2章 間違った国
「希≪のぞみ≫という名前はどうだ?」
私が歩く練習をしている時だった。
スロープに手をかけてヨタヨタと歩いていると男がそう言った。
「どうだって言われても…。そういえば、あなたの名前は?」
そういえばすっかり忘れていた事だ。
「あぁすまない。俺は希郎って言うんだ。」
「キロウ…?変わった名前ね。」
「俺もそう思う。なんでも、親が『希望を持った男』って意味で付けたらしい。」
「あなたは希望って言葉が好きなのね。」
ふんと私は鼻を鳴らし、歩く練習を続けた。
人らしい名前で呼ばれたことはなかった。
店では番号で呼ばれていたが、その番号は特に覚えていない。
キロウは腕を組み私の練習を眺めている。
まぁ、これが買い手の要求なら仕方がないことである。
私には女としての尊厳とかそういうのは知らない。
店長からは日ごろから女は所詮男の性欲処理でしかないと教えられてきた。
私の見てる世界は狭いから、それが普通なんだと思っていた。
しかしキロウにとってはそれは間違っていることらしい。
常識がひっくり返された今、私はイライラしている。
今まで感じたことない感情だったと思う。
「うん、希が良い。そうしよう。」
キロウは1人で頷いている。
「…ご主人様がそう言うのなら従いますヨ。」
「そんな口を尖らせるな…。」
キロウは得体が知れない。
私の知る男じゃない。
「ところで、希は外の世界を見たことがあるか?」
「店の中と、この錆びた部屋しか見たことない。」
外の世界とは言葉のまま、外、家の外ということだろう。
そういえば興味があることの一つだ。
意識がある頃から私は壁に掛けられ店の中しか見てこなかった。
さすがに毎日毎日同じ場所にいては、外に出てみたいという欲求は出てくる。
「見に行ってみるか?」
キロウの顔が険しくなった。
部屋のドアを睨みつけてぐっと拳を握っている。
「だが、今の希がそのままの状態で行くと、きっと見た人は皆混乱するだろうな。」
「なんで女が外を出歩いているのかって?」
「そうだ。女は現在、出歩けないはずなんだ。」
「じゃぁどうするのよ、自分で言っておいてあんた。」
「まぁ、その手足は取り外し可能なんだ。」
キロウは私の足と手を指差した。
「で、言ってみるか?」
「まって、これ取ったら今までの私の練習はどうなるの?パァ?」
「大丈夫、肉体的経験はずっと脳に蓄積される。」
そして、私はキロウの背負うリュックに入れられ顔だけ出ている状態にある。
私が見る町並みは、特に何も感じなかった。
普通に家が並び、電柱とか看板とかがあって、道端で男たちが性行為に及んでいる。
ある者は女を蹴り飛ばしたりもしていた。
え、だってこれが当たり前なんでしょ?
おかしいのは私達だって。
「希は何とも思わないんだろうが、俺にとっては悪夢なんだよ。」
そういってキロウは部屋の奥へと向かい本だなと対峙した。
本棚から一冊、厚い本を取り出すと私の座るベッドへと戻ってきた。
「それは?」
「アルバムだ、俺のひいおじいちゃんくらいのな。」
キロウは私の隣に座ると埃っぽいアルバムを一枚めくった。
「どうだ?これが平和な日常だったんだよ。」
キロウが見せたアルバムには、男も女も手足がついている複数の人が立ってこちらへ笑顔を向けている写真だ。
そうか、これが奴らが攻めてくる前の。
でも私にはこんな日常は知らないし、わからない。
「家族の集合写真だ。」
「家族…。」
現在の胎児システムは単純である。
試験管ベイビーだ。
人工授精によって作られる生命だ。
これなら品物である女を傷つける必要もないし、管理ロボットの操作を誤らなければ、すぐに子供が生産できる。
「そうだ…人の命をなんだと、やつらは…。」
キロウは俯いて体を震わせていた。
私は初めて困惑の表情をしたんだと思う。
その感覚を経験しなくても、同じ人ならば自然に気持ちがわかってしまうのだろうか。
私の望む世界をキロウは望まない。
私が正しいと思う世界は間違っているとキロウは言っていた。
「あなたはなんでそんなに嫌いなの?あなただってこういう世界が普通になってから育った人でしょう?」
「あぁ、この意志は受け継がれてるんだよ。」
俯いたキロウは胸の前で拳を強く握り締めた。
「俺はな、皆が幸せに暮らせる国にしたいんだ。今の国の女達は何も感じてないかもしれんが…お前らだって自由に外を出歩きたいだろ?誰かのいいなりになって生きたくないだろ?夢を持ちたいだろ?これが当たり前だなんて思わないでくれよ。」
私にはキロウの言うことを気持ちよく理解することは難しい。
彼の言ってることは今の国と比べればおかしいからだ。
「見てくれ。」
キロウはまた違う写真を指さして言った。
「笑ってるだろ?」
写真の中で女の人が笑っている。
「お前は、笑えるか?」
「えっ…。」
「作り笑いじゃない、心の底から、笑えるか?」
無理だ、楽しいことが無い。
「笑うって事は幸せなんだよ。俺は産まれたときから、女の人の笑いを見てない。それはつまり、わかるな?」
「幸せじゃない。」
「そうだ、お前らは幸せじゃないんだ。」
嘘だ、女にとって男に相手されるのは幸せのはず、だって、昔からそうやって…。
「だからさ、笑顔にさせてやりてぇんだ。そんで、その笑顔を奪ったやつを倒すんだ。」
キロウはそう言うとベッドから腰を上げ本棚へと向かって言った。
私は一度ベッドから立とうとした。
私は今幸せじゃないらしい。
確かに、このキロウは私を使ってくれないんだから。
でも本当にそれが私にとっての幸せ?
想像してみたけど、表情は変わらない。
なんか漠然とぼーっとする程度の感情だった。
「キロウ、本来幸せにするのは女の役目なの。でもあなたは逆だっていうの?」
「違う、逆じゃない。共同作業だ。」
「買われた身、どう使おうがあなたの勝手。だから私を使って、早く私は幸せになりたいから。」
そう言って、私はリハビリへと戻った。