7
無数に分散した『闇』。狙い定める香澄に襲いかかっても、セイジとリツキの邪魔に合う。『闇』そのものが意志を持ち、戦法を変更した。望みをかなえるために。
香澄だけでなく、セイジとリツキにも攻撃の触手を放つ。ピンボールのように室内を跳ね回り、隙を見ては、弾丸のように襲ってくる。
肩口でかわし、セイジは息を吐いた。
「キリがないな……」
一つ一つの攻撃を粉砕しても『闇』は『闇』を生む。増えもしなければ減りもしない。望まない拮抗状態が続くだけ。
「てゆーか。目一杯強情だぜ」
「どっちの性格だと思う?」
セイジは、一人立ち尽くす咲恵を見た。彼女の背後で揺らめいていた『闇』の予備軍は、頭上の本体に吸収されている。今は目を閉じ、頭を傾げ気力尽き果てた忘我状態。頬を叩いてやって、目を覚まさせてやりたいが、セイジもリツキもそんな余裕はなかった。
「……こっちだろ? 電話の依頼人は、自殺未遂するくらい弱い女なんだし」
「こんなものの元になった側だぜ? そんなに甘い女じゃないだろ」
「そりゃそーだ。……どっちもどっちか」
「……女は、よくわからんからな……」
本心から漏らすセイジに、リツキが言ってやる。
「知ってるよーな口ぶりじゃん? 昔、痛い目にあったことあるわけ?」
「…………。うるせーぞっ。ガキっ」
「何の話ししてんのよ、あの二人……!」
リツキとセイジの軽口は、当然、香澄の耳にも入った。
申し訳なさそうに、カツキが苦く笑った。
「あれでも、二人とも真剣なんです。ちょっと無駄口多いけど。お姉さんのために」
二人が隠れるデスクが、大きく衝撃を受けた。
「! きゃ……!」
「悪りぃ。ちょっと避け損ねた」
デスクから身を乗り出し、顔を見せてリツキが軽く謝る。
「あの……、お姉さん……大丈夫?」
衝撃に驚き、思わずカツキの腕を掴みかけていた。香澄の手から、カツキは肩を精一杯寄せ、身を引いていた。
「ごめんなさい。僕、ダメなんです……。
誰かに触れると、その人の心が流れこんでしまうから……。それが怖くて、あなたに触れない……」
荒んだ気分で、香澄は尋ねた。
「……私の心が、歪んでいるから……?」
「そうじゃないよ?! みんな、辛いことや悲しいこと。誰かを恨んだり嫌ったりする気持ちは持ってるよ。
残念だけど。楽しいことや嬉しいことより、強く心に刻まれやすいんだ。僕は、そっちの方に敏感なだけで……」
「だから、そいつに触るなよ。あんたの痛み、読み取って辛いのはカツキだけだ」
「……痛み……ですって……? 私が?」
耳を疑いながら、香澄が呟く。
「リツキ! 大丈夫?!」
「ヤバイのはお前だろっ。なんでちゃんとガード張っとかないんだよっ」
「……ごめん」
「おらおら、来たぞっ」
リツキが、机から飛び退く。
掌を外へ向け、カツキが右へ押し出す。
「!」
その音は一瞬。空を切って香澄に接近する見えない凶刃を、彼女も察し震えあがった。寸前。白い円形の膜状の輝きが、香澄を覆う。襲い掛かる黒い光を粉々にして弾く。
「……何………?」
唇を震わせながら香澄がカツキを見た。こっくりとカツキがうなずいて返す。
「心配しないで。僕から離れないで下さい」
そう言って、香澄と膝を突き合わせるように、カツキはその場に座り直した。ふと、くんと、鼻で息を吸い込んだ。
「お姉さん、いい匂い……。
バニラエッセンスだね。それと、オレンジ?」
「……。こんな時に、何の話しよっ……」
カツキの唐突なのほほんは、これが初めてではないが。さすがに、本当に何かに命を狙われていると思い知らされた後では、落ち着き払ってはいられなかった。
「……お菓子、だよね? 造ったりするんですか?」
「あたしが造ってたら悪いのっ?」
言い放つと、カツキは一度頭を傾げて言った。
「……。そういう言い方、女性らしくないよ……」
「ちょっと誰かっ。この子、自分がどういう状況なのか、わかってないんじゃないのっっ」
張り上げた香澄の声に、リツキが返した。
「嫌っていうくらい分かってるよ。
あんたがヤバイってことだけは。だから側に居るんだろ。そいつから離れるなよ」
最後の言葉は、誰かの机がなぎ倒される音に紛れた。
「どんなお菓子造ったの?」
物珍しそうに尋ねるカツキ。
「………………」
「答えたって、損にはならんと思うぜ、おねーさん?」
と、リツキ。子供に言われるのも、癪に障る。
「……ただのパウンド・ケーキよ。『ケイク・オ・ゾランジュ』……」
「へえ。美味しそうだね。
いつも造ってるの? どんな味がするの?」
カツキの瞳に本心が映っていた。さすがに、不躾だと思っているのか、物欲しそうに香澄を見上げたりはしないが。
「なんなのよっ……、君って……」
香澄の呆れ声に、リツキが応える。
「腹が減ってるんだよ。俺たち、あんたのせいで昼抜き」
「……そういうわけじゃないよ。……」
弱く否定するけど、カツキの目は正直だ。はふっと溜め息をつき、膝を引き寄せ座り直す。
子供っぽい意地の張り方に、思わず頬が緩みかける。
「いいわよ。
助けてくれるなら、造ってあげても……って言いたいとこだけど、子供相手に取引なんてみっともないわね。
私の机。ええ、あれ。取ってこれる?」
カツキはうなずいて、衝撃を受けて横向きになった香澄の机に這い寄った。
「1番下の引き出しにあるわ。出してみて」
引き出しの中から、白い平たいバスケットを取り出し、大切に両手で抱えて素早く戻ってくる。
「いい匂い。オレンジとバニラ。それとバターもだね」
嬉しそうに、カツキは目を細くした。
オレンジ色の包み紙に覆われ、オレンジ色の幅広のリボンが結ばれている。
「あげるわ。お腹が空いてるんでしょ? みんなで食べて」
「いいの? 誰かにプレゼントするんじゃないの?」
「……構わないわ。また造ればいいんだし。
このまま死んじゃったら、もう造らなくて済むし」
「死なせねーよっ」
リツキが言い返してくる。カツキは寂しい頬をした。
「……造りたく、無かったの?」
ギクリと、香澄はカツキを見直した。香澄の答えを期待するふうもなく、生真面目な表情で、丁寧にリボンを解いた。包み紙を開くと、顔中に笑みが広がった。
その笑顔に、香澄は眉をひそめた。
藤製のバスケットの中には、2センチ幅でカットされたパウンド・ケーキが並んでいる。卵色の生地の中に、夕日色の細かく刻んだオレンジ・ピール。甘く、ちょっと苦味のある、太陽のかけら。
一切れを丁寧に指で摘んで、カツキは口に運ぶ。
「美味しいよ。すごく……。お姉さん上手なんだね」
頬張らず、良く噛み締め飲み込んでからそう言った。
「……おんなじこと、言うのね。
取り上げたくなるから、黙って食べて」
「……はい」
香澄の冷たい声に、カツキはしゅんと肩を落とした。
「カツ。俺も俺も」
伸ばしてくるリツキの手に、二切れを乗せてやる。
「は。結構美味い」
リツキが漏らすと同時に、衝撃が香澄たちが寄りかかる机を揺らした。
「リツキ? 真剣にやってるの……?」
「やってるやってる。……こいつが手ごわいんだよな」
ほら、セイジ。と、ちっとも真剣でなく、ケーキのやりとりをしている。さっきから机や壁の破壊に忙しいだけのような気が香澄はしていた。
「あんたの同僚、みんな目を丸くしてるぜ? てことは、隠れた特技か、これ?」
セイジが尋ねる。パーテーション越しに、銀行員たちは、異常な戦況を息を潜めて伺っている。
「……たった一人のためよ……」
ぽつりと、香澄は言い捨てる。
「どういう人?」
すかさず尋ねるカツキに、香澄も即答してやった。カツキのペースに慣れてきた。何を言ってくるのかも読める。
「……教えなきゃならないの?」
少し考えてから、カツキは言った。
「お姉さん。その人のために、ちゃんと生きなきゃいけないんじゃないの? その人の前でだけ、お菓子を造ったりする、やさしい人になれるんじゃないの?」
香澄は頭を振った。薄く自分を笑う。
「偽善よ。優しいなんてこと言わないでよ。笑っちゃうじゃない。
……心の底では、憎んでたんだから……」
「心の中は、誰も縛れないよ……。あなたの心だもの」
カツキは、怖いほど頬を引き締めている。こんな時のカツキは、中学生には見えない。ぼんやりが消え、透明な鏡のように研ぎ澄まされる。
「大人っぽいこと言うのね。なら、理解できるかもね。大人の事情」
座りなおし、向き直ろうとした香澄を、カツキは手の仕草で止めた。一度目を閉じる。
気配。小さな風の音。黒い触手が四方に薄く伸び、二人を包み込もうとしていた。また、球形に白い靄が二人を覆い、闇を跳ね返す。さっきより直接攻撃が多くなっている。
セイジとリツキの動きが激しく交錯し、床や壁に力がぶつかる振動が時折響く。彼らが手加減しているわけでもないのは、その音でも明らかだ。
近い、のかもしれない。防ぎ切れずに、あの一つを体に受ける時は。そう感じても、なぜか香澄の心は静かだった。
「妹が居るのよ。一度造ってあげたら、すごく喜んで。
今のあなたみたいに、美味しいって言ったわ。私の気紛れだったのに、心底、はしゃいで」
「でも、本当に美味しいもの……」
控えめに褒めるカツキに、今度は睨まず、笑い返した。
「今日、逢いにいくつもりなの。再検査のために入院中。
小児がんなの。まだ六つなのに」
カツキの顔色が、一瞬で曇る。立場を逆にして、香澄はニッコリと笑いかけた。カツキが痛みを共有する必要なんてないから。彼はあまりにもストレートに受け止めた。
「私は21歳。15歳も年が離れてる。母親が違うの。
父の愛人の子なのよ。でも、その人、その子を産んでじきに亡くなったらしいわ。で、認知した」
同僚たちにも聞こえているだろう。彼らには、初耳な話し。誰にも言ったことがない。一人娘で通してきた。
世間体があるので、父親も公表はしていない。だから、秘密は完全に守られてきた。
「すごく人懐くて、物怖じしない子。
愛人の子なのに……。全然、影が無いの。
まあね、産まれなんて関係ないわよね。人の心には」
カツキの言葉を、一つ借りた。
「あの子は、どんなに冷たい目をする人間にでも無邪気に笑ったわ。かわいらしくて、人を疑わずに。ちょっとのんびりしずぎて。
みんなに好かれる子。魔法みたいだった。あの子が居る場所には、花が沢山開いたようで、誰もが言いなり。私も、抵抗できなかった……。
1番憎んでいい立場なのに、寛大なお姉さんを演じずにはいられなかった。……みんなに好かれるあの子を憎む自分を、誰にも知られたくなくて」
同じ立場のはずの母親は、平然と、一度も会うこともなく、彼女を無視して暮らしている。同居しているわけでもないので、それも可能だった。
香澄だけが、偶然、関わってしまった。それさえなければ、母親のように彼女の魔法にかけられず、母親のように無視して暮らせたのかもしれない。
「……あなたも、似てるわ」
カツキは不思議そうな顔をした。邪気のないカツキに、六歳の妹の面影が重なって見える。
「嫌な子ね。自分一人だけ、いい子なふりをして、周りの人間に影を落とすの。影のいないに人間なんて居ないのよ?
あなたは輝いているけど、ちゃんと影はある。誰を苦しめているか、あなたこそちゃんと気付いているの?」
「そいつはわかってる。当たるなよ。
カツ? 気にするな」
またリツキ。彼等兄弟は、完璧に庇いあっている。
「………。僕の影……?」
怪訝顔のカツキに、不安と迷いの影が落ちる。
「ごちゃごちゃ考えるな。俺が答えてやるよ。
お前の影は俺だ。だが俺の影はお前でもある。
これで五分だろ。自分が全部悪いだなんて、おキレイなこと考えるな」
「うん。わかったよ、リツキ」
「……いいわね。兄弟って」
崩せない。どんなに冷たい言葉をぶつけても、カツキは傷つかない。同じ顔のもう一人が、彼を必死で守るから。
「小さな妹のお見舞いに行く、母親の違うお姉さんだって、僕は優しい人だと思うよ」
「……よしてよ。取り上げるって言ってるでしょ?」
カツキの優しい顔立ちから、目を逸らした。
「私はね、楽しんでたの。あの子を恨む代わりに、あの子と同じ笑顔をする南波を苛めたの。そうすると……気持ちがスッとした」
聞きつけたのは咲恵だった。
「……そんなことで? なら、あたしは……」
「あんたは、ちっとも似ていない。あなたの顔は、泣きながら父を睨み返した私の母の顔を思い出させたのよ。
だから、嫌いだった……」
一度だけ、女を剥き出しにした母親。暗い恨みと憎しみだけの形相に、香澄は恐怖だけしか感じられなかった。到底、共感も理解も出来なかった。
「! 何よ。自分に顔も、鏡でよく見てみなさいよっ」
「やっと正気に戻ったと思ったら、それか。怒鳴るか恨むかどっちかしか出来ないのか、お前わっ。おとなしくしてろっ」
セイジが、咲恵の腕を掴み壁際へと押しやった。
「逢ってみたいな。その子に」
香澄は、誰に言うこともなく呟いていた。
「……どうなるか、しれないのに……」
「大丈夫だよ。僕ら、負けないから」
香澄は頭を強く振った。
「……あの子、死ぬのよ? あんなに小さいまま。あの子が死ぬなら、もうどうでもいいわ。……なんでもいい。
南波が私を恨むなら。それも……」
「ダメ! 言っちゃだめだ」
カツキは香澄にバスケットを差し出した。
「食べて。お姉さん、自分で食べたことがないんでしょ?
おいしいよ。お世辞じゃなくて、ほんとに」
カツキの真剣さには勝てない。手に取った。
口の中に、しっとりとした生地の口当たりと、オレンジ・ピールの香りが広がる。甘く、ほろ苦く、たっぷりと柔らかい芳香。
「まあまあね……。あたしが最初に食べたケーキは、もっと美味しかった。
あの子の母親、パティシエだったのよ」
小さなフランス料理店の、若いパティシエ。暖かく家庭的な雰囲気の店。その店から少し離れた場所に立つ、安アパートに、彼女は一人で住んでいた。
「一度だけ逢いに行ったら、これを出されたの」
「……それを……?」
「ええ。造ってみたの。あの子、母親のことを知らないから。何も。あたしが、たった一つだけ知っている、あの人を。教えてあげたくて……。バカみたいね……」
香澄はうつむいた。もう、どうなってもいい。カツキが慌てるから言葉にはしない。心の中で叫ぶ。
……あの子が、居なくなるなら。もう……!
カツキが囲うシールドに体当たりを繰り返す黒い『闇』。
香澄を貫くことを願う、思念の剣。人の想いが、こんな形を取るなんて。思ってもいなかった。人間の願いが、人を殺す。カツキが庇ってくれているのと同じように、人を生かし守ることもあるけど。
こんなにも簡単に、一人の命を、否定できる。
妹の身代わりに、南波の存在を否定してきたから。これは、当然の報い。
「お姉さんだって、守りたいものがあるじゃないか。
守りたい人、守りたい心。守りたい未来の時間があるじゃない」
カツキが、噛み締めるように告げる。透明なまなざしで。
握り締めた香澄の両手に、カツキの細い手が重ねられた。
暖かい重み。カツキはしっかりと包んでくれる。
驚いて、香澄はカツキを見上げた。カツキは平然としている。むしろ誇らしげに、微笑んでくる。
「あきらめるなんて、間違ってるよ」
静かに、カツキは香澄の手を引き、立ち上がらせた。
セイジとリツキが振り返る。二人が手を焼いている『闇』は、分散していても勝敗がつかないと判断したのか丸く天井近くの空中に集結している。直径一メートル近くの球体。時折、けん制するように、黒い小さな闇を無指向に打ち付ける。
カツキはそれを指差した。香澄を覗き込む。
「あそこにあるのは影だよ。あなたが言ったでしょう?
光りの影。
影なら、消せる。どうすればいいか、わかる?」
「消す……? 影を……?」
香澄は戸惑った。光りの影。輝くもの。小さな妹の、弾ける笑顔。
「影を消すには。……光りを、当てるの……?」
「なら、そうするね?」
にっこりとカツキも笑った。
「カツキ? 何をする気なんだ?」
声をかけるセイジを、リツキがのんびりと遮った。口元に苦笑をうかべている。
「いつものことだよ。……また始まったぜ。
俺たちは前座、本命登場ってさ」
「あいつ一人で? また、か……」
「いいんだよ。これがカツのやり方さ。俺はカバーするからな」
「おい。勝手に抜けるな。……たくっ。急げよ」
セイジ一人に『闇』の防御を任せ、リツキはカツキの側に近づいた。カツキの集中が解けないよう、優しく尋ねかけた。
「カツキ……? 何をする気なんだ?」
こくんと、カツキは顎を引く。瞼を閉じていた。夢の中をさ迷うように、ゆっくりぼんやりとカツキは答える。
「光り……。照らしてやらなきゃ。暗いのは、辛いだろ?
悲しい心に、ほんの少しでいいから、本当の光りを当ててあげようと思うんだ……」
腕を伸ばし、リツキはカツキの体を抱きしめていた。歯を食いしばる。目を閉じ、何かを確信したカツキの表情は、神々しくて。カツキがカツキで無くなったような気にリツキは襲われていた。
「……、お前さ、ちゃんと戻ってこいよ……? いつも通りの、ボケっとした岩城カツキに」
カツキは頭をうなだれ、リツキに頬をすりよせる。
「リツキ……。すごく暖かい。熱いくらいだよ?」
リツキは腕を解いてやった。
手の中に大切なものを包み込み、重ね合わせた両手を、カツキはリツキの目の高さに差し上げる。
「こんなふうに……」
そろりと、カツキは指を開く。
「少しだけ、暖ったまるよ。きっと……」
手の内に光りが生まれていた。オレンジ色の、炎のような揺らぎを持つ、輝き。
空中に浮かんだ『闇』の塊が、押さえつけるセイジの力と拮抗し動きを止めていた。
『闇』は、立ち上り大きく広がっていくオレンジ色に煽られる。苦悶するように歪み、激しく渦巻きはじめる。音を立てて、次第に、中へと収縮をはじめる。
呆然と見ていた咲恵が、はっと我に帰った。
「! ダメよ! 忘れるの? 辛かった時間を、そんな簡単に忘れられるのっ」
叫び声を上げても、収縮は止まらない。
「忘れられるわ。……私は一度、忘れることが出来たの。だから……」
壊されたドアに、もう一人。肩にトレンチ・コートを羽織った若い女が現れた。抱きしめるように、細い体を支えるのは長身の青年。女の頬は、青白い。今にも倒れてしまいかねないのに、前へ、足を踏み出し近づいてくる。
「あ、あなた、誰よ……」
「……南波………」
香澄が、目を見張った。カツキが、瞼をあげ瞬きをしてから振り返る。
「……お姉さんが……? 電話の?」
「あんたが依頼人か」
リツキが確かめる。南波はうなづくだけ。
「いいのか? 体は」
東野の方に、リツキは尋ねていた。東野は、あきらめた表情で頭を振った。自分の無茶を、はにかむように笑って南波は言った。
「どうしても、気になって。でも駆けつけてよかった」
吐息のように細く吐き、南波は一人もう一度微笑む。右頬に小さな笑窪がうまれ、静かに血の気が差した。
「私が憎まれていたんじゃないって、わかったわ。私の向こうに、別の人を見ていたのね……。
私はその人の身代わり。私自身じゃない。
それなら、……少し、自信が持てそうな気がするの」
疲労で気だるい瞼の下に、黒くしっとりと塗れた瞳。香澄を、見つめている。
「おい。素直に謝ってやれば?」
黙って立ち尽くすだけの香澄に、リツキが囁いた。
「……いい格好したくない……。そんな資格はないわよ」
「あんた、損な役回りだな。一生、悪役やるつもりかよ」
リツキに返す言葉は無かった。
東野の手を借りて、そろそろと南波が部屋の中央に歩み寄っていく。立ち尽くす、カツキの側に。
カツキと並んで一人で立ち、彼女も両手を高く差し伸べる。『闇』の塊へと。
「私、きっと幸せになるから。眠って……?
悲しいだけの私……」
瞳を閉じる。目尻から、涙がこぼれ落ちた。
傍らのカツキが、不安を殺し切れない顔の東野と目を合わせる。
「な、何よ……、自分だけ幸せになるって、全部、水に流すって言うの?
信じられないわ、その程度? どうして……」
「不幸だわ。誰かを恨んで毎日を過ごすのって」
言い募る咲恵に、南波は静かに答えた。
「私、死に掛けた時思ったわ。強く強く願っていたわ。
もっと生きたい。もっともっといろんなことをしたい。
私、どうして自分を殺すの? 私はまだ、いろんなことが出来るのにって。
一生懸命願って、沢山謝ったの。神様に。
弱い自分を許してください、どうかもう一度、チャンスを下さいって」
「お姉さん、よかったね……」
カツキに、南波は小さくうなずいた。
「そうしたら。白い翼が見えたの。私、遠ざかる白い翼を追いかけたわ。必死になって。
気がついたら、私の背中にも翼があったの」
警戒心で頬を堅くして、カツキが呟く。
「……サイコ・ウィング……?」
「カツ。黙ってろ」
鋭く、リツキが遮った。
「私の背中に、二つの翼。黒い翼と、白い翼。
一方の黒い翼は、私の憎しみと過去をもって飛び立っていったわ。白い片翼だけが残って、私、それをつかって必死に飛んだの。そして目が覚めた」
「……黒い翼は、あなたの影なんだ」
そして、この場で『闇』へと結実した。
南波は眉を寄せ、言い聞かせるように語った。
「……香澄さんのせいじゃないの。きっかけは全然違うこと。辛いことがあって、私、自信を無くしたの。
それで発作的に」
励ますように、東野が南波の肩を支え直した。
「本当に、私って弱い人間なの。
なのに、心の奥底で、すべてを香澄さんのせいにしようとしてた。
無意識のうちに、クラス会であなたを見て、昔のことを思い出したの。忘れていたつもりだったの。もう強くなって、乗り越えていたはずなのに……」
南波は香澄に向き直った。体力の無い彼女にできる精一杯で、頭を下げた。
「ごめんなさい。私、取り返しのつかないことをしてしまうところだった」
「……やめてよ……。昔のことは、事実だわ。消せるものじゃないのよ」
強い、香澄らしい口調で、彼女は言い切った。
静かに振りかえり、再び南波は『闇』と対峙した。
「眠って……? 私の為に。お願いだから……。
私、もう大丈夫だから」
南波の言葉を理解したかのように、『闇』の球体は収縮を早め、ピンポン玉にまで姿を縮めた。
咲恵に、リツキが問いかける。
「あんたはどうする? 恨みを抱え、育て続けて、それを背負い続けることができるのか?
悪いが、俺たちはもう二度と手を貸さないぜ。たった今、チャンスをやってる。どうするんだ?」
血走った目を、咲恵はせわしなく揺らした。精神の高ぶりと臆病さが、極度の緊張状態に陥らせていた。
香澄がリツキに言い放つ。
「やめなさいよ。追い詰めるのは。その子が悪いんじゃないわ」
「同罪だぜ。他人に自分の弱さを転嫁する、その軟弱さが危険なんだ」
「……人間だもの。弱いのは当然よ」
「!」
目を疑い、咲恵は食い入るように香澄を見返した。
「お姉さんも、一つどうぞ? おいしいよ?」
進めるカツキの代わりに、リツキはバスケットを咲恵の目の前に差し出した。
「……。いいの……?」
恐々と、咲恵は香澄を伺った。
「……どうぞ」
香澄は頭を振った。
「……。意外ね。信じられないくらい、おいしい……」
「お世辞はいいわよ……」
「! そんなんじゃないわよ。全然、素直じゃないわね。
あなたのそーゆーところが……、あ……」
咲恵は言い過ぎたと口を押さえた。けれど香澄の目は笑っていた。さばさばとした表情で肩をすくめた。
「最後まで言いなさいよ。初めてじゃない? 正面切って言い返すの」
「……い、いいわよ……。言い合いするのは、もう疲れたわ……」
「ついでに、人の顔色を伺う癖も止めてほしいわね」
香澄の忠告に、咲恵は何度もうなづいた。
「カツ? もう、おしまいだ」
「うん」
リツキにうなずき、カツキは最後の『闇』を消した。カツキの手から飛び立ったオレンジ色の炎に包まれて、一緒に消えた。
全員が、もう一度頭上を見上げる。何もなかったような静けさが戻ってきた。
「その子、顔色悪いわよ。早く連れていって。
部外者も出て行くのよ。ここは仕事中なんだから。
まったく。後片付けが大変ね」
ぼんやりとしている室内に活を入れたのは、香澄の声。
いつも通りに、人に指図することを当然と感じているような、自信に満ちた態度だった。
「後片付けの手伝いは、するぜ」
セイジが指を鳴らす。同時に、穴だらけになった木製デスクや、なぎ倒された椅子、ステーショナリーやパソコン類、絨毯の穴などが、闘争開始以前の状態に復元された。
復元、というより、絵本のページをめくったように、瞬きの後には、そうなっていた、というのが現実だった。
「……どういうこと……?」
怯みながら、一応、香澄はセイジに尋ねる。
「説明してると長くなるぜ? それでもいいのか?」
「………。いいわよ。とりあえず面倒がなくて、こっちも助かるわ。上司に説明できないものね。とっとと出てって……」
唯一、最初に避けられた応接セットは、セイジたちの足でおしやられた位置のままだった。
狐に摘まれた表情で、社員たちは自分のデスクへと引き返してくる。
誰も彼も、これ以上理解できないことを追及したくないといった、疲れた表情をしている。こんな時、サラリーマンのことなかれ主義は便利だと、暗黙のうちに納得しているのだ。
カツキとリツキは顔を見合わせ苦く笑った。
普通の人間には説明されても理解できないだろう。セイジの力で、途中からこの部屋だけ『次元を変えた』のだ。セイジの言葉を使うなら『位相』を変えたのだ。そこでは、どんな破壊行為が行われても構わない。『位相』を元に戻せば、無傷な状態に戻るから。
「へいへい。行くぞ。ガキども」
撤収をセイジが宣言した。
「それも、持って行くのよ」
香澄はバスケットを指し示した。
「でも……」
「また造るわよ」
ためらうカツキに、そう教えた。
「そうだね」
思いついて、彼等の依頼人、南波に一つ手渡した。
「美味しいんですよ」
カツキはもう一切れを、東野にも渡した。
「……ほんとね。オレンジって、太陽の光りみたいに暖かくて、いい香りね」
南波の柔らかい笑みを見取って、カツキは香澄を振り返った。
「さよなら。お姉さん。妹さんによろしくね。
諦めないで。きっと再検査で、いい結果が出るよ。
優しいお姉さんが、祈り続けていれば」
「そんじゃな。ご馳走さん」
部屋を出ようとするセイジと、向かってきた中年男性が鉢合わせした。
「? 君たちは、何なんだ? 部外者は立ち入り禁止、……!」
男は破壊されたドアに目を奪われた。
カツキがぺこりと頭を下げる。
「すみませんっ。すぐ帰りますっ」
セイジを先頭にリツキ、南波と東野、カツキが1番最後に、そそくさと廊下に飛び出した。
「お、おいっ。彼等はなんなんだ? 中学生まで居て。これは一体……」
指差す上司に向かって、係長補佐が言い訳した。
「いえ。課長。何でもないんです。すぐに片付けますので」
言われる前に、男性社員たちもドアの撤収に手を貸した。
行動の素早さに気圧され、中年課長は手を下ろした。
その目前に、香澄が歩み寄った。
「課長。私、早退します。妹が入院していて、その見舞いに行きますので」
「妹? 君に?」
またまた初耳な事態に、課長の頭の中は真っ白になった。
「ええ。異母妹なんです」
言ってのけて、香澄は咲恵に向き直った。
「名島さん。あとを頼みたいんだけど、いいかしら」
「ええ。……構わないわ」
「名島さんだけじゃ、終わらないでしょ。フェーズ・4の整理は、半日かかるわよ。わたしたちで手分けをするわ」
30代半ばの女性社員が、咲恵の決意を遮った。
丁寧に、香澄が彼女たちに頭を下げる。
「パスワードは、私のデスクに控えてあります。
先輩方。よろしくお願いいたします」
「いつまで続くのかしら。その低姿勢」
言われても、香澄は笑って受け流すだけ。
「早く行ってあげなさいよ」
「断っておくけど、この貸しは高くつくわよ」
彼女たちの冗談を背に、香澄は部屋を出ていった。
カツキたちの姿は、もう廊下にはなかった。
代わりに、オレンジ・ピールの香りが細く漂っている。
「買って帰らなきゃね。今朝で全部使い切ってるし」
まず最初に、オレンジ・ピールを荒く刻む。力を込めて、心を込めて。
きっと、あの子は大丈夫。小さな妹。病気になんて負けたりしない。カツキの言葉を信じる。
心が、世界を変えるなら。力を持つならば。祈り続ける。
あの子の未来。共に暮らす、香澄自身の未来を信じて。




