼は大学生のカリキュラムに飛び級し、航空工学を専攻した。
単純にその学問が好きだったからだ。
学問の事となると、ごちゃごちゃと考えることが少なく、創作よりも気が休まった。それが当時の本音。
そんな東条の頭を悩ませていたのは兄の東条裕也の存在だ。
『なに? 小説なんか書いてんのかよ。読んでいいか?』
何気ない口調で、東条の作品が載っている小説冊子を手に取る兄が思い浮かぶ。
東条の影響で小説を描き始めた、兄はメキメキと実力を伸ばしていった。さも簡単なことのように新人賞を持ち帰ってくる姿に、東条はなにが正しいのかわからなくなっていた。
創作に焦がれた。
――あの時、俺を震わせたものに、俺は手も届かないのか。
東条は、どうしたってあの時感じた熱いものを、一時の気の迷いと断じたくはなかった。
今では兄はプロの作家だ。
東条は国際宇宙大学院の学生。将来はエンジニアだ。
――何が違った? どこで違った?
そんな陰鬱な考えが、頭をよぎっている間に、東条は自分の部屋に着いた。
「篠崎博士は……俺の小説読んで、どう思ったんだろうなあ」
ベッドに仰向けになって、つぶやいた。
カレンダーには「メール」と書いてある。
これは実家に帰省する連絡をするためのメールのつもりで、カレンダーに書いた。
しかし、兄が家にいるという理由で、帰りたくなかった。
「ああ……」
――今日はオフだ。もう寝てしまおう。
すると、ドアの向こうからノックする音が聞こえた。
「博士え? 博士いるう?」
――?
その声は確かに覚えていた。
「ルナちゃん!」
東条は大慌てで、部屋のドアを開けた。
そこには、不思議そうな顔をしたルナが、本を抱えて立っていた。
「東条さん。博士はいませんか?」
「博士? 博士ってどの博士?」
「えっと……みなみはら……しゅう……」
「南原博士?」
「うん」
「……いないけど……、待ち合わせでもしたの?」
――俺の部屋で? そんな馬鹿な。
「博士が、東条さんの部屋に行くって言っていたから」
「ん? どういう意味だ?」
東条は体調検査に出かけて、自室の鍵を閉めていなかったことを思い出した。
「私は、さびしくなったので、博士に会いに来ました」
――博士が部屋に入っていた?
「とりあえず、ルナちゃんは俺の部屋にはいるかい?」
「はい」
東条は部屋の入口にある赤外線センサーのログを見返そうとした。
――!
そこで東条はパソコンを立ち上げたが、いつも使っているボールペンが移動していることに気が付いた。机の右に置いてある。東条は左利きだ。
このセンサーは、国際宇宙大学院の部屋すべてに標準配備されている。部屋に入ったことを感知して、部屋の空調や照明の明るさを、個人あるいは特定の集団に合わせて調節するためのものだ。
部屋の天井から見下ろすようにあるのではなく、入り口に大人の腰くらいの高さに赤外線が一本張られており、そこを人間が通ると、誰かを含めて識別する。
「あ!」
――ログには篠崎博士が入っている記録がある。これは人として 、ダメだろ。そうか、パウロに上げた小説冊子は篠崎博士が、ここから持ち去ったのか。文句言おう。
「東条さんはなにしてるんですかー?」
ルナが覗いてくるが、東条はぶつぶつと思考している。
――だが……おかしい。ログには篠崎博士しかこの部屋に入っていないことになっている。今日の……五十分前か。篠崎博士は一人でここに来たのか?
東条はこの際過去の記録も見たほうがいいと判断した。
しかし。
――ない。篠崎博士以外のログが一度もない。篠崎博士は五十分前のたった一回だけ? 南原博士のログは?
さらにもっと、現在までみると。
――ルナのログもない。
東条はルナを振り返ってみる。
「……」
「……ルナの顔になにかついていますか?」
「そうか……そりゃそうだ」
「?」
東条は、なにかを納得した様子で回転式の椅子に腰を掛けた。
ルナはベッドに座っている。
「南原博士は、この部屋に来たかもしれないが、今はもういない。ルナちゃんは、おかあさん、篠崎博士のところに戻りなさい」
「はーい……」
ルナの返事は、だんだん小さくなった。
東条の部屋の本棚を見ている。
「? 何か気になる本でもあるの?」
「東条さんの……専門はなんですか?」
「航空工学……専門は、シャトルエンジンの開発だな」
「面白そう!」
「え、そうかい?」
思わず笑みがこぼれて、弾んだ声になってしまった。
東条は自分の専門に興味をもたれたこと、それが自分を褒められたような気がした。
――そうなんだよ。面白いんだよ。わかってくれるか。
……。
そう口走りそうになるのをぐっと抑え、東条は六歳の少女に言った。
「ま、大変なことも多いけどね。ルナちゃんは将来何になるの?」
専門の事を話し過ぎて、嫌な顔をされたの記憶は根深い。東条は早々に航空工学の話題から話そうとした。
「ルナはねー。無機化学や結晶学に興味があります」
「お、いいねえ。じゃあ大人になったら、材料屋さんかな?」
「うーん」
「どうした?」
「そうとも限らないです。ただ、今は勉強が楽しいんです。もっといろんなことをしたいし、もっと遠くに行きたい」
「……お金にならない基礎研究でもいいってことかい?」
「うん! 楽しいの。好きなの。それでいいの」
将来のことはわからない。東条はルナの未来に関して、どんな責任も負えない。しかし、東条のどんな言葉も、ルナの興味を覆せるとは思えなかった。
「……好きか」
「東条さんは……好きでここでお勉強してるんじゃないの?」
「俺は……」
ルナは、何の含みもなく、ただ不思議なことを問いかけるだけ。純粋な興味で東条にこの質問をしている。
「ちがうの?」
思い出したのは兄の言葉。
『お前の小説、面白かったよ。俺もなにか書こうかな』
――逃げた? 小説から?
「俺はもともと……作家になりたかったんだ。ルナちゃんみたいに、まっすぐにここまで来たわけじゃないんだよ」
――皮肉のように言ってしまっただろうか。六歳児に相手に?
「それでも、東条さんさっき、楽しそうだったよ?」
「え?」
「作家とかよくわかんないけど、東条さんは航空工学の話をしたくてうずうずしてるぽかったです」
「それは」
――勉強は楽しかったさ。好きだったさ。
東条はなんだか、泣きそうになっていた。みっともないと自制をかけようとする。ルナには悟られてはいない。
「東条さんは好きだから、ここで航空工学をやっているんじゃないんですか?」
諭されるように言われてはいない。説得されているわけじゃない。
しかしその問いかけは、東条を大きく揺さぶった。
「ああ、大好きだったね」
東条は作家になりたかった。創作が好きだから。
では、ここで学問をすることは不本意だったか?
――俺の根本はなにか? 決まっている。航空工学が好きだったんだ。小説を否定はしない。だから、学問も否定できるはずがないだろう。
「俺は好きで、選んでここにいるんだ」
東条は、絡まっていた糸を丁寧にほぐすように、自分に語りかけた。
「俺のルーツは、そういうものだったんだ。好きだからやってんだ。面白いから続けてんだ。そうはいないぜ。こんな面白いこと将来仕事にできるやつなんか」
――小説は好きさ。でも……小説が駄目だったから、こっちに逃げただなんで、これっぽちも思わない。
東条のルーツはそういうものだったから。
「ルナも東条さんと同じー。好きでお勉強してるんでーす」
笑いが込み上げそうになる。
ここからの東条は歯止めがきかない。
「ルナちゃん。面白いこと聞かせたげよう。俺が今、実験していることで……」
ルナはうんうんと頷き、わからないことは質問した。
東条はできるだけわかりやすく、本質を曲げないで話そうと努力した。
会話は続いた。
それはもう、時間が許すかぎり。
◆
「覚えてろ。パウロ」
「パウロの所為じゃないでしょ?」
秋蔵は気の毒なことに、体調検査を終えてげっそりとしていた。見た目は変わらないが、そういう雰囲気をまとっていた。パウロやフィオナへのあてつけも込めて。
「それより、篠崎博士は休憩室に向かったほうがいい。ルナちゃんが待ってる」
フィオナは目を丸くした。
「ルナ……ちゃん? なに? ルナに絡まれたりしたの? ぷふふふ。おっかしー」
「君母親だろう? 君の監督不行き届きだ。どうして僕が子守みたいな真似をしなくちゃいけないんだ」
「この度は誠に、ごめんなさい」
フィオナは申しわけなそうに首を前に倒した。
二人は廊下を歩く。同じくらいの歩幅。
「ところで、篠崎博士」
「なに?」
「今回、宇宙ステーションまで来たのは……ルナちゃんをジーニアス計画の試験を受けさせるためか?」
「うん。そう」
「酷だとは思わないのか? まだ六歳だぞ」
「それも今日二度目だ。聞かれたの」
フィオナは一息置いた。
「そうだね……。秋蔵君がジーニアス計画にいい印象を持っていないことは知っているし、言いたいこともわかる。でもね、ルナには自由に生きてほしいの」
「自由って! ジーニアス計画はあの子を宇宙に縛り付けるんだぞ! 自由なもんか」
「大声出さないでよ。ルナはね、遠くへ行きたいと言ったの。ひたすらに遠くへ。だったら、ジーニアス計画を選ぶ、という選択肢も用意しなくちゃ自由じゃないじゃない。あの子が成長して、宇宙に興味がなくなって、ジーニアス計画を途中で降りても構わないわ」
「それは……君に賠償金が発生する」
ジーニアス計画は、学費がすべて負担されるが、途中で退学するとその分の学費が請求される。それは莫大な額になる。
「いいのよ。あの子には自由にしてほしいから」
「確かに、それは自由かもしれないな」
秋蔵は納得した。が。
「ただ、篠崎博士は、ルナのあの性格というか性質は危ういと思わないのか? 良い言い方をすると情熱だが、悪く言えば狂気だ。あれは」
「そればっかりは……。私がどうこう言って止まるものじゃないのよ。もちろん犯罪やルール違反をする場合は、とがめるけど、あの子の意志をできるだけ尊重したい」
「じゃあ……、僕がどうこう言ってもいいか?」
「? それってどういう意味?」
「ルナの試験はもう終わった。明日には帰るんだろう?」
「ええ」
「では、その時僕にルナと会話する時間をくれ」
「いいけど、説得なら難しいと思うわよ」
「僕なりにやってみるよ」
「そう」
「では僕はこれで」
二人は休憩室に着いた。秋蔵はここで別れるつもりだ。彼にはやることがあった。
「ルナに会っていかないの?」
フィオナは休憩室を指差した。
「ちょっと、用事があってね。ルナちゃんに明日プレゼントをあげるんだ」
「ああ、仕込がいるのね。オーケー。じゃあ、明日ね」
「ああ」
秋蔵はひらひらと手を振って、歩いて行った。
フィオナは腕を組んで首をかしげた。
「秋蔵君ってあんな奴だったっけ?」
――妙にむきになってるし、熱いし。
「へーんなの。まあ、でも秋蔵君がここにきて四年くらいしか経っていないし、私が知らないこともあるか」
フィオナは休憩室のドアをくぐる。
「あれ?」
ルナがいない。ルナが読みそうな本が散乱しているだけだった。
冷や汗をかいて部屋中を探した。どこにもいない。フィオナは泣きそうになる。
「ルナー!」
返事はない。宇宙ステーションの広さは尋常じゃない。現在九千人強の人間が暮らしている。
事務室に連絡をつけようとするフィオナだが、焦って番号を一度間違える。動悸が速い。
そのとき休憩室のドアが開いた。
――え?
フィオナは振り返った。
「あ、篠崎博士」
ルナを抱きかかえた東条がいた。ルナは寝ている。
「ル……ナ?」
「あの……すんません。ルナちゃんは休憩室から出てきちゃっていたので……少し預かっていました。すんません」
「ルナー!」
東条は話に夢中になっていて長い間ルナを拘束していた事実に気が付いた。フィオナは母親だ。心配するに決まっている。東条はとりあえず謝ることしかできなかったが。
「ここにいたんだ! 心配したよぉ」
フィオナは東条からルナを受け取り、抱き寄せることに夢中になっている様子だ。
「篠崎博士。言いたいことが二つあります」
「ルナぁ。ルナぁ」
「聞いてください」
「……なによ。うっさいわね」
「一つは、ルナちゃんをすぐに休憩室に返さなかったことは申し訳ありません。話をしすぎました。時間をとってしまった」
「ああ……そのことはもう気にしなくていいよ」
「ありがとうございます。二つ目いいですか?」
「……なによ」
「僕の部屋に勝手に入らないでください」
「うっさいわね!」
「訴えんぞ! こらぁ!」
そうこうして、それぞれ自室に帰ることになった。
今日はいろいろなことがあった。
フィオナと東条は、漠然とそう振り返って、廊下を歩いた。
◆
東条は自室でシャワーを浴びた後、携帯電話が鳴っていることに気が付いた。内線電話でないということは、仕事関係の電話でなさそうだ。となると、プライベートな人物からの連絡だ。
東条は電話の画面を見て、訝しげな顔をする。それ以外の反応がとっさに出なかった。いつもの東条なら、そのまま電話を取らずに、無視しただろう。
しかし、今なら――と、特に理由もなしに東条は通話ボタンを押せた。押すことができた。
「もしもし、兄貴」
『お、でたでた。明彦』
「なんだよ」
できるだけ素っ気ない声を気取る東条。東条明彦。
『母さんが、実家に帰るかどうか心配してたぞー。親戚も会いたがってる。瑞希ちゃんが受験合格したんだ。そのパーティーがある』
「知ってるよ……。この前聞いたし」
『で、どうなんだ? 帰れるのか?』
「悪いけど、今回は難しそうだ。これから忙しくなりそうだ」
これは東条の本音だった。東条は今、宇宙にあるこの居場所が好きになれそうなのだ。これを逃す手はない。
『そっか』
――意外とあっさりしてるな。
『それならいいんだ。楽しそうでいいじゃん。仕事』
「忙しいつってんだ。楽しいなんて言ってない。」
『今までのお前なら、帰ってくるかの返事もしなかったと思うぞ? なんかあったのか?』
「ねえよ! 余計なこというんなら切るぞ?」
『あっと、切るな。まだ切るんじゃないぞ? もう一つ言いたいことがあったんだ』
「もう一つ? なんだよ」
『俺の仕事のことなんだけど。次回作さ。SF書くことになったんだ。宇宙で生活をするかっこいい大人! っつーテーマでさ。でも、俺は理科系方面はからっきしじゃん?』
「はあ……」
『だから、お前に取材していいか? なんなら、俺お前の研究室行くし』
「なんだよそれ!」
――急にどうしたんだよ。そんなの。
「そんなのだめに決まって……」
思い出す。
――《俺のルーツは、そういうものだったんだ。好きだからやってんだ。面白いから続けてんだ》
『ダメかー。まあ忙しいって言ってたしな』
――《そうはいないぜ。こんな面白いこと将来仕事にできるやつなんか》
それは、今日、東条がルナに言った言葉。
「待てよ」
『ん?』
「いいぜ、取材。受けるよ」
『本当か! よかったよかった』
――教えてやるぜ。俺が今いかに満たされてるか。お前だけじゃねえんだ。叶えたのは。俺だって面白れえことやってんだ。
『明彦。お前、ずっとそういうの好きだったもんな。期待してるよ。いろいろ教えてくれ』
「わかった」
『……明彦。俺はな。作家なんて大層なことやってるが、それはお前に影響されたからってわかっってんのか?』
「……なんだよ急に」
『俺にとって、お前が手本だった。お前が俺のルーツだったよ 』
「……!」
東条は、兄が家にいるとき帰省することを頑なに嫌がっていた。その間、兄は兄なりに察することがあったのだろう。その言葉が的外れだったかは、それを言った兄にはわからない。
ただ言われた当人、東条明彦は、
「なに訳わかんねえこと言ってんだよ。取材のことは後でメールしてくれ。じゃ、切るぞ」
『あ、ちょっ……』
ブツンと、言葉は遮られた。
東条はその場にしりもちをつくように、へたり込んだ。
「……余計なこと……ばっかり言いやがって……」
この涙は絶対に悟られるわけにはいかない。
東条はその一心で電話を切ったのだった。
◆
次の日。
「おっかしいなあ」
事務員の一人が言葉を漏らした。展示棚のものを目を皿にして探しているが、目的のものが見当たらないようだ。
ここは三級博物資料室という部屋だ。研究では使わないが、外部からの見学者などに見せるための博物資料が保管されている。ただ、それは一級から三級まであり、それぞれ管理体制が異なる。
三級博物資料は過去に一級や二級だった博物資料が、年月の経過とともに価値を失いつつあるものが集まる。事務員が定期的に様子を見て、部屋を掃除するくらい、簡単な管理体制だ。近々、経費と部屋割りの関係で処分されるのでは、と噂されるほどだ。
この事務員は、その定期的な見回りの仕事を今しているというわけだ。
「『月の砂』がないな……。棚から落ちた様子もないし、誰かが無断で持ち運んだとしか考えられないなあ」
三級博物資料室は宇宙ステーションにいる人間なら誰でも出入りすることができる。犯行は誰でもできる。
――まあ、そもそも犯罪ってほど大事なものでもないけど。
それでも事務員にとっては職務の一つである。
彼は事務室に戻り、紛失届の書類を作ることにした。
彼は廊下を歩く。
「それにしたって、だれがそんなもの持ち出すんだ?」
「どうした?」
そこで彼は友人の東条明彦に会った。
東条は学生で彼は事務員だが、宇宙ステーション全体のレクリエーションイベントなどで知り合った仲だ。年も近いということもあり、親しくしている。
「あ、東条さん。こんちわっす」
「ああ。……なんか考え事か?」
「ええ、ちょっと……仕事のことで」
「む。俺でよかったら話を聞こうか?」
「いやいや、別に深刻なことじゃないんっすよ。ただ、不思議というか」
「不思議?」
「まあ、話してもいいか。……三級博物資料室ってあるでしょう?」
「ああ、あの隅っこの部屋だろ。記憶に薄いけど」
「そうそう。そこの博物資料の一つが持ち出されているんですよね。紛失してるんですよ」
「へえ。珍しいな」
「誰が何のためにやったのかなーって。考えていたところです」
「確かに不思議だな」
「でしょう?」
「そうだな……扉をくぐった人間のログは見たのか?」
宇宙ステーションにある部屋にはすべて赤外線センサーが標準配備されている。
「あ、見てないっす。確認しますね」
事務員は持っている仕事用の端末でネットに接続し、三級博物資料室における出入りのログを見た。
「あれ? なんでだろう」
「どうした?」
東条は端末を覗き込む。
「見てください。僕を含めた事務員のログしか残ってないっす。事務員以外だれも出入りしてないことっすね」
「じゃあ、事務員の誰かの仕業か……」
「そうなるっすね……」
――本当に?
東条は昨日のことを含めて思考してから、間をあけて言った。
「いや、ログを残さず部屋に入れる人物を一人知ってはいる」
「それは誰ですか? まさかセンサーをハッキングしてる人でもいるんですか?」
「そうじゃない。普通に考えろよ。南原博士だよ。南原秋蔵」
「南原博士っすか……。あ、そっか」
「だろ?」
事務員は極々当たり前のことを思い出した。
「南原秋蔵博士は、七歳の子供ですもんね。体が小さいから赤外線センサーをしゃがんでくぐることができますね」
「しゃがまなくても、センサーに引っかからないかもな」
「なるほど」
「まあ、推測にすぎないよ」
「そうっすね。とりあえず紛失届を出してから、考えますよ。三級博物資料ですから、そんなに大事ではないっすけどね」
「そういう問題かあ? 最近うちの先生、規則にルーズじゃない?」
――人の部屋に勝手に入るし。
「気の所為っすよ。じゃ」
事務員は笑って去って行った。
◆
ルナは、地球に帰るためのエレベーターの便が来るまで、宇宙ステーションの大広間にいた。大きな窓があり目の前には巨大な月が見える。本当に本当に巨大な、月。
「やあ、ルナちゃん」
秋蔵は後ろからルナに話かけようとしたが、反応がない。月に夢中のようだ。口を開いて、瞬きすら忘れているようだ。
秋蔵はルナの方を叩く。
「ん? あ、博士だ」
「こんにちは」
「こんにちは」
「もう地球に帰るんだろう?」
「……うん。まだ帰りたくないけど」
「まだ、宇宙にいたい?
「うん」
「できれば、宇宙ステーションより遠くに行きたい?」
「そうだねー」
「やっぱりそれは変わらないか」
「変わらない」
「そうか」
ルナには今の問答の意味が全くわからないが、考えても無駄だと、すぐに月に視線を戻した。
「地球は……、嫌い?」
「……嫌い」
「そこが、ルナちゃんの良くないところだ」
「……なんでよ。なんでそんなこと言うの?」
「君は宇宙に行きたい。でもそれはイコールで地球は嫌いという意味じゃない。君は勘違いしている。それは一種の……逃避だ」
「わかんないよ。博士。ルナ、難しいことはわかんないよ」
「それでも聞いて」
秋蔵はポケットに手を入れ、『切り札』を確認しながら、続けた。
「海が君の遊び場だった。楽しかったろ? 飽きたなんて言っちゃいけない。それは君の大切なルーツだから。君の根っこだから。それを否定しちゃいけない」
「わかった。博士はルナに宇宙に来てほしくないんだ! だからそんな意地悪言うんでしょ!」
「聞いて」
「いや! 博士なんか嫌い!」
「ああ、確かに君が宇宙に来るのは反対だ! ジーニアス計画もくそくらえだ! あんなもんなくなればいい!」
――僕と同じような子供が増えるのは我慢ならない。達観してる? 驕ってる? 天才ともてはやされたい? そんなんじゃない!
「君が試験を受けた、ジーニアス計画というのは、僕が元になっている。南原秋蔵という『天才のサンプル』の発見によって進んだプロジェクトなんだよ」
「……!」
「要するに僕のような天才児を宇宙に放って研究させるというものだ。僕はそれが我慢ならない! 僕のせいで、君のような未来ある子供が! 宇宙という牢獄に閉じ込められる! みんながみんな君の母親、篠崎博士のような心持ちでいるわけじゃない! 子供を利用する親もいるだろう。宇宙を旅する英雄の親だからな。そりゃあ、子供を宇宙に『売る』ことだって考えるだろう! 僕はそんなことは許せない!」
「それは博士の気持ちでしょう? ルナの宇宙に行きたい気持ちと関係ないわ。むしろ、ありがとうって思ってるくらいなんだから」
――宇宙に縛られるのが? 地球から逃避するのが?
「ふう……」
秋蔵は自分を落ち着けるため、深呼吸した。
確かにルナの指摘はもっともだった。ルナにとって秋蔵の気持ちは関係ない。
しばしの沈黙。一分だったかもしれないし、一時間かもしれないかった。
秋蔵は口を開いた。
「……ルナちゃんにプレゼントがある」
「……何?」
「これだ」
秋蔵の手には砂が入った瓶があった。
「二酸化ケイ素。酸化アルミニウム。酸化鉄。酸化マグネシウム。酸化カルシウム。他、金属酸化物」
「どこの砂?」
秋蔵は窓の外にある巨大な球体に目をやった。地球の衛星。
「月だ。これは『月の砂』」
「へえ! もらっていいの?」
「ああ、特別だ」
「やったー。帰って、顕微鏡でみよー」
「……ルナちゃんみて」
「?」
秋蔵は月に向かって指を指した。
「君は海が好きと言った。地球が嫌いと言った。それは矛盾していないか?」
「それでも……宇宙に行きたいの!」
「海を……君のルーツを否定しても? 地球は……全く退屈で自分の居場所じゃないと断じることができるかい?」
「海は楽しかったけど……飽きちゃったって言ったじゃない!」
――遠くに行きたい? でもそれは自分の古巣を否定することなのかい?
「この、月。この白い巨大な海をみて」
「? 海なんてどこにもないじゃない」
「知らないのかい? 月は白いがグレーの模様があるだろう? その巨大な模様の事を『海』というんだ。学問分野でも使うんだ」
「へー」
「子供だから知らないか」
「なにそれー!」
「そう、君は子供だ。当然僕も子供だ」
「……」
「君は海は好きなんだろう? 地球の海を否定したくないんだろう? だったら安心だ。君は宇宙に行っても『海』がある」
「言葉遊びじゃない」
「まあ、聞いて 。要するに僕が言いたいことはこうだ。君は宇宙に行っても、君のルーツがちゃんとある。月の『海』ある限り、君は地球の海を忘れない。わかるかい?」
「……」
「逃避じゃなくなるんだよ。君の宇宙への旅は。この遠く冷たい宇宙でも、君の海はそこにある」
「うん……」
「だから、自分のルーツを、地球を、海を、否定しちゃだめだ。君は選んで宇宙に行くんだろう? 消去法じゃなく、地球が嫌だからじゃなく、進んでいくんだろう? だったら、それに胸を張らなくちゃ」
「うん……」
「わかった?」
「なんとなくだけど……。博士の言いたいことはわかったよ」
「じゃあ、どうわかったのか、教えて、ルナ」
「私は、篠崎ルナは地球が好きです!」
ルナは瓶を力強く持って、大声を出した。大広間にそれが響いた。
他にいる人間にも聞こえただろうが、それぞれの事に集中している。当然、ルナと秋蔵も自分たちのことに集中している。
「そういうことでしょう? 博士」
ルナはいたずらっぽく笑った。
「大声出さなくてもよかったんだけど……」
秋蔵はすこし、我に返って恥ずかしくなっていた。先の自分は相当寒いことを言ったのではないかと心配していた。
「じゃあ、私も博士にプレゼントがあります」
ルナはずいっと、秋蔵に近づく。
「え?」
「おりゃ」
秋蔵は恥ずかしくなる、というレベルを超えていた。
――この子は、本当に天才だよ。私の手に余る。地球の手にも余るかもな。
頬に口づけをされ、秋蔵は顔を真っ赤にしながらも、冷静を保とうと。
――保とうと、たも……たもたも……。
「じゃ、僕はこれで! じゃあねルナちゃん! またどこかで!」
冷静を保てず、全力疾走で大広間を走り出た。
◆
「恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいぃ!」
秋蔵は子供なりに走ったが、大広間を出たすぐそこに一番合いたくない人物に会ってしまった。
「なにが恥ずかしいのかな? ロマンチスト秋蔵君」
「げ、篠崎博士! そこをどけ!」
「ディーフェンス。ディーフェンス」
「君妊婦だろ! なんで俊敏なんだよ!」
「つーかまえた」
「ぐう」
秋蔵は腕をフィオナに強く掴まれ、動けない。
「なかなか、男前だったぞ。さっきの啖呵は」
「啖呵じゃないだろう……。あれが、その……私なりってやつだ」
「子供のくせに。子供のくせにぃ」
「頭をぐりぐりするな! 子ども扱いするな!」
「だって、秋蔵君。体調検査を嫌がるくらい子供じゃない。注射が怖いんですよねー?」
「言うな! このバカ!」
「まあまあ、照れない照れない」
「……離してくれないか?」
「えい」
フィオナは秋蔵をぐいっと自分のお腹に近づけた。秋蔵の耳は彼女のお腹にあてがわられる。
――あ。
鼓動が聞こえた。明らかにフィオナの内側には、小さな重みがあった。
フィオナは優しく言った。
「南原博士ありがとう。……ルナはね、もうすぐお姉ちゃんになるの」
「……ああ」
「この子も、私のお腹から外の世界へ出ていくはずよね」
「だろうな」
「遠くへ遠くへ行きたがる?」
「あの姉を見て育つと、そうなるかもな」
「じゃ、名前を思いついたわ」
「聞こうか」
フィオナは秋蔵をゆっくり離した。フィオナは優しくお腹を撫でた。
「名前は、『ウミ』。お姉ちゃんが安心して帰って来れるように。この子が安心して遠くに行けるように」
「……まあ、悪くないんじゃないか……」
秋蔵は照れくさそうに言った。
――deeper than the sky, higher than the sea, the end.