第22話:神様は、少しだけお休みしたい
指先が、わずかに震えていた。
白銀のペンを置いた机の上、私は自分の手を見つめる。
戴冠式で「世界システム」の修正者を退けたあの日から、私の体には奇妙な「重み」が残っていた。
私が一文字記すたび、世界のどこかでキシキシと軋むような音が聞こえる気がする。
――『書き換えすぎた歴史は、世界の許容を超えた』
あの無機質な声が、呪いのように耳の奥で反響していた。
「……また、そんな顔をしているのか」
背後から、熱い体温が私を包み込んだ。
ジークヴァルト様だ。
彼は私の肩に顔を埋め、深く息を吸い込む。まるですべての不安を吸い出し、代わりに自分の熱を注ぎ込もうとするかのように。
「ジークヴァルト様……。公務はよろしいのですか? 新聖王国の立ち上げで、お忙しいはずでは」
「そんなものはセラフィナとラピスに放り投げてきた。今の私にとって、世界を統べることよりも、君の顔色が優れないことの方が数倍、国家存亡の危機だ」
彼は私を軽々と抱き上げ、寝台へと運んでいく。
まるで、一歩も歩かせることさえ惜しむような、過保護という名の独占欲。
「横になれ、エルセ。君は今日、一文字も書かなくていい。……いや、今後一生、何も書かなくて済むようにしてやりたいくらいだ」
「それは困りますわ。……私、貴方との幸せを、もっと記していきたいのですもの」
私が弱々しく微笑むと、ジークヴァルト様の金の瞳が、暗い情熱を帯びて細められた。
彼は私の隣に横たわり、私の髪を慈しむように指で梳く。
「……世界が壊れる、と言われたことが気になるか?」
図星だった。私は彼の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
私が望むハッピーエンドが、この世界という器を壊してしまうとしたら。
私の幸せの対価が、数千万の民の命だとしたら。
「……怖いのです。私のペンが、いつか貴方さえも壊してしまうのではないかと」
「フン、傲慢だな。……いいか、エルセ。神がこの世界を創ったというなら、私はその神を切り裂いて君を奪った男だ。壊れるなら、壊れるままにしておけばいい」
ジークヴァルト様は、私の顎を指先でクイと持ち上げ、まっすぐに見つめた。
「世界が消失しても、私と君がいれば、そこが新しい世界の中心だ。
いいか。君は『管理者』なんかじゃない。ただの、私の愛しい女だ。
難しく考えるな。君のペンは、君が笑うためにだけあるんだ」
彼は私の唇に、深く、優しく口づけを落とした。
不安を、罪悪感を、すべて甘い痺れで上書きしていくような……最高に強引で、最高に優しい救済。
「……はい、ジークヴァルト様。私、貴方の腕の中にいる時だけは、世界の声が聞こえなくなります」
「それでいい。……そのまま、眠りについていろ。目覚めた時、まだ世界が残っていたら、それは私の功績だ。もし消えていたら……二人きりの永遠を楽しもう」
ジークヴァルト様の温もりに包まれ、私は深い眠りに落ちていった。
彼がいれば、たとえ世界が滅びに向かっていても、私は幸せでいられる。
……そう、思っていた。
数時間後。
ふと目が覚めた私は、喉の渇きを覚えて身を起こした。
ジークヴァルト様は、急ぎの報告があったのか、隣にはいなかった。
私は静かな部屋の中、鏡台の前へ歩み寄った。
月光に照らされた自分の顔を確認しようとして――。
「……え?」
鏡の中に映っていたのは、私ではなかった。
ドロドロとした黒いノイズに塗れた、一人の男。
歴史から抹消し、存在すら否定したはずの……第一王子、ジュリアン。
『……ハ……見つ……け……た……ぞ……エル……セ……』
鏡の中の彼が、ニチャリと歪んだ笑みを浮かべる。
その体は、世界のバグそのもののように、ノイズで激しく明滅していた。
私は反射的に銀のペンを抜き、鏡に向かって文字を叩きつけようとした。
『消えなさい! 貴方はもう、存在しないはずよ!』
しかし。
いつもなら銀の光を放つはずの私のペンが――一滴のインクも出さず、カタカタと悲鳴を上げて震えている。
まるで、目の前の存在が「私の権能では消せない、確定した事実」であるかのように。
「……嘘。私の記録が、拒絶されている……?」
鏡の向こう側から、黒いノイズにまみれた手が、現実のこちら側へとゆっくりと伸びてくる。
システムが再起動させた、私を「管理」するための、最悪のオリジナル。
離宮の廊下から、ジークヴァルト様の足音が聞こえてくる。
けれど、その足音さえも、砂嵐のようなノイズにかき消されていった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ジーク様の激甘看病回……かと思いきや、後半は一気にホラー展開へ。
「エルセのペンが効かない!?」という、無双状態からの初めてのピンチ。
そして、かつての婚約者が「システムの怪物」として戻ってくる絶望感。
「ジーク様の独占欲に浸っていたかったのに、ジュリアン邪魔すぎる!」
「世界のバグになったジュリアンが不気味で怖い……」
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皆様の応援が、バグに立ち向かうエルセの「筆の魔力」を回復させます。
次回、第23話は「ラピスの大発見:銀のペンの『裏側』」。
エルセのペンが効かなくなった理由を、あの変態天才魔導師ラピスが解明します!
そしてジーク様が、鏡の中の男をどう「物理」で解決するのか……お楽しみに!




