-Fortune favors the brave-
二十二章 -Fortune favors the brave-
クルは、冷たい地下の牢屋の中にいた。
窓も何もない。今が朝なのか夜なのかすら分からない。
だが、別に知る必要もなかった。自分がするべきことはただひとつ。
考えることだけだ。
ゆっくりと時間をかけて、自分は何をするべきだったのか、そしてこれから何をするべきなのか、どうするべきなのか。
ただそれだけを、二週間かけて考える。クルはすっと目を閉じた。
「なあクル。ここから動いちゃだめだぞ。すぐに戻ってくるから、それまで待ってるんだぞ」
大きな手が、頭に乗せられる。少年は小さく頷いた。
「いいか、動いたらだめだぞ。すぐ、すぐに戻ってくるから」
そういい残すと、彼は去った。
すぐに戻ってくるなんて、嘘。
クルは知っていた。自分が捨てられたことを。
だから、どこへいくのかなんて訊かなかったし、すぐってどのくらいなんてことも訊かなかった。待つ気もしなければ、追いかける気すら起こらなかった。ただ、じっとここに座っているだけ。
両親がどんな思いで自分を捨てたのかは分からない。考えようとも思わなかった。自分は捨てられたのだ、自分はどうしても捨てることができないという価値のある存在ではなかったのだ、とそれだけを自覚した。
夕焼けが容赦なく照り付けてくる。日は止まることもせず、スピードを緩めることもせず、むしろどんどん速く山の向こうへ沈んでいく。
クルは辺りを見回した。誰もいない。どこにも、頼る者はいない。絶望感溢れるその静けさの中、ゆっくりと立ち上がった。
いや、頼れる者は、一人だけいる。
それは、自分だった。
クルは重たい足を引きずってゆっくりと山を下り始めた。こんな所にいては、夜が来ると同時に獣が出てきてしまう。そうなればこんな無力な子供など抵抗する間もなく食い殺されてしまうだろう。
山のふもとまで来てみたが、そこにはやはり誰もいない。しかし、ここまで獣は出てこないはずだ。そう思って、草むらの中に身を置いた。下りる途中に集めていたきのこや木の実を口へ入れる。久しぶりにこんなにたくさん食べた。美味いとは言えないが、この一夜を過ごすには丁度いい。これからどうしようなんてことも考えず、クルは体を横にして眠りについた。
翌朝、ふと目を覚ましてみるともう日は高かった。クルは起き上がる。
じっとしていたって何も変わらない。そう自分に言い聞かせた。そして、足が動く限り、行ける限り歩こうと思ったのだ。どうせ途中で力尽きたって、未練もなければ悔いもない。ただこの空腹を満たすためだけに流れる所へ行き着こう。そう思った。
クルは歩き始めた。道は、果てしなく続いている。足が動く限り、道が続く限りクルは歩を進めた。途中流れる小川で喉を潤し、見つけた木の実で空腹を紛らわした。口にする物がどれだけ汚かろうが、どれだけ腐っていようが気にしなかった。どうせ、途中で死んだって構わないのだから。
日が南へ登り西へ傾き始めても、周囲に変化はなかった。自分が今どこを歩いているのか全くわからない。進んでいることさえわからなくなりそうだった。しかし、後ろは振り向かない。振り向いたって、意味が無いのだ。戻ったって、何もないのだ。クルは腐ったきのこを口にして、ゆっくりと眠りに着く。
それを何日繰り返しただろうか。ある日、道が途絶えた。代わりに、海が広がっていた。
そこは港らしく、丁度船が停泊していて、荷物を下ろす者や、買った物を積み上げている者など、多くの人で賑わっていた。
クルはゆっくりと船に近づいた。船というものを初めて見た。その大きさに圧倒されていると、一人の男がクルを見つけて嫌な顔をして、追い払うように手を振る。
「ほら、あっち行けよ。ここはお前のような子供が来るところじゃない」
仕方なくクルは人気のない所へ移る。そこには樽がたくさん積まれていた。興味本位でそのうちの一つを開ける。おいしそうに熟れたリンゴ。まるで宝石のような輝きを持つそれは樽一杯に詰まっていた。クルはすっと手を伸ばすとその宝石を一つ掴んだ。そしてカブリと一口。シャキシャキの歯ごたえを確認した後、甘い果汁が口の中に広がる。舌や胃の感覚が、よみがえってきた。クルは一瞬にしてそのリンゴの虜になった。
もっと食べたい。
欲望に駆られ、周囲に気づかれないようにとこっそりその樽の中へ入る。体が小さいためにすっぽりと収まった。中から蓋を閉める。暗闇の中、大量のリンゴに埋まり、クルは夢中でそれらをほお張った。
その間に、クルが入った樽は船へ運ばれたが、彼は全く気づかなかった。
「おう、バルド。いつものやつ持ってきたぜ」
遠くで声が聞こえる。
「悪いな」
クルは目を覚ました。
「しかしお前もリンゴばっか買うよな」
闇である。
「いいじゃねぇかよ。俺が好きなんだよ」
ここは、どこだろう。
「はは、売りもんを自分の好みで選ぶのかよ。もっと客のこと考えろよな」
クルは身動きが取れなかった。
「うるせーよ。ほら、金渡したんだからさっさと仕事戻れよ」
何か堅い物の中に埋まっているようである。
「生意気だなぁ、ほんとに。ま、せいぜい飢え死にしないように頑張るんだな」
クルは記憶を辿っていた。自分は何をしていたのだろうか。
「ん?なんだこの樽、やけに重いな……。そんなにいっぱい詰まってんのか?」
その瞬間、闇の世界に光が一瞬にして入り込む。眩しさに目を開けていられない。手をかざすと、指の隙間から人が見えた。逆光でどんな顔をしているのか全くわからない。
「……誰だお前」
その人は少しの沈黙の後、ポツリと呟くように言った。眩しさのあまりクルはその質問に答える余裕などなかった。
するとその男はクルを樽の中から引っ張り出した。驚きの声が漏れる。
「うわ、かるっ……」
両脇から抱え上げられて、クルは眩しいのを我慢して薄目を開けた。男がジッとこちらを見ている。
その時、クルはここがやけに騒がしいことに気づいた。眩しいことなど忘れ、目を見開いて周囲を見回す。そこはかなり賑わっていた。色とりどりの華やかな服を着た老若男女。自分よりもずっと健康そうな子供たちがそこら中を笑顔で駆け回っている。海が見え、大きな船がいくつも泊まっている。そこは、明らかに自分がいた世界とは違う。クルは呆然としたまま呟いた。
「……ここ、どこだ?」
男は片方の眉を跳ね上げた。
「はぁ?お前、どこ行くかわからずに密航してきたのかよ」
「みっこう……?」
男は肩を竦める。そしてクルを下ろしてやった。
「ま、いいや。ここはラベル市。お前どっから来たんだよ」
「……知らない」
「あっそ。まぁ、正直どうでもいいけど」
その時男は樽の中に大量のリンゴの芯を見つけた。途端に叫び声を上げる。
「あー!!お前リンゴ食いやがったな」
クルは素直に頷いた。
「何食ってやがんだよ。これ売りもんなんだぞ!ていうか俺が金出して買ったんだぞ!勝手にこんなに食いやがって!!!」
「……ごめん」
男は思わず目を丸くする。
「んだよお前、逃げるどころか謝っちまうのかよ」
「逃げれば、よかったのか?」
男はバカにしたように笑った。
「お前面白い奴だな。まぁ、俺にとっちゃ逃げねぇ方が好都合だがな」
クルは首を傾げる。男はクルを上から下までざっと見た。
「しかしボロボロだな」
そして身を乗り出してくる。
「お前、捨てられたんだろ」
その顔は、同情の色も無ければ蔑みの色もない。クルは正直に頷いた。男は関心したような声を出す。
「けど、捨てられた子供が一人で海越えるとか、えらい遠くから来たもんだな。そんな遠くから、何しにこの街まで来たんだ?」
「何しに……?」
「働こうとか思ったって無理だぜ。ここにはお前のようなガキが働ける場所はねぇよ」
「何しにとか、そんなのない」
クルは真っ直ぐと男を見た。そして真顔で答える。
「ただ、腹が減ってただけ」
男はキョトンとした。クルの瞳は純真無垢の色をしていた。男は声を上げて笑う。
「人間の三大欲求の一つだってか?やるじゃねぇかガキ」
そして笑うのを止めて、ふと首を傾げる。
「いっそ死んでしまえとか、思わなかったのか?」
クルは首を横に振った。
「歩けなくなって死ぬのはいいけど、自分から歩くのを止めて死のうなんて思わなかった」
男は軽く口笛を吹いた。
「やるじゃねぇか」
そしてクルの頭にポンと手を乗せた。久しぶりに感じた、人の温もりだった。男はニッと笑う。
「気に入ったぜ、その生き様。どうせ行くとこねぇんだろ?うちに来ねぇか?」
男はゆっくりと立ち上がった。
「少なくとも、お前が食ってたのよりかは美味い物食わしてやるぜ」
そうして差し出された手を、クルは握った。男は笑うと樽を荷車に乗せて、歩き出した。
「ついてきな」
クルは彼の隣に並んだ。そこで、クルはようやく男の顔をよく見ることができた。茶色の髪に、茶色の瞳。背は高いがまだ若い男だった。
男はクルを見下ろす。
「名前、なんていうんだ?」
「クル」
「名字ねぇのか?」
「だって俺、捨てられたし」
男はケラケラ笑う。
「なんだ、すねてんのか?」
「違う。でも本当のことだから」
「まぁ、そうだな」
「もう名字なんて使わねぇから」
「そっか」
男はニッと笑う。
「俺はバルド・ニコール。市場で果物売ってる貧乏な18歳ってところだな。よろしく」
「……よろしく」
「冷めたガキだな。ま、そんな元気ねぇか。その様子じゃ」
「え?」
見上げたクルにバルドは肩を竦めた。
「だってお前、すっげぇ顔色悪いぜ」
「そうなのか?」
「なんだ自分でわかんねぇのかよ。まあ家着いたらシャワーしろよ。すっきりするぜ」
クルは小さく頷いた。
バルドの家はとても小さかった。道の角に立っている一戸建てである。
「ようこそ我が家へ」
バルドはドアを開けてクルを中へ入れてくれた。中はきれいに整頓されていた。
「シャワーそっちだから。とりあえず俺の着替え置いといてやるよ」
「ありがとう」
クルはシャワーを浴びに行った。シャワーなんて久しぶりだった。程よい温度のお湯が、汚れだけでなく疲れまでも流してくれる。そのまま溶けていってしまいそうな気分だった。
さっぱりしたクルはバルドの用意してくれていた服を着た。だぼだぼで、シャツだけでズボンはいらないくらいである。その格好でバルドの前に立つと彼は大笑いした。
「お前小っせぇなぁ。歳いくつだよ」
「12」
「へぇ、なら普通はもっと大きいのにな」
バルドはクルの頭をポンポン叩いた。
「貧乏だからまともに飯食えなかったし……」
「ああ、そっか。そうだよな」
なんともない風に答えたバルドはクルを椅子に座らせてクルの前に皿を置いた。その皿の中には、なんともおいしそうなハンバーグがあった。
「……これ、バルドが作ったのか?」
「一人暮らしなのに他に誰が作んだよ」
笑いながらバルドはクルの正面に座る。じっと珍しそうにハンバーグを見つめるクルに、バルドは笑いかけた。
「いらねぇなら俺がもらうぜ」
クルは急いで食べ始めた。そして驚いた顔をしてバルドを見る。
「おいしい……」
バルドはケラケラと笑う。
「どこぞの箱入り娘よりかは美味く作れる自身あるつもりだけど?」
「すごいな」
「一人暮らししてりゃ嫌でもこんぐらいできるさ」
「なんで一人暮らしなんだ?」
「んー……。勘当されたってところだな」
「かんどう?」
「まあ、親と子の縁を切るってことだ」
「何でだ?」
「俺、親の反対を押し切って夢追っかけてんだ。そしたら親父が『お前とは勘当だ!』って怒鳴りやがって俺も思わず『上等だ!』って出てきたってわけ」
「夢って、果物屋?」
バルドは大笑いした。
「んなわけあるかよ。もっとすっげぇのだ」
クルは首を傾げた。バルドはニッと笑う。
「警官だよ」
「警官……?」
「ああ。悪人捕まえて市民の安全を守るあの警官」
「なんで反対されたんだ?」
「最近の警官はどいつもこいつも腐ってやがるからな」
「……?」
「取調べはやらせがあるし、捜査もいい加減に済ます。手柄を上げる為にでっち上げしたりとか。ま、いろいろあんだ」
「なんでそんなんになろうと思うんだ?」
バルドは軽くクルを睨む。
「バッカだな。誰がそんな腐った野郎なんかに進んでなるかよ。俺はな、そんな腐った野郎なんかにならねぇよ。でも、何度説得しても親父は最後まで反対しやがった。そんな環境の中にいたらどうせお前もそこらへんの警官と同じになるんだってな」
バルドは肩を竦める。
「俺の意思はそんなに弱かねぇっての」
そして意味ありげにクルを見た。
「な」
クルは少し首を傾げる。
「まぁ、俺のことはどうでもいいとして」
バルドはズイ、と身を乗り出してきた。
「お前、何ができんの?」
「え?」
「何か、得意なことねぇのかよ」
「得意なこと……?」
「楽器ができるだとか、歌が美味いだとか、口が達者だとか、何かねぇのかよ」
「……知らない」
「使えねぇ奴だなぁ」
「……?」
「あのな、自慢じゃねぇが俺はヤバイくらいに貧乏だ。だから、勢いでお前を家まで連れてきたけど正直二人分の食費はねぇわけ。一人分くらいなら果物売ってなんとかやってけるけどさすがに二人分は無理だ。だから、お前もどっかで金稼いできてもらわないといけないわけ。わかるか?」
クルは頷く。しかしすぐに言った。
「そんなに大変なら、俺出て行くけど」
「バッカ。それじゃ格好つかねぇだろ。まぁ、とりあえず最初は近所の煙突掃除でもして稼いできてもらうか」
「……」
「何だ、嫌なのか?」
クルは首を横に振った。そして小さく笑い声を漏らす。
「バルドって、変な奴」
笑ったのは、久しぶりかもしれない。家族の間でも最近笑っていなかったというのに、この男は一体何者なのだろう。バルドは眉を潜めている。
「んだよ失礼な奴だな」
クルはニッコリと子供らしい笑顔を見せた。
「煙突掃除、やるよ」
「よし。じゃあ明日からな。けどまずお前に合う服がいるな」
「服って、高いんじゃないのか?」
「ああ。だから」
バルドはニヤリと笑って人差し指と中指を立てると、ハサミのように閉じたり開いたりした。
「作るんだよ」
「え?」
彼の器用さは並外れていた。クルの胴回りなどの寸法を済ませた後、いらなくなった自分の服を裁ち、クルの服を作り初めたのだ。主婦顔負けの手さばきである。ミシンも何もないのに、ただ手縫いだけで着々と服を縫い上げていき、夕暮れには完成した。
「ほらよ、できたぜ」
バルドは完成したシャツとズボンをクルに投げた。
「早い……。それにきれいだ……」
クルは服を広げてまじまじと見る。バルドは得意げに笑った。
「節約の生んだ技ってやつだな」
クルは早速着替え始める。するとバルドの注意の声が飛んだ。
「それ、ミシンでやってねぇから縫い目んとこの糸が切れやすくなってる。あんまり大きい動きするんじゃねぇぞ。明日になったらちゃんとした服買ってきてやるから我慢しろ」
服のサイズはピッタリだった。呆然としているクルをよそ目にバルドは夕食の準備に取り掛かった。クルは鏡の前に立ってずっと自分の姿を見ている。しかし、遠くでバルドが呼んだ。
「おい!ちょっとは手伝え居候!働かざるもの食うべからずだ」
クルは苦笑した。
「居候させたのバルドなのに」
そして小走りで彼の所へ行った。
夕食を済ませると、クルはソファの上に寝転んでいた。するとテーブルに座っていたバルドが何やら舌打ちをしている。
「くっそ。そろそろこれも寿命か」
「?」
ソファの背もたれからひょいと顔を出したクルは彼の手の中の物を見た。どうやらラジオのようだ。バルドはそれをクルに見せる。
「コレ、音拾えなくなっちまった。これじゃ明日の天気分かんねぇよ」
「明日何かあんのか?」
「雨の日は市場で店出さねぇんだよ」
「でも天気なんて明日分かるじゃん」
「場所取り早く行かなきゃいい場所なくなっちまうだろ」
「ふーん……」
「しゃぁねぇ。ちょっと空見てくるわ」
「天気読めるのか?」
「カンだ」
言い放った彼にクルは思わず笑った。
バルドが出て行くとクルはテーブルに駆け寄ってラジオをマジマジと見た。傍にはドライバーが転がっている。恐らくバルドが修理しようとして失敗したのだろう。器用な彼でも機械にはめっぽう弱いらしい。クルは興味本位でそのドライバーとラジオを手に取った。ネジにドライバーを差し込んで回した。ふたを取りはずすと見たこともないような部品がギッシリと詰まっている。
「……」
クルはジッとそれを見つめた。そして、どうせ壊れているならどうなっても構わないんだろうかと一瞬考えた。その考えは疑問から確信へと変わり、自然とこのラジオが自分の自由にできるのだと思えてくる。思わずニヤリと笑みがこぼれる。
その頃バルドは空を見上げていた。東に月が見える。
「んー……。かさはかぶってないな」
月の周囲を見てみる。
「うん。星が近くにあるし」
今度はその場で回転して空をグルリと見回してみる。
「雲はない」
バルドはハッキリと断言した。
「明日は晴れ!」
そしてくるりと踵を返して家へ入った。玄関を開けるなり何やら声が聞こえる。
「えーそれでは……次の……」
バルドは眉を潜めて奥にいるはずであろうクルに声を掛けた。
「おい、何一人で喋ってんだ?」
しかし、声は止まることなく続く。
「おい」
リビングへ出たバルドはソファを見た。クルはそこへ寝そべっていたが身を起こして首をかしげる。
「何だ?」
そうは訊きながらも、顔はニヤニヤと笑っている。
「明日は気温も高く、晴れるでしょう……」
突如後ろから聞こえた声にバルドは振り向いた。そこにはテーブルがあり、その上にラジオがある。スイッチが入っていた。声はそこから聞こえる。
「……は?」
目を見開いたバルドはそのラジオを、くいつくように両手で掴んだ。
「降水確率も午前、午後とも0%でしょう」
喋っている。ラジオがちゃんと動いている。
「なんで……?」
驚いてクルを振り向いた。クルはイタズラが成功した時のような笑みを浮かべている。そして右手に持っていたドライバーを軽く左右へ振った。
「まさか……」
唖然とするバルドにクルは得意満面に笑う。ラジオとクルを交互に見たバルドは突如大声で笑った。そしてクルの頭をわしゃわしゃとかき回すように撫でた。
「やるじゃねぇか」
クルは照れたように笑っている。
「何だよ、どうやってやったんだよ」
「適当だよ」
「適当であんなんできるかよ」
バルドはクルの隣に座った。
「ま、どうでもいいけどよ。お前得意なことあんじゃん」
「え?」
バルドはニヤリと笑う。
「機械の修理」
「まさか……」
「煙突掃除なんてやめやめ。機械の修理しろ」
「無理だって!あれは適当にやったからできたんだよ」
「んじゃ、適当かそうでないか、実証してもらおうじゃん」
「どうやって?」
「うちには壊れた機械がまだまだたくさんあるんだよ」
クルはその後、洗濯機や電話などさまざま物を修理させられた。しかしクルは次々とそれらを直していった。部品が完全に壊れていたとしても、どの部品が壊れているのかを理解していた。動くようになった洗濯機を撫でながら、バルドは目を丸くした。
「すげぇなお前。今までこんなことしたことなかったんだろ?何でいきなり突然できるわけ?」
クルは考える間もなく、ニッと笑った。
「カンだ」
バルドは思わず噴き出した。
翌日から、バルドはいつも通り市場で果物を売り、一方のクルは町中を歩き回って出張で機械を修理し金を稼ぐことになった。
クルの手先の器用さは間違いではなかった。誰に教わったわけでもないのに壊れたテレビやエアコン、電気機器なら何でも直してしまった。その為、稼ぎは上々でクルが居候しても二人の生活に何の支障もなかった。
今日もラジオや電子レンジを修理し終えて、昼になったためクルはバルドのいる市場へ向かった。昼になったら絶対にここへ来ることにしろと言われているのだ。
「よお、どうだい稼ぎは」
クルは皮製の袋をバルドに渡した。中身を確認したバルドはケラケラ笑う。
「んだよこのガキ、俺より稼いでんじゃねぇか」
「そうなのか?」
「ちょっとだけな。しっかし午前中でこんだけとか午後も期待できんじゃねぇの?」
笑いながらバルドはリンゴをクルに放り投げた。それを受け取ったクルはバルドの後ろに座る。そしてトン、と彼の大きな背中にもたれた。
「でも、どこでも機械が壊れてるわけじゃないし。今日も2、3件断られた」
そしてリンゴを一口かじった。バルドは仕事を続けている。
「けど、クル。お前近所でなんて言われてるか知ってるか?」
「え?」
「お前な……」
そこでバルドの声が途切れる。続いて彼は営業用の声になった。
「いらっしゃいませ」
お客らしい。
「奥さんどうですこのリンゴ。蜜いっぱいで美味いですよ」
「そうねぇ……」
何やら渋っているようだった。そして申し訳なさそうな声を出す。
「遠慮しておくわ。ごめんなさいね」
「いいえ。おいしいリンゴが食べたくなったら、ぜひここへ来てください」
「ええ」
彼女が去ると、急にクルの背中が重くなる。バルドがもたれかかってきたのだ。その背に、何かを感じ取った。不思議に思ってクルが顔だけ後ろへ向けて彼を見上げる。バルドは前を向いたままだ。
「俺さぁ、たまに思うんだよな」
彼の声はいつもよりも暗かった。クルは首を傾げる。
「何を?」
バルドはため息をついた。
「いつまでこんなことやってんだって」
「……」
「警官になるつもりで家出てきたってのに、なんで俺市場で果物売ってんだ?」
「じゃあ何で、バルドは警官にならないんだ?」
バルドは嘲笑した。
「なれねぇんだよ」
「え?」
「筆記試験、落ちてるわけ。今まで5回受けたけどな」
「また受ければいいじゃん」
「受験にも金がかかるんだ。それも結構な額でさ。筆記試験は年に2回あるんだが俺の場合金の都合上1回しか受けられねぇってわけ」
「……じゃあバルドって、13歳の時から警官目指して家出たのか?」
「まぁな」
「すげぇな」
「どこがだよ。試験落ちてるってのによ」
「……じゃあさ」
クルはもたれかかっていたバルドの背を、自分の背中で押し返した。
「俺がバルドの受験の金稼いでやるよ。だからさ、年に2回受けろよ」
「……」
一瞬の沈黙の後、バルドは突然噴き出した。
「あっはは!お前が俺の受験費稼ぐって!?」
「わ、笑うな!」
怒ったクルはバルドの髪を引っ張ろうとした。しかし彼の手によってそれは防がれてしまう。バルドは笑い続けている。
「なんだよ!人がせっかく親切心でやってやろうって言ってんのに」
牙を剥くクルに対して、バルドはニヤリと笑った。
「生意気なガキだな」
「なんだと!」
「けど、そんな生意気なガキに頼らなきゃなんねぇ俺は情けねぇな」
「……」
バルドは笑いながらクルの頭に手を置いた。
「頼むぜ、小さな修理士さん」
「……?」
「あ、これ近所で言われてるお前のあだ名な」
「あだ名?」
「ああ。近所のおばちゃんに大人気だぜ、お前。あんなかわいい修理士うちに欲しいっていっつも言われんだ」
「……」
クルはうつむいた。バルドはケラケラ笑う。
「なんだ?照れてんのか?やっぱまだまだ子供だな」
「笑うな!」
怒鳴ったクルは立ち上がって、鼻を鳴らすと午後の仕事へ向かった。その姿をバルドは微笑みながら見送る。
「よし、俺も頑張るか」
大きく頷いて、彼は仕事に戻った。
その日からバルドはクルを無理やりつき合わせて勉強に励んだ。朝は市場へ行き、昼になってクルが来たら筆記試験の過去の問題の本からクルに問題を出させ、午後はまた本を片手に仕事をする。そして夕食時もクルに出題してもらい、クルが寝静まると一人ノートにペンを走らせた。最初は嫌そうだったクルもそのうち協力的になり、頼んでもいないのに突然問題を出すことも多々あった。
そうやって迎えた筆記試験の日。
バルドは笑いながら家へ帰ってきた。クルは手ごたえのあったものと見て、思わずおめでとう、と言った。しかし、バルドはひらひらと手を振って、
「ありゃ落ちたな」
とそう言ったのだった。クルは目を丸くした。
「じゃあ何でそんな笑ってんだ?」
バルドはにこにこと満面の笑みを浮かべている。
「また半年後に受けられると思うとわくわくしてさ、クルのおかげだ」
そしていつものようにニッと笑うのだ。
「ありがとな」
クルは照れるのを隠すために、わざと鼻を鳴らしてバルドに本を投げた。
「落ちたんだったら次の試験に向けて勉強するぞ」
「厳しい先生だな」
そうは言いながらも、バルドは優しく微笑んだ。
それから半年後。バルドは試験に合格した。合格通知書をもらったバルドは思わずクルを抱きしめた。
「やったぜ!7回目にしてようやく合格!俺もやっと念願の警官になれた。これもお前のおかげだ」
抱きしめられたことなど記憶にも残っていなかったクルは、バルドの合格を喜ぶことを忘れて呆然としていた。バルドはクルを放すと頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「ありがとな」
クルはまだ呆然としていた。バルドはゆっくりと立ち上がるとソファへ座る。そして、合格通知書を眺めながら、ポツリと呟いた。
「なあ、クル」
そこでクルは初めて我に返った。
「……なんだ?」
「お前さ、将来何になるんだ?」
「……決めてない。なんでそんなこと聞くんだ?」
「いや、ただ聞いてみただけだ」
しばらくの間沈黙があり、バルドはやっと口を開いた。
「あのさ、クル。俺が受かった警察署。寮制なんだ」
「え?」
「警官になった奴は、絶対に寮に入らなきゃなんねぇんだ……」
「じゃあ、俺、これからどうしたらいいんだ?」
バルドはクルを振り向いた。
「お前、警官になれ」
「え?」
「俺、仕事ちゃんとして生活費こっちに送ってやる。だからお前も半年後の筆記試験受けろ」
「そんなこと無理に決まってるだろ」
「スピード違反者の刑罰は?」
突如出された問題にクルは反射的に答えた。
「罰金5万以下もしくは1年の懲役」
クルはハッとした。バルドはニッと笑う。
「な?」
「でも、そんなの勝手すぎるだろ」
「もちろん、お前が警官になりたくないなら強制はしない。この家お前にやるし、生活費もちゃんと毎月送る。休みの日はお前に会いに来る。だから、この先どうするかはクルの自由だ」
少し考えたクルは、ジッとバルドを見つめた。
「……なんで今まで寮制のこと黙ってたんだよ」
するとバルドは急にうつむいた。
「俺は、どうしても警官になりたかった。家を飛び出してまで叶えようとした夢だ。絶対に実現させようと思った。でもお前に寮制のことを話したら、反対されると思ったんだ。……悪かった」
「なんで俺が反対するって思ったんだ?」
「お前、日に日に初めて会った時よりもすっげぇ楽しそうな顔するようになっていったから。今までの生活が気に入ってるんじゃないかと思って」
「俺は、人の夢を邪魔するほどガキじゃない」
そう言い放ったクルにバルドは顔を上げた。クルの瞳は真っ直ぐ彼を見つめている。そこに強い光を見たバルドは苦笑する。
「悪い。そうだよなぁ、お前そんなガキじゃねぇよな」
クルはニッと笑った。
「行ってこいよ。新人警官」
バルドもまたクルと同じように笑う。
「生意気なガキだ」
それから数週間が経ち、バルドはいなくなった。
クルはいつもと同じように近所の家々を回る。その途中、道端に座っている中年の男を見つけた。紺色のロングコートを羽織っている。彼は右の耳に何か直方体の黒い物を当てている。それはどうやらラジオのようだ。だが、故障しているのか音が聞こえないらしい。
「どうしたんですか?」
クルが声を掛けると、その男は困ったように笑った。
「いやぁ、ラジオが壊れてしまったんだよ。これではニュースが聞けなくて困っているんだ。そろそろ買え時かもしれないね」
「ちょっとかしてもらえますか?」
「どうするんだい?」
クルはラジオを受け取るとカバンからドライバーを取り出した。そして蓋を外して中の様子を調べる。故障の原因を見つけるとすぐに修理に取り掛かった。手馴れた作業に男は目を丸くしてそれを見ていた。やがて10分と経たないうちに修理を終えたクルはラジオのスイッチを押す。先ほどまで聴こえていたノイズが全くなくなり、ハッキリとしたきれいな音でニュースが流れてきた。
「どうぞ」
ラジオを受け取ると男はマジマジとそれを見る。
「すごい。君は手先が器用なんだね」
「俺、ここら辺で出張修理してるんです」
男は首を傾げる。
「君、お父さんとお母さんは?」
「いません」
「君は、孤児なのかい?」
クルは頷いた。
「そうか。じゃあそうやって修理してお金を稼いでいるんだね」
すると男はニコリと微笑んだ。
「どうだい。君、警官にならないかい?」
「え?」
思わぬ言葉にクルは目を丸くした。男は胸ポケットから手帳を取り出してクルに見せる。それは警察手帳だった。
「私はラベル警察署の総監でね。ほら」
そう言ってコートを開くと確かに警官の制服を着ていた。
「丁度今、爆発物処理課の人材を探していた所なんだよ。その手先の器用さを生かして、入ってみないかい?」
クルはポカンと口を開けている。
「どうしたんだい?嫌ならいいんだよ」
「でも俺、両親いないし、金稼がなきゃなんねぇし。筆記試験にはお金が……」
「それなら大丈夫だ。私が全て手配しよう。筆記試験のお金は理由さえ通れば免除することだってできるし、あわよくば筆記試験を受けないで警官になることだって可能だ」
男は微笑んだ。
「君は、警官になる気はないかい?」
クルはしばらく考えた後、力強く頷いた。
「なります」
男もまた頷いて、さわやかな笑顔を見せた。
「私はラベル警察署総監、ビルバードだ。よろしく」
「クルです。よろしくお願いします」
その後クルはビルバードに連れて行かれ、警察署へ向かった。そこでバルドと出くわし、彼は驚いてキョトンとしていたが、クルが事情を説明すると笑いながら彼の頭をポンポンと叩いた。
クルはビルバードの手配のおかげで筆記試験を受けずに警官になることができた。それをバルドに知られたら彼は嫌な思いをするだろうかと一瞬不安になったが、クルの噂はたちまち署内に広まり、あっという間にバルドの耳にも入った。しかしバルドはいつものように豪快に笑いながら、すげぇじゃんお前、と言った。そして微笑みながら、初めて会った時のように右手を差し伸べた。
「これからもよろしくな」
クルは笑いながら握手を交わした。
冷たい地下の牢屋の中、足音が聞こえてクルはスッと目を開く。
「珍しいな、お前がこんな所にいるなんて」
牢屋の前に立った男をクルは静かに見据える。茶髪の男。右目に黒くて丸い眼帯をしているため、警官の制服を着ているがまるで海賊のようだ。
「……」
「なんだよつれないなぁ、かつては一緒に暮らした仲じゃねぇか」
「バルド、俺は反省するために自分からここに入ったんだ。人と会話する気はない」
バルドは微笑んだ。
「自分一人で、答えは見つけられんのか?」
「わからない。だけど、見つけてみせる」
「そっか」
バルドは牢屋の前に座った。
「レイマン・ダラーダって言ったっけ、今回の事件で死んだ魔法課の人」
「ああ」
「牢屋の見張り役の俺が見たことねぇってことは、きっとその人真面目な人だったんだな」
「ああ」
「それに、周りの奴らの反応見る限り、すっげぇ信頼されてた人なんだな」
「ああ……」
「そんな人が、どうして死ななきゃなんねぇんだろうな」
「……」
「世の中がぶっ壊れちまってるからなのか。それとも、俺たち警官が不甲斐ないからか」
「俺が、不甲斐ないからだ」
それから、クルはもう何も言わなかった。しかしバルドは口を開く。
「俺さ、こんな地下で働くよりももっと、地上で働く仕事がしたかったんだ。交通課とか捜査課とか、お前みたいに爆発物処理課とか。だけど、俺には何のとりえもなくて結局こんな暗い所で見張り役。お前が褒めてくれた裁縫だって、ここでは何の役にも立たない」
小さくため息をついた。
「世の中が狂ってるっていうのに、市民を守る警官の一員である俺が何もできないなんて、相変わらず俺は情けねぇ奴だろ」
そしてフッと笑う。
「だけど、俺はいつか絶対外で仕事するって決めてんだ。そのために毎日頑張ってる」
バルドはゆっくりとクルを見た。彼はうつむいている。
「クル、お前は」
バルドは真剣な表情で、重みのある声で、
「歩みを止めちまったんじゃねぇだろうな」
クルは、ハッと顔を上げた。
『歩けなくなって死ぬのはいいけど、自分から歩くのを止めて死のうなんて思わなかった』
バルドはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあな。まぁ、ゆっくり考えろよ」
そう言ってバルドはそこから立ち去った。クルは再び静かに目を閉じた。