第一話 夢と現
「あなたを大切に思ってくれている人が、絶対にいるんです」
私の両手をぎゅっと握った彼女の手のひらは、とてもあたたかかった。
彼女の榛色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
夕日がその頬を照らして茜色に染め上げていく様は、とても美しくて。
砂浜にざー、ざー、と流れる静かな波の音と、鼻腔をくすぐる潮の匂いを鮮明に感じる。
どこからともなく吹いてきた、人の体温みたいに穏やかな風が、彼女のまっすぐな黒髪を揺らした。
私たちを撫でてくれているような、そんな優しい風だった。
その時流した涙を、私は生涯忘れないだろう。
***
屋上にいる。
どんよりとした曇天の空。
目の前に、眩いほどの真っ白なTシャツを着た、母が立っている。その場所は、塗装が剥がれ落ちてくすんだ緑色のフェンスを隔てた向こう側。
母のぱさぱさした黒髪が風になびき、ゆらゆらと不安げに揺れた。
「おかあさん!」
叫んだはずの声は音にならなかった。かすれたようなひゅーひゅーとした吐息が漏れるばかりだった。
どうして、そんなところにいるの。危ないよ。
母へと伸ばそうとした手は、石になったように重い。進めようとした足は、セメントに固められたようにびくともしない。
もう一度、「おかあさん」と口を動かすのと、母が私のほうを振り返ったのは同時だった。くっきりと骨が強調された頬に、涙が流れた。
「ごめんね」
母はそう呟くと、ずるりと落ちて、建物の向こう側へ消えた。
楓は飛び起きた。
最初に目に飛び込んできた群青色の掛布団が、今まで見ていたのは夢だったのだと告げる。
過呼吸のように荒れた息が止まらず、深呼吸をしようと胸をさすって、吸って吐いてを繰り返すと、暫くして落ち着いた。
手を動かしてみる。難なく動く。蹴ってみる。布のさらりとした感じがした。
ほっとして思わずため息をついた瞬間、ジリリリリとデジタル時計のアラームが鳴った。
びくりと肩が震える。朝の六時だ。
身体をひねって枕もとにある時計のボタンを押す。ぱた。水の粒が真っ白なシーツに落ちていくのを目の端でとらえた。
額に手をやると、大粒の汗でぬるりと濡れた。楓はそこで、自分が大量の汗をかいていることに気付いた。
今日は、四月九日。電子版の黒い数字が無機質に点滅する。楓はそれを見て、重い息を吐いた。
ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。
下着も全部脱ぎ捨て、さっぱりとした清潔な衣服に着替えた。その上に、純白なセーラー服を羽織って、黒のスカートを履く。
焼けて中途半端に色の落ちた髪が乱れていたので、櫛でとかして二つ括りにした。
すべての身支度を終えると、床に無造作に置かれている学生鞄を掴んで部屋を出る。右に曲がってすぐの玄関に行き、石畳に揃えてあるローファ―を履いた。
玄関先でとんとんと整えてから、
「いってきます」
と廊下の奥にあるガラスのドアに呼びかける。返事はない。今は、誰もいない。
楓は、ふうと息を吐くとドアノブを回して外へ出る。ばたんという重工音だけが、寂しく部屋に残った。
鍵をかける。団地の中央に植えてある桜が風に運ばれてきたのだろう、桃色の花びらが真っ青な空に舞う。楓がかつかつとローファーを鳴らすたびに、コンクリートに散った花びらが、地面に密着して色を濃くしていく。
しかし、それもすぐ終わった。楓がすぐ隣の、自分のものと同じ紅色をしたドアの前で立ち止まったからだ。
楓はそのドアをためらいもなく開け、中へ入る。
楓の家と同じ造りの玄関だが、並べてある靴の数が違った。足踏みもできないほど隙間もなくごちゃごちゃと置かれた、種類の違う靴たち。これはすべて、ただ一人の所有物だ。
楓は僅かに開いていた傘置きの傍のスペースで靴を脱ぎ、白い靴下で木のフローリングを踏み、廊下を進む。自分の部屋のちょうど隣に位置する、右側の部屋のドアを何の迷いもなく押し開いた。
その部屋には簡素な机と椅子、クリーム色のクローゼットがある。無駄なものを一切省いたと思えるほど、整頓された様子だった。そして、部屋の三分の一を占めているベッド。そこに敷かれた布団が、こんもりとベッド全体を覆って盛り上がっている。
楓はその山に近寄っていって、手を伸ばし、頭があると思われる場所を布団の上から撫でて、ぎゅっと引っ張った。
「瑠依」
かたまりに声をかける。もぞ、と布団がわずかに身じろいだ。
「…ん」
低い、くぐもった声がして、布団の中から何束かの黒髪が姿を現した。
さらに何秒か経って、輪郭のある頭部がひょっこりと出てきた。髪の隙間から細い瞼がのぞいて、黒い瞳が楓を見つめた。まだ覚醒しきっていないのか、眼がぼんやりとしている。
「……楓?」
かすれた声がやけに色気を含んでいて、楓は思わず身を引いてしまう。
瑠依が、女の子でも羨ましがるような可愛い声を発していたのは、つい最近だった。それなのに、男性ならば誰でも通る道だと言われている声変わりの時期を終えると、随分大人っぽい声色を手に入れてしまった。
それが何故か楓に、違和感と焦りを与えるのだ。
「……なんで。……鍵かかってなかった?」
「玄関は開いてた」
「…………姉貴か」
眠気も重なってだろうか、顔をしかめた瑠依はとても機嫌が悪そうだ。
「もうちょい寝かせて」
再び布団へと潜り込んでしまう。
「昨日遅かったの?」
楓は膝を折ってフローリングの上に体育座りをする。手持無沙汰で、そばにあった目覚まし時計をいじりながら尋ねると、
「夜、姉貴が帰ってきて、つまみ作りに強制連行…」
と、布団の中から今にも眠りにつきそうな、ふにゃふにゃとした答えが返ってきた。
瑠依の姉、紫はNGO団体に所属している。いつもは世界各国を飛び回っていて、めったに家にはいない。そんな彼女が昨日の夜、何の知らせもなく帰郷した。かと思うと、直ぐ様フランスで買ってきた高級葡萄酒を開け、自棄になったようにボトルごと飲み干したのだ。「まずいまずい」と文句を言っている紫の矛先が、唯一家に居た瑠依に向けられ、真夜中を過ぎても台所から解放されることはなかった。
瑠依が暫く布団の中でまどろんでいると、布団の外から、かちと規則的な音がきこえてきた。
ずりっ、と布団を少し下にずらして覗くと、楓が目覚まし時計の表面を指で弾いていた。
時刻の部分ではなく、日付の部分を。
その電子版の表示は四月九日。それは始業式の日であり、
――――楓の母親が自殺を図った日だ。
瑠依は布団の中から腕だけを出し、楓の後頭部を撫でた。頭についていた桜の花びらがひらひらと落ちる。
楓が少し驚いたように瑠依のほうを見て、「起きたの?」と言う。楓の視線が時計から離れたことに、瑠依は安堵していた。
「……学校、さぼるか?」
瑠依が尋ねると、楓は目を丸くした。どうしたの?と驚いたように。
「瑠依、そんなに具合悪いの?」
「俺は眠いだけだけど」
「じゃあ行こうよ」
楓は訳が分からなくなったのか、ぎゅっと目覚まし時計を握りしめ、くしゃりと顔を歪ませた。
不安にさせてしまった。瑠依は失敗した、と思い、その不安げな憂いを吹き飛ばしたくて、楓の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ちょっと、瑠依……!」
楓は崩れた髪に手をやり、怒ったような顔をして、瑠依を睨みつけた。
その顔のほうがいい、と瑠依は微笑みながら思った。
楓の困ったような、寂しい顔は見たくない。
彼女は、もう十分すぎるほどに泣いているのだと、そう思うだけで心苦しくなった。
「仕度する」
そう言って瑠依はベッドから起き上がった。