34.絶望の終わり
リーンの姿を見て真っ先に浮かんだ感情は、安堵であった。
そのことにエリナは、まったく我ながら勝手なものだと思うが、抱いてしまったものは仕方がない。
仕方がない、が……だからこそ、直後に抱いた不安を誤魔化すことも出来なかった。
リーンは確かに規格外の存在だ。
そのことはまだ出会ってから一週間も経っていないにもかかわらず、十分に理解している。
だが、規格外だというならばドラゴンの力もまたそうなのだ。
そしてエリナはその力をまったく扱うことは出来ていなかったが……父は明らかに、自分以上に使いこなしている。
しかもその力の源となったドラゴンは、万年生きていた存在なのだという話だ。
自分が食らった存在でもあるため、エリナはドラゴンのことを色々と調べた。
千年以上その存在が確認されていなかったせいもあってほとんど分からなかったが……それでも、いくつか分かったことはある。
そのうちの一つに、ドラゴンは生まれてからの月日が経てば経つほどに力を増していく、というものがあった。
生まれたての頃はワイバーンにも劣る程度の力しかないのだが、千年も経てば魔物の中でも最強格の力を発揮するようにまでなるという。
それが、万年だ。
果たしてどれだけの力にまで至っているのかは、想像も付かなかった。
リーンの力の底もまた想像が付かないものではあるが……エリナの中では同格となっているからこそ、不安なのだ。
リーンですら父には勝てないのではないか、と。
その言葉が口から出てきたのは、きっとそのせいであった。
「……どう、して、来た、のよ。あたし、は……助けてなんて、頼んで、ない、のに」
言いながら、本当に我ながら可愛げの欠片もない性格だと思う。
もっと言いようはあるだろうと思うのに、こんな言葉しか出てこない。
……まあ、そもそも、同性相手に可愛げなんて披露しても意味などないのだけれど――
「うん? ……ふむ、確かに儂が助けを求められたわけではなかったの。じゃが、問題はあるまい。以前にも言ったからの。困ったら助ける、と」
「……それ、さっき、も、聞いた、けど?」
「別に助けるのは一度とは言っとらんのじゃからな。何度助けたところで、問題はないじゃろ?」
そう言って、何でもないことのように肩をすくめるリーンの姿を見て、エリナは再び安堵を覚えた。
そして、愛想を尽かし嫌になって去らなかったことに安心してしまった自分のことが、嫌になった。
最悪のことを考えれば、去ってくれた方がいいのに。
自分はもう助からないって、分かっているというのに。
そこにいてくれることに安心してしまうなんて、本当に嫌なやつだ。
だけど……だからこそ、やはりリーンはここから去らせるべきだろう。
父は確かに賢者に至るためならば何でもするが、この国をどうこうしようとか、無差別に誰かを害しようと思っているわけではない。
邪魔さえしなければ、わざわざ手を出したりはしないはずだ。
だが、どうやれば立ち去るだろうか、ということを考えながら、とりあえず何かを言おうと口を開こうとした時……それよりも先に音が響いた。
心底くだらなそうな、鼻を鳴らす音であった。
「……ふんっ。茶番は終わったか? 一体何者が現れたのかと思えば……まさか欠落者とはな。確かにあそこにいたが……はっ、やはりお前は愚娘だったか。まさか欠落者などと交流していたとはな」
「……っ」
そこでエリナが息を呑んだのは、父の目に明らかな憎悪があったからだ。
どうやら、父であっても欠落者に対する感情に違いはないらしい。
これはどちらにせよ駄目だったか、と思い……しかし、そのまま父は目を逸らした。
「だが、まあいい。今の俺は機嫌がいい上に、これからやらねばならんことがあるからな。賢者に至るために、この力をもっと研究し、高めていかねばならんのだ。貴様なぞに構っているほど暇ではない。見逃してやるから、さっさと去ね」
忌々しげな口調であることを考えれば、本心であることは明らかだ。
だが、手を出そうとしないのは、賢者に至ることを優先しているのか……あるいは、警戒しているのか。
父からすれば、理由は分からないままに自らの魔法が邪魔された、ということになるのだ。
リーンがやったなどと父からすれば思えないだろうし、おそらくは他にも誰かがいると考えているのだろう。
しかし、わざわざ伝える必要はない。
むしろチャンスだ。
父の気が変わらぬうちにリーンを促してここから――
「ふむ……そう言われてもの。むしろ儂がお主を見逃す理由の方がないのじゃが?」
「…………なに? 貴様……何のつもりだ?」
「何のつもりも何も、盗人が逃げようとするならば逃げないようにするのは当然じゃろう? たとえ親子であろうとも、勝手に子供のモノを盗むのは犯罪じゃぞ?」
「……え? まさかあんた、気付いて……?」
「それがどういう意味なのかは分からんのじゃが、エリナがそこの父親から力を奪われた、というのは見れば分かることじゃろう? だから返せと、そう言っているだけじゃが?」
普通は見ただけで分からないとは思うが……リーンならば分かっても不思議ではないのかもしれない。
だがそう言うということは、その力がドラゴンのものだということには気付いていない、ということだろうか。
まあ、他者の力を手に入れるには禁呪を使うしかない以上、それに気付くということは禁呪に気付くということだ。
見逃す理由もあるまいし、気付いてはいない、ということなのだろう。
しかしそうして僅かに安堵していると、父は再びくだらなそうに鼻を鳴らした。
「ふんっ……何を言うかと思えば。この力は元々俺が手にする事が決まっていたものであり、またソレの物は全て俺の物だ。それを回収したところで、罪にはならん」
「また酷い暴君じみた言葉が出てきたのぅ。今時そんなことを言う輩がいるとは思わなかったのじゃ」
「それに――どうせソレは、間もなく死ぬ。そんなやつがこの力を持っていて、一体何になる? 無駄というものだろう」
「……っ」
確かに、父の言う通りであった。
今こうしている間も、少しずつ死が近づいてきているのが分かる。
この状態で力を戻されたところで、何の意味もないに違いない。
ハンネスは明らかに人を辞めてしまっていたせいか、四肢の再生などが出来たようだが、エリナは肉体の上では人と変わらないのだ。
あるいは、力を戻され、自ら望めばエリナもまたああいった姿になることが出来るのかもしれないが……それは、御免であった。
ドラゴンを食らい、その力を取り込んだ時点で人とは呼べなくなってしまっているだろうとはいえ……いや、だからこそ、そこまでしてまで、生きたくはなかった。
だから――
「ふむ……ならば、まずはそちらから済ませるとするかの。――ヒーリングライト」
言って、パチンとリーンの指が鳴らされた瞬間であった。
唐突にエリナの身体が光に包まれたかと思えば、腹部に空いた穴が塞がりだしたのだ。
痛みも少しずつ引いていき、明らかに傷が治っていっている。
――回復魔法。
有り得ざるその光景にそんな言葉が頭に浮かんだのと、父が叫んだのはほぼ同時であった。
「なっ……馬鹿な……!? 回復魔法、だと……!? それは、現代魔法では失われた魔法なはずだ……! 俺がこの力を以てすら……賢者ですら……! 有り得ん……!」
「有り得んとか言われても、実際にこうして使えてるわけじゃしのぅ」
「っ……一体何者だ、この魔法を使っているのは……!? こんなことは、十賢者ですら……いや、まさか大賢者か……!? 俺の邪魔をしにきたのか……!? 隠れていないで姿を見せろ……!」
それは酷く、滑稽な光景であった。
いるはずもない人物を探して、父が焦ったようにその場を見渡しているのだ。
滑稽以外の何物でもなく、リーンが呆れたように溜息を吐き出した。
「何を言っているのじゃ、お主は? 隠れるも何もずっと姿を見せているじゃろう?」
「……はっ、何をふざけたことを言っている。貴様は欠落者……神から見捨てられた存在だ。そんな貴様に魔法が使えるわけがないだろう。ましてやこんな魔法はな……!」
「ふーむ、現実を受け入れられぬ、というのならば別に構わんのじゃが……賢者になるとか言っている者がこの程度のことでそこまでうろたえるなど、器が知れるのじゃぞ?」
「……何だと? 貴様……欠落者如きが、この俺を侮辱するというのか……!?」
「別に事実を言っているだけなのじゃが……いや、事実でも時として侮辱となることはあるのじゃったか? ならその通り、ということになるのかもしれんの」
「っ……!」
視線だけで人を殺せそうなほどの怒りを憎しみを込め、父がリーンを睨みつける。
正直自分が向けられたわけでもないのに身体が震えてくるほどなのだが、リーンはそれを平然と見つめ返していた。
「……ちょ、っと……なに、挑発するようなこと言ってるのよ……!」
「うん? おお、よく挑発してると分かったの。いや、ここまであからさまだと、さすがに分かるかの」
「……は?」
てっきり無意識的なものかと思っていたら、意図的なものであったらしい。
「……なんで、そんなことしてんのよ」
「ふむ、まあ確かにやる必要があるかと言えば特にないのじゃが……ちとイラッとしたから、じゃろうかのぅ。友人を傷つけられたら怒るのは、当然のことじゃろう?」
「…………誰が友人よ」
「そう言われる気がしたのじゃが……ま、儂が勝手にそう思ってるだけじゃから構わんじゃろ? ああそれと、さっきの言葉は確かに挑発する意図もあったのじゃが、全て本音でもあるのじゃぞ? 少なくとも……そんな有様で賢者を目指すなど、片腹痛いのじゃ」
瞬間、何かがブチッ、と千切れた音が聞こえた気がした。
ただし先程とは異なり、それが聞こえた先は自分の身体からではない。
父の方からだ。
その顔からは怒りが消え、だが代わりとばかりに瞳の中には煮えたぎったような憤怒があった。
「……よく分かった。――死ね」
直後、一瞬で詠唱を終えた魔法が合計で十、一斉に父の周りに展開された。
そこに顕現するのは、炎の塊。
ファイアー・ボール。
父は何気なく使ってはいるが、それは本来人を一人楽に殺せるほどの威力を秘めているものだ。
魔導士であろうともそう簡単に使えるものではなく、そんなものが十個同時。
やはり父は、自分よりも遥かに力を使いこなせているのだと、改めて思い――
「どうだ……これが俺の力だ。これを目にしても、俺が賢者に相応しくないなどという妄言を放つつもりか? この、ドラゴンの力を手にした、俺のことを……!」
「ふむ……なんかさっきも似たような台詞を聞いた気がするのじゃな。……いや、さすがに一緒にしたらまずいかの。――正直、あやつの方がまだマシじゃったし」
「――」
その言葉が誰のことを指しているのか、父は理解したのだろう。
能面のような顔で、ゆっくりと右手が持ち上げられる。
そして。
「――塵一つ残さずに消え失せろ、欠落者」
下ろされた瞬間、十の魔法が一斉にリーンへと放たれた。
この状況では、間違いなく自分も巻きこまれるだろう。
だがそんなことなどはまるで気にせず、エリナは口を開き――
「リ――」
「――ふむ、やはり前言は撤回せずに済みそうじゃな」
指がパチンと、一つ鳴らされた。
起こったことは、それだけだ。
それだけで、十個のファイアー・ボールは、跡形もなく消え去っていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「なっ……ば、馬鹿なっ……!? なにを……一体何をした欠落者……!」
「この程度のことが理解出来ないからこそ、お主が賢者になるのは無理だと言っているのじゃよ。まあ、厳密に言えば儂も今の世界でどれだけのことが出来ればそう呼ばれるのかは知らんのじゃが……さすがにこれでは駄目じゃろ」
「っ……馬鹿な、俺は……俺はドラゴンの力を……!」
「ふむ……理解出来ておらぬようじゃからもう一度繰り返すのじゃが……言ったじゃろう? お主よりもあやつの方が……ハンネスの方がマシじゃった、と」
「っ……ふざけるなよ……! ドラゴンの力の一部しか引き出せず、肉体すら力に耐え切れなかったあの小物よりも、俺の方が下、だと……!? ……いいだろう、ならもう加減はなしだ。この周辺ごと消し飛ぶかもしれんが……知ったことか……!」
叫ぶと同時、父が周囲に数多の魔法を展開したのが分かった。
おそらくその数は百を軽く越え――パチンと、指が一つ鳴らされる。
それだけで、展開しようとした魔法の全てが消滅した。
「ば、馬鹿な……こんなことが、こんなことが有り得るわけが……!」
「またそれかの。だからいい加減現実をじゃな……」
「そうだ、有り得ん……ドラゴンの力を手にした俺が、よりにもよって欠落者に劣るなど。……やはり、大賢者の仕業か……? ならば……ならば、直接貴様を殴り殺せばはっきりするというものだ……!」
その姿は既に、半狂乱といった有様であった。
現実を認められず血走った目でリーンのことを見つめる姿は、あるいは憐れと言うべきだったのかもしれない。
しかし、その身にドラゴンの力を宿していることだけは確かだ。
父の姿が掻き消え、それを認識出来る者などいないはずであり……だから――
「だから、何度も言わせるではないのじゃ。馬鹿力が出せるだけで、ろくな制御も出来ていないそんな力が、大したものであるはずがないじゃろうが。そもそもそれは使いこなしてるとはいわぬ。振り回されてると言うのじゃ」
後ろに回りこみ、叩きつけた両腕が、リーンの片手で何ということのないように受け止められたのは……父の力がまったく通用しないのは、単に万年を経たドラゴンの力すらも軽く上回るほどに、リーンがでたらめだったというだけであった。
そんな、不安を感じる必要などまったくなかった光景に、エリナは地面に横たわったままで溜息を吐き出す。
「ば、馬鹿な…………馬鹿、な……」
「さて、もう満足したかの。なら、寝るといいのじゃ。先程も儂同じことを言ったのじゃが、儂にはやらねばならぬことがあるのでの。こんなことで時間を浪費してる暇はないのじゃ」
「馬鹿な……!」
叫び、父がまだ何かをしようとし――だが、それがなされることはなかった。
それよりも先に、父の身体が宙に浮いたからだ。
別に大したことをされたわけではない。
単に足払いをされたというだけであり……しかし、ドラゴンの力を持っていようとも、ドラゴンならざる身である父には、その状況で出来ることなどあるはずがなかった。
そして。
直後、リーンの拳が父の顔面に突き刺さり、父の意識を刈り取ったのであった。




