12.プールサイド
「……ああ、二か所は終わった。邪魔も入っていない」
最後の標的まで、再び車を走らせる。
イヤホンマイクを着けて電話を繋いでいる相手は、水野だ。「ようやくつながった」と電話に出なかった御荘に対して腹を立てていたが、短い説明で事情は理解したらしい。
『屋内も屋外も問題無かったみたいだね。で、最後は……』
「スカイプールだよ」
御荘が想定している場所は、とあるホテルの屋上に設置された温水プールだった。
床暖房などを利用して冬でも過ごしやすい環境ながらも開放的な空間で、日中は眺望がすばらしく、夜間は幻想的なライトアップがされることでSNSなどでも評価の高い場所だ。
ホテル利用者以外でも入ることができ、日中からプール併設のバーやカフェを利用できるので、服を着たままでも出入りできる。
「屋上で散布して、五十階したの地上でどの程度影響が出るのか、どこまで影響範囲が広がるのかがこれで確認できるだろう」
『おや。そこのバーとかには興味が無いんだね?』
基本的に飲食店を狙わない“癖”を知っている水野の問いに、御荘は口をへの字に曲げて答えた。
「あんな温いバラライカを出す店に存在価値は無い」
あらあら、と水野がコロコロと笑う。
『災難なバーテンダーも居たものだ。まあ、私はそのプールやホテルに興味は無いし、今は隣県の旅館でのんびりしているから』
「……まあいいか」
ここまで邪魔が入らなかったことで、御荘は自分の電話が盗聴されている可能性を感じていた。そこで水野が自分の居場所をヒントのみとはいえ話してしまったことが気になったのだ。
今さらどうしようも無いし、傍受の可能性を考えていることを相手に伝えるのも違うと考えた。自分と水野のリスクを天秤にかければ、当然自分に傾く。
「とりあえず、俺はこれから仕事にかかる。結果は、ニュースで確認してくれ」
『現地の報告はしてくれないのか』
「馬鹿を言うな。どこまで毒薬広がるかわからないんだぞ。リモコンの限界距離で起爆したら、とっとと車で逃げる」
冗談だ、と水野は笑いながら電話を切った。
「ったく……」
ホテルのカウンターで入場料を支払った御荘は、早々に屋上階へとエレベータで上がる。同時に何組かのカップルがやってきたこともあって、スタッフは御荘の顔をまともに見ていないのは好都合だった。
カップルたちは更衣室へと向かい、御荘はのんびりと歩いてプールの場所へと向かう。
「いらっしゃいませ」
スタッフとすれ違い、声を掛けられて会釈だけ返して、エレベータと更衣室がある室内からプールサイドへと出る。
風が、少し南へ流れているのを感じる。
まだ冬だと言うのに、温水で満たされたプールには多くの客がいた。
泳いでいるというよりは、水の中で戯れていると言った方が早い。屋上ではあるが十分に暖かいのだろう。誰も震えている者はいない。
それでも、ベンチで寝転がって身体を焼いている者は少なく、薄いシートだけを敷いて暖かな床に転がっているのが何人か見える程度だ。
御荘は一通りプール周辺の様子をさりげなく確認すると、カフェの席に腰を下ろした。
足元に鞄を置き、そのままテイクアウト可能な紙カップのコーヒーだけを注文する。
一口すすってみたが、バーも同じだが、高いばかりで大して美味しくないコーヒーだった。
「風はあるが、さて、どのタイミングで……あ?」
起爆のタイミングをはかりながら緑目の男を探していた御荘の視界に、見覚えのある人物が映った。
と、同時に、相手にも気づかれた。
「あの時の警官……?」
「お前は!」
病院で出会った刑事、坂江だと気付いた時には、相手はこちらへ走り出していた。その右手が懐に差し入れられているのを見て、御荘は相手が“本気”だと知る。
「ちっ! なんでここに!」
手にしていたカップを投げつけ、一瞬だけ坂江の足を止めた御荘は、プールサイドを走り出した。
位置関係は最悪で、坂江は丁度プールへと入って来たところらしく、出入り口側がふさがれている。仕方無く反対側へと走る。
滑りやすいプールサイドで足を取られながら走る速度は遅い。
それは坂江も同じことで、御荘の動きに反応して叫び声を上げながら追ってくるが、その速さは大差がない。
「そこの男、止まれ!」
とうとう銃を抜いた坂江に、周囲でざわついていた者たちも慌てて逃げ始めた。プールから急いで出て、水をまき散らしながら走る人々の間を「警察です!」と言いながらすり抜ける。
人が多すぎて撃てなくなったらしいことを幸いに、御荘はプールの近くから少し距離を取り、横になっていて逃げるのが遅れた人々がいる場所へと向かう。
「失礼!」
このあたりの床は乾いているせいか走りやすい。寝転がる人々を飛び越えて、御荘はビルの端にある転落防止スペースから逃げるつもりでいる。
「少しリスクはあるが……」
今の時点で起爆して、プールの客ごと警官を葬ることにする。
自分が被害にあう可能性もあるが、室内に入って地下の駐車場へ停めた車に入れば、毒の影響は最小限に押さえられるはずだ。
懐に忍ばせておいたリモコンスイッチへと手を伸ばす。
「う、なっ!?」
突然だった。
走っていた正面に誰かが立ちはだかったかと思うと、御荘は襟首を掴まれて軽々と持ち上げられてしまったのだ。
決して軽いわけではない彼の身体を、片手で釣り上げる相手の異様さに驚いた御荘だが、相手を確認して驚愕する。
スタッフ用の帽子。つばの下に見えたのは、茶色がかった右目と明らかに違う、緑色の左目だった。
「お前……!」
探していた相手が自分から出て来たことと、最悪のタイミングであることにもうんざりするが、それ以上に、予想外に大男だったことが御荘の動きを遅らせた。
その間に、坂江が追いつく。
「協力、感謝します! ですが、危険ですので……おい、待て!」
銃口を向けたまま呼びかける坂江を放って、御荘は腰の後ろに隠していた銃を抜いた。警察に押収されたものと同じ、小型のコンシールド・キャリーだ。
「警察とグルか!」
「まぁさか」
しわがれた声で間延びした話し方をする緑目の男は、落ち着き払った態度で御荘の手から銃を叩き落した。
そのまま、彼の服の懐に手を突っ込み、リモコンを探り当てる。
「ぐ、あ……」
襟を掴み取っている手が服を巻き込み、御荘の首がミシミシと締め上げられていく。
蹴りを入れて抵抗するが緑目の男は急所を膝で庇うだけで、小動もしない。
「その男を下ろせ! それ以上はこちらも見過ごせないぞ!」
「ふん」
警告を放つ坂江を鼻で笑うと、緑目の男はリモコンのスイッチに指を当てた。
「そんなよぉ、悠長なこと言ってる場合かぁ? 今から隣のビルが単なる瓦礫に変わるっていうのに。やっぱり、自分勝手な政府の犬だなぁ、警察は」
「な……! とにかく、彼を放して、手に持ったそれを置け!」
「へっへへ、大義のためにぃ……」
ニヤリと笑う緑目の男。
息苦しさにもがきながら、御荘は相手の視線が自分から離れた隙を突いて、ポケットに入れていた小型のスタンガンを剥き出しになっている相手の手首に押し当てた。
「ぎぃっ!?」
短い悲鳴と共に解放された御荘は、自分にも回って来た痺れと格闘しながら、銃を手に掴む。しかし、回復は緑目の男が早かった。
「クソがぁ! どいつもこいつも邪魔しやがって!」
尻もちを突いて座り込んだまま怒り狂っている緑目の男。その手には、リモコンがしっかりと握られたままだ。
「止せ!」
「うるせぇ!」
坂江の呼びかけが終わる前に、男はリモコンのスイッチを押す。
と同時に、少し離れた場所から破裂音が響いた。
「……あん?」
呆気にとられた様子だった緑目の男は、みるみるうちに顔を紅潮させて立ち上がり、破裂音がした場所へと走っていった。
「不発? それもあんな場所にあったのか? どういうことだ? どういうことだぁ!」
半狂乱で爆弾の方へと駆けていく様子は、すでに御荘たちのことなど忘れてしまったかのようだ。
破裂音は大して大きくは無い。
プールの客たちはすでに逃げ去ってしまっており、坂江が呼んでおいたのか、ホテル側が呼んだのかは不明だが、サイレンの音が近づいてきている以外は、風の音だけが聞こえる。
「爆弾じゃなかったのか……?」
「個人的には、もっとヤバイもんだ」
独り言に返事が聞こえて、坂江が振り返ったときにはもう御荘は転がるようにプールの中へと飛び込んでいた。
「おい、待て……」
プールサイドを走って追うつもりだった坂江だが、直後に地獄から響いているかのような恐ろしい悲鳴を耳にして、動きを止めた。
「な……」
カフェのテーブルが並んだ辺りは、何故か靄がかかったように霞んでいて、風に流されたそれがプールの外へと流れていく。
その靄の中で、先ほどの男が七転八倒しているのだ。
百九十センチ近くある筋肉質の長身が、長い手足をばたつかせてもがき苦しんでいる。皮膚は赤くただれ、周囲の床は血で染まっていた。
御荘がプールに飛び込んだ理由をすぐに悟ったことが、坂江の命を救う。
遮二無二飛び込んだ彼の視界に、プールの底を這うように泳ぎ進む御荘の後ろ姿が見えた。
後を追い、靄と反対側まで泳ぎ切った坂江が水面から顔を上げると、そこに銃口が待っていた。
「バイオテロ……。お前、今日の立て続けの事件の犯人か。それに……」
「それ以上喋るな。俺が質問側だ。……どうしてここがわかった?」
しばらく銃口と御荘の顔を見ていた坂江だったが、諦めて口を開いた。
「通報があった。このプールに爆発物を扱う危険な男がいる、と」
電話を受けたという藤島から報告を受けた坂江は、応援の手配を頼むと言い残して、一人で真っ先に到着したのだ。
「通報?」
色々とつじつまが合わない。
緑目の男が警察を呼ぶのは自分の行動にとってリスクが大きいはずだ。
「だが、さっきは『隣のビルを爆破』だとか勘違いしていたな」
「そうだな。そして事実は違い、爆破ではなくバイオテロだったわけだ。お前が仕掛けて、彼を罠に嵌めたんじゃないのか?」
ゆっくりと水面から出て来た坂江の手にも、拳銃が握られていた。
「罠と言えば罠だが」
互いに銃口を突き付けたまま、二人はプールの中と外からにらみ合う。
風に流れた毒薬が、重力に押されてゆっくりと階下へ流れ込んでいく。次第にホテルの中や前面の通りから悲鳴があがりはじめた。
「それに、三崎一美の誘拐もお前の仕業だろう」
「なに……?」
聞き覚えのある名前に、御荘の目が険しくなる。
「彼女はお前の協力者か、あるいは何かを目撃したと思っているんだろう? そして始末しようとしたが、私に見つかって一度撤退した」
違うか? と問う坂江の言葉に、御荘は「ふざけるな」と叫んで彼のジャケットを掴んで顔を引き寄せた。
互いの顔が近づき、興奮と緊張で荒い吐息が交じり合う。
「警察がどう考えていようと勝手だが、彼女は俺の仕事とは何ら関係がない」
「それを信用しろと言うのか」
「信じなくても良い。必要なのは俺にとって満足できる結果だけだ」
そして、御荘にとって今の状況は不満しかなかった。
邪魔な警察にわけのわからない行動を取って死んだ緑目の男。そして攫われた三崎。
「話を聞きたかった奴は死んじまった。こういうのは俺のやり方じゃないが、仕方ない」
撃たれる、と予感した坂江の手が動くより先に、御荘の足が銃を蹴り飛ばす。
そしてプールへと投げ落とされた坂江が、空気を求めて顔を上げた時には、毒薬の靄は風に流されて消え、御荘の姿も見えなかった。
残されたのは、びしょ濡れの坂江と、見るも無残な姿で息絶えた緑目の男の死体だけ。
「どうなっているんだ……」
何が起きたのか、当事者の自分でもうまく説明がつかず、坂江は上司に説明する言葉を探しながら、よろよろと水の中から這い上がった。