1.九点鐘
――初めてのロンドンは、ひどい雨模様だった。
ドロッセルは猫を連れて、灰色の髪の男に手を引かれて歩いている。
不意に男が、なんの前触れもなく足を止めた。
ドロッセルもつられて止まり、前を見る。
その視線の先には、赤いレンガ造りの建物があった。
男はじっとそれを見つめると、古い外套のポケットから手紙を取り出した。
「――鐘が九回鳴ったら、この手紙を持って建物の中に入れ。誰かに会ったら、そうしてラングレーから言付けを頼まれたと言え」
そう言って、男はぐいとドロッセルの手に手紙をねじ込んできた。
赤い封蝋で綴じられた封筒だ。
表には、『R・L』と綺麗な飾り文字で書かれている。
「僕はもうお前の前には現われない」
まじまじと封筒を見つめていたドロッセルは、その言葉に思わず顔を上げる。
金の瞳が、冷たく自分を見下ろしていた。
「いいか、お前は出来損ないなんだ。お前は僕の才能を何一つ受け継がなかった。もう人形には関わるな。僕が教えたことも――僕のことも忘れてしまえ」
何も言えなかった。ただただ呆然と、男の目を見上げることしかできなかった。
男は口を閉じ、心底億劫そうに雨空を見上げる。
「……僕とお前は他人だ。それが一番なんだ」
男はゆっくりと踵を返す。
ひるがえる外套の裾にドロッセルは思わず手を伸ばした。
その時、稲妻が空を切り裂いた。
轟く雷鳴と、鳴り始めた鐘の音が男を呼ぶドロッセルの声を掻き消す。
けれども男の声だけは、妙にはっきりと聞こえた。
「二度と僕の前に現われるな。――あとはもう、好きにしろ」