沈黙の誓いを破ったのは、あなたへの想いでした——七年間声を封じた元令嬢、冷徹公爵に見つけられ溺愛される
「——Loss修道女リリアーナを、この場に」
静謐な礼拝堂に、男の低い声が響いた。
祈りを捧げていた修道女たちの肩が、一斉に強張る。
この沈黙の修道院では、神への祈り以外の言葉は禁忌。誰も声を発することは許されない。
けれど——Loss?
私は伏せていた視線をわずかに上げた。
薄暗い礼拝堂の入口に、黒衣の男が立っている。逆光で顔は見えない。けれど、その輪郭だけで分かる。貴族だ。それも、相当な地位の。
(なぜ、私の名を……?)
七年。
七年間、私はこの修道院で息を殺すように生きてきた。リリアーナ・フォン・ヴェルトハイムという名は、この石壁の向こうに置いてきたはずだった。
「聞こえなかったか。リリアーナ・フォン・ヴェルトハイム——いや、今はただのLoss修道女か」
男が一歩、堂内に踏み込む。
蝋燭の灯りが、その顔を照らした瞬間——私の心臓が、止まった。
黒髪。北方の氷湖のような、淡い青灰色の瞳。
(……嘘)
エルデンベルク家の人間だ。
あの——私を地獄に突き落とした家の。
けれど、あの男ではない。エドワードではない。もっと若く、もっと冷たく、もっと——美しい。
「アレクシス公爵閣下……!」
マルグリット院長が慌てて駆け寄る。いつもは威厳に満ちた老女が、まるで怯えた小鳥のように腰を低くしていた。
「事前のご連絡もなく、いかがなさいましたか。修道院への寄進でございましたら——」
「兄の代わりに来た」
短い言葉が、院長の長広舌を断ち切る。
「七年前、この修道院に送られた令嬢がいるはずだ。兄の元婚約者——リリアーナ・フォン・ヴェルトハイム」
私は動けなかった。
周囲の修道女たちの視線が、私に集まるのを感じる。憐れみ、好奇、そしてわずかな恐怖。
「あの者でしたら……」
院長が私を指し示そうとした瞬間、
「分かっている」
氷の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「——Loss修道女。あなたのことを」
その声は、なぜだろう。
冷たいはずなのに、どこか——安堵を含んでいるように聞こえた。
◇
七年前、私は公爵家の一人娘だった。
婚約者はエルデンベルク公爵家の嫡男・エドワード。政略結婚ではあったけれど、穏やかな未来を信じていた。
すべてが壊れたのは、義妹が来てから。
没落男爵家から引き取られたクラリッサ。蜂蜜色の髪に翡翠の瞳、誰もが守りたくなる『可憐な令嬢』。
彼女は私から全てを奪った。
偽造された手紙。買収された証人。『不貞の女』という濡れ衣。
エドワードは真実を確かめようともせず、婚約破棄を告げた。父は私を見捨て、この沈黙の修道院に送り込んだ。
声を出すことを禁じられた、厳格な修道院。
七年間、私は一度も声を発していない。
◇
「紙と、ペンを」
アレクシス公爵が、院長に命じた。
「は……?」
「聞こえなかったか。紙とペンだ。この人と、話がしたい」
私は目を見開いた。
話が、したい?
声の出ない私と?
「あ、あの、閣下。この者は沈黙の誓いを立てた身。俗世の方とお話しするなど——」
「誓いを破れとは言っていない。筆談で構わない」
公爵の声は淡々としていた。
けれど、その瞳には——不思議な熱があった。
「俺には時間がある。いくらでも待てる」
(——なぜ)
なぜ、あなたがそこまで。
震える手で渡された紙に、私は文字を綴った。
『閣下がこのような場所にいらっしゃる理由を、お聞かせ願えますか』
彼は受け取ると、驚くほど丁寧にそれを読んだ。まるで聖典を紐解くかのように、一字一字を目で追って。
「兄の——エドワードの代わりに来た。七年前、兄はあなたに不当な罪を着せ、婚約を破棄した。その非道を、今更ながら……謝罪しに」
謝罪。
私は心の中で、乾いた笑いを浮かべた。
(七年。七年経って、謝罪?)
気づけば、ペンが紙の上を滑っていた。
『——本当に、愚かな方』
書いてから、はっとした。これは公爵閣下に見せる文ではない。私の、本音だ。
慌てて隠そうとしたけれど、遅かった。公爵の長い指が、さっとそれを攫う。
「……愚か、か」
低い声。怒っているだろうか。当然だ。公爵閣下を愚かと——
「そうだな」
——え?
「俺も、兄も、愚かだった。七年。遅すぎた。それは分かっている」
青灰色の瞳が、私を映す。
「だが、俺は諦めない。あなたの無実を、証明することを」
心臓が跳ねた。
無実。
その言葉を、七年間、誰からも聞いていなかった。
『証明など……今更、何の意味がありましょう。私はもう、ただの声を失った修道女です』
「意味はある」
公爵が、断言した。
「七年間、声を封じられ、名前を奪われ、それでも……折れなかった。その強さを、俺は知っている」
『……閣下は、私のことなど何もご存知ないはずです』
インクが少し滲んだ。
公爵は、その滲んだ文字をじっと見つめた。
「そうだな。知らない。だから——教えてくれ。あなたのことを」
息が、詰まった。
「時間はある。一週間後、また来る。待つのは、苦ではない」
その言葉を最後に、公爵は踵を返した。
私は動けなかった。
ただ——その背中を見つめていた。
七年間で初めて、誰かに聞いてほしい言葉ができた。
それが、どれほど危険なことか——私はまだ、気づいていなかった。
◇
それから、公爵は毎週欠かさず訪れた。
私は筆談でしか応えられない。けれど彼は何時間でも待ち、私の書く言葉を宝物のように読んだ。
『——また来たのですか。閣下は、よほどお暇なのですね』
「暇ではない。だが、あなたの言葉を読む時間は作る」
『……この修道院の食事は質素ですが、閣下のお持ちになる菓子よりは胃に優しいですわ』
「なら、次は胃に優しい菓子を探してくる」
(——この人は、本当に……)
皮肉を言っても、毒を吐いても、彼は怒らない。むしろ、氷のような表情がわずかに和らぐ。
「あなたは声がなくても、こんなにも豊かだ」
ある日、彼はそう言った。
「あなたの言葉は、誰よりも雄弁だ」
心臓が、痛いほどに締め付けられた。
——この人に、もっと伝えたい。
そう思った瞬間、私は気づいた。
七年間、凍りついていた心が——溶け始めていることに。
◇
けれど、影は忍び寄っていた。
ある夜、私は告解室の前で、院長とクラリッサの密談を聞いてしまった。
「あの公爵が何度来ても、『リリアーナは死んだ』と言えば済む話でしょう?」
クラリッサの甘い声。けれど、その奥には冷たい刃が潜んでいた。
「お姉様には、『奥』で永遠に反省していただきましょう」
奥——地下牢。
一度入れば、二度と出られない場所。
私の存在を、完全に消そうとしている。
その夜、私は院長に呼び出され、地下牢に投げ込まれた。
「禁忌を犯した」という、偽りの罪で。
◇
暗い。冷たい。
石の床に座り込んだまま、私は膝を抱えていた。
(……もう、終わりなのかしら)
七年間、耐えてきた。声を奪われても、名前を奪われても。
生き延びることだけを考えてきた。
でも——
『待つのは、苦ではない』
あの声が、耳の奥で響く。
(会いたい)
涙が、頬を伝った。
七年間、一度も泣かなかった。なのに今、涙が止まらない。
——ガシャン。
鉄格子が、音を立てた。
顔を上げる。
暗闇に目が慣れているはずなのに、何も見えない。
「——Loss修道女」
低い声。
聞き間違えるはずがない。
「リリアーナ」
松明の光が、暗闇を裂いた。
逆光の中に、黒い影が立っている。
長身。黒髪。そして——北方の氷湖のような、青灰色の瞳。
「アレク……シス……」
——声が、出た。
掠れた、枯れた、七年ぶりの——声が。
自分でも驚いた。喉が痛い。声帯が悲鳴を上げている。けれど——止められなかった。
「来て、くれた……」
震える声。涙で滲む視界。
アレクシスが、駆け寄ってきた。鉄格子の錠前を、剣で叩き斬る。
「遅くなった」
彼の声も、震えていた。
「すまない。もっと早く——もっと早く、来るべきだった」
大きな腕が、私を抱き上げた。
温かい。冷たい地下牢で凍えていた体が、嘘のように——温まっていく。
「声が……出ている」
驚いたような、嬉しいような、複雑な声。
私は彼の胸に顔を埋めた。
「あなたに……伝えたかったから……」
「何を」
「名前……あなたの名前を……」
アレクシスの腕が、強く——強く、私を抱きしめた。
「——ずっと、聞きたかった。あなたの声で、俺の名を」
◇
修道院の大広間。夜明け前の薄明かりが、高窓から差し込んでいる。
王都から駆けつけた騎士団が、院長とクラリッサを取り囲んでいた。
「証拠は!? 証拠がなければ——」
クラリッサが叫ぶ。あの『可憐な令嬢』の仮面は、もうどこにもない。
「ある」
小さな声が響いた。シスター・ベアトリーチェ。彼女の手に、数通の手紙が握られていた。
「院長室から、見つけました。クラリッサ様と院長の——密約の手紙です」
七年間、私に密かにパンの耳や温かい毛布を差し入れてくれた、唯一の味方。
彼女が、最後の証拠を届けてくれた。
クラリッサの顔が、歪んだ。
「あなたが持っていた全てが憎い。美貌も、地位も、婚約者も——でも一番憎いのは、全てを奪っても、あなたが折れなかったこと!」
私は、静かに彼女を見つめた。
「ありがとう」
掠れた声で、そう言った。
「あなたのおかげで——私は、本当に大切なものが分かったわ」
アレクシスの手が、私の手を握った。
「七年間、私の沈黙に耳を傾けてくれた人がいた。私の言葉を——『誰よりも雄弁だ』と、言ってくれた人がいたから」
クラリッサが連行されていく。院長も、駆けつけたエドワードも。
「仕方がなかったんだ! 俺は悪くない!」
エドワードの叫びが、空しく響いた。
アレクシスが、冷たい声で告げる。
「父上は全てを知っている。あなたはもう——ただの罪人だ」
夜明けの光が、高窓から差し込んできた。
七年ぶりの——朝日だった。
◇
「まだ、言っていないことがある」
全てが終わった後、アレクシスは大広間の石畳に片膝をついた。
「俺は——十五年前、あなたに命を救われた」
息が、止まった。
「火事の夜。燃える屋敷から、あなたが俺を引きずり出してくれた」
左手の薬指。古い火傷の痕。
私は——覚えていなかった。けれど、彼は覚えていた。
「あの時から、ずっと——あなただけを、見ていた」
声が、掠れた。
あの『氷の公爵』が、初めて——言葉を詰まらせていた。
「でも、兄の婚約者だったから。手を出せなかったから。——だから」
彼の手が、私の手を唇に寄せた。
「今度こそ、言わせてくれ」
朝日が、彼の黒髪を照らした。
「——俺の妻に、なってほしい」
私は——泣きながら、笑った。
声は掠れて、ほとんど出なかった。
けれど、一言だけ——
「……はい」
彼の腕が、私を抱きしめた。
強く。優しく。離さないと誓うように。
◇
三ヶ月後——エルデンベルク公爵邸。
「旦那様。本日で夫人のお部屋に押し入るのは何度目でしょうか」
従者ヴィクトルの声が、廊下に響く。
「……うるさい」
「使用人たちが『公爵様は溺愛が過ぎる』と噂しております」
「知るか」
私は寝室で、その声を聞きながら微笑んだ。
扉が開く。ノックは——今日もなかった。
「遅かったですね」
「会議が長引いた」
「嘘ですわ。ヴィクトル様から聞きました」
「……あの男、本当に」
彼は懐から小さな箱を取り出した。
中には——銀の十字架。繊細な細工に、小さな紫水晶が埋め込まれている。
「母上の形見を、ずっと大切にしていただろう。あの十字架は古くなっていた。だから——新しいものを」
「……馬鹿な方」
「何?」
「こんなこと、しなくてもいいのに」
「したかったからした。それだけだ」
彼が手を伸ばし、私を引き寄せた。
「……声を、聞かせてくれ」
「何を、ですか」
「何でもいい。——お前の声が、聞きたい」
私は少し考えて——掠れた声で、囁いた。
「あなたのために……声を取り戻しました」
彼の腕に、力がこもった。
「もう、沈黙の誓いは破りましたから。——この声は、あなただけのものです」
「——リリアーナ」
「何でございますか、閣下」
「アレクシスと呼べ」
「……恥ずかしいですわ」
「構わない。俺だけの場所で——俺の名を呼んでくれ」
「……アレクシス」
その瞬間、彼の瞳が——燃えるように熱を帯びた。
「今夜は——離さない」
「……ええ。どこにも、行きませんわ」
月明かりの中で、私たちは抱き合った。
七年間の沈黙を経て——私はようやく、声を取り戻した。
それは、この人のおかげ。
私の言葉を、誰よりも待っていてくれた人のおかげ。
「……幸せですわ」
「俺もだ」
短い言葉。けれど、それで十分だった。
私の沈黙は、敗北ではなかった。
ただ——聞くに値する人を、待っていただけ。
そして今、その人が隣にいる。
これ以上の幸せを、私は知らない。
——Fin.




