-Many go for wool and come home shorn-
五章 -Many go for wool and come home shorn-
「……それにしても」
シャルは眉間に皺を寄せて警察署の廊下を歩いていた。手には、びっしりと文字が連ねられ図形が描かれたノート。
「頭が痛くなりそうだ」
カーサが今まで調べた魔法に関する知識などが書いてあるノートを読んでいる。世の道理をカーサと共に覆すためには、まずカーサと同じ知識を持たなければならない。そのためにこのノートを借りたのだ。カーサの字は読みやすく、図形も丁寧に書かれてある。しかし、そこに書いてある内容がシャルには全く理解ができないのだ。
「……」
頭を捻っていると、ふと誰かにぶつかった。
「いったぁー!」
ぶつかった誰かが目の前でしりもちをついている。シャルは慌てて手を差し伸べた。
「すみません、大丈夫ですか?」
キールだった。彼女は睨むようにシャルを見ると、手につかまった。
「もう、ちゃんと前見て歩いてる?」
「すみません、下見てました」
そう言うとキールがシャルのノートに目をやった。すかさずそれを取り上げパラパラとページをめくる。
「へぇ……。新人君、魔法をお勉強してるんだ?」
「はい」
彼女はノートをパタンと閉じてシャルに返した。
「世の道理、でしょ?」
そう言った彼女は、平然とした顔をしている。
「はい。どうしても、レイマン先輩を助けたいんです。あんなにいい人がこんなひどい運命を背負っているなんて許せません」
キールは肩をすくめて首を横に振った。
「無理無理。魔法っていうのはそもそも魔界の力なんだよ?この世の物でもない物をどうやって研究するっていうのさ?どうやってこの世の物ではない物の仕組みを覆すっていうのさ?」
「じゃあ、放っておけるんですか?キール先輩は」
「放っておけるおけないの問題じゃないよ。魔法使いは皆世の道理を知って魔法を使ってる。半端じゃない覚悟をして魔法使いをやってるんだよ。そんな彼らに世の道理を覆せるかもなんて期待させちゃって、その覚悟を崩してみなよ。変な期待させる方がカワイソウってもんじゃないの?」
「……」
黙って俯いたシャルに、キールは呆れたように笑った。
「でもまぁ、そもそも向こうも期待なんてしてないかもしれないし、いいんじゃない?やってみても。あたしは無理だと思うけど、止めはしないし、邪魔もしないよ」
そしてポン、とシャルの肩に手を乗せた。
「がんばってね」
シャルは微笑んだ。
「ありがとうございます」
キールは腕時計に目をやる。
「あーあ。遅刻だよ。新人君、どこに行くつもりだったのか知らないけど後回しにして交通課の部屋行くよ」
「え?どこに行くつもりって……自分は交通課の部屋に行くつもりでしたよ」
シャルの横を通って走り始めたキールは、足を止めて振り向いた。半目でバカにしたようにシャルを見る。
「なにそれ。まだ寝ぼけてるの?」
「え?」
キールはシャルの腕を引っ張って、シャルが行こうとしていた方と反対の方向に走り出した。
「交通課の部屋はこっちでしょ」
「え?あれ……。あ、すみません」
二人は急いで部屋へ向かった。
ギリギリで交通課の部屋へ入る。すぐさまヴァウェルの声が飛んできた。
「十分前には部屋に入っていろ」
「すみませんでした」
シャルはすぐに謝ったが、キールはそ知らぬ顔で自分の席へ向かった。
「いいじゃなーい。間に合ったんだから」
「警察官が時間を守れなくてどうする」
「守れてないわけじゃないでしょ。間に合ったんだからさ」
「だから十分前には」
「はいはい、朝から口喧嘩は止めてくれよ」
ディーズが割り込んだ。
「面倒くさい仕事が山ほどあるんだ。さっさと終わらせたいから全員席に着け」
「ほな、俺も席に着くとしよか」
ドアが勢いよく開いたかと思うとそこから大男が現れた。
皆は一斉にそちらを見て目を丸くする。
「ラウナル先輩!?」
ニッと笑ってそこに立っている彼の姿は堂々としていた。
「どうしてここに……?」
「地下で謹慎のはずじゃなかったのか?」
「脱走してきたか」
「え?うそ、どこから?どこから?」
「ちゃうちゃう。脱走なんかしてへん。ちゃーんと正面から出てきたで」
「正面から?」
ラウナルは得意げに笑った。
「俺の騒々しさをなめたらあかんで」
キールはニヤリと笑って首を傾げる。
「ひょっとして、あのエコーが響く地下で騒ぎ散らしたの?」
「見張りの奴ら眠れへんかったらしくて今日の朝総監に訴えに行ったんや」
「それで?」
「地下には他の奴らも謹慎しとるし、めっちゃ迷惑やったから他の奴らには極秘で俺を出したんや」
「あっはは!ラウナルってばサイコー!」
「ただし、あと二日間は謹慎してることになっとるからこの部屋でただ働きの雑務しなあかんし、二日後以降のパトロールはしばらくチャリでいつも通りの範囲をやらなあかんけどな」
「うっわぁ。地下で大人しくしてるほうがよかったんじゃない?」
「そんなん丁重にお断りや。俺は悪いことしてへんのやからとことん反抗したるで。ま、これ以上なんかするとほんまにヤバイしここらへんで大人しくしてることにするわ。不本意やけどな」
「反省の余地なしだな」
ディーズが苦笑した。
「当たり前や。何で反省しなあかんねん。するわけないやろ」
鼻を鳴らしてラウナルは席に着いた。
「じゃ、まぁラウナルには雑務をまかせることにして、今日の仕事の説明するぞ」
全員が着席するとディーズはホワイトボードに地図を広げた。
「今日のパトロールは、午前はキールとシャル、ヴァウェルとモカでやってくれ。キール達はスロウ通りからこの辺りまでやって、ヴァウェル達はドラン通りからこっち側までを頼む。午後は俺とキール、ヴァウェルとモカでやる」
その後もディーズは淡々と説明を続け、次々と今日の仕事を指示していった。説明が大方終わると、皆はそれぞれ仕事につきはじめた。
シャルはキャビネットから書類の束を出してきた。パトロールの時間が来るまで、昨日の書類整理の続きである。一日中この作業をしているが、なかなか終わらない。聞けば書類の整理はキールが担っていたそうだから、今までの書類が溜まりに溜まっているのだろう。眉間に皺を寄せて書類に目を通していると、丁度後ろを通ったモカがひょいと横から顔を出してきた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
彼女は自分の眉間に人差し指を当てた。
「皺寄ってますよ?」
「あ、すみません。この書類整理、終わりが見えないもので……」
モカは苦笑する。
「本当は、キール先輩の仕事だったんですけどね」
するとシャルの席の前でキールの大きなため息が聞こえる。
「それ、ラウナルからまわってきた仕事なんだもん。文句あるなら一番最初に仕事をまわしたラウナルに言ってよね」
「なんや、生意気な後輩やなぁ」
ラウナルはニヤニヤ笑いながら顔を上げた。
「こんなにステキな後輩ちゃんはなかなかいないでしょ」
キールは勢いよく立ち上がると机の横のフックに掛けてあった帽子を取って被った。
「ほら、行くよ。パトロール」
シャルは掛け時計に目をやった。
「まだ早いんじゃないですか?」
「いいのいいの。面倒くさい仕事はさっさと終わらせちゃって昼ご飯」
「いいんですか?時間守らなくて」
「いいわけないだろう」
ヴァウェルが突っ込んできた。キールを睨んでいる。しかしキールはそんな視線をするりと避ける。
「終わり良ければ全てよし。大事なのは結果だよ。パトロールをやる時間じゃなくて、やったっていう事実が大事なの。わかる?」
後輩のくせに偉そうにそう言って、ドアを開けた。
「それに、命令するのは班長サン。副班長サンは班長サンがいない時のための役割だよ。今日は班長サンは出勤してるの。だからうるさく言わないでねぇ」
ニッと笑って出て行った。シャルは帽子を取って慌てて追いかける。
「先輩、待ってくださいよ」
シャルが出て行くと、ヴァウェルは鼻を鳴らして仕事を再会した。
「……」
先ほどのキールの言葉を思い出して知らず、眉を潜める。ペンを握る手に力が入った。
すると、ふとその手の脇にカップが置かれた。我に返って見上げると、心配そうな顔をしたモカがいた。
「大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
「……ああ。気にするな」
モカは苦笑した。
「お疲れ様です」
「何がだ?」
「いろいろです。いつもお世話になってます」
「……お前、知ってて言っているのか?」
驚いたようなヴァウェルの口ぶりに、モカは首を傾げた。
「何をですか?」
「いや、いい」
そして先ほどモカが入れてくれたコーヒーのカップを手に取る。無愛想に呟いた。
「すまない」
「どういたしまして」
モカは微笑んでディーズとラウナルの机へ向かった。
シャルはどんどん歩いていくキールを追いかけた。
「先輩、言いすぎじゃないんですか?」
「何がぁ?」
振り返らずに返事をする。
シャルはキールに追いついて隣に並んだ。
「だから、ヴァウェル先輩のことですよ」
「気にしてないでしょ。今に始まったことじゃないし。いつもはラウナルと二人で言ってるしねぇ」
「でも……」
「お?なんかおもしろそうなことやってるよ」
そう呟いたキールは、ロビーにあるソファへ向かって走った。
そこにはスケッチブックを開いたルルと、女の人が座っていた。女の人は私服を着ていることからどうやら警察署の人ではないようだ。
「何してるの?」
「あ、キール」
ルルはニコニコ笑った。
「おはよー」
「おはよ。ねね、何してるの?」
「お仕事だよ」
「似顔絵成作?」
「うん。カバンがひったくられちゃったんだって」
そう言って女の人を見る。シャルも彼女に目をやった。確かに、女の人はカバンを持っていなかった。
「じゃ、久しぶりにルルのお手並み拝見と行きますか」
キールはルルの隣に座った。
「先輩、パトロールは……」
「後回し。さっき新人君だって言ってたじゃない。まだ早いって」
「調子いいんだから……」
「いいじゃないの。ルルのできた似顔絵持ってパトロールしたら犯人捕まえられるかもしれないじゃん」
「まったく……」
シャルはキールの向かいに座った。
ルルは女の人に尋ねる。
「顔は覚えてる?」
「はい。ひったくられる時に。印象的な顔だったので……」
「男の人?女の人?」
「男性です。自転車に乗っていました」
「どんな顔だったの?」
「ええと……顔の形は逆三角形みたいで、頬の骨が出ていました。目はつり目で前髪が長かったです。鼻は割りと低めで……」
その後も次々と犯人の特徴を挙げていき、ルルは止まることなくペンを動かした。やがて似顔絵が出来上がると、それを女の人に見せた。
「こんな人?」
女の人は驚いたように目を丸くした。
ルルは首を傾げる。
「あれぇ?違う?」
女の人は小さく首を横へ振った。
「いいえ。そっくりです……。というか、そのままです。この人指名手配されてる人なんですか?」
キールはケラケラ笑った。
「違うよ。ただ単にルルの腕とあなたの記憶力がいいだけ」
ゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、それすぐにコピーしてパトロールのお供にしますか」
その後身長や服装を更に細かく聞いて、ルルの描いた似顔絵はコピー機にかけられた。交通課を始めとする、警察署から外へ出る仕事を担っている課へ一斉に配られ、廊下にも貼られた。
シャルとキールはその一枚を持ってパトカーへ乗り込んだ。
「キール先輩、運転できるんですか?」
「失礼ね。ラウナルよりは下手だけど、彼よりは優しい運転できるつもりよ」
「激しくないなら、それでいいです」
彼女はくすくす笑う。
「そんなに効いたの?ラウナルの運転」
「結構……」
「あっはは。文句があるなら新人君もさっさと免許取りなよ」
「でもまだ取れる年じゃないですよ」
「あーあ。年なんか気にするんだ?」
「当たり前じゃないですか。犯罪ですよ」
「ふーん。じゃ、あたしも犯罪者かな?」
「え?」
彼女はエンジンをかけてゆっくりとアクセルを踏んだ。ニッと笑いかけてくる。
「あたし、新人君と同じ十七歳なんだぁ」
「ええ!?」
「年ごまかして警察署に入ったの。案外甘いもんだね、警察署って。これじゃあ署内で何か事件が起きても文句言えないよ」
「先輩!?」
彼女は乗り慣れているようで、きれいにハンドルをきっている。
「なに驚いてるのさ?あたしのこの不真面目さは今に始まったことじゃないでしょ」
その顔はニタニタと笑っている。
「ああ、新人君もこのヒミツ知っちゃったのにこの車乗ってるってことは、犯罪者かな?」
「ちょ、先輩!今すぐ車止めてください!」
「止めてどうするの?」
「降りるんです!」
「それで?」
「それで……歩いてパトロールします!」
「冗談。お断りだよ。班長サンに言われた範囲を回らなきゃいけないのに歩いて行ってたら日が暮れちゃう」
「だからって警察官が違反しちゃダメでしょう!」
焦ったように怒鳴るシャルをよそに、キールはふと路上脇に目を留めた。
「あ、駐車違反」
そしてゆっくりと路肩に車を止めた。車から降りるとナンバーなどを調べ始める。シャルも車を降りて手伝った。
そうこうしているうちにその車の運転手が戻ってきた。キールと話をしている。シャルもその隣に立って二人の会話を聞いていた。
すると、歩道を一台の自転車が走り抜けた。
ふと、先ほどの引ったくり事件のことを思い出していると、少し離れた所で悲鳴が聞こえた。
「誰かあの男捕まえて!引ったくりよ!!」
シャルは慌てて悲鳴のする方を見た。一人の女の人が道に倒れている。恐らく突き飛ばされたのだろう。そしてその先に、先ほどの自転車に乗る男が左手にバックを持って走っている。
キールを振り向こうとすると、突然背が押された。
「え?」
数歩前に足が出てシャルは振り向いた。キールはバインダーに挟んだ紙にいろいろと書き込みながら言った。
「こっちはあたしに任せて。引ったくり犯のことは新人君がなんとかしてね」
そしてニッと笑った。
「任せたよ、俊足無鉄砲バカ」
シャルは敬礼をした。
「はい!」
そして一目散に自転車を追いかけ始めた。
こんな昼間から、しかも人通りの多い道で引ったくりをするなんてよほど自信があるのだろう。それはバイクではなく自転車で犯行をしていることからでもわかる。
だが、シャルにもまた自信があった。相手が自転車ならば、追いつける。
そう確信して、遠くで次々と人の間を縫っていく自転車を追いかけた。間は徐々に狭くなっていく。
犯人はまだ追いかけられていることに気づいていないのだろう。細い路地に入り、右へ左へ曲がるうちに少しずつスピードを落としてきた。
だが、シャルはしっかりとついていっている。その足音が聞こえたか、犯人はくるりと振り向いた。
「あ」
シャルは今朝のルルの描いた似顔絵を思い出した。逆三角形の顔といい、ぽっこりと出ている頬の骨といい。つり目や長い前髪。低い鼻まで。どこを取ってもあの絵そのままである。
「ルル先輩って本当すごいなぁ……」
呟いていると、追いかけられていることに気づいた犯人はスピードを上げた。それと同時にシャルも速度を上げる。
だが、犯人は走って自転車に追いつけるわけがないと高をくくっているのか、割りと普通にこいでいる。そうしていればいつか疲れるとでも思っているのだろう。
「なめてたら痛い目見ますよ」
シャルは一気にスピードを上げた。
「くらえぇ!」
そのまま自転車に飛び掛った。
「な、何!?」
自転車ごと地面に突き伏せて、腕をねじり上げる。
「いってぇ!」
「現行犯逮捕します!」
手錠をかけた。
犯人を連れてキールの所へ戻ると、彼女は駐車違反の件を既に終えていたらしく、パトカーの脇に立って待っていた。
「只今戻りました」
敬礼をすると、彼女は微笑む。
「お帰り。でかしたね」
シャルは照れたように笑った。
「キール、シャル班、パトロールから戻りましたぁ」
ドアを開けながらキールがそう言った。
「先に出た割には遅かったな」
ヴァウェルはノートに何か書き込みながら言った。
「ちょっとルルのお手並み拝見ってね」
ニッコリ笑いながらキールが一歩部屋へ入る。すると突然目を丸くした。
「あれま?どうしちゃったのさ?後輩ちゃん」
その言葉で後ろに立っていたシャルは彼女の横から顔を除かせた。奥の椅子でモカがラウナルに包帯を巻いてもらっている。右足首に怪我をしたらしい。
「大丈夫ですか?」
シャルは二人に近づきながら尋ねた。モカは苦笑して返す。
「はい。ただの捻挫です」
「ほら、できたで」
包帯を結び終えたラウナルが軽くモカの足を叩いた。
「ありがとうございます」
「で?どういうこと?なんで後輩ちゃんが怪我しちゃってるの?」
モカはうつむきながら小さく言った。
「実は……」
「異常ないか?」
ヴァウェルがモカを見もせずに尋ねた。彼女は辺りを注意深く見回しながらハッキリと言った。
「はい、異常ありません」
二人は今車を降りて歩いて市場をパトロールしている。買い物客でいつも賑わっている市場は、今日も変わりはなかった。
だが、これだけ人が集まるところだ。買い物客に混じって何か良からぬことを企む者も多少はいるであろう。現にディーズやキールが以前ここで万引きやスリを捕まえたことがある。その為ドラン通りのパトロールを任せられたペアはいつもこの市場に歩いて立ち寄るのだ。
「異常は?」
「ありません」
この二人がパトロールをすると、会話はいつもこれだけしかない。並んで歩いていても、並んで車に乗っていても、これだけだ。
だが、今日は違った。
「あ!」
モカが突然声を上げる。
「どうした?」
すかさずヴァウェルがモカを見る。モカは一人の男を指差しながら小さく言った。
「あの人、スリです。今財布を取ったところを見ました」
「間違いないか?」
「はい」
「信じていいんだな?」
念を押すような彼の問いに、モカは大きく頷いた。
「はい」
「行くぞ」
ヴァウェルとモカは走り出した。
「スラれた人は分かるか?」
「すみません、見失いました」
ヴァウェルは舌打ちをした。
「やったのはあの帽子を被った男だな?」
「そうです。間違いありません」
しかし道に人が溢れかえっている市場だ。行く人々が四方に立ちふさがっていて思うように走れない。背の低いモカは押され揉まれを繰り返しながら、男を見失わないように必死だった。だが、すれ違ってきた人が突然ぶつかってきてバランスを崩し、横へ倒れる。
「いたっ!」
「何してる」
ヴァウェルが背中を抱き起こしてくれる。だが、その口調や顔は見るからに怒っていた。
「すみません」
慌てて立ち上がろうとするが右足が痛くて思うようにいかない。
「先輩、先に行ってください。足を挫いたみたいです」
ヴァウェルは小さく舌打ちをした。
「どこか隅に行ってろ。動くなよ」
「はい」
ヴァウェルは男を追いかけた。
モカはよろよろと立ち上がって、人にぶつかり再び転倒しそうになりながらも道の脇へ避ける。壁に寄りかかって静かにヴァウェルの帰りを待っていた。彼が戻ってきたのはその数分後だった。
「……モカ」
不機嫌そうに眉を潜めた男を連れて戻ってきたヴァウェルは、睨むようにモカを見た。
「本当にこの人なんだな?」
「はい」
頷いてそう言うと、男はギロリとモカを睨んだ。
ヴァウェルはため息をつく。
「謝れ」
「え?」
「この人はやっていない。お前の見間違いだ」
「そんなはずはありません」
「身体検査をした。だが、この人は財布をもっていなかった」
「そんな……」
「謝れ」
「……」
モカは男に向かって頭を下げた。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
男は吐き捨てるように言った。
「警官も大したことねぇな。まったく、犯人を見間違えるなんてやってらんねぇぜ。どうしてくれんだよ無駄な時間過ごしちまったじゃねぇか。これからの予定が全部狂ったぜ!」
「すみません」
ヴァウェルも頭を下げる。しかし、その後も男は二人にさんざん怒りをぶつけて、大股で去って行った。
そんな男を見送った後、モカはヴァウェルを見上げて必死に訴える。
「でも先輩、私本当に……」
「被害者がわからないというのにこれ以上どうしろというんだ」
「……」
モカはうつむいた。
「それより足は大丈夫か」
「はい。大丈夫です」
「なら行くぞ」
「はい」
モカは右足を一歩踏み出した。その瞬間激痛が走る。
「っ!」
前へこけそうになった。
だが、ギリギリの所でヴァウェルが支えてくれた。
「どこが大丈夫なんだ」
「……すみません」
「近くの薬局で包帯を買うか」
「え、でもパトロール中……」
「パトロールはこの市場で終了。あとは帰るだけだ。例え帰り道だろうと寄り道は許されないが止む終えない」
「すみません」
「財布は持ってるんだろうな」
「はい、ちゃんとポケットに」
そう言ってモカはズボンのポケットを探りだした。右に入っているはずだった。
しかし、そこは空。
慌てて左に手を入れる。
「……あ、あれ?」
だんだんと顔が青くなっていくのが自分でもわかる。
「い、入れたんですよ。持ってきたのはちゃんと覚えてます」
やがて、全てのポケットを探し終え、ポーチの中も確認し終えたモカは冷や汗を流しながらヴァウェルを見上げた。
「先輩……」
その顔にヴァウェルは眉を潜める。
「まさかお前……」
「へぇ、それで結局スラれちゃったんだ」
モカは小さく頷く。
キールはケラケラ笑った。
「あっはは!スリを追ってた警官がスラてどうすんのさ!」
モカはどんどん小さくなっていく。
「すみません……。犯人を間違え警官の信用を低下させる原因を作った上、自分がスラれてしまうなんて警官失格です」
今にも泣き出しそうなモカにシャルは慌てふためいた。内心ハラハラしながらなだめるように言う。
「そんなことないですよ」
だがモカの目には見る見るうちに涙が溢れてくる。
「それに足まで怪我して、最終的にヴァウェル先輩に運んでもらうことになってしまって……。本当に情けないです」
キールは黙ってモカを見ていたが、ふとしゃがんでモカの足を見た。
「大丈夫?後輩ちゃん」
「あ……はい。足は大丈夫です。ご心配には及びません」
「そっか。ならいいや」
そして立ち上がるとモカの頭に手を乗せた。
「じゃ、こっちは大丈夫?」
「え?」
頭に手を乗せられたままキールを見上げる
キールは小首を傾げてモカの茶色の髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「あれれ?大丈夫じゃなさそうですねぇー。へなへなだ」
「ちょ、先輩!?」
綺麗に整えられていた三つ編みの髪型はあっという間に崩れた。
モカは被害を少しでも抑えようとキールの手を掴む。
だがキールはどんどん髪をぐしゃぐしゃにしていった。
「へなへなでよろよろ。おまけにふらふら」
「や、止めてください!」
「ねぇ、後輩ちゃん」
ピタリと手の動きを止めると、キールは涙目のモカの顔を覗き込んできた。ニコリ、と笑う。
「悔しかったら汚名返上、名誉挽回」
「え?」
「泣いてないでがんばってみたらどうなのさ」
「……がんばる?」
「そ。新人君みたいにね」
するとラウナルが声を上げた。
「そうや。聞いたでシャル。今朝似顔絵が配られた引ったくり犯を早速捕まえたそうやないか」
「ええ。まあ」
シャルは照れ笑いをしながら小さく言った。
キールはモカから離れるとラウナルの隣に並ぶ。
「ほんと、さすが俊足無鉄砲バカだよね。自転車を走って追いかけたんだから」
「へぇ、やるやないか」
「偶然ですよ。偶然、犯人が目の前を通ったから良かったんです」
その後も3人はシャルの話題で持ちきりになった。
だが、ディーズが半目で3人を睨んでくる。
「あのさぁ、仕事してくんない?班長さんと副班長さんが仕事してるってのに、何部下が雑談してんだよ」
「あ、すみません!」
シャルは慌てて席についた。
だがキールとラウナルはいつもの調子で会話を始めた。
「あれれぇ?珍しいね、班長サンが注意するなんて」
「ほんまや。雨でも降るんちゃうか?」
「雨じゃないよ。雷雨だよ!台風が来て雪とヒョウも降ってくるかもね!」
「そやな。天変地異が起こるわ」
「うわー。班長サンが災いを呼ぶよ!」
「市民の安全を守る警官がなんちゅうこっちゃ!」
「警官の風上にも置けないよね」
「『人間の風上』の間違いちゃうか」
「あっはは!ほんとだー!」
ディーズはため息をついてヴァウェルを見た。
「なぁ、副班長さん。こいつらのしつけどうなってんだよ」
「知らん」
「飼主だろ?」
「誰がこんなうるさいだけの奴らの飼主になるか」
「うっわ。侮辱罪や」
「ならお前たちは迷惑防止条例違反で慰謝料を取られるな」
そう言った後、ヴァウェルは何かハッとしたようで、急に黙り込んだ。
「あれ?副班長サン?どうしちゃったのさ?」
だが、ヴァウェルは眉間に皺を寄せて何か考え始めた。
「あかん。ヴァウェルがああなったらもう声は届かんで」
「何考えてんだろ?」
ディーズがニヤリと笑う。
「慰謝料の額じゃねぇのか?」
キールはケラケラ笑って両手を挙げた。
「冗談。あたし金は持ってないよ」
「同じく」
二人は互いに笑って席に着いた。
すると、髪の毛を整え直したモカがキールの席の脇に立つ。
「あの……先程は、ありがとうございました」
キールはモカを見上げて小首を傾げる。
「何が?あたし何かしたっけ?」
そして意地悪そうな笑みを浮かべた。
「後輩ちゃんの髪の毛をぐしゃぐしゃにしただけだけど?」
モカは優しく微笑んで、一礼すると机の方へ向かった。
その姿を見ながらキールは彼女の背に舌を突き出す。
「ほんと、手のかかる後輩ちゃんだよ」
それを見たシャルはくすくす笑った。
「キール先輩って、優しいですね」
その言葉を聞いたキールは舌を突き出して軽くシャルを睨んだ。
「仕事しろ、新人君」
シャルは笑いながら書類を手に取った。
「はい」