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第三十六話 バーと告白



『僕、お兄さんになるの?』

 


 まだ幼かった自分。

 醜さも、むごさも知らなかった穢れのない自分。


 妹ができたと聞いて、純粋に嬉しさが込み上げてきて。

 弾んだ声で母に飛びついた。

 宝物をあげると言われたような、わくわくとした気持ちが湧き上がってきて。



『そうよ。秋陽お兄ちゃん。妹の面倒見てくれる?』



『妹の面倒、みるよ。お兄さんだもの。お母さんも助かるでしょう?』



 誇らしくて。自分がしっかりしなければという責任感も湧いてきて。

 胸を張った。もちろん母のことも二人分守るつもりだった。



『偉いね、秋陽は。お母さん安心だなぁ。秋陽ならきっといいお兄ちゃんになるね』



 母の、ふわりと穏やかに向けられた笑顔。その笑顔にうれしくなって、膨らんだお腹に手を伸ばす。



『そうかな?それを言うのは早いよお母さん。まだ生まれてもいないのに』



 そう言いながら、母のお腹に耳を当てて、その中の音を聴こうと耳をそばたてる。



『早く出てこないかな、赤ちゃん。僕が色んな所に連れて行ってあげるね。色んなことして遊ぼうね。何があっても僕が守ってあげるからね』



 そう話しかけると、母はふふふと嬉しそうに笑った。



『赤ちゃんにも聞こえてるよ、きっと。秋陽お兄ちゃん、待っててねー、って言ってる』



『お母さん、赤ちゃんの言ってること分かるの?』



『分かるよ。お母さんだもの。今お腹を蹴ってね、早くお兄ちゃんに会いたいよーって言ってる』



 そう聞いて、まだ見ぬ赤ちゃんへと、愛おしさが込み上げてきた。僕が守るんだ。この赤ちゃんを。妹を。



『そっかあ。僕も早く会いたい!』






 あの会話は現実だったのか。それとも自分の願望が見せた、ただの夢だったのか。



 今となってはもう、分からない。



 それでも。


 現実であってほしいと願うのは、甘えだろうか。それとも、兄として正しい道を歩んでいる証拠だろうか。

 

 自分は正しい道を歩いているのだと思いたかった。そして、誰かにもそう認めてほしかった。



 そうすればこの不安は、寂しさは、埋まるかもしれないと思いながら。




 ***




 秋陽ははっきりと紫の温もりを感じていた。


 温もりだけではなく、触れたところから感じる肌の柔らかさや、紫のシャンプーの匂い。

そして今までで感じたことのないような柔らかさを持った唇。

 

 唇は、人間の体の中で最も急所と言える部分だ。それを他人に明け渡すという行為は、相手を完全に信頼しきっているという証で。

 秋陽はどこかでそう聞いたことがあったことを思い出していた。

 理性を働かせていないと、感情が何をするか分からなかった、というのもあった。



 それだけ、今の状態は秋陽には刺激的で。

 前の口づけよりもずっと、紫は自分に体を預けていて。

 脳が何か誤解をしてしまいそうで。

 紫が放った言葉も。

 傷つけろと言った意味も。


 秋陽には分からないまま、ただ欲だけが都合のいいように解釈したがっていて。


 

 くらくらとする頭の片隅で、考えがまとまらない中。


 秋陽の腕は無意識に、紫の腰に回り。

 更にその身体を引き寄せようとしたとき。



「ひゅー! おあついねー!」



 二人のものとは違う声が耳を打った。


 秋陽ははっとして紫を離した。その動作に倣ってか、紫も唇を離して声のしたほうを見やった。


 そして、自分たちがこの店の中にいる人たち全員の視線にさらされていることに気付いた。

 良い感じに酔っぱらった面々の視線に。


 ここが夜の居酒屋だということを完璧にと言っていいほど失念していた。

 秋陽は自分の頭をぶつけたくなるような衝動にかられた。



「あのー……個室に移動されますか?」



 漆のお盆を持った店員までが二人にそう声を掛け、既に遅い後悔と共に秋陽は首を横に振った。





 



「なんで外出るの?」



 紫が不思議そうに首をかしげながら、黄色い灯りが漏れる引き戸を名残惜しそうに閉めた。騒がしい喧騒から隔絶された、静けさのある外気が体を撫でる。もう既に日は落ちていた。夜の街に色とりどりのネオンが輝いていて。久々の街だと思った。研究室に缶詰め状態だった自分には、それが懐かしくもあり、不思議でもあった。


 

「あのまま中にいても、落ち着いて話なんてできないだろ」



 秋陽がグレーのパーカーのポケットに手を突っ込みながら息を吐いて、ゆらりとたなびく紫のふわふわとした髪を見つめた。引き戸から洩れる黄色い光が紫の体を照らしている。

 そんな彼女を秋陽は呼んだ。



「紫」



 ん?と紫が秋陽のほうを向いた。先ほど、自分へと叫んだ時の彼女の雰囲気はそのままそこにあった。自分たちの間にある熱はまだ冷めていない。

 だからだろうか。口を開くのに、何か重大なことを成し遂げなければならないような重圧が伴うのは。それでも、秋陽は紫に向かって尋ねる。



「お前、俺のこと好きなのか」



 核心ともいえるべき問いを投げつける。未だに信じられない思いがしながらも。

 紫が異性に、しかも自分に惹かれるなんて想像もつかないことだった。

 自分が知る紫には。誰も顧みず、前だけを向いて、自分のしたいことをするために突き進む彼女には。

 

 しかし、遊びや冗談で口づけるほど紫は軽くない、と同時に思うのだ。



「好きだよ」



 紫ははっきりと口にした。その一言だけで、秋陽の思考はどこかに追いやられた。

 



「……いつから」



 口が勝手に言葉をついていた。何故この時、どうして、と言えなかったのか分からなかった。ただ、心がそうすることをとどめたようだった。

 紫はその秋陽の気持ちを知ってか知らずか、前に進み寄ってきた。そして、手を伸ばせば触れられる距離まで秋陽に近づいた。

 光の中から暗がりへと入っていった紫の表情に陰りができる。しかし、その距離のため、表情ははっきりとわかった。


 紫は微笑んでいた。困ったように目じりを下げて、お手上げだとでもいうように。

 そして、ゆっくりとした動作で、秋陽に手の甲に触れた。その手は暖かく、柔らかかった。



「手、繋いでもいい?」



 紫は秋陽の返事を待たずに指を絡めてきた。滑らかな指だった。その指が、指の隙間を埋めるように入り込んで、ぎゅうと握りしめられる。

 その感触に秋陽は酷く安心していた。

 思わず握り返すと、紫は驚いたように目を丸くした。予想外の出来事に出くわしたように。


 それから、急に秋陽の肩に頭突きをした。



「おいっ」



 その衝撃に秋陽が声をあげると、急に紫が秋陽の腕を引っ張り、夜の街を歩きだした。

 だから秋陽は知らなかった。紫のほころんだ表情を。

 


 秋陽が紫に連れられるがままについていき、紫は栗色のふわふわとした髪を揺らしながら突き進んでいく。その背中を見つめながら、秋陽は尋ねる。



「どこに行くんだよ」



「ホテルがいい?」



 内容に反して、その返事にはあまりにも色気がなかった。その選択肢はないのだと、言外に含んでいるようだった。それでも繋がれた手から、秋陽の体温は上がる。

 傷つけたくないと言った手前、まだ紫に触れたいという想いは心の中でくすぶっている。

 今すぐにでも、紫を抱きしめたい。この腕の中に閉じ込めて、全身で彼女を感じたい。

 そんな欲が渦巻いている。

 それでもそうしないのは、人の目があることと、今までの自分たちの関係性のせいか。



 自分たちの関係。

 周りからどう見られているのかは分からない。

 中高生のころはどうでもよかった。恋人だと勘ぐられようが、ご主人様と下僕のようだと揶揄われようが、自分たちの関係が揺らぐわけでもなかったし。自分たちは幼なじみでそれ以上でもそれ以下でもないと思っていた。幼い頃からの腐れ縁。お互いに放っておけない存在。

 そうやって、自分たちは自分たちなのだと思っていたし、周りの目線を気にしていられるほど、秋陽の心には余裕がなかった。


 今も余裕があるわけではないけれど。それでも、今の自分たちはあの頃とは違うのだと、何となく感じていた。それは、紫にとっても。

 林が自分たちの関係を勘ぐったのも、既にそういうものへと変化しているからなのか。

 少しずつ何かが変わっていくような感覚は恐ろしくもあり、しかし自分はそれを望んでいるような気がした。




 そう思っているうちに、紫はある建物の前で方向転換した。見ると、灰色の塗装が塗られた四階建ての、何の変哲もないビルが建っていた。しかし、何の看板もなく、そこだけ街のネオンが失われたような、他とは世界が違うような雰囲気のする場所で。


 紫は躊躇いもなく、ビルの脇に続く赤い塗装が塗られた階段をかんかんと音を立てながら上っていき、最上階になる四階まで到達すると、木製のドアに取り付けてある黒い装飾のあるドアノブを握り、そのドアを押し開いた。

 すると、カランカランというベルの鳴る音と、赤みかかったほのかな光が二人を出迎えた。

 そこはバーだった。隠れ家という感じのこじんまりとした店内。オレンジや赤の光が店内をほの暗く照らしていて。柱もドアと同じ木でできておりその周りをツタが這っていた。目線を上にやると、メキシコ風のお面が埋め込まれていて。どこか異国情緒を感じさせるような雰囲気の店だった。

 いくつか回転椅子が並べられたカウンター席の前に1人のバーテンダーが立っており、彼がこちらを振り返った。



「今日は、あいつ来てないの?」


 

 紫はバーテンダーに声を掛けた。紫が彼に近づいたことで秋陽も彼を伺うことができたが、まだ30代にも行っていないような若い男性だった。短く切りそろえられた黒髪はきっちとセットされ耳が見えている。そして、額に一本引っかき傷のような線が入っているのを秋陽は見た。

 彼は落ち着いた雰囲気で紫を見返すと、



「今日はこちらには来ておられませんね」



 と丁寧に言った。


 紫は彼の答えにそっか、と言うと、カウンター席から離れ、店の奥の広々としたソファのある席へと向かい、黒いマットに腰を下ろした。手を繋いだままだったので、秋陽はその隣に座ることになった。



「お前、なんでこんな店に」



 納得できるような、それでもどうしてこんな場所で、という意味も含めて秋陽が言うと、



「店長も私の所属してた団体にいたの。もう辞めてるけど」



 紫が首を振ってバーテンダーの男性を示した。店長だったのかと驚きながら、紫に目を戻す。

 


「いつもここで飲んでるのか?」



「いつもってわけじゃないわね。でも、さっきの話をするなら、ここが最適かなと思って」



 さっきの話。

 自分が先程尋ねた、いつから自分が好きなのかという問いについて。


 繋がれた手が意識される。

 本当に、自分たちは今までの関係とは変わっていくのだと思い知らされる。

 紫にはその手を離そうとする様子は全く見られなくて。

 

 そう遠くない距離が、紫の発する熱までも感じ取ってしまいそうで。

 秋陽は自分の肩が無意識の震えるのを感じた。

 ここにいるのは女性なのだと、そして自分が触れたい女なのだと否応にも認識させられて。

 どくりと心臓が跳ねる。


 紫がすうと息を吸い込むと同時に、その手はきつく握りしめられた。

 どうしたのかと問いたくなるほどに強い力だった。


 しかし、視線は紫に注いだまま、離せない。

 先ほど自分に口づけた唇が動いて。

 言葉が、答えが紡がれる。



「いつから、っていうと、そうね」



 紫は秋陽を見つめていた。酷く真っ直ぐな瞳で。

 再び心臓が跳ねる。



「私がレイプされかけてから」



 発された答えも、酷く真っ直ぐだった。

 そして秋陽の心臓は、凍ったかのように一瞬、止まった。





続きます!

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