空より深く
日常系SFミステリです。ごゆるりと。
無機質な廊下を歩く音は軽快だった。
スキップを覚えたばかりの彼女は、その重力に合わせて上手に地面を蹴った。
「ママはどこかな」
彼女がいるのは国際宇宙大学院だ。地球衛星軌道上を回る巨大な宇宙ステーション。もっぱら学術機関として存在し、地上からの軌道エレベーターによって繋ぎ止められている。
スポンサーは国連だ。様々な人種、幅広い年齢の人々が暮らし、研究に励み、人材を教育する。
ただ、ここで何をしているか、どういう場所なのか。
そういった疑問は少女にはない。
彼女は母親の仕事で着いてきただけ、そういう認識でいるのだから。
生活スペースの通路では確かに母親と手をつないでいたが、今は一人でいる。
それでも寂しくはない。いつでも楽しくて仕方がない。
昨日、宇宙ステーションに着いたルナは、それからずっと気分がいい。
彼女のスキップは目の前に現れた大きな背中に遮られた。ぶつかるが、彼女の体重は軽く、あまり痛くなかったようだ。
「ん? ルナちゃんか。お母さんとはぐれちゃったの?」
ぶつかった相手は学生だ。名札には東条という名字が大きく書かれていた。ルナの母親の研究室に配属されている。
「ううん。ママがルナと離れちゃったの。だから探しているの」
「そっかぁ」
東条は困ったように言った。
「お母さんはきっと、計測室でまだお仕事中だから、このフロアの休憩室で待っていようか。ついておいで」
「えー」
「休憩室にはココアがあるよ」
「うーん」
「飴もある」
「……」
「あとは……コーヒーくらいか……」
「じゃあ行く」
「オーケー。ついてきて」
東条はため息を呑み込んで、笑顔でルナを誘導した。
彼は、休憩室の前まで案内する間は、ルナとしりとりをした。
ただ、ルナは自分で勝手に作った名詞を使うので絶対に負けることがない。
廊下が開けると、天井の高い広間があり、その一角に休憩室が二つ、一方が喫煙用、もう一方が禁煙用だ。
「エリマキライオン……トカゲのゲ!」
「どんな生物だ。げ……げ……」
広間に二人が到着したところで、禁煙用の休憩室から人物が出てきた。お腹の膨れたシルエットだけで二人は誰かすぐにわかった。
「ママ!」
ルナは走り寄った。
「あ、ルナだぁ。どこに行っていたのよぉ。はぐれちゃダメって言ったでしょう? 一人でさびしくなかった?」
「東条がいたから大丈夫だったよ」
「あ、東条いたの?」
ルナの母親は東条を、今気が付いたように見た。
「ええ、いましたよ。いましたとも。篠崎博士は休憩中だったんですね」
「そうよ。もうそろそろかなっと」
ルナの母親は篠崎と呼ばれている。日本人ではないが、夫の名字で名乗っている。フルネームは篠崎フィオナ。名札には大きくそう書かれており、アニメのキャラクターのシールが貼ってある。ルナの仕業だ。
フィオナはルナを抱きかかえ、続けた。
「東条は実験はいいの?」
「今日はオフですが……」
東条はルナを抱えるフィオナをまじまじ見た。
「何よ。気持ち悪い」
「あ、いえ。母親なんだなあ。と感心しました。ルナちゃんも落ち着いているようですし」
ルナは母親の胸に顔をうずめてじっとしている。やはり逸れて寂しかったのだろうか。
「そうよぉ。ママなの私。さらにもう一人生まれてくるわよ」
フィオナの腹部は小さく膨れていた。
「なんか、ほんと、人って変わるものだなあ」
「どういう意味よ。それ」
「前は煙草吸っていましたよね」
フィオナは禁煙の休憩室から出てきたところだった。
「前っていつの話してるのよ。煙がなくても頭が回転するようにしたもの。大人だからね」
「ははは」
「笑ってんじゃないわよ」
フィオナは東条を小突いた。その拍子でルナが顔を上げた。
「ママはお仕事戻るの?」
「ええ、ごめんね。夕方になったら絶対迎えに来るから、それまで休憩室にいてくれる?」
「うん。東条と遊ぶ」
「あ、いや俺は……、オフだし。それに午後に用事もあるし」
東条は目をそらした。
「ひどいおじちゃんだねえ、ルナ。ま、休憩室には本もあるしコーヒーもあるし、退屈しないわよ。待っていられる?」
「うん、わかった」
「おじちゃん? 十九でおじちゃん?」
「十九は大人よ。十分」
フィオナは笑いながらルナを降ろした。
「それともう一つ、ルナ。ママ以外の大人の人にはちゃんと敬語を使いなさい。です、ます、っていうの」
「わかった。さようなら東条さん」
ルナは深々とお辞儀をした。
「お、偉いなあ。お母さんとの約束守るルナちゃん偉いなあ」
「へへへ」
ルナは走って休憩室に入っていった。開いたドアはぷしゅんと音を立てて閉まった。
東条とフィオナは歩き出す。東条はフィオナの歩幅に合わせていた。
フィオナの向かう計測室と東条の向かう生活スペースは途中まで同じ経路だ。
「ところで篠崎博士」
「なに?」
「休憩室ではなにを?」
「普通に休憩よ。測定の続きは他の部下に任せてあるわ」
「いや、手に少し黒いインクが付いているものですから」
「あ、やべ」
「どうしたんです?」
「休憩室に今、南原博士がいる」
「え、南原博士って、あの南原秋蔵ですか?」
「ええ、ちょっと理論の話をしててボールペンを持っていたの。そのインクね、これ」
「ああ。それにしてもルナちゃんと南原博士がいる空間って、なんともいえないカオスですね」
「そうねえ。まあルナは誰とでも仲良くしようとするから、南原博士に話しかけちゃいそうだけど、迷惑かけてないといいわ」
「そうですねえ」
「後で謝っておこ」
二人はそこで、挨拶もそこそこに、道を分かれてそれぞれの方向に進んだ。
◆
南原秋蔵は髪をかき上げながら、ノートパソコンの画面と手元の書類を見た。
しかしどうもそれらの内容に集中できない。
黙って悩んでいると、休憩室のドアが開いて、人が入ってきた。
篠崎博士と顔が似ているが、違う。そもそもサイズが違う。この子は――六歳くらいか。と秋蔵は思った
――確か、彼女は娘がいると言っていたな。
休憩室にはいくつかの丸いテーブルと椅子、大きい本棚があった。
本棚には各専門の学会誌、専門書の代表的なものが並んでいる。
入ってきた少女は、その内のいくつかを選びテーブルの上に置いて、コーヒーサーバーの方に行った。
「これ、どうやって使うの?」
独り言が大きい。おそらく秋蔵の存在に気が付いていない。
背伸びをしてサーバーの「注ぐ」のボタンを押した。下にコップはないので、ボトボトとコーヒーが棚に広がった。
「うわあ。ちょっと、なに」
見かねた秋蔵は立ち上がって、少女のところまで走った。
「火傷するから離れなさい」
「え、誰?」
「いいから」
彼女は驚いた様子だったが、秋蔵はお構いなしに雑巾でコーヒーをふき取った。そして彼女に正しい入れ方でコーヒーを振る舞った。
「……ありがとう」
「いや……いいんだ。気にしなくていい」
「しゅうぞう……みなみはら……? っていうの?」
「え、ああ。そうだ。名札見たのか。いかにも僕が南原秋蔵だ。博士と呼んでくれるとうれしい」
「ふーん。かっこいいね」
「君は職員ではなさそうだ。名札がない。」
秋蔵はそう言って、遠回しに名前を尋ねた。
「私は篠崎ルナ。ママがここでお仕事してるの」
「篠崎博士の娘か。やっぱり」
秋蔵はぶつぶつ何かつぶやいている。
「どうしたの? えっと……博士」
「いや、なんでもない。君は賢そうな本を持っているね」
「うん。好きなの。趣味」
ルナがテーブルに置いた本は『結晶学入門』『これならわかる固体化学』『無機物質科学の入り口』というラインナップだった。いずれも専門性は小さい基本の内容だが、子供が読むようなものではない。
「すごいね。……ルナちゃんと呼べばいいかな。お嬢ちゃんはさすがに失礼か」
「お嬢ちゃんは嫌だよ。ルナちゃんでオッケイ」
「じゃあルナちゃん」
「はーい」
「僕はここで、お仕事するけど、気にしないで君は君のことをしてくれ。あ、またコーヒーが飲みたくなったら言ってくれ。入れ方を教えよう。くれぐれも、ここを出て、僕が休憩室にいると外に言いふらすような真似は止してくれよ」
「ん? よくわかんないけど、わかった。しませーん。約束」
「やくそーく」
「はーい」
二人は指切りをした。
――厄介なことになった。
と、秋蔵はため息をついたが、ルナは本に夢中のようだ。一旦安心していいと判断した。フィオナのメモが入った書類片手にもち、ノートパソコンの画面に一時間ほど没頭した。
◆
「博士ぇ」
涙ぐんだ声。
近くに立っているルナに、秋蔵はやっと気が付いた。
何度か呼ばれていたが、集中していたようで、ルナが秋蔵のところまで来ることで、ようやく秋蔵はルナに注意を向けた。
「どうしたんだい? ルナちゃん」
泣いている様子を見るとどうもただ事ではないようだ。
赤い目で先ほどまで読んでいた本を抱えている。
「この、本に、コーヒーを零して、消えなくて、どうしよう」
「どれ」
本は確かに茶色い液体が広がって、ページ同士が張り付いてしまっている。もう読むことは不可能だろう。
「これはひどいな」
「……!」
「待て! 大声は出すな! 泣いてもいいが大声は出すな! わかった。こうしよう。僕が新しく同じ本を買って、こっそりそれと代えておくから、怒られる心配はない。というか誰も怒らないよ。いいかい?」
「博士ぇ」
泣きやんではくれたようだ。
「いいやつ。博士」
「……、まあ、了解してくれたならそれでいい。僕は仕事をする」
ルナは別の本を読みだした。
しかし、先ほどまでいた位置ではなく、秋蔵の隣で本を読んでいる。積み重ねた本やコーヒーカップも持ってきて、完全に身を落ち着けるようだ。
――静かにしてるなら、それでいいか。
秋蔵は仕事の続きをした。
◆
東条明彦は自室にいた。
フィオナと別れた後、ベッドの上で本を読んで過ごしていた。自分の専門や研究に関するものではなく、日本人作家の小説だ。
ただ、とても楽しんでいるよな表情ではない。
品定めをするような、剣呑な視線のまま文字を追っていた。
「こんなのが流行ってんのか。世間は頭がおかしいとしか思えない。地の文が多い。いらない説明が多い。余計なことばっかりだ」
独り言は本音以外入り込む余地がなかった。
日本人作家の名前は、難しい漢字四文字で覚える気もなかった。
しかし、東条はその作家の本名は知っていた。
東条裕也。
「兄貴……」
そう毒づくようにつぶやいて、へらへら笑う兄の顔を思い浮かべる。
気分が悪くなった。
――あ。
突然、内線電話が鳴った。
――いや、突然ではないか。
東条は今日はオフではあったが、用事があった。
壁に設置してある受話器を取った。
『東条君? 順番がそろそろ回ってくる。医務室まで来てくれ』
「少し予定より早いですね? はい、すぐ行きます」
東条は今から体調検査をする用事があった。これは東条だけではなく、今日授業や実験が入っていない学生や職員は皆受ける義務があった。宇宙環境だけにおろそかにしてはならないことだ。
東条は持っていた本をベッドに投げるように置き、上着を羽織って部屋を出た。鍵は閉めなかった。東条の癖なのだ。
◆
「ねえ、博士」
集中力が切れ始めていたころ、秋蔵はルナに話しかけられた。丁度良かったと言えば、その通り、秋蔵も文字を見る目を休めて、ルナの方を見た。
「どうした?」
「博士はずっと宇宙にいるの?」
「ずっとというわけではないけど、人生の大半はここで過ごしているな。今のところ。それがどうした?」
「いーなーって思っただけ」
「ルナちゃんは大きくなったら、宇宙で仕事をしたいのか?」
「うん」
――母親の影響だろう。篠崎博士は産休以外は地球に帰っていないということだし、ルナちゃんは母親が恋しいはずだ。
知り合ったばかりの少女に対して、秋蔵は「知り合い」程度の認識を持ち始めていた。
成長したルナと同じ職場で働くことなど想像できないが、ルナの願望は尊く思えた。
「ルナちゃん、君は結晶に、興味があるのか?」
「うん! これからお勉強するの」
「どうして? 君くらいの年だと、もっとこう……子供らしい趣味があるんじゃないか?」
それは秋蔵が言えることではない。その自覚はあったが、聞かざるを得なかった。
秋蔵はルナが宇宙ステーションに来た理由を察しはじめていた。
「私ねー。お家の近くに海があるの」
ルナは本に目を落したまま、語り始めた。
「毎日、お勉強が終わったら、海で遊ぶの。珍しい石が転がっていたり、流れ着いたりして、面白いの。家に持ち帰って顕微鏡で見るの」
「ほう」
「電子顕微鏡」
――まじか。篠崎博士はそんなもの買い与えいるのか。
「それをスケッチするのが面白いの」
「なるほど」
たしかにそれは、生産性がなくて、ある意味子供らしい趣味と思えた。
――だったら。
「だったら、地球に――海にいたほうがいいんじゃないか? ここには面白い天然鉱石はない」
「飽きちゃったの」
趣味にブームはあるものだ。
「それで、宇宙に興味が出たのか」
「うん。ママのお仕事手伝うの。大人になったら」
「それはそう遠くないはずだ」
この宇宙ステーションは研究機関だ。
近年、宇宙開発が進むにつれて、様々な工学分野が、宇宙空間下での実験の必要性を認めてきた。
そこで進められているのが科学者と宇宙飛行士の役割と兼任させること。あと数十年もすれば、研究者自らが何十年という単位で宇宙空間に放り出され、研究をするプロジェクトが始動する。
地球への帰還は、自由でなくなる。
「ルナちゃんは昨日、ここに着いたの?」
「そうだよ?」
宇宙ステーションは、その計画のため、若く優秀な研究者を探していた。この若いという点が一番重要であるようだ。
今、最前線で活躍しているベテラン科学者が、そのプロジェクトで地球を離れた場合、おそらく、プロジェクト期間中に定年を過ぎるだろう。そもそも、寿命で考えて、生きて帰って来られるかもあやしい。
人間の寿命は宇宙からすると、はるかに短い。
「ということは、試験をうけたのか」
「試験? よくわからないけど、お勉強はしたよ」
ジーニアス計画。
幼児に宇宙空間で英才教育を行い、年少のころから研究者として使うことを念頭にしたカリキュラムだ。
宇宙空間での生きる技能や適応性。
研究者としての能力。
その両方を同時に手にいてるプロジェクトである。
その選抜試験が昨日、行われた。
ルナはおそらく、その試験を受けにきたのだ。
「そういうことか、篠崎博士」
――もともと、篠崎博士は産休中で地上で暮らしていたはずだった。今でも第二児を出産していないのだから産休は続いている。にもかかわらず、宇宙ステーションにいるのは、ルナの試験の付添ということだ。本来、彼女は今日働く必要なはいはず。それでも計測室に出入りしているとは、仕事熱心なことだ。「ただ、それは私がいうようなことではないな」
秋蔵は心の中で一線を引いた。今抱いている疑念は、自分が首を突っ込むようなことではない。
ジーニアス計画への批判なんて、それこそ秋蔵が言えた義理ではないのだから。
ただ……ルナに気持ちを聞くことくらいは許されるだろう、と。
秋蔵は口を開いた。
「ルナちゃんは、海に飽きた、そういう理由だけで、宇宙にくるつもりなのかい?」
「どういう意味なの?」
「宇宙は怖いところだよ。冷たくて孤独なところだよ」
「……わかんないけど」
ルナは本から目を上げて、秋蔵を見た。
「海でも、宇宙でも、あんまり関係ないの」
「?」
「ルナは遠くに行きたいだけなの。家から公園。公園から隣町、隣町からさらにその隣町。そうやっていったら海まで行き着いたの。だから、海から次は宇宙。今までと変わらない。ただ、次の場所に行くだけなの」
「……」
子供とは、とても思えない。世界の狭さを嫌っている。
――『母親と同じ仕事をしたい』や『海に飽きた』という理由より自立的で前向きだ。その行動原理は単純な推進力。混じり気なしの探究心。なるほど確かにジーニアス計画にうってつけの人材と言えるかもしれない。
「ルナがね。ママに海に行きたいって言ったら、海に引っ越してくれたの。でね、今度は宇宙に行きたいって言ったら 、連れて来てくれたの」
「遠くに行きたいか……」
「うん!」
秋蔵は同僚や伝記などで、経験があった。そういう「熱」に当てられた人間は理屈じゃない。推進することだけ、ただその一点のみに特化した精神。
彼らはきっと、死ぬときに笑うだろう。
冷たい宇宙の中で「もう少しだけ先に行きたかった」という後悔だけを胸に、孤独に息絶える最後を、秋蔵は思い描いた。
「ルナちゃんのことはわかったよ。楽しそうでなによりだ」
「……?」
「ただ、それならば『海に飽きた』なんていう言い方をしてはいけない。君は君のルーツをないがしろにしてはいけない」
「……よくわかんない」
「むずかしい話だったか。申しわけない」
秋蔵は、言いたいことだけ言った自分が無責任に思えた。
煮え切らない思いのまま、髪をかき上げた。
◆
東条は医務室に着いた。
医務室は十数人の職員や学生がいて、いつもより窮屈だ。数人がかりで体調検査を行うため、仕方のないことだが。
東条は案内を受け、自分が診察されるブーズまで移動した。パーテーションで区切られている。
「お待たせしました」
東条を待っていたのは、医療担当の先生、パウロだ。
「すまん。予定が早まった」
あご髭を触りながら彼は言った。丸坊主の頭に英語の刺青が入っている。聖書の一説だとか。
パウロはフランクな言葉遣いだが、仕事に忠実、ルールに厳格だ。過度にこちらに距離を詰めてこない分、東条は年上としてパウロに好感を抱いていた。
「そうですよね。何かあったんですか?」
「一人、体調検査をさぼった人がいたから。彼の分、予定が早まった」
「そうなんですか」
「彼には催促のメールを送っておいた。予定を乱すのは許せないから。さて、やるか。服を脱げ。十分程度で終わる」
パウロは時間に厳しい。彼が「程度」という表現を使ったら、プラスマイナス五パーセントの誤差を含むという意味らしい。
診察はきっかり、十分で終わった。
東条は注射された箇所を脱脂綿で抑えていると、パウロは珍しく仕事以上の問いかけをしてきた。
「東条の小説を読ませてもらった」
「はあ?」
「テーマは奇抜だが、それをエピソードが一般化していない。キャラクターのセリフがどこか誘導的で、ぎこちなく感じた」
胃がきゅうとなるのを感じた。
「先生、ちょっと待ってくださいよ。どうして俺の小説なんか……というか、どこでそんなの読んだんですか?」
「フィオナが冊子を貸してくれた」
――だったら、どうして篠崎博士は俺の小説なんか持っているんだ。高校時代、部活の冊子で書いたものを! 自室にしまっておいたはずなのに!
「私の感想が君の役に立てばいい。では、また会おう。次の診察者が待ってる」
「は、はい。篠崎博士がどうしてそんなものを持っていたか、とか聞いていないですか?」
「聞いていない。ほら、出ていくといい。じゃあな」
パウロは無表情で言った。いつもの仕事熱心の彼に戻ってしまったようだ。
医務室から出た東条は、顔が火傷しそうなくらい熱かった。
――おもっくそ批判された。もうだめだ。勝手に読まれた挙句、あんまりだ。
創作におけるメンタルの低さは、本人に自覚はない。レポートや論文に対する批判ほど、冷静に受け止めることができないようだ。
「篠崎博士だ……!」
東条は怨敵の名前を呟いた。
肩で息をしながら通路をずんずん歩いた。
◆
「あくしょん!」
「はい? 映画撮影でもしてるんですか?」
「いや、違うわよ。くしゃみしたの。くしゃみ」
「はあ」
ここはフィオナの研究室が管理している計測室。
部下と話すフィオナは鼻をかんだ。妊婦という立場から、風には十分気を使っているはずだ。埃でもあったのかもしれない。
大きなモニターの前には様々な数値やグラフが所狭しと整列していた。その光が彼らの顔を青白く照らす。
「それにしても、篠崎博士は今仕事しなくてもいいんですよ? わざわざここに来なくても、ルナちゃんのところにいてあげた方がいいでしょうよ」
「私はこっちの方が性に合ってるの。それにルナはしっかりしてるから、大丈夫」
「どう大丈夫なんですか?」
部下が問いかける言葉は少し責めるようなものがあった。
「ルナちゃんはまだ六歳じゃないですか。お母さんが恋しい時期だと思いますよ」
「耳が痛い限りだけどね……。私はそうは思わないの」
「というと?」
「ルナは私の手元に収めておくと、逆に壊れちゃうのよ。ルナは宇宙に行きたがっていた。ルナにジーニアスの選抜試験を受けさせたのも、私が教育ママってんじゃなくて、ルナの親離れを手助けするためよ」
「六歳で親離れって」
「ひどいと思う?」
「ええ。僕はそう思います」
「そうよねえ。でもルナは妥協ってものを知らないから、宇宙に行きたいって気持ちは曲げなかったと思うのね」
「……」
「あの子をガキと思っていることが間違ってるのよ」
「……」
「親は……きっと子が親離れするより先に、子離れするべきなのよ。じゃないと、いざ向き合った時、対等じゃないじゃない」
「……」
「って、何黙ってるのよ」
「いや……結構いろいろ考えてんだなあと」
「なにぃ? 東条にも言われたわよ。今日で二回目よ?」
「まあまあ……新鮮で興味深いですよ。そういう篠崎博士」
「むかつく言い方だな!」
そこでフィオナの携帯が鳴った。
パウロからのメールだった。
『南原秋蔵、彼の居場所を知っているか? 見つけたら捕まえてほしい』
という内容だった。
「お、面白そう」
「どうしたんです?」
「あ、悪い。私ここ離れていいかしら?」
「いいもなにも、篠崎博士は今日出勤じゃないでしょう」
「さんきゅ」
フィオナは計測室を後にした。