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沈黙の誓いを破ったのは、あなたへの想いでした——七年間声を封じた元令嬢、冷徹公爵に見つけられ溺愛される

作者: uta
掲載日:2026/05/15

「——Loss修道女リリアーナを、この場に」


静謐な礼拝堂に、男の低い声が響いた。


祈りを捧げていた修道女たちの肩が、一斉に強張る。

この沈黙の修道院では、神への祈り以外の言葉は禁忌。誰も声を発することは許されない。


けれど——Loss?


私は伏せていた視線をわずかに上げた。

薄暗い礼拝堂の入口に、黒衣の男が立っている。逆光で顔は見えない。けれど、その輪郭だけで分かる。貴族だ。それも、相当な地位の。


(なぜ、私の名を……?)


七年。

七年間、私はこの修道院で息を殺すように生きてきた。リリアーナ・フォン・ヴェルトハイムという名は、この石壁の向こうに置いてきたはずだった。


「聞こえなかったか。リリアーナ・フォン・ヴェルトハイム——いや、今はただのLoss修道女か」


男が一歩、堂内に踏み込む。

蝋燭の灯りが、その顔を照らした瞬間——私の心臓が、止まった。


黒髪。北方の氷湖のような、淡い青灰色の瞳。


(……嘘)


エルデンベルク家の人間だ。

あの——私を地獄に突き落とした家の。


けれど、あの男ではない。エドワードではない。もっと若く、もっと冷たく、もっと——美しい。


「アレクシス公爵閣下……!」


マルグリット院長が慌てて駆け寄る。いつもは威厳に満ちた老女が、まるで怯えた小鳥のように腰を低くしていた。


「事前のご連絡もなく、いかがなさいましたか。修道院への寄進でございましたら——」


「兄の代わりに来た」


短い言葉が、院長の長広舌を断ち切る。


「七年前、この修道院に送られた令嬢がいるはずだ。兄の元婚約者——リリアーナ・フォン・ヴェルトハイム」


私は動けなかった。

周囲の修道女たちの視線が、私に集まるのを感じる。憐れみ、好奇、そしてわずかな恐怖。


「あの者でしたら……」


院長が私を指し示そうとした瞬間、


「分かっている」


氷の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。


「——Loss修道女。あなたのことを」


その声は、なぜだろう。

冷たいはずなのに、どこか——安堵を含んでいるように聞こえた。


         ◇


七年前、私は公爵家の一人娘だった。


婚約者はエルデンベルク公爵家の嫡男・エドワード。政略結婚ではあったけれど、穏やかな未来を信じていた。


すべてが壊れたのは、義妹が来てから。


没落男爵家から引き取られたクラリッサ。蜂蜜色の髪に翡翠の瞳、誰もが守りたくなる『可憐な令嬢』。


彼女は私から全てを奪った。


偽造された手紙。買収された証人。『不貞の女』という濡れ衣。


エドワードは真実を確かめようともせず、婚約破棄を告げた。父は私を見捨て、この沈黙の修道院に送り込んだ。


声を出すことを禁じられた、厳格な修道院。


七年間、私は一度も声を発していない。


         ◇


「紙と、ペンを」


アレクシス公爵が、院長に命じた。


「は……?」


「聞こえなかったか。紙とペンだ。この人と、話がしたい」


私は目を見開いた。

話が、したい?

声の出ない私と?


「あ、あの、閣下。この者は沈黙の誓いを立てた身。俗世の方とお話しするなど——」


「誓いを破れとは言っていない。筆談で構わない」


公爵の声は淡々としていた。

けれど、その瞳には——不思議な熱があった。


「俺には時間がある。いくらでも待てる」


(——なぜ)


なぜ、あなたがそこまで。


震える手で渡された紙に、私は文字を綴った。


『閣下がこのような場所にいらっしゃる理由を、お聞かせ願えますか』


彼は受け取ると、驚くほど丁寧にそれを読んだ。まるで聖典を紐解くかのように、一字一字を目で追って。


「兄の——エドワードの代わりに来た。七年前、兄はあなたに不当な罪を着せ、婚約を破棄した。その非道を、今更ながら……謝罪しに」


謝罪。


私は心の中で、乾いた笑いを浮かべた。


(七年。七年経って、謝罪?)


気づけば、ペンが紙の上を滑っていた。


『——本当に、愚かな方』


書いてから、はっとした。これは公爵閣下に見せる文ではない。私の、本音だ。


慌てて隠そうとしたけれど、遅かった。公爵の長い指が、さっとそれを攫う。


「……愚か、か」


低い声。怒っているだろうか。当然だ。公爵閣下を愚かと——


「そうだな」


——え?


「俺も、兄も、愚かだった。七年。遅すぎた。それは分かっている」


青灰色の瞳が、私を映す。


「だが、俺は諦めない。あなたの無実を、証明することを」


心臓が跳ねた。


無実。

その言葉を、七年間、誰からも聞いていなかった。


『証明など……今更、何の意味がありましょう。私はもう、ただの声を失った修道女です』


「意味はある」


公爵が、断言した。


「七年間、声を封じられ、名前を奪われ、それでも……折れなかった。その強さを、俺は知っている」


『……閣下は、私のことなど何もご存知ないはずです』


インクが少し滲んだ。


公爵は、その滲んだ文字をじっと見つめた。


「そうだな。知らない。だから——教えてくれ。あなたのことを」


息が、詰まった。


「時間はある。一週間後、また来る。待つのは、苦ではない」


その言葉を最後に、公爵は踵を返した。


私は動けなかった。

ただ——その背中を見つめていた。


七年間で初めて、誰かに聞いてほしい言葉ができた。


それが、どれほど危険なことか——私はまだ、気づいていなかった。


         ◇


それから、公爵は毎週欠かさず訪れた。


私は筆談でしか応えられない。けれど彼は何時間でも待ち、私の書く言葉を宝物のように読んだ。


『——また来たのですか。閣下は、よほどお暇なのですね』


「暇ではない。だが、あなたの言葉を読む時間は作る」


『……この修道院の食事は質素ですが、閣下のお持ちになる菓子よりは胃に優しいですわ』


「なら、次は胃に優しい菓子を探してくる」


(——この人は、本当に……)


皮肉を言っても、毒を吐いても、彼は怒らない。むしろ、氷のような表情がわずかに和らぐ。


「あなたは声がなくても、こんなにも豊かだ」


ある日、彼はそう言った。


「あなたの言葉は、誰よりも雄弁だ」


心臓が、痛いほどに締め付けられた。


——この人に、もっと伝えたい。


そう思った瞬間、私は気づいた。


七年間、凍りついていた心が——溶け始めていることに。


         ◇


けれど、影は忍び寄っていた。


ある夜、私は告解室の前で、院長とクラリッサの密談を聞いてしまった。


「あの公爵が何度来ても、『リリアーナは死んだ』と言えば済む話でしょう?」


クラリッサの甘い声。けれど、その奥には冷たい刃が潜んでいた。


「お姉様には、『奥』で永遠に反省していただきましょう」


奥——地下牢。

一度入れば、二度と出られない場所。


私の存在を、完全に消そうとしている。


その夜、私は院長に呼び出され、地下牢に投げ込まれた。


「禁忌を犯した」という、偽りの罪で。


         ◇


暗い。冷たい。


石の床に座り込んだまま、私は膝を抱えていた。


(……もう、終わりなのかしら)


七年間、耐えてきた。声を奪われても、名前を奪われても。


生き延びることだけを考えてきた。


でも——


『待つのは、苦ではない』


あの声が、耳の奥で響く。


(会いたい)


涙が、頬を伝った。


七年間、一度も泣かなかった。なのに今、涙が止まらない。


——ガシャン。


鉄格子が、音を立てた。


顔を上げる。

暗闇に目が慣れているはずなのに、何も見えない。


「——Loss修道女」


低い声。

聞き間違えるはずがない。


「リリアーナ」


松明の光が、暗闇を裂いた。


逆光の中に、黒い影が立っている。

長身。黒髪。そして——北方の氷湖のような、青灰色の瞳。


「アレク……シス……」


——声が、出た。


掠れた、枯れた、七年ぶりの——声が。


自分でも驚いた。喉が痛い。声帯が悲鳴を上げている。けれど——止められなかった。


「来て、くれた……」


震える声。涙で滲む視界。


アレクシスが、駆け寄ってきた。鉄格子の錠前を、剣で叩き斬る。


「遅くなった」


彼の声も、震えていた。


「すまない。もっと早く——もっと早く、来るべきだった」


大きな腕が、私を抱き上げた。

温かい。冷たい地下牢で凍えていた体が、嘘のように——温まっていく。


「声が……出ている」


驚いたような、嬉しいような、複雑な声。


私は彼の胸に顔を埋めた。


「あなたに……伝えたかったから……」


「何を」


「名前……あなたの名前を……」


アレクシスの腕が、強く——強く、私を抱きしめた。


「——ずっと、聞きたかった。あなたの声で、俺の名を」


         ◇


修道院の大広間。夜明け前の薄明かりが、高窓から差し込んでいる。


王都から駆けつけた騎士団が、院長とクラリッサを取り囲んでいた。


「証拠は!? 証拠がなければ——」


クラリッサが叫ぶ。あの『可憐な令嬢』の仮面は、もうどこにもない。


「ある」


小さな声が響いた。シスター・ベアトリーチェ。彼女の手に、数通の手紙が握られていた。


「院長室から、見つけました。クラリッサ様と院長の——密約の手紙です」


七年間、私に密かにパンの耳や温かい毛布を差し入れてくれた、唯一の味方。


彼女が、最後の証拠を届けてくれた。


クラリッサの顔が、歪んだ。


「あなたが持っていた全てが憎い。美貌も、地位も、婚約者も——でも一番憎いのは、全てを奪っても、あなたが折れなかったこと!」


私は、静かに彼女を見つめた。


「ありがとう」


掠れた声で、そう言った。


「あなたのおかげで——私は、本当に大切なものが分かったわ」


アレクシスの手が、私の手を握った。


「七年間、私の沈黙に耳を傾けてくれた人がいた。私の言葉を——『誰よりも雄弁だ』と、言ってくれた人がいたから」


クラリッサが連行されていく。院長も、駆けつけたエドワードも。


「仕方がなかったんだ! 俺は悪くない!」


エドワードの叫びが、空しく響いた。


アレクシスが、冷たい声で告げる。


「父上は全てを知っている。あなたはもう——ただの罪人だ」


夜明けの光が、高窓から差し込んできた。


七年ぶりの——朝日だった。


         ◇


「まだ、言っていないことがある」


全てが終わった後、アレクシスは大広間の石畳に片膝をついた。


「俺は——十五年前、あなたに命を救われた」


息が、止まった。


「火事の夜。燃える屋敷から、あなたが俺を引きずり出してくれた」


左手の薬指。古い火傷の痕。

私は——覚えていなかった。けれど、彼は覚えていた。


「あの時から、ずっと——あなただけを、見ていた」


声が、掠れた。

あの『氷の公爵』が、初めて——言葉を詰まらせていた。


「でも、兄の婚約者だったから。手を出せなかったから。——だから」


彼の手が、私の手を唇に寄せた。


「今度こそ、言わせてくれ」


朝日が、彼の黒髪を照らした。


「——俺の妻に、なってほしい」


私は——泣きながら、笑った。


声は掠れて、ほとんど出なかった。

けれど、一言だけ——


「……はい」


彼の腕が、私を抱きしめた。

強く。優しく。離さないと誓うように。


         ◇


三ヶ月後——エルデンベルク公爵邸。


「旦那様。本日で夫人のお部屋に押し入るのは何度目でしょうか」


従者ヴィクトルの声が、廊下に響く。


「……うるさい」


「使用人たちが『公爵様は溺愛が過ぎる』と噂しております」


「知るか」


私は寝室で、その声を聞きながら微笑んだ。


扉が開く。ノックは——今日もなかった。


「遅かったですね」


「会議が長引いた」


「嘘ですわ。ヴィクトル様から聞きました」


「……あの男、本当に」


彼は懐から小さな箱を取り出した。

中には——銀の十字架。繊細な細工に、小さな紫水晶が埋め込まれている。


「母上の形見を、ずっと大切にしていただろう。あの十字架は古くなっていた。だから——新しいものを」


「……馬鹿な方」


「何?」


「こんなこと、しなくてもいいのに」


「したかったからした。それだけだ」


彼が手を伸ばし、私を引き寄せた。


「……声を、聞かせてくれ」


「何を、ですか」


「何でもいい。——お前の声が、聞きたい」


私は少し考えて——掠れた声で、囁いた。


「あなたのために……声を取り戻しました」


彼の腕に、力がこもった。


「もう、沈黙の誓いは破りましたから。——この声は、あなただけのものです」


「——リリアーナ」


「何でございますか、閣下」


「アレクシスと呼べ」


「……恥ずかしいですわ」


「構わない。俺だけの場所で——俺の名を呼んでくれ」


「……アレクシス」


その瞬間、彼の瞳が——燃えるように熱を帯びた。


「今夜は——離さない」


「……ええ。どこにも、行きませんわ」


月明かりの中で、私たちは抱き合った。


七年間の沈黙を経て——私はようやく、声を取り戻した。


それは、この人のおかげ。

私の言葉を、誰よりも待っていてくれた人のおかげ。


「……幸せですわ」


「俺もだ」


短い言葉。けれど、それで十分だった。


私の沈黙は、敗北ではなかった。

ただ——聞くに値する人を、待っていただけ。


そして今、その人が隣にいる。


これ以上の幸せを、私は知らない。



——Fin.

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