0.最強賢者、転生を決意する
眼前の本を前に、男は衝撃を受けていた。
百年ぶりに訪れた街で、手に入れた本だ。
魔力を感じたことから魔導書なのだろうと見当を付け、手にしたのだが、正直期待はしていなかった。
市井に転がっているような魔導書に男が知らない魔法が載っていたことなど、ここ数百年はなかったからである。
だから百年前を境に、人里を訪れることすらなくなっていたのだが――
「これも……これも、じゃと……? まさか、これに載っている全てが儂の知らぬ魔法じゃというのか……!?」
驚愕を超え、戦慄の域にまで至った感情に、男は身を震わせる。
男はこれでも、賢者などと呼ばれていた。
覚えている魔法の数も、腕も、才能も、全てが頂点に位置する最高の魔導士だと。
それらは純然たる事実ではある。
千の年月を魔法の探求に費やした結果、ついには考え得る限りの全ての魔法を研究し尽くしてしまい、その結果男の知らぬ魔法など存在しなくなっていたからだ。
いや、存在しないと思っていた、と言うべきか。
実際には、気まぐれに訪れた街でこうして見つかるぐらい、まだまだ存在していたのだから。
「……なるほど、どうやら儂はいつの間に随分と傲慢になってしまっていたようじゃの」
魔法の全てを、世界の全てを知った気になっていた。
だが、どうやらそれは気のせいでしかなかったらしい。
「ふむ……しかし逆に清々しい気分じゃな」
正直なところ、男はつい先程まで行き詰っていた。
男にとっては、魔法が全てであった。
男の全ては魔法に費やされ、つい先日にそんな魔法を極めてしまったのである。
これから一体何をすればいいのかと、胸にポッカリと大きな穴が空いたような気分だったのだ。
無論、達成感はあった。
しかし、それ以上の空虚さを覚え……だが、それがただの勘違いであったというのならば、これほど嬉しいことはない。
男は、まだまだ魔法の探求を続ける事が出来るということなのだから。
ただ――
「ふむ……これは良い機会なのかもしれんの」
呟きながら手元の本へと視線を落とすと、数秒だけ思考を巡らせる。
結論はすぐに出た。
男は以前から不満に思っている事があった。
自分に対し……その才能の無さを、である。
周囲は自分のことを天才と呼び、果てには賢者などと呼び出したが、いつだって男は自分はそんな大層なものではないと思っていたのだ。
確かに、他の魔導士へと色々教えたことはある。
しかし、どれだけの天才だろうとも、何も教わらずに全てを理解出来るわけがない。
だからそのうち自分を追い越す者が出てくるだろうと思い、だがそんな相手はついぞ現れなかった。
前を走っていたはずの者達も気がつけば後ろを走っており、男だけが先頭を走っていたのだ。
しまいには魔法を極めてしまい、自分の認識の方が間違っていたのかと思っていたのだが……こうして、自分の知らぬ魔法が存在していたという時点で、全ては自分の勘違いだったということが分かる。
ならばこそ、思うのだ。
もっと才能が、魔力が豊かな肉体が欲しい、と。
魔法を使うのに最も重要なのは、魔力だ。
魔力はあればあるに越したことはなく、男も全ての魔法を使いこなすのに十分な程度ならば持ってはいたが、満足はまったくしていなかったのである。
魔導の深淵へと至るのに千年かかったが、潤沢な魔力があれば半分には縮める事が出来ただろう。
とはいえ、魔力は肉体の器によってその上限が決まっているため、限界にまで至っている男ではこれ以上の魔力は持ちようがない。
だが、であるならば話は簡単だ。
転生すればいいだけのことであった。
幸いにして、転生魔法の理論はとうに完成している。
まだ試したことはないものの、そのうち試そうと思っていたため、尚のこと都合はいい。
というか、実は最初からそのつもりであった。
現代に知らぬ魔法がなくなってしまったというのならば、未来に賭けるしかなかったからだ。
ただ、それはどちらかといえば自棄になってのものであり、今とは心境が異なる。
「今は、十分な期待を持つ事が出来るのじゃからな」
たった百年訪れなかっただけで、市井には自分の知らぬ魔法の書かれた魔導書が存在していたのである。
そもそも魔法というものを使える者は限られており、また本というものは希少で高価だ。
必然的に魔導書というものは物凄く希少となり、市井には出回ることはないか、出回ったとしても魔導士ならば誰でも知っているようなものとなる。
そんな魔導書に自分の知らぬ魔法が書かれていたということは、男にとって希望以外の何物でもなかった。
男が周囲に期待をするのを諦め引き篭もっている間に、外では自分の知らない魔法が広まっているということを意味していたからだ。
きっと他にも色々とあるはずで……だがそこで、男はふと思ってしまったのである。
百年でこれだ。
ならば、さらに百年……いや、いっそのこと千年ぐらい経ったらどうなるだろうか、と。
そう考えたら、もう無理だった。
楽しみになりすぎて、もう暢気に待ってなどはいられなくなってしまったのである。
というわけで、転生だ。
「まあ、儂が知らぬ魔法があるということも分かったのじゃが、別に転生した後で纏めて研究すればいいだけじゃしの」
最初からそのつもりであったため、既に準備は終わっている。
百年も人との交流を絶っていたためにわざわざ連絡するような相手はいないし、いたとしても魔導士が唐突に死ぬことなど珍しいことでもない。
「さて……次に目覚めた時は、未来じゃな。――楽しみなのじゃ」
そうして、賢者と呼ばれた男は、一瞬の躊躇もなく最後の仕上げを済ませると、次の瞬間に、呆気なくこの世界から消え失せたのであった。