-After rain comes sunshine-
十一章 -After rain comes sunshine-
シャルは朝早く起きた。ベッドを見ると、カーサもレイマンもまだ寝ている。だが、シャルに背を向けるようにして寝ているカーサが、本当は起きていることはシャルにはわかっていた。
着替えを済ませ食堂へ走ると、急いで朝食を食べた。
そこへネアンがやってくる。
「あ、シャル君」
隣に座ると、心配そうな顔をして訊いてきた。
「ねぇ、大丈夫?」
「何が?」
「カーサと何かあるんじゃないの?」
「どうして?」
「昨日の夜、カーサがネックレスを見つけて届けに来てくれた時、何か元気なかったから『どうしたの?』って聞いたの。そうしたら、子供の頃のことを急に話し出して……」
「え……」
ネアンは悲しそうな顔をした。
「初めて聞いたわ。カーサの過去」
「……」
「でも、続きはシャルに訊けって言ってそのまま部屋に戻っちゃったの」
「僕に?」
「うん。……あ、でも話したくないならいいよ。ただ、二人がケンカしているみたいだから、早く仲直りできればいいなぁって」
シャルはゆっくり立ち上がる。
「パトカーを止めた人は、僕の父かもしれないんだ」
「え!?」
目を丸くするネアンをシャルは真っ直ぐ見た。
「僕は、これからそれを確かめに行くんだ。真実を、知らなきゃいけないんだ」
歩きだしたシャルは、不思議そうな顔をしているネアンを振り返ると、ニコリと微笑んだ。
「今日の朝ごはんも、おいしかったよ。ごちそうさま」
そのまま署にある図書室へ向かった。半日かけてそこでイーラム・レンダーという名を探したが、見つけた記事に書いてあるのは全て彼が見事な功績を残したことだけだった。
やがて彼に関係してそうなものは全て読み終わった。だが、駐車禁止の場所にパトカーを止めたことなど一切書かれてはいなかった。やはり、カーサの間違いではないのか。かすかな希望が見えた。
そして図書館を出たとき、ビルバードと出会った。彼はシャルに気づくとニコニコ笑いながら話しかけてきた。
「やあ、久しぶりだね。えぇっと確か君の名前は……」
ビルバードに名乗った覚えはない。考えても出てこないのは当たり前だろう。シャルは敬礼をして言った。
「シャル・レンダーです」
「おお、そうか。シャルか。それで、どうだい?射撃の方は」
「はい、先輩に教えてもらえっているんですが、なかなか難しいです」
ビルバードは大きく頷いた。
「そうか。頑張りなさい」
「はい」
そして、彼が去らないうちにとシャルはすぐさま話を切り出した。
「あの、総監」
「なんだい?」
「イーラム・レンダーという人をご存知ですか?」
「ああ、イーラム・レンダーか。よく知っているよ。彼は難事件をいくつも解決した有名人だったからね」
「その人の、不正をご存知ですか?」
ビルバードは一瞬顔を曇らせた。その反応に、先ほどまでの希望が薄らいだ。
彼は小さく口を開く。
「知っているよ。駐車禁止の場所にパトカーを止めたんだってね」
心臓が大きく跳ね上がった。希望は一瞬にして消えうせ、辺りは急に暗闇に呑まれる。
「事件の捜査のためにそこが駐車禁止の場所だと知っててパトカーを止めたそうだが、そのせいで幼い少年の両親の命を奪ってしまったんだ……」
「……それなら、そんなことをしている人がどうして英雄だったんですか?」
「彼の今までの業績がとてもよかったからさ。だがそんなことがあったとわかってしまってからは、彼は天から地へ一気に堕ちたよ」
ビルバードは悲しそうな顔をした。
「英雄も、所詮は人間なのだね。イーラム・レンダーは、自分のせいで幼い少年の命が奪われたことを知った時に、その事実を揉み消そうとしたんだよ」
シャルは驚きのあまり声を荒げた。
「何ですって!?」
ビルバードは小さく息を吐く。
「彼は捜査課の班長だった。そして次期総監候補者でもあった。しかし彼は自分の地位が無くなることを恐れた。だから、病院側から抗議があった時に、彼はその事実を揉み消そうとした。病院に賄賂を渡そうとしたのだ。だがそれが総監の耳に入ってしまい、彼は辞めざるをえなくなった。そして彼は病にかかり、亡くなってしまったんだ」
「そんな……っ」
「彼によって両親の命を奪われた少年がここへ乗り込んできたのは、それから数年後だよ。少年は復讐のためにここへ現れた。だが、復讐は魔術課のレイマン・ダラーダという人によって止められた。レイマンが入署したのは、イーラム・レンダーが辞めた後だったから、当時のことを知らなかった。レイマンは少年のことを我々の所へ報告しに来たんだ。その少年があの時の子だと知った我々は少年に慰謝料を払おうとした。だが少年は受け取らなかった。警官からもらった金で生きるなら死んだ方がマシだ、とね」
シャルは目の前が真っ暗になり、もう何も考えられなくなっていた。
「すみません、せっかくのお休みなのに手伝ってもらっちゃって」
屋上でネアンはレイマンに手伝ってもらいながら洗濯物を干していた。
レイマンはニコリと笑う。
「構わないさ。一人でボーっとしているのは苦手な方だからね」
そして足元に置いてある五つの洗濯籠に目をやった。
「いつも一人で洗濯をしているのかい?」
「ええ。大抵は」
「こんなに重い洗濯籠を五つも運ぶのは大変だろう」
ネアンは苦笑した。
「最初はキツかったですけど、もう慣れました」
レイマンは微笑む。
「そうか。いつもありがとう」
「いいえ。仕事ですから」
ハンガーにシャツをかけたネアンはふとレイマンを見た。
「あの、手伝ってもらっておいてこんなこと言うの失礼なんですけど……」
「なんだい?」
「レイマンさん、こんなところで洗濯物なんか干してていいんですか?」
「え?」
ネアンは心配そうな顔をした。
「カーサとシャル君が今どういう状況にあるのかご存知ですか?」
レイマンは静かに頷く。
「ああ、知っているよ」
「心配じゃないんですか?」
レイマンは穏やかな表情をしている。
「あの子たちなら、大丈夫だよ。それに私が彼らの間に入った所でどうにもならないからね」
レイマンはシーツを物干し竿に引っ掛けた。
「あれはあの子たちの問題だ。解決できるのは、あの子たちだけだよ」
「……」
ネアンはジッとレイマンを見つめた後、小さく笑った。
「そうですね。大丈夫ですよね。カーサもシャル君も子供じゃないんだから、大丈夫ですよね」
するとレイマンは小首を傾げる。
「ところで、どうして二人のことを知っているんだい?」
「カーサが昨日話してくれたんです……」
ネアンは昨日の夜のことを話しだした。
「ほら」
ぶっきらぼうに差し出されたカーサの手には、三日月のネックレス。
「あ、ネックレス!見つけてくれたの?ありがとう」
ネアンは嬉しそうにそれを手に取ると早速首につけた。
「どこで見つけたの?」
「屋上」
「じゃあ、洗濯物干してるときに落としたのかなぁ……」
「かもな」
ネアンはあっさりと返事を返すカーサを見上げた。どこか元気がない。
「ねぇ、どうしたの?元気ないよ」
「……」
「何か悩み事でもあるの?」
「……」
カーサはしばらく黙った後、小さく自分の過去のことを話し出した。ネアンは驚きが隠せない。しかし構わずカーサは話し続ける。
「それで、そこにパトカーを止めた奴。そいつの名前は―――」
言葉を詰まらせた。
「?」
ネアンは首を傾げてカーサを見つめる。唇をきつく噛んでいる。悔しいという感情からではないように思えた。まるで、これ以上何も喋ってはいけないと自制しているような。
「……っ」
カーサはネアンに背を向けた。
「……続きは、シャルから聞け」
「え?」
「寝る」
怒鳴るようにそう言って、カーサは部屋へ向かって歩いて行った。
話し終えた後、ネアンは首を傾げた。
「でも、どうしてあの時そんな辛い過去を私に話したんだろう……?」
レイマンは穏やかに微笑む。
「それは、カーサ自身が安心したかったんだよ」
「え?」
「部屋に帰ってきた時、カーサは私に言ったんだよ」
『レイマン。俺、自分が大っ嫌いだ』
「……?」
「君はパトカーを止めた人が誰か知っているかい?」
ネアンは頷いた。
「少なからずカーサはシャルに憎しみを感じている。だが、シャルを憎む理由はないということもちゃんと気づいている。けれどカーサが本当に憎んでいる男はもうこの世にはいない。怒りを向けたくても誰にも向けられないんだ。だからシャルがその男の息子だと知った時、怒りを、憎しみをぶつける相手ができた。カーサはそこに逃げたんだ。そして、自分がシャルを憎むことは間違ってなどいないということを確信する為に、君に全てを話して、自分の両親の命を奪った人の名前を明かし、その人がシャルの父親であることを知ってもらおうとした。君がシャルのことを少なからずそういう目で見るようになれば、彼を憎む自分は間違ってなどいないと安心できる。自分自身が、安心できるように……。そう、昨夜カーサは私に言った」
「……」
ネアンはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに言った。
「でも、カーサは優しいですね」
「君もそう思うかい?」
「はい。だって昨日、両親の命を奪った人の名前を明かそうとしたその直前、カーサはまるで自制するみたいに自分の唇をきつく噛んでたんです。それって、シャル君のことを思ったからじゃないでしょうか?」
レイマンは嬉しそうに頷く。
「きっとそうだろう。二人はまた近いうちにでも元の関係に戻ることができると思うよ」
「そうですね」
ネアンは明るく笑った。
「ああ、なんか安心しました。ありがとうございます」
「私は何もしていないよ」
「いいえ。レイマンさんと喋るといっつも安心するんです」
レイマンは照れたように笑う。
その時、強い風が吹いた。ネアンの持っていた手からタオルが飛ぶ。
「あ……」
思わずネアンはそれを追いかけた。タオルはフェンスの向こう側へ。ネアンは夢中でフェンスを越える。
「危ないよ」
レイマンが慌てて追いかけてくる。しかしネアンは笑顔だ。
「平気ですよ。たまにこういうことありますから」
そしてタオルを取るとほら、とレイマンに見せた。
その時、先ほどよりも一段と強い風が吹いた。ネアンは思わず右足を一歩後ろへ。しかし、ネアンが足を下ろそうとしたところには何もなかった。
「……あっ」
ネアンの体はそのまま後ろ向きに倒れる。
「ネアン!」
レイマンが手を伸ばしたが既に遅く、ネアンは11階建ての寮の屋上から地面へ真っ逆さまに落ちていった。
レイマンは杖を構えるとすぐさま呪文を唱え始めた。
「木枯らしの神よ、我が杖に導かれよ」
フェンスから身を乗り出してスッと杖を振る。一陣の風が吹き、落ちていくネアンの体をふわりと浮かせた。レイマンは慎重に杖を上へ上げた。ネアンの体は徐々に浮かんでくる。こちら側へ寄せて、受け止めると静かに術を解いた。
ネアンは気絶していたが、軽く揺するとすぐに気がついた。彼女は驚いたように目を丸くする。
「……あれ?」
「大丈夫かい?」
レイマンはネアンの顔を覗き込んだ。
「あ、はい。えぇっと……」
彼女はキョトンとしている。
「私、落ちましたよね……?」
レイマンはそっと彼女を立たせた。
「ああ。危なかったよ。もうあんなことしたらダメだよ」
「すみません……」
その時ネアンはレイマンの左手に杖が握られていることに気づいた。瞬間、叫ぶように名を呼んだ。
「レイマンさん!」
「どうしたんだい?」
急に大きな声を出されてレイマンは驚いている。
ネアンは慌ててレイマンの両腕を掴んだ。不安の色をした瞳がレイマンを捉えた。
「魔法使ったんですか?」
「ああ」
「どんな魔法ですか?」
「風を操る魔法だよ」
「ああ、どうしよう!ごめんなさい!」
ネアンは今にも泣きそうだ。
「私のせいで……っ」
レイマンは穏やかに微笑んだ。ゆっくりとネアンの頭に手を置く。
「ネアンは優しいな。大丈夫だよ」
そして心地よい声音で優しく言った。
「君が無事でよかった」
「……っ」
ネアンの目から涙がこぼれた。
「どうしたんだい?どこか怪我でも……?」
「違います」
ネアンは首を大きく振った。
「怪我なんかしてません!」
「じゃあどうして」
「あなたが!」
ネアンは顔を上げると声を荒げて言った。
「あなたが優しすぎるんです!」
「……」
レイマンはポカンとしている。
ネアンは嗚咽を漏らしながら、それでも大声で言う。
「優しすぎるんです!レイマンさんは優しすぎて、それで自分が大きな損をして……。助けていただいたことは本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。でも、魔法使いは魔法を使うと命が無くなっていくんでしょう?それに私、シャル君に聞いたから知っています。自然を操る魔法は魔力がとても大きいということを」
レイマンは穏やかに笑う。
「優しいのは君の方だよ」
次々と溢れてくる涙を拭ってやった。
「我々魔術課の役目は、魔法を使うことによって人を救うことだ。その為なら魔力がどうとか、自分の命がどれだけ削られるとかは一切考えない。だから私のことは心配しなくていい」
「でも……」
レイマンは微笑んだ。
「さぁ、洗濯物は終わった。次は何を手伝おうか。仕事はまだたくさんあるのだろう?」
ネアンは首を大きく横に振る。
「ありがとうございました。もういいです。レイマンさんは休んでおいてください」
「本当に?手伝わなくていいのかい?」
「大丈夫です。本当にありがとうございました。それと、本当にごめんなさい」
「気にすることはないよ」
ネアンは一礼すると洗濯籠を重ねて屋上を去った。
それを穏やかに見送った。
ネアンが出て行ったドアがパタリと閉じる。その瞬間、心臓に締め付けられるような痛みが走った。
「っ……!」
思わず左胸を掴むように押さえる。立っていられない程の目まいと吐き気が起こり、フェンスにもたれかかった。凍てつくような寒気が襲う。それと同時に、背後で冷たい声がした。
―アト少シ―
知っている。
この声。
―アト少シダ―
楽しそうなその声の主は、レイマンの後ろから前へ、彼の体を通り抜けて現れた。
「ぐぁっ……」
激痛が走る。片膝をついてその場にうずくまるようにしていると、黒光りする、コウモリのような翼を広げた悪魔はケラケラと笑った。
―世の道理を破る愚かな魔法使いよ、知っているか?お前の寿命を―
レイマンは苦笑した。
「さぁ……。わからないな」
悪魔は大声で笑う。
―俺も知らねぇよ。けど、俺がお前の命を喰ったその時、お前は確かに痛みを感じた―
悪魔はレイマンに顔を寄せてくる。
不気味なほど、青白い色をしていた。
―世の道理を知ってもなお魔法を使い続けるバカな魔法使いよ、それは何を意味するか知っているか?―
「大方……想像はつくよ」
―へぇ、なんだよ?言ってみな―
レイマンの呼吸は徐々に整ってきた。深呼吸を重ねると、レイマンはゆっくり立ち上がった。
「死が近い、ということだろう?」
その顔は穏やかである。悪魔はつまらなさそうな顔をした。
―なんだよ、お前死ぬのがそんなに嬉しいのか?そんなに俺に命を喰われたいのか?―
「魔法を使って人を救うのは私の喜びだ。だけど、それは世の道理を破っている。それ相応の罰を受けるのは当然のことだからね。仕方がないさ」
悪魔はレイマンを睨んだ。
―俺はお前みたいな奴が一番嫌いだな。綺麗ごとばかり並べやがって。本当はどっかで怯えてんだろ。死を恐れているんだろ?それなのに格好つけやがって。それで命削って、お前どこまでバカなんだよ―
レイマンはくすくす笑った。
「よく言われるよ」
―ま、いいや。せいぜい綺麗ごとを並べ続けるがいい。そして俺がお前の命を食い尽くす時、お前は俺に泣いてすがるんだ。“死ぬのが怖い。止めてくれ。死にたくない。助けてくれ”ってな。だがその時はもう遅いぜ。お前はあの世行きだ―
悪魔は再び大声で笑う。
レイマンは空を見上げた。
「その時、私は天国へ行けるかな……」
―あ?―
笑うのをやめて、怪訝な顔で見つめてきた悪魔にレイマンは微笑んだ。
「天国に行くと生まれ変わって再びこの世界へ降りてこられると言うだろう?私は再び生まれ変わって、また誰かを助けることができるだろうか?」
悪魔はレイマンを睨んだ。
―けっ。お前と喋ってると吐き気がするぜ―
悪魔の体は徐々に消え始める。
最後に、彼は嘲笑うように言い残した。
―大体、世の道理を破ってんだからそんな奴が天国なんかに行けるわけねぇだろ―
悪魔の姿は完全に見えなくなり、声も聞こえなくなった。
レイマンは悪魔が言い残した言葉に思わず笑みをこぼす。
「それもそうだな」
シャルは部屋へ戻った。そこにはレイマンがいた。今日会話をするのはこの時が初めてだ。
「レイマン先輩……。おはようございます」
彼は微笑んだ。
「今は『こんにちは』ではないか?」
「そうですね」
シャルは疲れたような笑みを浮かべる。
「そういえば、カーサ先輩はどこですか?今日は仕事は休みですよね?」
「ああ。屋上だよ。さっきすれ違ったからね」
「そうですか……」
シャルは動かなかった。うつむいてジッとしている。
その様子を見たレイマンは穏やかに笑う。
「どうして行かないんだい?」
「……怖いんです」
「怖い?」
「真実を知りました。でも、それを認めるのが怖いんです」
シャルは顔を上げない。
「……レイマン先輩」
「なんだい?」
「自分は……動けません」
レイマンはゆっくりと立ち上がった。シャルの前に立つと、肩に手を置く。
「それなら、私が押してあげよう」
そしてシャルの体をクルリと反転させるとトン、と肩を押した。シャルの足は一歩前へ出た。振り返ると、レイマンは笑っている。
「ちゃんと動けるじゃないか」
「……」
「行っておいで」
「でも……」
彼は優しく言った。
「シャル、逃げたら負けだよ」
そしてドアを閉めた。
廊下に残されたシャルはしばらくジッとしていたが、やがてゆっくりと屋上へ向かって歩き出した。階段を一歩踏みしめる度に体が重くなっていく。引き返したい。だが、先ほどのレイマンの言葉がシャルを前へと進ませていた。
屋上のドアが見えた。そっと開けると、眩しいばかりの太陽の光が差し込んでくる。目の前が真っ白になったそのすぐ後、こちらに背を向けて腰を下ろしているカーサの姿が見えた。
シャルは彼に近づいて、少し離れた所に立つ。
「……」
後ろからカーサの背を見つめながら小さく言った。
「先輩。……やっぱり、事実でした」
「そっか」
カーサは振り向かずに、間をあけて返した。シャルはうつむく。
「……どうしたらいいですか?」
「何がだ?」
「自分は、どうしたらいいですか?」
カーサはなおも振り向かない。真っ直ぐと、どこか遠くを見たまま言った。
「自分で考えろ」
「……」
長い沈黙が流れた。2人とも、何もしゃべらない。
シャルはゆっくりと屋上を出た。ドアの閉まる音を背中で聞いたカーサは、片手で顔を覆った。
「んなもん、俺だってわかんねぇよ……」
空を見上げる。
「なぁ、レイマン。どうしたらいいんだよ」
昨夜、レイマンに自分の思いをぶつけた。自分の両親を殺した人の息子であるシャルを憎むことは、間違ってなどいない。そんなおかしな言い分を、誰かにわかってもらいたかった。向けられない怒りを誰かに向けたくて。自分だけがスッキリし、自分だけが安心しようとした。卑怯で、醜く、そして最悪な自分がいる。そんな自分が、吐き気がするくらい大嫌いだ。
だが、レイマンは慰めの言葉もアドバイスもくれなかった。レイマンはただ一言、優しく言ったのだ。
『カーサ、逃げたら負けだよ』
「逃げてぇよ……」
カーサの言葉は、冷たい風に流された。
シャルは階段を一段一段ゆっくりと下りていた。
「……」
真実を知った。自分が目指していた理想は、自分の思い込みだけで立派に造り上げられていた。
でも、それが崩れた今、目指すものを無くした。
これから、何を目指せばいい?
何をすればいい?
何を―――
『シャル君は、そんな警官にならないよね?』
『染まるな』
シャルはハッと顔を上げた。
「なんだ……」
目指すべきものは、ちゃんとあったんだ。ちゃんと、皆が示していてくれていたんだ。
シャルは踵を返した。そのまま駆けるようにして階段を上って、勢いよくドアを開ける。カーサの姿は、依然としてそこにある。シャルはカーサの前に立った。
今度は、ちゃんと目を見つめて、
「カーサ先輩、決めました」
シャルの瞳は決意の色に光っている。
「自分は、父のような警官にだけはなりません」
「え?」
その後シャルは微笑んだ。
「もちろん、父の悪い所限定ですけど」
「……」
「カーサ先輩は、父の悪い部分しか知らないだろうけど、自分は少ないなりにも父の記憶はちゃんと残っています。ちゃんと父の良い所も知っているんです。だから自分は、父を含める全ての人の善を目指し、父を含める全ての人の悪にだけは、絶対に染まりません!」
ニコリと、満足げに笑う。
「自分の大好きな、青色でい続けます」
「……」
『カーサ、逃げたら負けだよ』
レイマンの言葉が、再びカーサの頭の中に響いた。カーサはうつむいて苦笑する。
「ははっ……。負けたな」
「え?」
カーサは顔を上げた。
「シャル、悪かった」
「なんで先輩が謝るんですか?」
「俺、お前があいつの息子だって知った時、怒りを覚えたんだ。少なからずお前を憎んだ。お前を憎む理由はないってわかっていても、それが止められなくて……。それで、誰かがお前はそんな奴の息子なんだって知って、その誰かがお前を軽蔑すればいいって……思って、ネアンに全部話そうとしたんだ。……俺自身が安心するために」
シャルは笑った。
「なんだ、それじゃ引き分けですね」
「え?」
「だって先輩、逃げなかったんでしょ?ネアンは僕の父がそんなことをしたっていうことを知らなかったんです。ということは、先輩は全部話したわけじゃないんですよね。逃げ道を見つけても、踏みとどまったんじゃないですか」
「……」
シャルは急に真面目な顔をした。
「先輩、自分の父がそんなことをしたということ、息子の立場として謝ります。謝って済まされる問題ではないのは十分わかっています。でも、謝らせてください」
深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「……もう、いいよ」
カーサはゆっくり立ち上がる。
「息子だろうがお前は関係ないんだし。俺が本当に謝ってほしかった人は、お前の親父さんだったんだから」
「……」
カーサは微笑んだ。
「部屋、戻ろうぜ」
「はい」
シャルは笑った。
「帰ってレイマン先輩に『引き分けでした』って言わなきゃ」
「そしたらあいつ、絶対『よかった』って言うんだぜ」
「そうですね」
2人は並んで、レイマンの待つ部屋へ向かって歩いて行った。