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「腹が減ったなぁ……」

 漏らすリツキをそっと伺うと、今度は洋菓子屋のショーケースを、歩きながら横目で眺めている。

「あ……、我慢しようよ? リツキ?」

 イチョウの黄色い落ち葉が、ひらりと歩道に舞い落ちる。街の中だけでなくショーケースの中にも、秋が溢れていた。

 マスカットのグリーン、枯れ色のチョコレート、明るい黄色のマロン。オレンジは、見当たらない。

 きれいに並んだケーキやタルト。秋だからマロン・クリーム、マロン・グラッセ。モンブランの明るい黄色に目を引かれる。リツキは、栗はぱさぱさして嫌いだって言う。おいしいのにな、と。僕の足まで立ち止まりかけていた。

「とっとと歩けよ。ガキども」

 振り返らずに、セイジの背中が呟いた。大きな歩幅で先に行ってしまう。置いていかれないよう、僕は小走りになった。カツキの方は大股でのんびりとついてくる。

「おい、カツキ。お前、あの『マリアーシュ』って店のオレンジ・タルトが食べてみたいって言ってたよな」

「……そうだった? 覚えてないよ……」

 たった今、通りすぎたばかりの洋菓子店の名前。振り返り看板を見直す僕に、リツキはすかさず返した。

「言ったよ」

「……? え……、そうかな……?」

「買ってこいよ。遅れんじゃねーぞ」

「え……。あ……。終わってからにしようよ?」

 リツキは目を細くして、僕を覗き込んだ。

「お前の顔にちゃんと書いてあるぜ?

 食べたい、ってさ」

 何も、言えなくなる。……当たって、なくはない……。

 タルトに乗った。つやつやのオレンジと甘いソース。目に見えるくらい。匂いまで、鼻先で漂っているみたいに。

 僕らは昼ご飯を食べていない。急いでいたから。

 ……リツキと同じ。僕もほんとにお腹空いてるんだ。

 午後1時を回った時間。僕たちは街の中心部から東へ大きく広がるファッション・ビル街を歩いてる。ビルの向こうに立ち並んだ高層ビルが、秋の陽射しを照り返していた。

 この都市には、20万人が生活する。

 六車線の自動車道路の両側に立ち並ぶ有名百貨店。洒落たレストランや喫茶店。ブティック、和服の店、文具専門店、書店。

 広いフロアの百貨店には、世界中の家具や食べ物、洋服なんかが揃っている。普通に生活する限り。ううん。ちょっと贅沢したって構わない。きっと手に入る。お金で買えないもの以外、なんでも。

 けど僕らは、なんでもある街で、思いつきの買い物はしない。お金にあまり余裕が無いから。だからって、すごく不自由しているわけじゃないから構わない。

 でも、セイジの着てる綿のシャツ。袖口や襟が、ちょっとヨレてきてる。Tシャツは首を絞められてるみたいだからとセイジは嫌がる。だからいつも同じ、シンプルなデザインのカッター・シャツ。ちょっとくすんだ色の。紺色のジーンズは細身で、筋肉質で細長い足にすごくフィットしてる。

 遅れすぎて、遠のいてしまったセイジが、ふいに足を止めた。

 昼下がりの街には、思っていたよりも人通りがあった。人影にセイジの姿が時々消える。ジーンズのポケットに右手を突っ込み、くるりと右に向き直った。

 横顔。頬骨が高い。引き締まった頬。ちょっと唇が厚くて、顎の先がキリッと尖ってる。男っぽい喉仏。首筋に、伸びぎみの髪が絡む。艶のある黒髪。ルーズな前髪がビル風に払われる。露になったのは、瞳。

 瞳だけは静かなのに、眉が厭うように引き上げられて、目の前のビルを見上げている。僕らは慌てて駆け寄った。

「感じる? セイジも」

 セイジは曖昧にうなずいた。

 並んで見上げる。八階建ての百貨店に挟まれ、そこから空に向かって生えてゆくような細長い高層ビル。ファッション・ビルと違って厳しい印象の、ガラス窓が多い建物。

 大手銀行と有名な保険会社の社名、その関連企業のプレートが玄関ホールの壁にずらりと並んでいる。

「お前たちは下から行け。俺は、上から探りながら降りる」

 フロアごとに刻まれた社名。セイジが配置を指示する。

 変な話だけど、僕らはターゲットがどこに居るのかすら、正確に知らない。名前も、顔も。急に、僕は不安になった。

「こんなにフロアが沢山……。僕らで見つけられるのかな。

 それに、そんなに丁寧に調べていて、間に合わなかったら……」

「仕方ないだろ。お前が相手の名前を読み損ねたんだから」

 リツキが、僕の後ろ頭を指で小突く。そのまま、僕は被ったキャップが落ちないよう鍔を押さえながら、うつむくしかなかった。

「……ごめん。でも、それ以上は無理だったんだもの……」

 二人とも、責めてるわけじゃない。口が悪いだけ。

 わかっているから、僕は、自分の力不足がつらかった。

 南波さんから『感じ取れた』のは、このビル。ううん。建物の断片だけ。ほんの一瞬、ビルの名前が僕の脳裏に映った。

 玄関ホールの壁に刻まれた1番大きなプレート。僕の脳裏に浮かんだのとまったく同じ、金色の刻印。

 その瞬間、僕に刻まれた。南波さんの持つ、その人の記憶、気配、悲しかった出来事。五年の前のことなのに、昨日のことのように、はっきりと見えた。

 共有してしまった。記憶の一部を。

 僕には、そんなことが出来る。セイジもリツキも、普通の人とは違う『力』を持っている。でも『読む』力は、僕が1番強いらしい。分類すれば、僕は『静』、二人は『動』。セイジとリツキは、攻撃型の能力者なのだそう。

 僕には、南波さんと共有した一瞬で十分だと思えたけど。早とちりだったかもしれない。現実のビルの大きさを前にすると、僕の『記録』のちっぽけさを思い知らされた。

「無理でも、やらなきゃならない。それが仕事だ」

 セイジは顎を引いた。右手をジーンズのポケットから抜き取り、大きく踏み出す。ついでのように低く呟く。

「急げよ。……ヤバイ気がする」

 玄関ホールを横切り、セイジはエレベーターへ向かった。

「行くぞ。カツ」

「うん……」

 僕はもう一度、ビルを見上げてみた。リツキに促されても、足が踏み出すことを勝手に拒否するみたいに、動けなくなっていた。

 ……どうして……? ああ、そうだ。この感じ。

 頭の奥に、僕とは無関係な異物が入り込んで、騒いでる。そんな嫌な痛みと重さが脳に沈みはじめていた。

 セイジはパーフェクトに近い能力者だから『読む』ことも出来る。だから僕が今感じるような、勘に触る気配を頼りに、ターゲットを探せる。辿っていけばいい。

 これはもう、南波さんの記憶じゃなくて、危険そのものの気配。……生霊、みたいなものの存在感。人間が造った、思念の化け物。想いが形を得た、最悪の結果。

 暗い悪意の塊。純粋な『闇』。

 その悲しさと危うさが、僕をおびえさせる。

 僕にはわかるから。二人には無理だけど。どんなに辛く痛みを受けた末に、結実したのかまで『感じ』取れる。

 こんな過敏すぎる『力』、苦しいだけで、凄く嫌だ。出来ることなら手放したい。でも、僕にしか出来ないなら。

 風に飛ばされないよう、野球帽の鍔をもう一度押さえた。ビル風なんか、もう強くないのに。

 リツキの手が、僕の肩を掴んだ。

「もうキツイのか?」

「うん……。ちょっと気分が。でもまだ平気だよ」

 軽い調子で、リツキに言い訳した。

「少しの間、我慢しろ。こっちは、お前だけが頼りだ。お前の力なら、嗅ぎ付けることができる。だろ?」

「大丈夫。我慢できるよ。これが僕らの仕事だものね」

 リツキの冷たい親指の先が、僕の頬の押し付けられる。片方の頬で、リツキはニッと笑った。

「もっとキツクなったら、必ず言えよ。

 ずぐに連れ出すからな」

 僕と同じ顔の微笑み。けど僕とは全然違う。僕には出来ない。絶対の自信を持った、強い笑み。

 憧れる。こんな気持ち、リツキは気付きもしないだろうね。不安が砂になって、さらさらと流れだしていくような気がするんだ。リツキが笑ってくれると。

 じっと見返すと、照れたようにリツキはすぐに真顔に戻った。

「ありがと。リツキの方も気をつけて。

 すごく嫌な感じ。セイジの言う通り。急がなきゃ」

 強くなる。悪意の気配。2日前に生み出され、時を重ねて、凶悪な願いが徐々にリアルになる。もうじき、真実の刃に変わる。それだけは、阻止しなければ。誰かが傷つく。

 傷付いた心が、新しい誰かの傷を産むなんて。そんな繰り返し、間違ってる。

 急がなければならないのに。僕は一歩踏み出して、リツキの頬に自分の頬を押し付けた。暖かい。リツキの体温は、太陽の尽きることのない熱さに近い。

 僕は甘えてる。リツキもそうとわかってる。でも押し退けずに黙っていた。

 いつだってそうだ。闘いを前にする時。僕たち自身のことが気にかかる。どちらかが傷つくんじゃないかって。心の底から震えが押し寄せてきそうになる。

 僕らは、どちらが欠けても不完全。きっと一人では生きていけない。性格は正反対でも。正反対だからこそ、それが離れられない絆。僕らは、二人で完全な一人なんだ。

「彼女がどこに居るのか。僕、必ず見つけ出すよ」

 僕らはお互いを引き付けあうように腕を組み、広い玄関前ホールに踏み出した。

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