散りゆく徒桜に、微笑みを。
気がつけば彼女を目で追っていた。
柔らかな微笑みに惹き付けられるようにして、その横顔をいつまでも見つめていたことを、よく覚えている。
憧れ、だった。
初めての感情に戸惑うばかりで、それ以上を望んだことはなかった。――とは、少し、言い切れないかもしれないけれど。
それでも、満足だった。ただ遠く離れた場所からその幸せそうな様子を目にするだけで、自分自身さえ幸福になれるようだった。それで十分なのだと、思っていた。
憧れが恋に変わるのは早かった。触れてみたいと、少しでも近くいられたらと、願った。
「あの!」
声を掛けたのは、衝動だった。
振り向いた彼女に、それだけで胸が一杯になって、結局何も言えなかった。何かを伝えようとしたわけじゃないけれど、情けなくて。
もごもごと口篭ったまま視線を落とした俺に、彼女は不思議そうに小首を傾げて、くすり、と笑った。――嗚呼、幸せだと、思った。
「大丈夫?」
「え、あ、その! ……すみませんッ」
まんまるな瞳に、自分の姿が映っているのを見た瞬間、なんだかもうわけが分からなくなった。
逃げるように慌てて踵を返した俺の背に、彼女の柔らかな視線が突き刺さった。痛くも辛くも無いけれど、泣きそうになった。……嗚呼もう、駄目だ、自分。
角を曲がったところで、そのまま崩れ落ちた。真っ赤に染まった顔を必死で隠して、俯く。
「もう、本当……何してんの、俺」
彼女の戸惑ったような笑い声が、耳から離れない。
大好きだ。いつの間に、こんな。全部全部わけが分からなくなるくらい、夢中になっていた。他の女の子と話すのとはわけが違う。彼女が目の前にいると思ったら、それだけでもう駄目だ。情けないけど、本当に。
満開の桜の下で、初めて君の声を聞いた、春。芽吹いたばかりの想いが、ただただ胸を締め付けた。名前も知らない先輩に、切ないくらい恋をしていた。
――けれど、淡い想いの終わりは、あまりにも呆気なく、突然に、訪れた。
「紹巴」
「何? 兄、貴」
「紹介するよ。朱音の後輩で、今日から働いて貰うことになった須藤咲乃ちゃん」
いつか感じた、微かな甘い花の香りが、ふわりと漂った。
「はじめまして。今日からこちらでお世話になります、咲乃です。紹巴くん? よろしくね」
だって。
だって、そんなの、あんまりだ。
「……はじめ、まして」
咲乃さん。
からからに渇いたのどで、その名前を呼んだ。貼り付けた笑顔を向けた先で、やっぱり君は、今日も、陽だまりのような柔らかな微笑みを、浮かべていた。
ねぇ、咲乃さん。
仕方がないのかも知れないけれど。俺には、はじめまして、なのに。
「じゃあ、詳しいことはまた朱紀に教えて貰って。分からないことがあったらいつでも聞いてな」
「はい」
なのにどうして、兄貴にはそんな、安心しきったような笑顔を見せるの。ふわりと、花が開くように笑うその視線の先にいるのは、どうして兄貴なの。ねぇ。
「ありがとうございます! 志葵さん」
だって、だってそんなのって、酷すぎるよ。
大好きな兄貴の隣で、見たことも無いくらい綺麗に笑う大好きな君を、なす術もなく見つめていた。格好良くて優しい自慢の兄を、初めて嫌いになりたいと、思った。
それは君の名前を知った、切ない秋の日。初めて君の声を聞いてから、半年後のことだった。




