12.エルフの溜息
見慣れた天井を眺めながら、オリヴィアは息を一つ吐き出した。
それから手元の羊皮紙に視線を戻すが、そのまま机の上に放り投げる。
本当はもっと大切に扱わねばならないものなのだが……仕方があるまい。
「まあ、今更何か情報が得られるとは思ってもいなかったけれど……よく分からないっていうことが分かっただけだったわね」
呟きながら溜息を吐き出し、さてどうしたものかと思う。
まあ、どうしたも何も、これ以上はどうしようもないのだが。
今放り投げた羊皮紙……というか、机の上に散乱しているそれらは、魔導結界について書かれているものだ。
今から千年以上前に書かれたものだが、まだ古代魔法が使えた頃だったために保存の魔法が利いている。
それでも乱雑に扱っていいものではないのだが、何の役にも立たなかったのだから仕方がないだろう。
オリヴィアが今更そんなものを持ち出して何を調べていたのかと言えば、魔導結界に穴がないかということを調べるためだ。
穴……それは、文字通りの意味で、である。
でなければ、ドラゴン達が現れたことの説明が付かないからだ。
魔導結界とは、世界に張り巡らされている概念結界であり、主に二つの効果によって成り立っている。
一つは、個々人の魔力を制限させる効果。
これによって古代魔法の抑制をさせ、またそれによる副次的な効果として現代魔法を成り立たせている。
個々人の魔力を制限させることで、世界の魔力へと干渉しやすくなったからだ。
だが今回関係あるのは二つ目の効果であり、それは人類に敵対的な存在の隔離である。
結界というだけあって魔導結界は世界を覆っているのだが、それと同時に位相のずれた空間を内部に作り出してもいる。
その位相のずれた空間に、敵対的な存在を隔離しているのだ。
ただ、単純に敵対的な存在としてしまうとエルフなどが含まれてしまう可能性があったため、積極的な敵対且つある一定以上の魔力を持つ存在という条件付けがされている。
魔物にしろドラゴンにしろ、強大な力を持つということは莫大な魔力を持つということなのだ。
ゆえに、魔導結界の発動と同時にその条件を持つモノが自動的に隔離されるようになった。
そのせいで、逆に条件以下の魔力しか持たない魔物が隔離されることはなかったのだが……それは仕方のないことだ。
どの存在を隔離させるか、ということを誰かに判定させてしまうと、漏れがあったり、あるいは意図的に自分に敵対的な存在を位相のずれた空間へと隔離させてしまう、という可能性が考えられたからである。
そういったことを許容するよりはと、条件をつけて自動的に隔離させることになったのであった。
しかし、あくまでもそれらは位相のずれた空間に隔離されただけであり、言ってしまえば薄い壁を隔てて隣に立っているようなものだ。
薄くとも次元の壁であるため基本的に破られることはないのだが……次元というのは常に一定ではなく、時に不安定にもなる。
その不安定な時に穴が生じてしまい、そこから這い出ることで時折隔離したはずの魔物がこちら側へと出てきてしまうことがあるのだ。
だが、その穴にも限界というものはある。
強大な力を持った存在ほど魔導結界によって強固な拒絶を受けるため、ドラゴンなどの存在は、その時に発生する程度の穴ではこちらにこれないはずなのだ。
しかし、現実にドラゴンは現れた。
あるいは、一匹だけであるならば、偶然が幾度も絡み合うことで起こりえなくはないと言ったところだが……合計で『三匹』も現れたとなれば、偶然で片付けて良い話ではあるまい。
「まったく……すぐに報告があれば、まだ調査のしようもあったかもしれないってのに。六年も経ったら、さすがに調べようがないわよ」
六年。
それはオリヴィアがドラゴンと出会ってから経過した年数であり、また師と再会してから経過した年数でもある。
そう、アレから早いもので、六年も経ったのだ。
「……本当に早いものよね。ってまあ、今はそんな感慨に耽っている場合ではないのだけれど」
何故今更魔導結界を……ドラゴンの件を調べているのかと言えば、オリヴィアが自身が呟いた通りだ。
その今更になって、新しい報告があったのである。
あの時オリヴィアが遭遇したドラゴンは、一匹だけであった。
厳密には二匹いたが、師の見立てによればもう一匹は生まれたてということであり、オリヴィアも同様の判断をした。
だからオリヴィアは、こう考えたのだ。
こちら側に出てきたドラゴンは一匹だけであったが、もう一匹をこちらで生んだのではないか、と。
あくまでも別の位相に隔離しているだけなので、向こう側で魔物達は変わらず生活しているものと考えられている。
ならばそういったことも、有り得なくはないだろう。
もの凄い偶然が重なった形ではあるが、オリヴィアの及ぶ権限を使った限りではそれ以外の結論を出すための情報が得られず、一先ずそれで納得しておくことしか出来なかったのだ。
だというのに、何故か唐突に、実は他の場所でもドラゴンが出ていた、などという話が耳に届いたのである。
しかも時期的には同時期、六年前に、他の場所、それもとある公爵領でも、ドラゴンの姿が確認されたのだという。
こうなってくれば、話はもうまったく違うものになってくる。
偶然という可能性は有り得ず、何者かが人為的に引き起こした可能性が高くなったのだ。
六年前に知っていたら、何が何でも徹底的に調べさせていただろう。
無論今からでもやろうと思えば可能だし、この魔導結界に関する資料を取り寄せたのもその一つではあるのだが……さすがに六年も経てば手掛かりを得るのは難しい。
というか……確実に手掛かりなどは破棄されているはずだ。
まったく以て、忌々しい話である。
「……これであの家が犯人だっていうんなら分かりやすくて助かるのだけれど……さて、どうでしょうね。あからさますぎるとは思うし……かといって、明らかにやりすぎなのよね」
他の場所でもドラゴンを発見したという報告を今更伝えてきたのは、マカライネン家――アメティスティ家と同様、公爵家の一角だ。
だが実のところ、そこの当主とオリヴィアは折り合いが悪く、ちょくちょく伝えるべき事が伝えられない、ということが起こっているのである。
調べてみたら、一応国の方にはしっかりと伝えていたようだが……今回ばかりは伝達ミスで済ませていいことではあるまい。
ドラゴンが三匹出たなど、現在の世界にとっては災厄そのものだ。
下手をすれば国の一つや二つ滅んでもおかしくはなかった。
そうならなかったのだからよかっただろう、というわけにはいかない。
一度起こったということは、二度目以降も起こりうるということだ。
だからこそ、しっかりと調査しなければならなかったのだが……。
「……とりあえず、今からでも現地に飛んでみるべきでしょうね。何も見つからないだろうけれど、やらないわけにはいかないのだし。まったく……この忙しい時期に。まあそこも含めて、わざとなんでしょうけれど」
明日はちょうど、新入生が学院に入学してくる日であった。
間違いなく学院にとって最も忙しくなる時期の一つであり、そんな時に狙い済ませたかのように……否、間違いなく、そういえば伝達に失敗していたようですが、などと言って六年前のことを伝えてきたのだ。
意図的でなければ何なのかという話である。
「本当にもう……今年は絶対特に忙しくなるってのに」
下手をすれば、オリヴィアが学院長になって以降、最も忙しい時期となることだろう。
そう確信を持ってしまえるのは、師と再会してしまってから、六年が経過してしまったから……要するに、今年はちょうど師が入学してくる年なのだ。
そんな時に留守にしていなければならないなど、不安しかない。
かといって、公爵領を調べるというのであれば、オリヴィアが直接出向かないわけにはいかないだろう。
そもそもオリヴィアの公的な立場は、あくまでも一介の学院長である。
十賢者の一人としての権力を振るえば話は別だが、それを振りかざさないことを決めている以上は無意味な仮定だ。
何にせよ自分が出向く以外に方法がないことに違いはなく――
「うーん……でも本当に心配だわ。……大丈夫かしら。戻ってきたら学院が消滅してた、なんてことにはならないわよね……?」
冗談のような言葉だが、オリヴィアは割と本気で言っている。
何せあの師なのだ。
絶対常識外れなことをするに決まっている。
それにあの娘もいるのだし、今年は他にも問題となりそうな人物の姿をちらほらと見かけた。
正直なところ、不安しかなかった。
「……まああの娘にとっては、もしかしたら良いことが起こるのかもしれないけれど」
自分ではどうしようもなかったが……師ならばあるいは、とも思う。
「なんて、不安だなんて言っときながらそれは勝手かしらね」
だが迷惑をかけられるのはほぼ確実なのだから、その程度の期待をしても構うまい。
ともあれ。
「さ、これ以上は不安と苛立ちが募る一方でしょうから、そろそろ行動に移すとしましょうか。……こうしている間にも、何かが起こっている可能性はあるのだし」
マカライネン家の対応はあれだが、それを別にすると、あの時公爵家のうち二つの領地でドラゴンが現れていたということになる。
何者かに狙われている可能性は十分にあった。
何が狙いなのかはまったく分からないが……警戒だけはしておくべきだろう。
そう結論を付けると、オリヴィアは机の上の羊皮紙を纏め、抱えながら、早速行動へと移すために部屋を後にするのであった。
次でようやく学院始まります。