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「………オレンジ……」
「? オレンジが、どうかしたって?」
リツキが、学ランを羽織りながら聞き返す。右手に歯型のついたトーストと、小脇に挟んだ学生カバン。左手だけじゃうまく着られなくて、僕の胸に、薄くて重みのほとんどないカバンが押し付けられた。
「え?」
条件反射で受け取って、リツキを見返した。
何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。自分がつぶやいた一言さえ、どうしてそう連想できたのかすら、思い出せなくなっていたから。オレンジって……、何が?
「オレンジが食いたいって、今、言っただろ?」
リツキは乱暴に決め付けていた。先に歩道に飛び出し、指先だけでついて来いと合図する。アパートの前で、リツキを待っていたのは僕の方なのに。
肩をすくめて、リツキを追いかけた。毎朝、リツキは遅刻ぎりぎりの時間にしか出てこない。歩きながらトーストを頬張って、振り返る他人の視線も気にしない。僕は恥ずかしくて、被っていた野球帽の鍔を深くした。
「違うよ。……ただ、そう感じただけ……」
「寝ぼけてんのか? オレンジジュースでも飲んでろ」
言い捨てて、僕から自分のカバンを取り上げる。寝ぼけてるのはリツキの目の方だ。午前中一杯は、こんな感じ。
瞼が完全に開かなくて、面倒くさそうな顔。それでも、僕の言うことをなんとか耳には入れてくれてはいる。いつもなら、ばかばかしいって目を怖くして、聞き流してる。
「ジュースとは違うよ」
「だから、何が違うんだよ……?」
カシカシと髪をかきあげて、僕をまじまじと見返す。ちゃんと聞いてくれる気になったみたいだった。
その時、また。
「あ。バニラも。匂いだよ。バニラエッセンスの香りもする。ちょっと香ばしくて、バターの匂いもするね」
とたんにリツキは、眉をしかめ呆れ顔を造った。
「今、朝飯食ったばっかだろ? オレンジ・マーマレードなら、学校の帰りに買って帰れよ」
子犬にするみたいに、ぱふぱふと僕の頭を二度叩く。
「ちーがーうっつて。バニラエッセンスの匂いだよ」
言い張っても、リツキは背中を向けるだけ。
「バニラね。香ばしいって?
ならオレンジ・タルトだ。俺の分も買っとけ」
……食べ物のことしか、頭に無い。
「なんでそうなるんだよ……。別に食べたいわけじゃなくて……。匂い、しないの? リツキは」
「全然」
もう興味もなくて、振り返りもしない。
「……。甘くてすごくいい香りがしたのに」
顔をあげて見回してみる。縦横に区画整備された道路。いつもと変わらない街並み。家庭的で、静かな住宅街の中に、僕らが住む古びたアパートはある。きっと築20年は越している。おかげで家賃は格安で、僕ら三人家族には丁度いい。
通りを行き過ぎるのは、この時間、職場へ急ぐサラリーマンやスーツを着た若い女の人たち。
きっと、お菓子を造るような家庭も、たくさんあるだろう。だけど、こんなに朝早くからお菓子造りをするなんて。洋菓子屋は、この辺りにはないはずだった。
初めてな気がする。こんなに優しくて甘い香り。
……家族の匂い。お母さんの香りだね。
そう思うと、胸がせつなくなる。
僕たち兄弟には、手の届かないものだから。
「カツ! 遅れるだろ。早く歩けよ」
「うん……」
鏡を見るように、まったく同じ顔のリツキ。僕らは双子。
一卵性双生児だと、誰が見たって一目でわかる。15歳で中学三年生。新しい保護者に出会い、新しい学校、新しい生活を始めて、まだ半年。でもこの半年は、楽しかった。血の繋がった家族でなくても、静かに暮らせた。
微かな痛みと一緒に、幻の香りも忘れてしまおうと決めたけど。無理な話しだったみたい。
この時の僕たちは、気付きもしなかった。
オレンジとバニラの香りが、予兆であったことに。




