テトラトルテの待宵祭の旅(前篇)
サクラはリッシェル邸に住んでいた時期がある。
それは彼女の記憶と柱に残る傷から、間違いないだろう。
だから俺は、自分の世界に帰ってから、婆ちゃんに訊ねてみた。
婆ちゃんは、異世界での爺ちゃんをよく知っているからだ。
「そう、キツネちゃんに会ったのね……」
婆ちゃんは、確かにそう言った。
やっぱり、サクラのことを知っていたんだ。
「あの子が生まれた日のこと、よく覚えてるわ」
「えっ、婆ちゃん知ってるの?」
「ふふっ……だって、私が取り上げたのだもの」
懐かしげに遠い瞳で、にっこりと微笑んだ。
サクラが生まれたその日――産婆として付いていたのだという。
「瑛吉さんと私、サクラちゃんとお母さん……楽しかったわ」
それから婆ちゃんは、サクラのことを話してくれた。
サクラのこと、サクラの母のこと。そして、ふたりの暮らし。
そんな昔話を幾つか聞いた後、俺は詳細を知りたくなった。
「どうしてそうなったのか、もっと教えてくれない?」
「今はまだ……そうね」
婆ちゃんが、言葉を濁した。
「えーちゃんがもうちょっとだけ、異世界を知ったらお話しするわ」
「そっか」
「でもね、それは約束よ」
「約束か……うん、わかった」
こういう時、婆ちゃんは絶対に約束を破らない。
そして今は、決して語ろうとはしないだろう。
だから俺は、ただ頷くしかできなかった。
爺ちゃんはたくさんの命を救ってきた勇者だった。
とはいえ、全ての命を救えたわけではない。
だから、きっと分かっていたんだろう。
異世界に生きる人々の、日々淡々と営まれる生活の中で。
翻弄され、流されそうになりながら、必死に生きてゆく。
ちっぽけな人々の、ささやかな市井の幸せを。
その中で、きっと見たのだ。そして、感じたのだ。
婆ちゃんの話から、俺はしっかりと受け取った。
ほとばしる想いが、切々たる願いが、サクラの母にはあった。
それはもう間違いのないことだと、俺は知った。
◆
次に異世界を訪れた、土曜日の麗らかな朝のことだ。
「あっ、ごきげんようご主人さまーっ!」
「ご、ご主人様?!」
少女の澄みきった明るい声がリッシェル邸前の庭園に響き渡る。
思わぬ呼ばれ方をした瑛斗といえば、つい素っ頓狂な声を上げてしまった。リッシェル邸の迷いの森を抜けて屋敷前へと出た瞬間、ライカが手を振ってそう叫んだのだ。
腕まくりをした彼女の足元には、籐で編まれた大きな洗濯籠。人狼の少女ふたり、きっと洗濯物を乾かすために庭へ出ていたのだろう。カルラは洗いたてのベッドシーツを広げ、ライカのすぐ隣に立っていた。背の低い彼女はシーツを地面に付けぬよう、必死になって背伸びの真っ最中であった。
「えっ? えっ? ごしゅじん!? どこどこ??」
などと奇声を上げているが、彼女が掲げたシーツの向こう側である。彼女がようやくシーツを洗濯紐へ引っ掛けた時、瑛斗はもう目の前まで来ていた。
「あっ、ごしゅじん! ごきげんよう!」
「な、なんだよ二人して……その呼び方は」
ご主人様――自分がそう呼ばれても瑛斗はピンとこない。想像するに、古い洋館で立派な鬚を蓄えてパイプを銜えた、貫録あるおじさんのイメージが浮かぶばかりだ。
「だって、私たちの雇い主でしょ?」
「だから、私たちのご主人様なのです」
そう言って声を揃える笑顔の二人に、瑛斗は困り顔になる他ない。
確かにそうと違いないが――どうしたものかと途方に暮れて、最近短く刈り込んだ髪を所在なげに掻き上げていると、屋敷の上階から思わぬ声が掛かった。
「まぁ、それもいいじゃない」
「ア、アデリィ……」
見上げるとそこには、呑気にお茶を啜るハイエルフがいた。
二階のテラスは欄干に腰掛けて、お行儀悪く足をプラプラさせている。どうやらひなたぼっこがてら朝食後のお茶を嗜みつつ、瑛斗の訪問を待ち構えていたらしい。
「実際、アンタがご主人様なんだし」
「こ、困るよ……」
「なにがよ。そういうけじめだって大事よ?」
困惑した声で訴える瑛斗の陳情を、事も無げに一蹴する。
「彼女たちだって、いずれ他のお屋敷へ奉公に出るかも知れないし」
「そりゃそうかも知れないけどさ」
確かに、その時リッシェル邸と同じ対応しかできず困るのは彼女たちだ。もしこれからもメイドを本業として続けていくのならば、修行の一環としてメイド仕事の慣習に馴染んでおくのも良い、とはアーデライードの弁である。
「ううん、それなら仕方ない……のか?」
だが彼女の場合は面白そうだと思った方を、あれこれ強引に屁理屈を付けて、押し切ろうとしている可能性も否めない。そう気付いた瑛斗が逡巡していると、
「そうよ! 仕方ないのよ!」
「あのっ……仕方ないのです」
カルラが嬉々として賛同の口火を切ると、ライカもそれに続いた。
彼女たちはここ一週間のメイド業がすっかり気に入ったのだろう。自ら進んで瑛斗をご主人様呼ばわりしたくて、ずっとうずうずして待ち構えていたのだ。普段は大人しいライカもカルラと同様で、珍しく声が高潮しているのはその所為か。
「ううーん……じゃあ宜しくな、二人とも」
嬉しそうにはしゃぐ純真無垢な人狼少女らの姿を見せられては、瑛斗とて無碍に断るわけにはいかない。年貢の納め時とばかりに観念して、その提案を受け入れることにした。
「はいっ、よろしくですっ、ご主人さまっ」
「ね、ごしゅじん!」
ライカとカルラは嬉しそうに、それぞれが瑛斗の両の腕にまとわり付いた。獣人化していたら、きっと尻尾を振っているのではないか、というほどの喜びようだ。
可愛いメイドたちがこれだけ喜んでいるのだ。ならばそれもまたよしか――と瑛斗が思っていると、ハイエルフの背後に立つダークエルフの少女が、物凄いジト目でこっちを見ていた。この瞳を、瑛斗は知っている。あれはチベットスナギツネと同じ瞳である。
「エート、でれでれ……」
「そ、そんなことないよ」
そう否定しつつも、うっかり鼻の下が伸びてはいないだろうか。駄目な父親を見るような目でレイシャに指摘され、つい気になって鼻の下を手で隠してしまう瑛斗である。
ちなみに――いつもはムッとするハイエルフが、何故か余裕の笑みを見せている。これは年齢差による余裕であった。人狼の少女たち如き、彼女の敵ではないのだ。
それよりも無邪気な少女たちをけしかけることにより、いつも不敵な余裕を見せるダークエルフの小娘をイラつかせることにトラトラトラ。ワレ、奇襲ニ成功セリ、ワレ、奇襲ニ成功セリ。敵の敵は、我が味方。そう言わんばかりのニンマリ顔である。
このハイエルフ、実に大人げない戦略を容赦なく採用する無駄に策士であった。
「と、ところで……サクラはどうしたんだ?」
思いもしないところで板挟みになって困り果てた瑛斗は、話題転換を図るため此処にいない者の名前を出す。
「サクラ姉さまは、お迎えです」
「お迎え?」
「あっ、ちょうど戻ってきたわ!」
カルラが指差す先へ目をやると、一台の馬車が森を抜けて庭へと差し掛かるところだった。幌に描かれたマークは、瑛斗もよく見知っている『銀の皿騎士団』の紋章である。
馬車の轡を引くはサクラ。馭者台にはドラッセルとソフィアの姿があった。
「うおーい、エイトォーッ!」
「ご機嫌麗しゅう、アデル様ーっ!」
にこやかに手を振る騎士の二人へ、瑛斗も応えて手を振り返す。
二人とも珍しく板金鎧を身に付けてはおらず、代わりに簡易的な革鎧を身に付けていた。
「甲冑を着てないなんて、なんだか新鮮だね」
「まぁな、今日は勤務外だからな」
「それでも革鎧は身に付けるんだ」
「いやぁー、どうにも落ち着かなくってなぁ!」
「あははっ……職業病よね、これって」
苦笑いしたソフィアが「つい休日までこんな恰好しちゃう」と口を尖らせて呟く。
「ドレスの着方なんて、もう忘れちゃいそう……」
「ワッハハ、ソフィアのドレス姿なんて想像つかねぇなぁ!」
「そうかな、きっと綺麗だと思うけどな」
悪態をついたドラッセルと、素直な感想を口にした瑛斗。こうしてソフィアの中で、態度と扱いの階級制度に差がついていくことを、二人はまだ知らない。
「それでドラッセル、今日は何の用事で来たんだ?」
「あれ? アデル殿から何も聞いていないのか?」
不思議そうな表情のドラッセルと互いに首を傾げていると、アーデライードが何も言わずにさっさと階下へ降りてきた。
「さ、私たちはすっかり準備できているわよ!」
その声に瑛斗が振り向くと、旅支度を整えた二人のエルフが玄関先に立っていた。
アーデライードは細身剣とポシェットを身に付けた、いつもの身軽な旅姿。レイシャは背中の魔法杖は元より、鉱山街・ラフタで購入した白い猫耳帽をかぶっている。すっかり旅装に身を包み、どうだと言わんばかりの顔である。
「あのさ……もしかして俺、何か聞いてたっけ?」
「ううん、何も聞いてないはずよ。だって言ってないもん」
ハイエルフは澄まし顔で、事も無げにあっさりと言い返す。
隣のダークエルフは無表情ながら「あーでれ、またやった」という顔色が濃い。
「旅の計画はね、当日まで黙っておくのが楽しいのよ!」
などとしたり顔で嘯くが、それはきっとアーデライードだけだろう。
「それで、今日は何処へ行くんだ?」
「んふー、テトラトルテよ!」
「あっ、そうか。テトラトルテの夏祭りか!」
思い出した瑛斗がぱちんと指を鳴らすと、アーデライードが「御名答」と微笑んだ。
「ひでぇなぁ、エイト……オレ達が頑張ってたのを忘れたのかぁ?」
「い、いや、そんなことはないんだけどさ」
ドラッセルがわざとらしく、悔しそうな声で瑛斗を冷やかす。口では否定した瑛斗だったが、サクラの件が頭に色濃く残っていたので、うっかり失念してしまっていた。
彼ら「銀の皿騎士団」の若手たちが、人手の足りない中でどうにか必死にやりくりして、観客の導線確保と警備計画を練りに練り上げたテトラトルテの夏祭り当日が、確かに今日のこの日であった。
「それじゃちょっと準備してくるよ」
異世界へ訪れたばかりの瑛斗だ。まずは旅装を整えねばならない。わざわざ迎えに来てくれた友人を待たせぬよう、小走りで屋敷の自室へと向かう。
そんな瑛斗を横目にしつつ、アーデライードは人狼の少女たちへ声を掛けた。
「ほら、アンタたちもとっとと準備してきなさいな」
皆の様子をぼんやりと見守っていた人狼たちは、ぽかんとした顔を互いに見合わせる。
「へっ……私たち……?」
「あの、私たちが、えっと?」
どうやら何を指示されたのか理解できずに、二人は困惑しているようだ。
「メイド服姿で夏祭りへ行くつもりなの?」
「えっ?」
メイドである自分たちが留守番をするものだ――と、ライカたちはてっきり決め込んでいた。だからアーデライードの言葉が、直ぐに理解できなかったのだ。
「あの、その、留守番では……」
「そんなはずないでしょ。当然、一緒に遊びに行くわよ!」
何しろこの屋敷は留守番の必要がない。六英雄たちの手によって、世界有数の万全なセキュリティが成されているといっていい。たとえ万が一に雨が降ったとしても、アーデライードが命じておけば、古屋敷の精霊・ブラウニーたちによって、洗濯物だって仕舞われてしまうだろう――その仕事ぶりは彼女と同様に、とても気まぐれではあるが。
「えっ、あの……でも……」
「お金の心配ならしなくてもいいよ。イリスから貰った金貨があるし」
屋敷へ入る直前で足を止め、様子を伺っていた瑛斗が的外れなフォローを入れると、アーデライードがやれやれという顔をした。何しろ現代人である彼は、異世界に於ける主従関係の厳格さを今ひとつ理解できていなかったからだ。
ライカとカルラが驚いていたのは、主人である瑛斗らと肩を並べて遊びに行けるなどと露程思っていなかった。それ故にすっかり仰天してしまっていたのに。
ただ異世界に於ける主従の感覚は、アーデライードとて麻痺している部分は多い。何しろ身分差で分け隔てることのなかったゴトーと、一緒に居た時間が長すぎたから。
「さ、とっとと準備しよう。二人とも早く……えっ?」
瑛斗がそう声を掛けると、人狼の少女たちはくちゃっと顔を歪ませた。思いも寄らぬ出来事に、二人とも嬉しすぎてつい泣き出してしまったのだ。
「ご、ごしゅじん、ありがとう……」
「えうぅ、いいご主人さまですぅ……」
「え、あの、ちょ、ちょっと!」
涙ぐむ人狼少女たちに、瑛斗はあたふたと慌てるしかできない。そんな時ちょうど馬車の準備を終えて戻ってきたサクラが、妹分たちに優しく声を掛けた。
「だってさ。二人とも良かったね」
そういって年長者らしく、いつものようにポンポンと頭を撫でる。そんな物知り顔な態度のサクラに気付いたライカが、調子はずれな声を上げた。
「あれっ? サクラ姉さま、知ってたんです?」
「あーっ! ひっどーい!」
「な、内緒だって、あたしも姐さんから言われてたんだよ」
賑やかな獣人たちを遠巻きに、知らん顔をしつつ様子をチラ見ていたアーデライードがにやりと笑う。こういうサプライズが何よりも大好きな、お騒がせハイエルフである。
「さ、準備しようぜ」
「ああ……本当にうれしいですっ!」
「ごしゅじんーっ!!」
人狼たちは歓喜の声を上げると、瑛斗へ向かって思いっ切り抱き着いた。
それぞれが瑛斗を挟んで勢いよく飛びかかったせいで、その身体を中心としたメリーゴーラウンドのようにくるくると回る。そうして二人はぶら下がったまま叫んだ。
「私たち、いいごしゅじんに拾われたわ!」
「もっともーっと、お仕事頑張りますね!」
人狼の少女たちは満足するまでそうすると、メイド服から普段着に着替える為、慌ただしく屋敷の中へと駆け込んでいった。
「騒がしくてすまないね、エイト」
「いや、これくらい元気な方がいいよ」
困り顔のサクラに、瑛斗は目を回しながら笑顔で微笑んだ。
その一部始終を見守った二人のエルフは、何故か得意顔である。
ふふんと鼻を鳴らしたハイエルフは、偉そうに「周囲の人間関係が、人の上へ立つ勇者としての素質と人格を形成するのよ」などとしたり顔で語り、ダークエルフはいつものように「レイシャのエート、やさしい」と小さな胸を張るのである。
どちらのエルフにも共通するのは「瑛斗が褒められているのを見るのがとっても嬉しい」という、胸の奥に秘めたるきらきらと輝いた気持ちだった。




