第三十八話 白昼夢と抱擁
修学旅行の委員会は、瑠依の思っていた以上に長引いた。
いつもだったら夕食の支度を始めている時刻をとっくに過ぎている。
急いで帰ろうと学生鞄をひったくって教室を出ようとしたとき、「あの……」と声が掛かった。覚えのある声に振り返ると、一緒に実行委員になってしまった内藤聡美が瑠依を見つめていた。両手は胸の前で固く握りこまれ、唇はきゅっと引き絞られている。
ああ、デジャブだな、と瑠依は思いながら、ここで話を長引かせるのは困る、と先手を取ることにした。
「内藤さんも、実行委員になって災難だったね」
瑠依から話掛けられるなんて思ってもみなかったのか、彼女は明らかに狼狽えだした。
「え、あの、いえ、……私は友達の推薦だったから、自分でいいのかなって申し訳なくて……、み、瑞谷君はしっかりしてるから、皆大賛成だったと思います」
美園からは、「男子にやっかまれてなんじゃないの?」なんて散々な言われようだったが。
そんなことを思い出して苦笑する瑠依に、内藤は息をのんだようだった。
笑ったのを自分が馬鹿にされたと受け取ったのだろうか。瑠依は訂正しようと、「ああ、こっちの話」と口火を切った。
「ありがとう。内藤さんも期待されてると思うから、頑張って」
そう言いながら、これ以上話を延長させるのはまずいと思い、瑠依は「それじゃあ」と踵を返した。
残された内藤がどんな顔をしているかも知らずに。
【悪い。委員会が長引いた。今から夕飯作る】
矢継ぎ早に楓宛てのLINEメッセージを送る。しかし、瑠依が急いで帰宅しても、夕飯の準備を終わらせても、返事は来なかった。
何の反応もないことに一抹の不安がよぎる。そして、何故かその時、瑠依の脳裏には安藤の存在が掠めていた。
なんであいつなんだよ。
瑠依は焦りを誤魔化すように、いつもは入念にしている手洗いを雑に終わらせ、隣の家の様子を伺うことにした。
秋陽に渡されている合鍵を片手に、藤森家のインターホンを押す。
しかし、何の反応もない。ドアノブが回る音も、鍵が解除される音もしない。
このまま入っていいものだろうか。
瑠依は秋陽とした約束を思い出した。
肝に銘じると言った自分の言葉も。
『家族』でありつづけると誓った思いも。
強固なドアの前で、瑠依は暫く立ち竦んだ。
でも、楓に何かあったら。
念のため、だから。
結局、瑠依は自分に言い聞かせながら鍵を差し込んでドアノブをガチャリと回した。
中に入った途端、瑠依の顔に影が差す。廊下は真っ暗で、外から入り込んだ明かりでさえ吸収されたかのように、奥の様子が見えない。
自分の家の造りと一緒のはずなのに、全く違う場所にいるようだった。
音もなく、しんとした静寂で耳鳴りがする。
瑠依は靴を脱いで廊下へと足を踏み出した。後ろのドアがばたんと締まり、一瞬暗闇が辺りを包み込む。瑠依は手探りで廊下の電気のスイッチの場所を見つけ、オンにするとパッと明かりがともった。板張りの廊下の存在が露わになる。
それでも鼻がつんとするような寂しさが残るのは、この家の住人の心の表れだろうか。
本当に、今ここには楓しか残されていないんだな。
そう思うと、ふと公園で遊んだ時のことが思い出された。
紅葉が咲き乱れた空の下で一緒に走り回った秋陽も、気のよさそうな笑顔をくれた楓のお母さんも、ここにはいない。
あの当たり前のような、それでも一番穏やかだった時の面影はもうここにはない。
この家には、楓を迎えてくれる人がいないんだ。
今更だ。分かっていたはずだった。でも、この空間を目の当たりにして、楓が日々どんな思いでこの家に帰っているのか、その心苦しさが伝わってくるようだった。
痛みを胸に残しながら、廊下を歩いて左側にあるドアの取っ手に手を掛け、瑠依はその壁越しに声を掛ける。
「楓?」
返事はない。物音ひとつしない。
「……入るぞ」
そっとドアを開けると、まばゆい光が差し込んできて、瑠依は思わず目を細めた。
部屋の隅に置かれたベッドに楓は横たわっていた。
「……楓?」
帰ってきたまま、部屋着にも着替えずに眠ってしまったのだろうか、瑠依が楓のほうへと近づいていくと、すうすうと小刻みな寝息が聞こえてきた。
状態が状態なだけに、瑠依はすぐさまこの部屋から退散しようかと思った。
しかし、楓の表情を見てその考えは引っ込んでしまった。
楓はカタツムリのように膝を抱えて丸まりながら眠りこけていた。そして、閉ざされた瞳の上にひかれた眉が寂し気に下がっていることに瑠依は気づいてしまったのだ。
あの顔だ。
父親に「出ろ」と言われ、ベランダに放置されていた時の楓の顔。
今にも消えてなくなってしまいそうなほど、儚く寂しげな顔。
楓は、最近本当によく寝ている。
時間があれば本当にいつも。
でも、それは意識を放り出しているようなもので。
もし、このまま起きてこなかったら。
気づけば、瑠依は楓の手を取っていた。
膝を抱えきれずに放り出された手を。
触れて、その手が熱を持っていることに気付いて、瑠依は静かに息を吐いた。不安は一瞬なりを潜めたが、それでも胸に広がるざわめきを抑えることはできなかった。
こいつが、消えてしまうのはいつだろう。
俺が、自分の思いに決着をつけられないままウダウダしている間にも、こいつは孤独に苦しみ続けている。
このときだけは、安藤なんてどうだっていいと思えた。
こいつが自分は一人じゃないと思えるのなら、何だっていい。
消えないでほしい。
ただ、それだけでいいから。
瑠依が楓の手を取って、思いを込めるように額に当てると、その指がピクリと動いた。
そして、膝の近くにあった瞼が薄く開いて、
「……瑠依?」
と唇が動いた。瑠依が反応するよりも先に、その唇は言葉を紡ぐ。
「……瑠依」
そして、ぎゅっと唇が引き絞られ、まるで涙をこらえるかのような表情が浮かんだ。
「……私、瑠依を縛ってるのかなぁ……自分勝手なのかなぁ……」
そう呟かれた言葉に、瑠依は驚愕した。そして、楓の苦しそうな声に、心臓を鷲掴みにされたような感覚が襲った。
「……なんで、そう思うんだ」
瑠依が平静を装ってきくと、楓はいやいやをするように首を横に振って見せた。
「……『家族』なんて勝手に当てはめて、瑠依が迷惑してるかもしれないなんて考えてなかった……」
「迷惑なんて誰も言ってないだろ」
どうして楓がそんなことを言い出すのか分からなかった。
昨日までは、『家族』だって言って笑ってたのに。
なんで、今更迷惑だなんて思うんだよ。
安藤。
ふと脳裏にあの男の存在が湧いた。
「誰かに何か言われたのか?」
瑠依が楓の顔を覗き込みながら強く尋ねると、楓はううんとまた首を横に振った。「違う」と言いながら、彼女は自分の膝を抱いた。
「……自分勝手な私が嫌だよ……」
そう苦し気に漏らした楓の声に、瑠依は縮こまる楓に覆いかぶさるように彼女を抱きしめた。
そんなこと思うな。
自分を責めるなよ。
これ以上、自分を傷つけるな。
言葉になったかもわからなかった。
ただ、自らを責め続ける彼女を、自分はただ守るしかないのだと、繋ぎ止めるしかないのだと、そんな思いだけが身に迫った。
***
楓はまどろみから目覚めた。
ひどく、苦しい夢を見ていた気がする。
瑠依に自分の思いをぶちまけてしまう夢。
でも、夢だったから言葉にできた。現実でなんて、怖くて言えない。
安藤君の苦しそうな姿を見て、同情して、一瞬でも彼の親をなじってしまった。なんて酷い親なんだろうと。そして、自分の親ですら。
その思いは一瞬でも、考えてしまった自分はずっと消えない。
私のせいなのに。お母さんが自殺しようとしたのも、お父さんが出て行ってしまったのも、自分がいい子じゃなかったせいなのに。
それなのに私は、責任から逃れようとした。親のせいにしようとした。醜い。私は醜い。
そんな私が、今度は瑠依を犠牲にしようとしている。『家族』という枠に縛って、秋陽にいの代わりにしようとしている。
本当に私はどうしようもない。
そんなことを吐露してしまった。
でも、夢の中の瑠依はそんな私を抱きしめてくれた。
夢の中でも優しいなんて。
本当に瑠依には助けられてばかりだなあ……。
楓は横たわった状態で、散乱している学生鞄をぼうっと見つめていた。
その時、
「入るぞ」
急に瑠依の声がして、楓は「え」と声をあげてしまった。
ドアを開けて部屋の中に入ってきた瑠依は、「起きたのか」と言って楓の傍に近づき、両手に持っていたお盆を床の上に置いた。その上には湯気を立てたお味噌汁と白米と煮物が乗っていた。
それを見た瞬間、楓のお腹がきゅるると鳴った。楓は思わずお腹を押さえた。恥ずかしい。
「お腹空くだろうと思って持ってきた。ほら」
瑠依が微笑みながら白米と箸を渡してきたので、楓はのっそりと起き上がってそれを受け取った。
確かにお腹は空いてたみたいだ。
あんな苦しい夢を見た後なのに、なんて現金なんだろう、私は。
自分のお腹にも嫌気がさしながら、でも白米に罪はないと思い、一口食べてみる。「おいしい」と白米の甘みを噛みしめながら呟くと、瑠依は無言で楓の額を撫でた。
……瑠依から触ってくれるの、久しぶりかも。
瑠依と一緒にいる時間は長くなったはずなのに、何故か以前のように触れてはくれなくなった。
それが何故だか寂しくて、少し物足りないような気がしていた。
だから、あんな夢を見たんだろうか。
抱きしめられるなんて夢まで。
自分で思い出しながら。胸の奥がきゅうと絞られるような痛みが走った。
楓はその痛みに違和感を覚えたものの、しかしすぐに瑠依の発言によってかき消された。
「なあ、楓」
「ん?」
瑠依はベッドに寄り掛かりながら、楓のほうは見ずにそっと呟いた。
「お前、今日からうちで寝るか?」
「……え?」
一体瑠依に何があったのだろうと、そう思わずにはいられない楓だった。
続きます!




