精霊王の花嫁になりませんが、契約相手にはなります
年に一度、聖夜の宴で、精霊の月冠が贈られる。月冠を受け取った者が、精霊の花嫁になる。月冠は一つしか作られない。だから三人のうち誰かが選ばれて、誰かは選ばれない。
私は、選ばれない方だった。
ただそれだけのこと。
私の名はセレナ・ヴァレリエ。ヴァレリエ公爵家の長女で、来月十九になる。婚約者は王太子殿下。家族は父と兄、そして義妹のメリーシュ。三人は皆、メリーシュを愛している。それは別に悪いことではない。人が誰かを愛することに、私が口を出す権利はない。
期待しないことには慣れている。期待しないことにすら、もう慣れすぎている。父は「お前は強いから大丈夫だろう」と言う。兄は「お前は本ばかり読んで、社交が苦手だろう」と言う。婚約者は「メリーシュは君と違って、純粋なんだ」と言う。
言われることにも、言われないことにも、慣れている。
ただ、祖母だけが、私を見てくれていた。エルミリア・ヴァレリエ前公爵夫人。私が幼い頃に亡くなった人。祖母は私に古い書物を読ませて、たくさんのことを教えてくれた。文字の読み方、礼の取り方、人の心の動き方。そして、亡くなる三日前、私の手を握ってこう遺した。
――いつか必ず、お前の名を呼ぶ声が聞こえる。
あれから七年、私は祖母の遺した古文書を毎日読んでいる。革表紙の縁が、私の指の油で艶光りしてしまうほどに。読みながら、時々、夢を見る。誰かが私を呼ぶ夢。「セレナ」と、はっきりと、私の名前を呼ぶ夢。けれど、目を覚ますと、その声は思い出せない。だから、祖母の遺言の意味も、まだ分からないままでいる。
扉の向こうから、老執事のベルナルドが声をかけた。
「お嬢様。お時間です。殿下のお部屋へまいる、お時間でございます」
明日は、聖夜の宴。精霊の月冠が贈られる夜。
私は知っている。月冠は、私には贈られない。婚約者は、義妹に贈ると決めている。父も、兄も、それを支持している。それでも、婚約者として、最後の確認だけはしておきたかった。
ただそれだけのこと。
私は古文書を一冊だけ手に取って、立ち上がった。
◇
王太子殿下のお部屋は、王宮の東棟の三階にある。私は四つ年下のメリーシュを連れて、扉の前に立った。連れていく必要のない訪問だったけれど、メリーシュが「お姉様、私もご挨拶を」と言うのを断る理由がなかった。
扉が開いて、私たちは部屋に通された。
殿下は窓の傍に立っていらして、私たちが入ると、メリーシュの方を先に見た。
「お久しぶりですわ、ジェラルド殿下」とメリーシュが微笑んだ。
「ああ、メリーシュ嬢。今日も光のようだ」
私はその傍で、用件を切り出した。
「殿下。明日の聖夜の宴で、月冠を私に贈ってくださいますね。婚約の確認のためにも」
殿下は、私の方をようやく見た。それから、少しだけ眉をひそめた。
「セレナ、悪いが――月冠はメリーシュ嬢に贈ろうと思っている」
私は、答えなかった。
「メリーシュは君と違って、純粋なんだ。気にするな。月冠ぐらい、些細なことだろう」
――「些細なこと」。
私は心の中で、その四文字をなぞった。月冠は一つしか作られないこと、月冠を受け取らない令嬢の婚約者がどう扱われるか、殿下はおそらくご存じない。あるいは、ご存じでも、どうでもよいと思っていらっしゃる。
「それと、メリーシュが寂しがるから、お茶会に呼んであげなさい。お前は強いから大丈夫だろう?」
――それは、お茶会の話なのだろうか。それとも、月冠の話なのだろうか。たぶん両方の話で、たぶん、どちらも私が我慢する話なのだろう。
「かしこまりました」
私はそれだけを言って、礼を取った。
メリーシュは、殿下の隣で、私の方を見て微笑んだ。咎める気持ちは湧かなかった。たぶんメリーシュは、自分が悪いことをしているとも思っていない。それが一番、私にとってはやりきれないことだった。
◇
公爵邸の食堂で、夕食の前に、私は父に話をした。
「お父様。明日の月冠の件ですが、ジェラルド殿下からメリーシュに贈ると伺いました」
父は、ナプキンを膝の上で広げながら、私を見ずに答えた。
「ああ、聞いている。それでいいだろう」
「私は王太子殿下の婚約者です。月冠は」
「セレナ」と父は私の言葉を遮った。「メリーシュは寂しがり屋だから、お前が我慢してくれ。お前は強いから、大丈夫だろう」
――また、その言葉。
強いから大丈夫。
私が「強い」と言われ始めたのは、何歳の頃からだったろう。たぶん、十一か十二の頃。祖母が亡くなって、私が泣かなくなった頃から。あの時、私は泣かないことを選んだのではなくて、泣き方を忘れただけだった。それを、父は強さと呼んでくれた。
ありがたいことだったのかもしれない。けれど、その「強さ」は、今、私から月冠を取り上げる理由として使われている。
私は黙って、スープを掬った。
◇
食事の後、兄の書斎を訪ねた。最後の確認だった。期待していたわけではない。ただ、確認だけは、しておきたかった。
兄ライナスは机に向かって書類を見ていた。私が入ると、視線だけを上げた。
「お兄様。月冠の件でお話があるのですが」
「ああ、月冠か」と兄は書類に目を戻しながら言った。「メリーシュに贈られるんだろう。父上もお認めになっている」
「私の意見をお聞きしたいのですが」
「セレナ、お前は本ばかり読んで、社交が苦手だろう。メリーシュの方が華やかだ。皆、そう言っている」
兄は書類のページをめくった。会話は終わったということだった。
「メリーシュは姉のお前を慕っているんだ。優しくしてやれ」
「……かしこまりました」
私は礼を取って、書斎を出た。扉を閉める時、兄は一度も私の方を見なかった。
◇
自分の部屋に戻って、私は古文書を開いた。意味があるとは思わなかった。ただ、何かをしていないと、自分が今どこに立っているか分からなくなりそうだった。
期待しないことには慣れている。
私は知っている。けれど、知っていることと、感じないことは、別のことだ。私は「期待していなかった」のではなく、「期待しても無駄だと知っていた」だけで、それでも、三つの確認が三つとも同じ結果だったことには、たぶん、僅かに、何かが擦り減った。
けれど、それを誰かに言う相手はいない。言ったところで、「お前は強いから大丈夫だろう」と返ってくるだけだ。
だから、私は古文書の頁をめくった。祖母の指の跡が残っている頁を、ゆっくりと、なぞった。
月冠は一つしか作られない。誰かが選ばれて、誰かは選ばれない。
ただそれだけのこと。
◇
朝、いつもの時間に目が覚めた。
寝台のそばの卓には、昨日のうちに用意しておいた古文書が一冊置いてある。表紙の革は、私の指の跡で艶光りしている。何度も何度もめくった頁が、本のかたちを少しだけいびつにしている。
私はそれをしばらく眺めて、それから着替えのために身を起こした。
化粧台の前で、髪を梳く。聖夜の宴のために、いつもより念入りに整える必要があった。けれど、整えたところで誰が見るというのだろう、と思った。すぐに、その問いを打ち消した。考えても仕方がない。誰も見ない髪を整えるのも、誰も読まない手紙を書くのも、誰も呼ばない名前を持っているのも、たぶん全部、同じ種類のことだ。
ただそれだけのこと。
私は鏡の中の自分を見て、少しだけ目を細めた。
◇
朝食の席は、いつものように静かだった。父はパンを千切り、兄は新聞を読み、メリーシュは紅茶のおかわりを頼んでいた。私は塩の壜の位置を、僅かにメリーシュの手の届く範囲へ寄せた。誰にも気づかれなかった。
「セレナ、月冠の準備はもうメリーシュに渡してある」と父が言った。
「はい、お父様」
父は、テーブルの下で、メリーシュに小さな包みを差し出していた。私は、それが何かを、もう知っていた。儀礼の作法を曲げるための、銀の重さ。けれど、何も言わなかった。言ったところで、何も変わらない。
「お前は控えの間で待っていればいい。儀礼の最中に何かする必要はない」
「かしこまりました」
「メリーシュ、緊張するか」と父はメリーシュに笑いかけた。
「ええ、お父様。少し」
「大丈夫だ。お前ならできる」
――できる、という言葉を、私はもう長いこと、誰かから言われていない。
そう気づいたけれど、心は動かなかった。気づいたことと、何かを感じることは、別のことだ。
◇
夕方、王宮へ向かう馬車の支度ができた。父と兄とメリーシュは先に出た。私は最後の馬車に、一人で乗ることになっていた。
玄関で、ベルナルドが私の前に立っていた。
三十年、ヴァレリエ家に仕えている人。私が生まれた時から、私を見てきた人。祖母の代から、ずっと。
ベルナルドは、何も言わずに、革表紙の古文書を私に差し出した。
私も、何も言わずに、それを受け取った。
三十年勤めた人と、十八年生きてきた私の間で、その所作は、もう、言葉を必要としていなかった。
「お嬢様」とベルナルドが、ようやく一言、口を開いた。「お忘れ物のないように」
私は彼の顔を見た。
ベルナルドは、私と目を合わせない。けれど、それは無関心からではなくて、たぶん、目を合わせると私が泣いてしまうかもしれないと、彼が知っているからだった。
――それで、十分だった。
「行ってまいります」
私は古文書を抱えて、馬車に乗り込んだ。
◇
王宮の儀礼会場は、王宮の中庭を見下ろす大広間にある。今宵は天井まで覆う大窓がすべて開かれ、夜空が広間の天井に直接降りているように見えた。星はまだ薄かったけれど、月だけが、奇妙にはっきりと、見えていた。
私は控えの間に通された。
控えの間には、椅子が一脚と、机が一つ、それだけが置いてあった。私は椅子に腰掛け、古文書を膝の上に置いた。
開く必要はなかった。けれど、私は表紙に手を置いた。革は、私の指の温度をすぐに受け取った。長いあいだ、こうしてきたから。祖母の代から、ずっと、この本は誰かの指に温められてきた。
──いつか必ず、お前の名を呼ぶ声が聞こえる。
祖母の遺言を、私はもう一度、頭の中でなぞった。
七年経った。声は、まだ聞こえない。たぶん、これからも聞こえないのだろう。「いつか」というのは、たぶん、永遠に来ない時間の名前だ。それでもいい。誰かに呼ばれるために生きているわけではない。
控えの間の扉が開いた。係の侍従が、儀礼の開始を告げた。
「セレナ・ヴァレリエ嬢。会場へお進みください」
私は古文書を抱え直して、立ち上がった。
──これで、全部終わるのか。
そう思いながら、私は扉を出た。
◇
大広間は、貴族で埋まっていた。
王家の方々、公爵家、侯爵家、伯爵家。聖夜の宴は王国でもっとも格の高い祝祭の一つで、招待されることそのものが家格の証になる。私は今夜、その広間に「公爵令嬢として」入った。婚約者の月冠を受け取らない令嬢として、ではなく。少なくとも、まだ、そうではなかった。
中央の祭壇には、銀の盆が一つ置かれていた。月冠は、その盆の上に、白い布で覆われて置かれているはずだった。
──はず、だった。
私が祭壇から目を離した一瞬の隙に、メリーシュが、祭壇の前へ進み出た。
そして、自分の頭から、銀の冠を外して見せた。
本来、白い布の下に納められているはずの月冠は──しかし、すでに、メリーシュの髪の上に載っていた。儀礼が始まる前から。誰の手から贈られるよりも前から。
メリーシュは、その月冠を取り上げて、両手で胸の前に掲げた。広間の灯が、銀の冠の表面に反射した。一カ所だけ、曇っているところがあった。たぶん、銀の純度の違い。たぶん、職人の手の違い。けれど、ほとんどの貴族の目には、それは「月冠」に見えたのだろう。
私は驚かなかった。
驚かないことには、もうずいぶん前から慣れていた。
メリーシュは、月冠を捧げ持ったまま、祭壇の前で振り返った。広間の貴族たちが、ざわめいた。父も、兄も、王太子殿下も、ざわめきの中にいて、メリーシュの手元の月冠を見つめていた。
そして、メリーシュは、誇らしげに、声を上げた。
「お父様、お兄様、ジェラルド様」
広間の天井まで、その声が届いた。
「これで私は、精霊の花嫁になるのですわね」
──広間が、一瞬、静まった。
私は、自分が立っている位置から、メリーシュの後ろ姿を見ていた。誰も私を見ていなかった。婚約者の王太子殿下も、私の父も、私の兄も、メリーシュの手元の月冠だけを見ていた。
ああ、これで全部終わるのか、と私は思った。
◇
私の隣で、誰かが小さく息をついた音がした。観衆の中の、誰か。私の知らない人。たぶん侯爵家の若い令嬢か、あるいは伯爵夫人か。
その人は、私の方をちらりと見た。気の毒そうに見えたかもしれないし、咎めるような視線だったかもしれない。私には判別できなかった。判別する必要もなかった。
メリーシュが、月冠を自分の頭にもう一度載せた。
父が拍手をした。兄も拍手をした。王太子殿下が、ゆっくりと、メリーシュの方へ歩み寄り、彼女の前で礼を取った。広間の貴族たちが、それに合わせて拍手を始めた。
拍手の音が、広間に満ちた。
私は、立ったまま、古文書を腕に抱えていた。
──月冠は一つしか作られない。
祖母の代から、ずっと、その規則だった。聖夜の宴のために、王国でただ一人の銀細工師が、年に一度、ただ一つだけ、作る。儀礼の前夜には、神殿に納められる。儀礼の朝、白い布で覆われ、祭壇に運ばれる。受け取る相手は、その夜の中で決まる。儀礼の作法が、千年、そうなっていた。
だから、メリーシュの頭にすでに月冠が載っていることは、ありえないはずだった。
けれど、誰も、それを指摘しなかった。父も、兄も、王太子殿下も、貴族たちも、誰も。たぶん、誰もが「それでいい」と思っていた。誰かが用意した一つの月冠が、誰かの頭の上にすでにあって、それでもう、儀礼は終わったということになるのなら、それでいい、と。
私だけが、それを知って、立っていた。
私は知っていて、何も言わなかった。
言ったところで、何かが変わるわけではない。私が「それは作法ではない」と声を上げたところで、王太子殿下は「メリーシュは君と違って純粋なんだ」と言うだろうし、父は「お前は強いから大丈夫だろう」と言うだろう。私の声は、月冠の銀の重さよりも、軽い。それを私は、長いあいだ、知っていた。
だから、何も言わなかった。
──ただそれだけのこと。
◇
そして、その時。
大広間の天井の大窓の向こう、夜空の中央で、何かが、揺れた。
月だった。
月が、揺れていた。
揺れて、それから、形を変えた。
拍手をしていた貴族たちが、一人、また一人と、それに気づいて、上を見上げた。父も、兄も、王太子殿下も、そしてメリーシュも、月冠を頭に載せたまま、上を見上げた。
私だけが、上を見上げなかった。
私は、自分の足元を見ていた。古文書の表紙が、なぜか、ほんの僅かに、温かくなっていたから。
◇
月が、夜空の中央で、形を変えた。
円から、楕円へ。楕円から、欠けた弧へ。弧から、何か、もっと別のものへ。
大広間の天井の大窓を通して、その月の光が、銀色の帯になって降りてきた。帯は、広間の中央の床へ降り立ち、そこで人の形を取った。
──夜色の髪。銀の瞳。夜空をそのまま纏ったような長い衣装。
室内なのに、その人の髪は、微かに、風で揺れていた。
貴族たちは、声を失った。父も、兄も、王太子殿下も、メリーシュも、月冠を頭に載せたまま、その姿を見つめていた。
私も、ようやく、顔を上げた。
そして、その瞬間、私は、思い出した。
──夢の中で、誰かが私を呼んでいた声。「セレナ」と、はっきりと、私の名前を呼ぶ声。目を覚ますと、思い出せなかった声。
──その声の主が、目の前にいた。
そう、思った瞬間、銀の瞳が、私の方を見た。
王太子殿下ではなく。父でもなく。兄でもなく。月冠を頭に載せたメリーシュでもなく。広間の貴族の誰でもなく。
ただ、私だけを。
◇
銀の瞳が、私を捉えたまま、ゆっくりと、口を開いた。
「ようやく見つけた」
その声は、夢の中で何度も聞いた声と、確かに、同じだった。
「我が花嫁よ」
──広間が、また、静まり返った。
父が、何かを言いかけて、口を閉じた。兄が、何かを言いかけて、また閉じた。王太子殿下が、メリーシュの隣で、表情を強張らせた。メリーシュは、頭の月冠を、両手で押さえていた。
そして、ようやく、王太子殿下が、声を発した。
私は今でも、その時の殿下の声を、はっきりと覚えている。広間の天井まで、その声が届いた。多くの貴族がそれを聞いた。歴史に残るには、十分なほどの大きさで。
「精霊王陛下、人違いです」
殿下は、私を指さしてはいなかった。けれど、メリーシュの方を、両手で示していた。
「月冠は私の婚約者ではなく、メリーシュ嬢に贈られるべきものです」
──私は、答えなかった。
答えるべき言葉を持っていなかった、というよりは、答えるべき相手は、私ではなかったから。殿下は精霊王に語りかけていて、精霊王は、私だけを見ていた。だから、私は、ただ立っていた。
精霊王──その人は、私はその時はまだその名を知らなかったのだけれど──は、王太子殿下の言葉を聞いていなかったのか、聞いた上で気にしなかったのか、どちらにせよ、視線を私から外さなかった。銀の瞳は、王太子殿下の方を一度も見なかった。月冠を頭に載せたメリーシュの方も、一度も見なかった。
ただ、私の方だけを、見ていた。
◇
銀の瞳が、私の足元の古文書に、ほんの一瞬だけ、向けられた。
そして、もう一度、私の目に戻った。
「来なさい」とその人は、静かに言った。「私は、君を、長く待っていた」
──私は、足を動かさなかった。
動かさなかったというより、動かす根拠を、まだ持っていなかった。なぜ、その人が私を呼ぶのか、私には分からなかった。「夢の中で聞いた声」と「いま目の前にいる人」が同じだということは分かっていたけれど、それは、それだけのことだった。
月冠は、私のためのものではない。父も、兄も、王太子殿下も、そう言っていた。だから、月冠は、私のためのものではない。
──そのはずだった。
けれど、その人の銀の瞳は、月冠を頭に載せたメリーシュではなく、私を見ていた。
──ここで黙れば、十八年が、確定してしまう。
そう、思った。
私は、ゆっくりと、息を吸った。それから、礼を取った。深く。けれど、足は動かさなかった。
そして、私は、人生で初めて、声を上げた。私自身のための声を。
「……いえ。お待ちください」
──その一言が、広間の沈黙を、二つに割った。
◇
「いえ。お待ちください」
私の声は、思ったよりも、静かだった。
広間の貴族たちが、息を呑んだ音がした。父の口が半開きになっていた。兄が一歩、後ろに下がった。王太子殿下は、メリーシュの隣で、何かを言いかけて、また閉じた。メリーシュは、月冠を頭に載せたまま、私の方を、初めて、まっすぐに見た。
銀の瞳の人は──精霊王と呼ばれるその人は──ほんの少しだけ、瞼を瞬きさせた。
それだけだった。
けれど、その瞬きが、たぶん、一番大きな反応だった。広間に降り立ってから、その人は、一度も瞬きをしていなかったのだから。
◇
私は、もう一度、礼を取った。
退かないための礼ではなくて、敬意を伝えるための礼だった。私はその人を、敵としては見ていなかった。私は祖母から、礼の取り方を教わって育った。礼は、相手の格に応じて深さを変える。そして、最も深い礼は、自分が逆らう相手に対して取るものだ、と。
「精霊王陛下、と、お呼びしてよろしいでしょうか」
銀の瞳の人は、答えなかった。けれど、否定もしなかった。
「では、精霊王陛下。失礼ながら、申し上げたいことがございます」
私は片手で、腕に抱えた古文書の革表紙の縁を、握っていた。気づかないうちに。指先が、いつもより冷たかった。けれど、震えてはいなかった。
「お言葉ですが、私は、あなたの花嫁になる契約を、ただの一度も、結んだ覚えがございません」
──広間が、沈黙した。
父が、私の方を見た。兄も、私の方を見た。王太子殿下も、私の方を見た。広間中の貴族が、私の方を見た。私が、これまで「強いから大丈夫」「本ばかり読んで社交が苦手」「冷たい」と言われ続けてきた令嬢が、精霊王に向かって異を唱えていた。広間の誰もが、それを目撃していた。
銀の瞳の人は、私を見ていた。何も言わなかった。けれど、視線は、外さなかった。
私は、もう一段、踏み込んだ。
「お贈りいただいた銀の月冠は──いえ、お贈りいただこうとしてくださっている銀の月冠は、私のものではありません」
父が、何かを言いかけた。私は、続けた。
「私の血のものでしょう。古き契約の血のものでしょう。私という、十八年のあいだ、本を読み、礼を取り、誰かの愛に口を出さないことを学んできた人間の意志を、何一つ、介していません」
銀の瞳の人の唇が、ほんの僅か、開いた。けれど、声は出なかった。出す前に、私が続けたから。
「血で選ばれることは、誇るべきことかもしれません。私は祖母から、たくさんのものを受け取りました。古文書も、礼の取り方も、人の心の動き方も、それから、ある一つの遺言も。それらすべては、私の血の上に積み重なっている。それは、確かに、私の誇るべきものです」
私は、一度、深く、息を吸った。
◇
「ただ──」
そして、声を、ほんの僅かだけ、強くした。
「血で選ばれて従うなら、人に言いつけられて従っていたのと、何も変わらないと、思うのです」
──広間の誰も、声を出さなかった。
父も、兄も、王太子殿下も、メリーシュも、貴族たちも、誰一人として、声を出さなかった。たぶん、出せなかった。
銀の瞳の人だけが、私を見ていた。
その瞳の中に、降臨の時にはなかったものが、宿っていた。「困惑」と呼ぶには静かすぎて、「驚き」と呼ぶには深すぎる、何か。けれど、それを名づける言葉を、私はまだ、持っていなかった。
私は、もう一度、礼を取った。最も深く。
「私はこの十八年、誰かの言いつけに従って、月冠を受け取らない令嬢として生きてきました。今夜、月冠を受け取らないことについては、もう慣れています。慣れすぎているほどです。けれど、もし、それと同じことを、別の場所で、別の理由で、もう一度繰り返すのなら──」
私は、顔を上げた。銀の瞳と、目を合わせた。
「──それは、私の十八年を、否定することになります」
私は、また礼を取った。
「私はもう、選ばれる側でいることを、やめさせていただきます」
──広間に、誰かが、息を吐く音がした。
たぶん、ベルナルドだった。たぶん、扉の傍で、ずっと立っていてくれた、あの人だった。
◇
ベルナルドの息が、広間に消えていった。
そのあとに、別のものが、来た。
◇
私は、自分の足元を見ていなかった。古文書を抱えた腕に、力を入れていなかった。私は、銀の瞳の人を見ていた。
けれど、足元から、光が、上がっていた。
古代文字が、私の靴の周りに、円を描いていた。革表紙の古文書から、ゆっくりと、文字が一つずつ、空中に立ち上がっていた。文字は、私が読んだことのある形をしていた。祖母の代から、ずっと指でなぞってきた形。けれど、それが光を放ったのは、これが初めてだった。
私は、何もしていなかった。
古文書を開いてもいなかった。声に出して何かを読んでもいなかった。ただ、抱えていただけだった。革表紙の縁を、片手で握っていただけだった。
銀の瞳の人が、私の足元の光を見た。それから、もう一度、私の目を見た。その瞳の中に、もう、降臨の時の確信は、なかった。
──「我が花嫁よ」、と最初にその人は呼んだ。
けれど、いま、その人の銀の瞳は、別のことを語っていた。「我が花嫁」を見つけたのではなかった、ということを。「我が花嫁」と呼びかけた相手は、たしかに私だったのだけれど、その人がほんとうに探していたものは、もしかすると、別の名前で呼ばれるべきものだったのかもしれない、ということを。
私は、それを言葉にできなかった。
けれど、足元の古代文字が、それを言葉にしていた。
◇
古代文字が空中で組み合わさって、一つの紋章を作った。紋章は、私の頭の少し上で、止まった。
私の知らない紋章だった。けれど、私はそれを「知っていた」。祖母の古文書の、最初の頁に、同じ紋章が描かれていた。私は子供の頃、その頁を何度もなぞった。意味は分からなかった。祖母も、教えてくれなかった。「いつか、あなたが意味を見つける」と、祖母は言った。
──いま、意味を見つけたのかもしれない。
紋章の下に、古代文字が並んだ。文字は、契約の条文を綴っていた。私には、読めた。読めるはずがないのに、読めた。たぶん、祖母が私に教えていたのは、「読める」ことではなくて、「読まなくても、知っている」ということだったのかもしれない。
条文は、こう書かれていた。
──ヴァレリエの血を引く者と、夜の精霊の王との間に、千年前、結ばれたる契約を、ここに更新する。
──契約の主は、血を持つ者の側にあり。
──精霊王は、血を持つ者の意志に従う。
──血を持つ者は、自らの意志をもって、契約の継続、改訂、もしくは破棄を選ぶ。
◇
私は、その条文を読みながら、祖母の言葉を、思い出していた。
──いつか必ず、お前の名を呼ぶ声が聞こえる。
七年、私は、その声を待っていた。誰かが私を呼んでくれる声を。私の名前を、ちゃんと呼んでくれる声を。
けれど、いま、私は気づいた。
祖母が言っていたのは、たぶん、「誰か」ではなかった。
──祖母が言っていたのは、「私自身」が「私の名」を「呼ぶ」ことだったのかもしれない。
私は、もう、それを誰にも確かめることができない。祖母は、七年前に亡くなった。けれど、もし、そうだったとしたら。「お前の名を呼ぶ声」というのは、「私が私の名を呼ぶ瞬間」のことだったとしたら。
私は、いま、それを呼んだのかもしれなかった。
「私はもう、選ばれる側でいることを、やめさせていただきます」、と。
◇
紋章が、ゆっくりと、消えていった。古代文字も、ゆっくりと、古文書の革表紙の中に、戻っていった。光は、消えた。けれど、何かが、変わっていた。
父の顔が、青ざめていた。
私は、ヴァレリエ家の人間だった。ヴァレリエ家は、王国の名門公爵家として知られていた。けれど、いま、広間に立ち上がった古代文字は、それよりも、ずっと古い時代の言葉だった。古代帝国の時代──現王国が建国されるよりも、はるか昔。その時代に、私の血の祖先は、夜の精霊の王と契約を結んでいたのだった。
ヴァレリエ家は、千年前の契約者の血を、ただ一筋だけ残した家だった。家名すら違っていた古代帝国の頃から、私たちは、同じ血を、同じ古文書とともに、伝えてきていたのだ。
つまり──現王国が「精霊の月冠の儀礼」と呼んできたものは、本来、何だったのか。
父が、それに気づいた。
兄も、それに気づいた。
王太子殿下も、たぶん、気づいた。気づくのに、少し時間がかかった様子だったけれど、結局、気づいた。
メリーシュは、月冠を頭に載せたまま、立ち尽くしていた。彼女が手にしていた銀の冠は、儀礼の作法から外れた、誰かが密かに作らせた偽物だった。けれど、いま、それよりも、もっと根本的な問題が、広間の中央で明らかになっていた。
──現王国の「儀礼」そのものが、千年前の本物の契約の、形だけを残した模倣だったのだ。
月冠が一つしか作られない理由も、聖夜の宴で行われる理由も、すべては、千年前の契約の名残だった。けれど、現王国の人々は、契約の本体を、もう何代も前に失っていた。形式だけを、繰り返していた。
そして、契約の本体は、ヴァレリエ家の血の中に、残っていた。
◇
広間の貴族たちは、声を出さなかった。
一秒、二秒、三秒。
三秒の沈黙のあと、誰かが、ゆっくりと、息を吐いた。それから、また、別の誰かが、息を吐いた。広間中の貴族が、それぞれの場所で、息を吐いていた。誰も、何かを声にすることはなかった。けれど、誰もが、何かを理解していた。
父が、私の方を見ようとして、視線を逸らした。兄が、書類を置く時のように、両手をゆっくりと下ろした。王太子殿下は、メリーシュの隣で、両手の指先を見つめていた。
メリーシュが、頭の月冠を、ゆっくりと、両手で外した。誰に言われたわけでもなく。彼女自身が、たぶん、そうするべきだと感じたから。月冠は、彼女の手の中で、もう、何の重さも持っていなかった。彼女はそれを、足元の床に、静かに、置いた。
銀の冠は、床の上で、一カ所だけ、曇ったままだった。
◇
私は、銀の瞳の人の方を、もう一度、見た。
その人は、私の方を見ていた。けれど、その視線の中の、何かが、変わっていた。
私は、礼を取らなかった。
取る必要が、もう、なかったから。
そして、私は、まだ、そこに立っていた。
◇
銀の瞳の人は、しばらく、私を見ていた。
広間の貴族たちも、誰も、声を出さないままだった。父も、兄も、王太子殿下も、メリーシュも、それぞれの場所で、それぞれの体勢のまま、止まっていた。古代の契約条文は古文書の中に戻り、紋章も消え、けれど、何かが、たしかに広間の中に残っていた。
降臨の時の確信が、銀の瞳から、ゆっくりと抜けていくのが、私には見えた。
銀の瞳の人が、ようやく、口を開いた。
「……は?」
──広間が、また、別の質の沈黙に、変わった。
私は、答えなかった。たぶん、答える台詞ではなかった。
銀の瞳の人は、もう一度、口を開きかけて、また閉じた。それから、自分の足元を見た。それから、もう一度、私を見た。それから、メリーシュが床に置いた月冠を見た。それから、また、私を見た。視線が、行ったり来たりしていた。降臨の時の、揺るがない焦点は、もう、そこにはなかった。
「待ってくれ」
──その人の声は、降臨の時よりも、半音、低かった。
「君は──私の花嫁になることを、断るというのか」
私は、口を開きかけて、でも、答える前に、その人の方が続けた。
「私は、千年、待っていたのだが」
──広間の貴族の誰かが、ほんの僅かに、息を漏らした。たぶん、笑いではなかった。けれど、笑いに似た、何かだった。
私は、無表情を保った。礼儀として。
「千年というのは──」とその人は、まだ、独り言のように続けた。「私たちの時間の感覚で言うと、ほぼ、昨日のことなのだが」
──ベルナルドが、扉の傍で、視線を斜めにした音がした。たぶん、視線を斜めにした音がしたわけではないのだけれど、私には、そういう音が聞こえた気がした。
銀の瞳の人は、まだ、自分を立て直そうとしていた。けれど、立て直せていないことは、その人自身が、たぶん、一番よく分かっていた。
「私は」とその人は、ようやく、観念したように、続けた。
「私は、神秘上位の存在として、こういう場合の対応を、まったく、学んでいないのだが」
──広間の貴族の、別の誰かが、咳払いをした。
私は、片手で、古文書の縁を、もう一度、握り直した。今度は、震えていなかった。冷たくも、なくなっていた。
銀の瞳の人は、私の手元を見て、それから、もう一度、私の顔を見た。瞳が、ほんの少しだけ、見開かれた。困惑、と呼ぶには静かすぎたけれど、降臨の時の確信に比べれば、明らかに、別のものだった。
「君は──」
また、口を切って、また、言い直した。
「君は、私が思っていたのと、違うのか」
私は、ようやく、口を開いた。
「いえ。違わないと、思います」
銀の瞳の人が、瞬きをした。
「ただ、あなたが、思っていらしたものが、もしかすると、最初から、別のものだったのかもしれません」
──その瞬間、銀の瞳の人の唇の端が、ほんの僅か、動いた。
笑った、というほどではなかった。けれど、降臨の時にはなかった、何か。困惑の続きのような、けれど、困惑ではない、別の何か。
私は、深く礼を取った。
◇
私は、深く礼を取った。礼の角度は、敬意の分だけ深く。けれど、退かない分だけ、しっかりと。
「精霊王陛下。私はあなたを敬っております。あなたが地上に降り立ち、私の家系の声を聴いてくださったこと、それは確かに、私の血が誇るべきことです」
──そういえば、と、私はその時、ふと思い出していた。
祖母の古文書には、夜の精霊の王の名が、二度だけ記されていた。古き形では「ノクス」、新しい形では「ノクト」。私はその名を、長いあいだ、口に出したことがなかった。けれど、いま、目の前にいる人を呼ぶとしたら、その名以外には、もう、ありえなかった。
ノクトの銀の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「ただ、それと、私があなたの花嫁になることとは、別のことです」
古文書から立ち上がっていた古代文字の光が、ゆっくりと、私の手の中へ収まっていった。広間は静まり返っていた。誰も、声を出さなかった。誰も、出せなかった。
「もし、あなたが私と契約を結びたいのなら――対等な、契約相手としていらしてください。花嫁としてではなく、私の家系がかつて結んだ契約を、私の代で結び直すために」
ノクトは、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。困惑のかわりに、別のものが、そこにはあった。
「……君は」
一度言葉を切って、もう一度言い直した。
「君は、私が思っていたよりずっと、自分のことを知っている」
私は、答えなかった。答える必要のあることではなかった。
「分かった」とノクトは言った。「では、契約相手として、また会いに来てもいいか」
私は、もう一度、深く礼を取った。
「お待ちしております」
ノクトの姿が、ゆっくりと、夜空のほうへ溶けていった。光は残らなかった。来た時と違って、静かに、消えるように去った。
広間に残されたのは、私と、まだ立ち尽くしている王太子と、青ざめた父と、震える兄と、足元に偽物の月冠を置いたメリーシュと、――そして、扉の傍で静かに立っているベルナルドだった。
ベルナルドは、私と目が合うと、ほんの僅かに頷いた。それだけだった。それで、十分だった。
私は古文書を抱え直して、広間を出た。背中で、誰かが何かを呼ぶ声がした気がしたけれど、振り返らなかった。
◇
春が来た。
ヴァレリエ公爵家の家督は、私が継いだ。父は領地の一角に隠居し、兄は北部の文官府に配置換えになったと、新聞の人事欄で見た。それきり、便りはない。婚約は白紙に戻った。王太子家と私の家のあいだに、新しい釣り合いの線が引かれた。新聞には、王家の権威についての小さな論説がいくつも載った。私はそれを、朝食の時に少しずつ読んでいる。
義妹のメリーシュは、伯爵家の実家に戻ったと聞いた。それきりだった。憎んではいない。許してもいない。ただ、もう、私の生活の中に名前を呼ぶ理由がないというだけのこと。
ベルナルドは、変わらず私のそばにいる。三十一年目の春になった。
私は、領地の図書室で古文書を読んでいる。読みながら、時々、新しい頁にメモを書く。祖母が遺してくれた書物には、まだ私が読み終えていない章がたくさんある。読み終わるのに、たぶん、一生かかるのだろう。それでも構わない。
ノクトは、時々、夜の縁に腰掛けに来る。
図書室の窓辺に、夜色の影が降りていることが、月に二度ほどある。私は気づかないふりをしながら、お茶を一杯多めに淹れる。彼は何も言わずに腰掛けて、私の読む頁を覗き込み、しばらくして、また音もなく去っていく。それだけのこと。
けれど、その「それだけのこと」が、私の毎日の中で、少しずつ、形を持ち始めている。
「花嫁」と呼ばれない日々は、こんなに静かなのだと、私は知らなかった。
彼が時々、夜の縁に腰掛けに来る。それくらいで、ちょうどいい。
ここが、私の場所なのだろう。
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