休息、そして空中進軍
不気味なほどに静かな夜と昼の間の時間を経て、周囲の状況がしっかり確認できる程度の陽が木々の間から差し込んできた頃、リードが目を覚ました。
むっくりと起き上がると、ノイズがそうしたように辺りを見回し、それから僕たちに気がついた。
「おはよう、リード。調子は?」
不思議な顔で僕たちを見ていたリードに声をかける。
彼は自分の怪我の具合を確かめて、それから軽く両手を挙げて『何ともない』というポーズをとって見せた。
リードの怪我は、両腕と左の脇腹、そして足。あの全力疾走のあとで僕が診たところでは、出血はあるものの大半は乾いていて、左腕を除けばちょっと深いかすり傷、という程度だった。それでも、僕とクリストを抱えての全力疾走は、かなり堪えたに違いないんだけど、彼は相変わらずというか何というか、さほど気にしてはいないようだった。
「ずいぶん寝ちまってたみたいだな」
リードは不器用に巻いた自分の包帯をいじりながら、独り言のように呟いた。実に半日以上は眠っていたのではないだろうか。
「うん……もうかなり陽は高いみたいだね……」
「お前もしかして、ずっと起きてたのか?」
驚いたような顔で僕を覗き込んで、リードが言った。僕の声は相当疲れていたのだろう。彼の表情がそう言っている。
実際、僕は一睡もしていなかった。ノイズが起き出してきて僕と話した後、彼女は木と僕との両方にもたれるようにしてまた眠ってしまったのだ。リードが起きたら見張りを交代してもらうつもりだったんだけど、彼が起きてきたのは今。クリストは、相変わらず静かに眠ったままだ。
「よっと……」
リードが、木と僕とに寄りかかっていたノイズを軽々と抱き上げ、クリストの隣に寝かせる。ようやく自由になった僕はその場に立ち上がり、大きく伸びをした。ついでに大きな欠伸もでてきた。
「リード、体力は回復したの?」
「ずっと寝てたお陰で、完全に回復してるぜ? いつでもまた全力疾走できるさ」
いつもと変わらぬ軽い口調で、悪戯っぽく笑ってみせる。怪我も僕が思ったより軽かったようだ。やせ我慢、という可能性もあるけど、こんな軽口をたたけるうちは、彼は大丈夫だ。
「んなことよりお前のほうはどうなんだよ?」
心配そうな顔で、今度はリードが僕に聞く。
「…………眠い。」
「そりゃそうだろ」
「ちょっとは回復してるよ」
言うと僕は、地面に転がしたままだった錫杖を取り上げ、リードに向かって突きつける。ちょっと驚いたリードだったけど、僕が唱えた呪文の響きを理解してか、そのままそこに立っている。
僕やクリストが扱う魔法には、魔法そのものを発動させるための呪文と、発動までの魔力を構成するための呪文があり、それらを組み合わせて術を成り立たせる。呪文の意味は魔法を使う者ならば簡単に理解できるが、そうじゃない人間には意味不明な言葉の羅列。
リードは、呪文の意味こそ理解できないけど、僕の声のトーンやその響き方から、攻撃か防御か、あるいは回復なのかを判断しているのだろう。
錫杖の先がほんのりと光る。その光はやがて錫杖を向けられたリードの全身に伝わり、リード自身が光を帯びているように見える。
その直後、術が完成した。
「おお……」
リードが小さく感嘆の声を上げる。すでに治りかけているリードの傷のすべてが、その光を吸収して組織を再生し始め、さほど時間をかけずに彼の傷は完治した。これでリードは文字通り、完全回復だ。
「それじゃ、僕寝るから……適当に起こして……」
僕はそのままふらふらと彼の横をすり抜けて、ノイズの隣、リードが寝ていた場所に向かって歩き出そうとした。
「待った!」
「何っ?」
傷があった場所をしきりに眺めていた彼が、いきなり『待った』をかけたので、思わず身構えて振り返る。
「…………何?」
もう一度聞く。辺りに異変はない。
「腹減った。」
緊張が一気に解けて、僕はその場に突っ伏すところだった。何とか踏みとどまったが、お陰で超ド級の疲労感が僕を襲った。その疲労感に立ち向かいながら、自分の荷物を広げる。
荷物の中には携帯食料が少しと、昨日作った燻製が残っていた。
「はいこれ。とりあえずそれ食べて、あとノイズが起きるの待ってから狩りにでも行かなきゃね。それまでこれで我慢しててよ」
「おう、サンキュ」
僕は残っていた携帯食料や保存食のほとんどを彼に渡し、今まで彼が寝ていた場所に転がった。転がったとたんに、僕の意識は夢の彼方へと飛んでいった。
リードが完全に回復して、少しだけどお腹も満たされてほぼ万全の状態に戻ったことが、こんなに嬉しかったなんてことはないってくらいに、僕は安心してしまった。
地面がひんやりとしていて硬く、決して寝心地が良いとは言えないけれど、僕にとっては快適な大地のベッドだった。装備もすべてそのままで、僕は泥のように眠り込んだ。……もしかしたら、大きないびきでもかいていたかもしれない……。
どのくらい眠っていたのか、目を覚ました頃にはオレンジ色の光が木々の横合いから差し込んできていた。
香ばしい匂いに目をやると、僕から少し離れた場所で、リードが狩ってきたらしい小動物がバーベキューになっていた。バーベキューといっても野菜はなく、代わりに小麦粉を練って作ったパンが、こんがりと焼けている。
よく見ると、作業をしているのは三人。どうやらクリストも目が覚めたようだ。
「あ、目が覚めました? ルシア」
「クリスト。大丈夫なの?」
僕に一番最初に気付いたのはクリストだった。気遣わしげに僕を見ながら声をかけてくる。僕よりクリストのほうが重症だと思っていたんだけど……。
「ええ、ルシアのお陰ですよ。声も出るようになりましたから、回復魔法もバッチリ」
軽く握り拳を作ってみせる。大量の血が黒く乾いて、クリストの白い法衣にこびりついているのが痛々しいけど、傷は完全に回復しているようだ。
よく見るとノイズの怪我も消えている。みんな同じように、流れた血液が着ている物に染み込んで、一見するとのように見えるが、大事なのはその服たちだけのようだ。みんな生き生きとバーベキュー作りに没頭している。
まだ少し寝ぼけた感じが残っていて足元もふらついたけど、大きく伸びをして少し体を動かすと、眠気が覚めてきた。それよりも、空っぽの胃袋が騒ぎ出してきてしまった。
「みんな回復したみたいだね」
「ええ、大丈夫よ。あんたも頑張ったじゃない、お疲れ様」
言って軽くウインク一つ。
「俺たちがこれだけ眠れたのもお前のお陰だからな、まずは一本」
リードが焼きたての串を一本差し出しながら、僕に言う。
「えへへ……ありがとう」
少し照れてみんなを見回す。……ただし、受け取った串は離さずに。そして、みんながそれぞれに串を手にしたところで、いっせいに焼きたての肉にかじりついた。
リードが作った小麦粉の簡易パンはちょっと固かったけど、みんな相当空腹だったらしく、無言で目の前にできた料理を平らげてしまった。時々、飲み水を出すための僕の呪文詠唱の声が響く。
リードが狩りに出かけて捕らえた獲物は、小型の草食動物でピッケルという名前のものが一匹。体の特徴はネズミのそれに近いけど、よく屋根裏とか物置小屋とかに出没するようなネズミと比べるとかなり大柄だ。それに野ウサギが二羽と、丸々と肥えた野鳥(確か名前はドリーといったはずだけど)が一羽。かなりの収穫である。
リード曰く、この辺り、結界の外に出るとこういった動物が多く生存しているらしい。
これでしばらくは食料の心配をしなくてすむ。
簡単だけどみんなが満足し、とりあえず一息つこうと輪になって地べたに座り込んだ。
「さて、ここからどうする?」
リードがこれからのことについて話し出した。
闇雲に走って、ここがどこなのか検討もつかない。唯一目印のようなものは、周囲の木々と比べて一際大きな、樹齢何百年も経っているのではないかと思われるほどの巨木。その周辺は、その木のお陰で大きな木が生長しないのだろう。所々にまばらな雑草が生えている程度で、茶色い地面がむき出しになっていた。
「うーん……まずはここがどこだか分からないことには始まらないわね……」
ノイズの声にはいつもより少しだけ元気がなかった。食事を終えてから、こっそりと昨日のことを話してみたんだけど、どうやら彼女は半分寝ぼけていたようで、ほとんど覚えていないらしい。だけどその話を事細かに説明してみると、彼女は真っ赤になって逆に僕を脅しにかかった。
(いい? 特にリードには内緒よ。もししゃべったりしたら…………分かってるわね?)
(わ、分かってるってば、僕とノイズだけの秘密ってことね)
(ああもう……恥ずかしいったらないわ……)
と、頭を抱えてうずくまった。彼女にとっては最大の弱みを見せてしまったのだから、それも無理のない話である。
「あの」
「ん?」
口を開いたのはクリストだ。
「さっきわたしが地図で確認したんですけど、ここって、この地図でいうとこの辺りなんじゃないですか?」
少し遠慮がちにクリストが地図のある一点を指差した。
その地図は、前にも見たようにかなり入り組んでいたが、その中に一際大きな木が記されていた。地図の比率から見て、まず間違いないだろう。これまで鬱蒼と茂る同じような背丈の樹木に覆われた獣道を辿ってきたんだけど、それとは明らかに違う、大きな木の印がついていた。僕たちが寄りかかっていた木が、それなのだろう。
「どれ?」
みんなでクリストの持っていた地図を覗き込む。確かに、大きな目立つ印がついている。コンパスと照合してみても、まずここがその地図に描かれている場所にほぼ間違いない。
「現在地は分かった。で? ここからどっちに向かえばいいんだ?」
リードが話の先を促す。
「それが……実はこの先、道がないんですよ……」
と、クリスト。地図には大きな目印があるだけで、その周辺は何も書かれていない。昨日ノイズが言ったように、どうやら未知のワープゾーンに入り込んでしまったようだ。
「でもさ、ここからだと、目的の塔まであと少しだよ」
地図と睨めっこしながら僕が気楽に言う。歩いていけばあと一日と少しでたどり着ける程度の距離だ。……もちろん、直線上を歩けるとしたらの話だけど。
「しかしな、ここが未知のワープゾーンだったとしたら、まっすぐ塔に行けるかどうか、かなり怪しいんじゃないか?」
リードにしては珍しい慎重論。確かに、地図がほとんど役に立たなくなったこの状況で、また新たなワープゾーンに出くわして、まったく反対の方向に進んでしまう可能性も否定できない。
と。そこで僕は開発中の術があることを思い出した。
「僕に一つ提案があるんだけど」
「どうした、ルシア?」
「うん、僕が最近研究してる魔法の中に、浮遊の術があるんだけど……」
言いかけたその途中で、リードが勢い込んで話に乗ってきた。
「なんだお前、そんな魔法があったんなら先に言えよな」
「ごめんごめん……でも研究中って言ったでしょ? 僕だけならわりと簡単に発動できるんだけど、四人分となると……ちょっと自信ないかも」
正直なことを話す。だがリードは、僕の案に大賛成のようだ。
「ゆっくりでも低空飛行でもいいさ。それに、ちょっと高度を上げて目的の塔までの方向を知る、っていう方法がとれれば、これから先かなり楽になるんじゃねーか?」
「そうね、ルシアにはまた負担かけちゃうけど……それが得策だと思うわ」
ノイズも賛成のようだ。あとはクリストなんだけど……。
「わたしも賛成ですよ。まずは塔の位置を確認することが先決ですね。……あと、空にもワープゾーンがあるかもしれないですから、それなりの注意は必要だと思いますが」
クリストの意見も賛成だった。他にも注意すべきことをしっかりと補足してくれている。
「それじゃ、今夜はもう休んで、明日の朝一番でまずルシアに塔への道を確認してもらうってことでどうだ?」
「OK、それでいいわ。頑張ってね、ルシア」
(昨日は泣き損だったみたいだね?)
バンバンと僕の両肩を気楽そうに叩くノイズに、こっそりと耳打ちする。
(その話はしないでっ!)
小声で僕に釘をさすことも忘れない。相当恥ずかしかったのだろう。特にリードには知られたくないらしい。当然といえば当然か。
「それじゃ、ちょっと早いけど休もう。明日は早いぞ」
今夜はみんな万全の体調。夜間の見張りは必要だけど、四人そろえばそれなりに休むことができる。見張りの順番は、リード、僕、ノイズ、そしてクリストの順だ。
見張りの順番はいつもと変わらない。リードはすぐに船を漕ぎ出すし、僕は翌日に向けての体力・魔力温存のために前半組なのだ。
見張りの順番を確認した後、三人はそれぞれ自分の寝床に転がった。寝床、といっても固い地面の上に薄い毛布やマントを敷いただけのものだったけど、僕たちが冒険を始めて間もない頃はそれよりもひどい状況だったので、これでもかなり良いほうだ。
やがてリードを除く三人の静かな寝息が聞こえ始めた。時折、剣を手入れするリードの道具が触れ合う音と、ノイズのワケの分からない寝言が聞こえる。その他は、相変わらず気味の悪い夜鳥の声と虫の声、木々のざわめきが聞こえてくる程度で、静かな夜は更けていった。
翌朝。まだ太陽が昇りきらない早朝、朝もやが辺りを包み、湿気た空気が淀んでいる。僕たちは起き出してからすぐに朝食の支度を始めた。獲物は昨日リードが狩ってきたものがあるので不自由しない。景気付けとばかりにちょっと豪華に、そしてスタミナたっぷりのレシピを用意した。もちろん、残った食材は僕がしっかりと保存食用に燻製にしてある。
「ルシア、準備はいいか?」
食事のあと、リードが僕に向かって言う。僕はというと、すでに錫杖を構え、いつでも呪文の詠唱に入ることができる。
「OKだよ。とりあえず、飛んでいって塔の場所を確認してくればいいんでしょ?」
「ああ、頼むな」
「まかせといてよ」
僕は地図とコンパスをそれぞれ持って、呪文の詠唱を始めた。魔法をかけるのは僕自身ではなく、いつも持っているあの錫杖。『風』の系列の魔法で、風の結界を利用して、空中浮遊をする魔法。本来は自分自身に対して使う術なんだけど、今度は錫杖にそれをかけて、僕はその錫杖に腰掛けるように座る。
魔法を発動させると同時に、錫杖は僕を乗せたまままっすぐに浮上していく。
「おお、すげえ……」
心底感心したようなリードの声が、僕の足元から聞こえてきた。
時々横に張り出した枝にぶつかりそうになったけど、斜めになったり縦になったりしながら何とかよけて、浮上を続け、間もなく森全体が見渡せる程度の高さに到達した。
ここで地図とコンパスを落とさないように注意しながら、眼下に広がる広大な森を見渡す。あるかないかの獣道やリードたちの姿も、木々に遮られてまったく見えない。
「あれだ!」
ここからそれほど遠くない位置に、ぽつんと外界から切り離されたように、古ぼけた塔が立っているのが見えた。コンパスが指し示しているのは北。
この距離ならば、四人を抱えたままでも飛んでいけるかもしれない。
上空の様子を窺ってみたけど、不気味な鳥が僕の近く、すれすれの位置を通り過ぎるだけ。一瞬だけ見えた凶悪な顔つき。だが、顔つきに似合わず攻撃の意志はないらしい。その他には生物やモンスターらしき気配は感じられない。
僕は、持っていたメモ帳に細かくこのときに見た光景を書き込んでから、ゆっくりと下降し、リードたちが待っている場所へと降り立った。
「どうだった?」
僕が地上に降り立った途端、開口一番にこの台詞を吐いたのはリードだった。
「うん、一応メモしておいたけど、塔まではそれほど遠くないみたい。空から見た感じだと……って、聞いてる?」
僕が手渡したメモをみんなで交互にじっくりと読みふけっているようだ。
「あ、ああ、すいません……ついメモに夢中で……。ルシアって結構几帳面なんですね。分かりやすいですよ」
クリストはこう言ってくれたんだけど、彼を含めて三人が三人ともメモから目を離そうとしなかった。メモには簡単ではあるけど地図と呼べるようなものも書き添えてある。
「これってさあ、ルシア」
「何?」
「このままあんたの魔法で四人とも飛んで行けるってことになるのかしら?」
メモから目を離し、聞いてきたのはノイズだ。
「多分ね。断言はできないけど、さっき飛んだときはモンスターの気配もなかったし、ゆっくりだけど行けると思うよ? ただ」
「ただ?」
「万が一の話だけど、上空でモンスターに襲われる可能性も否定できないよ。だから、空中で戦闘できるように何とか工夫できれば安心なんだけど」
さっきのフライトでは何も危険はなさそうだったけど、襲ってくるなら当然空中戦に強い連中だろう。浮遊の術が未完成でもあるし、考えてみれば、四人での飛行はかなりのリスクがある。
「それなら、こういうのはどうですか?」
話に入ってきたのはクリストだった。メモを見ながらも僕たちの話をしっかりと聞いていたらしい。
「どういうの?」
「わたしも浮遊の術を研究したことがありまして……まあそれは成功しなかったんですが、ルシアの術を強化することはできます。風の結界を強めれば、何とかなると思いますが」
ちょっと遠慮がちに話すクリストだったが、かなり心強い提案だった。ちなみに、魔法の話に疎いノイズは、僕たちが魔法作戦会議を即席で始めてしまったので、そそくさとリードのところに戻っていった。
「なるほどね……そんなことできるんだ」
「ええ。さっきの呪文構成からみて、わたしがそれを強化してやれば、飛行中でも攻撃魔法はできると思いますよ? ルシアって、錫杖なくても魔法って使えましたよね」
「うーん……使えるといえば使えるけど……かなり威力は弱いし、長続きしないんだよね」
と、ここで話が行き詰まってしまった。二人して腕なぞ組みながら、しばし考え込む。考えているうちに、僕の脳裏にある考えがひらめいた。
「ねえ」
「はい?」
「クリストのその強化の術ってさ、風の結界を強化することはできないの?」
「風の結界を、ですか? もちろんできますけど……」
「それじゃあさ…………」
「…………なるほど。それなら何とか行けそうですね」
僕たちはお互いの役割を確認してから、リードとノイズにもこの作戦を提案した。二人とも空を飛べるとあって、上機嫌で賛成だった。
僕はまだ張っていた簡易結界を解く。
「それじゃ、いきますよ」
「OK」
僕が答えると、クリストは魔法強化の呪文を唱えだした。同時に、僕も呪文詠唱に入る。
僕が唱えているのは『風』系列の魔法で、一般に風の結界と呼んでいるものだ。四人は一か所に集まり、僕はいつもの錫杖を構えている。
先に僕の術が完成した。魔法を発動させると同時に、四人の周りに風の結界が生まれ、僕たちを包み込むように風が優しく渦巻く。風の流れは一見優しいが、外側からこれに触れると、かまいたちのようにその身体を切り裂く、というかなり凶悪なシロモノだ。
風の結界が僕たちを包んだ直後、クリストの魔法も完成し、結界が一回りほど大きくなり、ふわりと僕たちの足が大地から離れた。
クリストの魔法に合わせるかたちで、僕がさらに魔法を重ねがけしたのだ。今度は、浮遊の術を結界そのものにかける。その効力で僕たちはゆっくりと上昇していった。
今の状態を保っていれば、僕は錫杖を使って攻撃を仕掛けることができるし、クリストも防御結界でパーティを守ることができる。
リードもノイズも攻撃のほうに参加したかったようだけど、なにせ僕たちがいるのは結界の中。この結界の場合、無理に外に出ようとするとかまいたちの餌食になってしまうので、なんとか説得して、今回は戦闘から外れてもらった。
今使っている魔法は、クリストの助けもあってそれほど集中力を必要としない。だから僕の攻撃呪文はほぼいつもどおりに可能だ。
四人を包み込んだ風の結界は、ゆっくりと、目的地である北の塔に向かって上昇、前進を始めた。
「きゃあああ……飛んでる飛んでるっ! すごいっ!」
「うおおおっ、すげえ! 森がどんどん小さくなってるしっ」
どんどん高度を上げていく結界の中で、大騒ぎしているのは言わずと知れた格闘組。結界の中で口々に叫んでるもんだから、その壁に反響してうるさいことこの上ない。
僕たちが今いる結界。それは底の平らな丸いガラスケースのようなものだと想像すると分かりやすいかもしれない。結界の外はかまいたちのような風の刃が渦巻いて触れられないけど、中からは結界に触れることができる。その壁に引っ付いて、二人は騒いでいた。……まあ、これまで浮遊などという体験をしたことがないのだから、当然と言える反応なんだけど、僕とクリストはこの結界を支えるために多少集中しなければならないので、それを乱されまいと必死だった。
僕たちを包み込んだ風の結界は、順調に高度を上げ、目的と定めた方角に流れるように進んでいた。眼下の森は次第に木々の塊のようになり、だんだんと緑の絨毯のようにしか見えなくなっている。目指す場所までは、このままのスピードで行くとあと小一時間もすれば到着するだろう。……トラブルがなければ。
「ルシア、大丈夫ですか?」
十字架を握りしめながらクリストが言う。
「大丈夫だよ。ちょうど追い風みたいだし、かなり楽に行けそうだね」
「敵襲がなければね」
言って二人で苦笑する。他の二人は未だにきゃあきゃあ言いながら壁にへばりついている。
結界の中にいる以上、突然の襲撃があっても防げるだろうが、注意はするに越したことはない。森の中でさえ、僕たちを窮地に追い込む強敵が出現するのだ。上空だからといって安心はできないだろう。
周囲には、風の結界を取り巻くように、あの気持ち悪い凶悪な顔つきの鳥が飛んでいる。風の異様な流れを感知しているのだろう、結界には触れてこないが、どうやらお互いに何か合図でも送っているのか、時々大きな嘴を開けて鳴いているようだ。
「クリスト」
「気になりますね」
僕の言わんとしていることが分かったのか、呼びかけに簡潔に答える。
彼らは森の見張り役で、空のモンスターを呼び寄せているのではないか、と。
「準備しておいたほうがいいかな」
「そうですね」
お互いに一つ頷くと、それぞれに呪文の詠唱を始めた。僕は攻撃用の呪文、そしてクリストは結界を更に強化するための呪文。
「どうしたのよ?」
僕たちの行動にようやく気付き、声をかけてきたのはノイズだ。だが僕たちは呪文の詠唱に入っているために答えることはできない。代わりに頷いて見せるが、それをノイズが答えとして受けてくれたかどうかは分からない。
「敵か?」
リードも僕たちを見て、ようやく壁からその顔を離した。そしてそのまま結界の周囲を見回す。リードの目には、まだ何も映っていないようだが……。
「あれ! モンスターよ、来るわっ!」
鋭い声を上げたのはノイズ。僕たちの進行方向を見据えている。つられて他の三人もそちらに目を向ける。
「でかいな……」
リードが呟く。
確かに、近づいてくるそれは、かなりの大きさがあった。僕たちの結界を丸ごと包んでしまいそうなほどに大きな真っ黒い翼。鳥のようなそれではなく、てらてらと光る上等そうな皮で、それの中央付近に大きな爪が生えている。全身も黒い皮で覆われているように見えるが、それがそいつの皮膚なのだろう。ごつい、がっしりとした鎧をその身にまとい、手にはハウルバートを携えている。かたちは人のそれに酷似しているが、違うのは背に負ったその黒い翼と頭に生えている一対の角。
「あれって…………?」
呆然と呟いたのはノイズ。
「多分な……初めて見たよ、……強そうだな。……勝てそうか?」
同じような口調で、リードも不安を隠しきれていない様子。
その姿が近づくのにつれて、大きなプレッシャーが自分たちにのしかかってくるのが分かる。
。
それはこの世界で最もポピュラーで、最強の戦闘種族として知られている。姿かたちにはそれぞれ個別に特徴があるが、共通しているのはその翼と角。そして強大な魔力を誇るというその強さ。
全身の色は光を反射するような艶のある黒で、頭のてっぺんからつま先までが黒一色。人間の重戦士が装備するような、ダークメイルをその身にまとい、手には武器を持ち操る。武器を持っていなくても、その巨大な爪はたった一撃で人間を肉の塊にしてしまうという。
正直、今のままの自分たちでは倒せない。何とか逃げ切れるかどうかさえ、分からない。
だが今、恐怖そのもののような悪魔族の戦士は、確実に僕たちの結界に向かって飛来してくる。
「とりあえず逃げるだけでもいい、無理はするな」
緊張した声でリードが僕たちに向かって言った。無言で、僕は頷く。クリストはすでに魔法を解き放ち、僕たちのいる風の結界をさらに一回り強化していた。
『我らの力の源たる 聖なる光の輝きよ
我らに害なすものたちに 光の滅びをもたらさん』
僕の呪文詠唱は、周りの壁に反響し、不思議な響きを含んで手にした錫杖に魔力をともす。唱えたのは『聖』属性最強の魔法。どれだけの威力があるのかは自分でも分からないが、この一撃がまともにヒットしたとしても、倒せる相手ではないだろう。
悪魔族と戦うのはこれが初めてだけど、生半可な攻撃では相手にならないことくらいは分かる。じりじりと押しつぶされそうなプレッシャー。
そして僕は、錫杖を相手に向ける。すでに接触しそうなほどに近づいてきている相手に狙いを定め、アレンジした魔法を解き放つ!
「聖なる光よ! 我らに力をっ!」
ガカっ……!
「うおっ……!」
迸った閃光に驚きの声を上げたのは、一番前にいたリードだった。
ぎしゅうううぅう……
どうやらヒットしたらしいその光は、鈍く軋むような音と共に空中で四散した。
光の衝撃波が、僕たちの結界さえも揺るがし、その進行を阻む。
『……なかなかの術だ……』
それは、光が消え去ったあとでそう言った。
「悪魔族って……喋れんの?」
呆然とノイズが呟く。
その悪魔族は、僕が放った聖なる光をまともに受け、手にしたハウルバートは粉々に砕けて空中に舞い踊っている。そしてそれを持っていた手も、ダメージを受けたようだ。皮膚がただれ、わずかに原型をとどめる程度に崩れていた。
この状況では全員そろって戦うことはできない。だけど今の魔法がこれだけのダメージを与えることができるということは、四人で連携すれば、倒せる可能性は十分にある。
「クリスト、何とかして結界を保護して! 僕は軌道を変えてどこか……そうだ、あの塔の近くにある広場まで行くから!」
言って僕はまた呪文の詠唱に入る。同じ魔法だけど、放つ場所を少々アレンジする。
「分かりました……ですが、わたしには結界を維持することしか……」
「それでいい! 地上に降りたらその瞬間に結界を解いてくれ」
クリストの言葉を遮るように言ったのは、左手の剣を構えているリードだ。ノイズも臨戦態勢に入っていた。
『だがこの程度で……我を倒すことはできぬ』
言って悪魔族は、左腕を振りかざし、風の結界に直接攻撃を仕掛けてくる。
がじゅっ!
「きゃあっ!」
「うわっ!」
「結界がっ」
その一撃をまともに受け、風の結界が一部裂けた! その裂け目からは唸りを上げて強風が吹き込んでくる。結界が大きく傾いた。
「光よっ!」
完成した魔法を、そいつの下から吹き上げるように解き放つ!
風の音で僕の声が聞こえないのだろう。不意を撃たれた悪魔族は、まともに上へと吹き飛ぶ。
「ウィン・ガーディアム!」
立て続けに放った『風』系列最強の魔法で、さらに体勢の整わない相手に追い討ちをかけ、結界の上を通り越して僕たちの後ろにくるように仕掛ける。
ぐうおおああっっ!
風の唸りか奴の悲鳴か、もろに不意打ちを喰らった悪魔族は雄叫びを上げて、思い通りの場所まで吹き飛んだ。
「ルシア、頑張って! もう少しよっ!」
ノイズの激励に気力を振り絞り、壊れてバランスが崩れたままの結界を、そのまま全力で前進させる。目の前に目的の塔が見えてきたとき、その場所めがけて急降下させる。
「みんな、落ちるときにかなりの衝撃がくるから構えててっ!」
ずがしゃああぁぁあっっ!
風の結界が木々の枝をまともに薙ぎ倒しながら猛スピードで大地に近づき、激しい衝撃音が響く。
ととんっ、と軽快な音を立て、結界の割れ目から飛び出したリードとノイズが見事に着地する。
僕が結界を解くのと同時にクリストもまた結界を解く。場所が少し悪かった。高い場所にあった突き出た枝にひっかかり、そのまま高さ四・五メートルほどの場所から、全員が飛び降りるかたちになってしまったのだ。
風の結界は、一陣の強風をうず高く残し、辺りの枝を巻き込んで消えた。
リードとノイズはくるりと後ろを向き、すでに体勢を整えている。僕とクリストもまた、呪文を詠唱しながら彼らの横、あるいは後ろへと移動し、上空から襲いかかって来るだろう悪魔族に対して臨戦態勢に入った。
やがて僕たちの目の前に、右腕と、太ももから下腹部にかけて火傷のような傷を負った悪魔族が、未だ健全な翼をもって、ゆっくりと舞い降りてきた。
背筋に冷たいものが走る。
『……やってくれるな……人間の小娘が』
怒りを含んだ悪魔族の声。
シュンッ
軽く振り下ろした奴の左腕、肘から小指の先にかけて刃が生まれた。鈍く光るそれは、凶悪な笑みさえ浮かべる敵の波長にシンクロしているのか、同じような笑みを浮かべているように見えた。
「戦えんのはルシアだけじゃないぜ」
頬に伝う汗が一筋。それを拭うでもなく不敵に言ってのけたのは、左腕の剣を構えているリード。
「はあっ!」
気合一閃、リードが真正面から悪魔族に突っ込んでいく!
『………………』
身構えることさえせずに、そいつはリードの剣の間合いを見極めているようだ。が、甘い!
ザシュッ!
『何?』
驚きの声を上げたのは悪魔族のほうだった。リードの繰り出す剣が、不規則な軌道を描いてそいつの予想した剣の間合いの外からそいつの右肩に潜り込んだ。
完全に肩を貫通するかたちで繰り出されたその剣を、間を置かずに引き抜き、リードはそのままそいつの懐に飛び込んだ。
同時に駆け出していたのはノイズ。リードの後を追って悪魔族に突っ込んでいく。
リードがそいつの右肩を捕らえたその瞬間、ノイズは大きく跳躍し、悪魔族の頭を狙って膝蹴りを繰り出す。
人間風情と甘く見たか、悪魔族はまたもこちらの攻撃をまともに受け、後ろへのけぞるようにバランスを崩した。そこにリードが懐からすくいあげるような一撃を放つ!
『ぐうおおぉっ……!』
悲鳴を上げ、切りつけられた胸元からどす黒い血飛沫を吹き上げよろめく悪魔族。その隙にリードとノイズはそいつから離れて大きく後ろへと跳ぶ。
「ホーリィ・ランス!」
バジュジュシュァアアッッ!
『ぐるあああああっ!』
僕の目の前に出現した六芒星の青白い結界を通して、聖なる光が数十もの槍と化して、よろめく悪魔族を直撃した。
リードの斬撃とノイズの膝蹴りに続く僕の魔法の槍は、そのことごとくがそいつを直撃している。そしてこの魔法の槍は、クリストの増幅魔法を受けて、『聖』のステータスが格段に上がっている。
ずうううん……っ
重い音が地面を伝って響いてくる。そいつが倒れた音だろう。
未だその周辺は、光の余韻と巻き上がる砂埃でほとんど視界が利かないが、今の連続攻撃をまともに受けた悪魔族が倒れたのだ、というのは想像に難くなかった。
「……やった……の……?」
「分からない」
こちらへ戻ってきたノイズの問いに、僕は簡潔に答えた。奴がいた場所からは目を離さず、肩越しに僕に声をかけてくる。
これが本物の悪魔族ならば、その力も伝説にあるように半端ではないだろう。この程度で倒せたかどうか……正直な気持ちはこの疑問だけだった。
もうもうと立ち込める砂煙を前に、僕たち四人の荒い息遣いだけが聞こえてくる。
やがて。
「ちっ……」
リードが舌打ちする。
僕たちが目にしたのは、薄れつつある砂煙の中ゆっくりと立ち上がる悪魔族の影。
「まだみたいね」
今一度、覚悟を決めたような決然としたノイズの声。
僕とクリストも、それぞれに呪文の詠唱に入る。今度はそれぞれにリードとノイズの攻撃力を上げるための言わば補助魔法。
かはっ……
確かに聞こえたその音に続いて、何やら液体が地面を叩く音。
『おのれ……たかが人間風情と甘く見たか……』
ゆっくりと立ち上がったそれは、こんな言葉を口にした。
ぼろぼろになった黒い翼、リードに切りつけられた胸や肩からどす黒い血を滴らせ、舞い上がった砂が張り付いてどろどろになっている。足元も多少ふらついているようだが、まだ戦意は喪失していない。そしてまた、左腕の刃も健全だった。
僕たちを甘く見ていたために油断していたとはいえ、これだけの傷を負わせるような相手であることを、遅まきながら気づいたようだ。反対に、僕たちは初めて敵対した悪魔族に対して、不意をついた攻撃とはいえこれだけのダメージを与えている。
これが、僕たちと悪魔族の違いだった。戦いの中で自信を喪失する者と自信を持ちはじめる者。戦況は優位といってよかった。
『るぐぅああああっ!』
咆哮し、左腕の刃を閃かせて突進してくる悪魔族。だが、こちらの準備はすでに万端整っている。
僕が唱えていた増幅魔法。これはリードの装備している剣に、聖なる光の力を乗せている。そしてクリストが唱えていた魔法は、ノイズの全身を青白い光となって覆い、彼女の防御力と攻撃力とを増幅させている。
僕はすでに次の呪文を唱え終え、発動させるタイミングを見計らう。クリストもまた、いつでも僕の術を増幅させることができるように構えている。
「行くぞぉっ!」
吼えてリードが疾る! 真正面から突進してくる悪魔族に向かって。
ぎぎきいぃぃんっ!
お互いの刃がかみ合い、火花を散らす。
「ぐっ……っ」
負傷しているとはいえ、さすがは悪魔族、といったところか。力ではわずかにリードが及ばない。が、リードは剣を交錯させたまま、そこを支点にくるりとその身を翻す。
『っ?』
リードの不規則な動きが見切れなかったか、一瞬だけスキが生まれる。
「はあっ!」
がごおぉんっ!
『ぐああっ』
一瞬生まれた隙を逃さず、ノイズが渾身の力を込めて拳を繰り出す! 狙った場所は、リードが切りつけ、傷をつくったその胸の中心。
聖なる光を帯びたその拳は、傷口をやすやすと抉り、手首近くまで潜り込んだ。堪らずのけぞる悪魔族。
交錯した剣を支点に身を翻したリードは、のけぞった時に相手が力を緩めたその瞬間、剣を操り後ろからその喉元を深々と突き刺した。
『………………っっ!』
声を上げることすらできず、その場にもがく悪魔族。
「離れて下さいっ!」
叫んだのはクリストだ。すでに増幅魔法を僕の錫杖にかけ終えて。
声に合わせて、二人が跳ぶ。
「ホーリィ・グレイヴ!」
続いて、僕の言葉が魔法を紡ぎ、悪魔族の足元に六芒星の青白い結界を描く。瞬間、結界から同じ色の火柱のようなものが吹き上がり、悪魔族を飲み込んだ!
ヴウゥンっ
『………………我が……人間……風情に……っ!』
何とか搾り出したのは、断末魔の台詞だった。
青白い炎が消える。……包み込んだ悪魔族の存在を丸ごと飲み込んで。
「……はあっ、はあっ……」
四人の荒い息遣いのみがその場に響いていた。
僕たちを襲った悪魔族は、青白い聖なる炎に包まれて、その存在を無と化していた。後に残るのは戦いの余韻ともいえる静寂のみ。
……倒した。