契約書は、どこにありますか
冒険者ギルドは、今日も賑わっていた。
依頼掲示板の前では人が立ち止まり、
酒場では朝から誰かが騒いでいる。
見た目だけなら、いつも通り。
「……次の方、どうぞ」
受付の内側で、
ミレイアは淡々と声を出した。
机の上には、依頼書の束。
処理待ちの書類。
どれも、見慣れたものだ。
「勇者様、まだ動けないのか?」
列の中から、声が上がる。
「回復すれば、すぐだろ?」
ミレイアは、表情を崩さず答えた。
「現在、調整中です」
それ以上は、言えない。
「代わりはいないのかよ」
「規約上、
勇者任務は勇者本人が――」
「規約、規約って」
苛立ちが、滲む。
「結局、誰がやるんだ?」
ミレイアは、言葉を選んだ。
何度も、選んできた。
「……今、確認しております」
それが、許される限界だった。
受付の後ろで、
別の職員が小声で言う。
「勇者頼みだったのにね」
「最初から、無理があったんだよ」
その言葉が、
胸に刺さる。
――無理があった。
分かっていた。
最初から。
「……あの」
ミレイアは、意を決したように、
書類を一枚取り出した。
勇者関連の規約。
何度も読んだ紙だ。
そこには、こう書いてある。
・勇者は世界救済のために行動する
・詳細は管理局の指示に従う
それだけ。
(……詳細って、何……?)
ページをめくっても、
具体的な条件は出てこない。
勤務時間。
休息。
責任範囲。
どこにも、書いていない。
ふと、
気づいてしまった。
(……契約書が……)
ミレイアは、
書類の束を見つめた。
同意書はある。
規約もある。
でも――
(……契約書、ない……)
背中に、冷たいものが走る。
今まで、
何人も勇者を送り出してきた。
その全員が、
同じ紙に、
同じように署名していた。
それで、
仕事は回っていた。
でも。
(……これ、
誰と、何を、約束してたんだろう……)
ミレイアは、
ゆっくりと顔を上げた。
受付の外は、
相変わらず騒がしい。
誰も、
立ち止まっていない。
――立ち止まったのは、
彼女だけだった。
問い合わせ用のウィンドウが、淡く光っている。
ミレイアは、その前でしばらく指を止めていた。
――何を、どう聞けばいいのか。
勇者が動けない。
依頼が回らない。
現場が困っている。
それだけなら、今までもあった。
だが今回は、違う。
(……何を、根拠に……)
深呼吸を一つして、
ミレイアは入力を始めた。
件名:勇者稼働条件についての確認
勇者ユウトの件につき、
稼働条件および責任範囲について
確認をお願いしたく存じます。
文章は、丁寧で、無難だ。
いつも通り。
波風を立てない書き方。
送信。
数秒後。
応答が、早すぎるほど早く返ってきた。
「……え?」
画面に映ったのは、
転生管理局・第3課。
担当者名――アリシア。
『お問い合わせありがとうございます。
勇者稼働については、
従来通りの運用で問題ありません』
ミレイアは、眉をわずかに動かした。
(……従来通り、って……)
すぐに、返信する。
従来通り、とは
具体的にどの範囲を指しますか。
間を置かず、返答。
『世界救済を目的とした任務全般です』
それだけ。
ミレイアは、画面を見つめた。
(……それ、目的であって……)
条件ではない。
言葉を選び、打ち直す。
勤務時間、休息、
危険手当等の取り扱いについて
書面はございますか。
しばらく、返事が来ない。
その“間”が、
答えのような気がした。
やがて、
メッセージが表示される。
『書面につきましては、
現在のところ
特別な契約書は存在しておりません』
ミレイアは、指を止めた。
(……やっぱり……)
では、
勇者本人は
何に同意している、という扱いでしょうか。
数秒。
『世界のために、です』
短い返答。
それを見た瞬間、
ミレイアの胸に、
はっきりとした違和感が生まれた。
(……それって……)
同意、なのだろうか。
祈りや、覚悟や、
期待の話ではない。
仕事の話だ。
「……想定通り、ですよね?」
ミレイアは、
誰にともなく呟いた。
今まで、
誰も困らなかった。
だから、
問題にならなかった。
でも――
今、現場は困っている。
ユウトは、倒れた。
代わりはいない。
そして。
(……責任を取る人が、
どこにもいない……)
ミレイアは、
もう一度、画面を見つめた。
転生管理局・第3課。
担当:アリシア。
その名前の横に、
小さく表示されている文字。
――「処理中」。
それは、
誰かが止めた証拠だった。
白い空間に、
いつもとは違う揺れが走った。
重なり合うように、
二つのウィンドウが開く。
一つは、転生管理局。
もう一つは、冒険者ギルド。
そして――
その間に、
“保留中”の転生者が一人。
安西 恒一は、
特に驚いた様子もなく、
その光景を見ていた。
「……あの……」
先に声を出したのは、アリシアだった。
明らかに、緊張している。
「今回の件について……
少し、共有を……」
ウィンドウ越しに、
ミレイアの姿が映る。
いつも通りの受付嬢の服装。
だが、表情は硬い。
「こちらから、
確認をお願いしました」
ミレイアは、丁寧に言った。
「勇者の稼働条件についてです」
「……はい……」
アリシアは、短く頷いた。
「現在の運用では……
明確な契約書は……」
言い淀む。
「存在しておりません」
沈黙。
それを、
安西が破った。
「確認ですが」
穏やかな声だった。
「今までの勇者の方々は、
契約書なしで
業務に就いていた、という理解で合ってますか」
ミレイアは、
一瞬だけ、言葉に詰まった。
「……結果としては……
そうなります」
「同意書は?」
「規約への署名はあります」
「契約主体は?」
「……世界、です」
その答えに、
安西は小さく頷いた。
「なるほど」
否定しない。
驚きもしない。
「では、
こちらも確認させてください」
アリシアを見る。
「私は、現在――」
指で、
自分の立場を示す。
「仮契約中です」
「……はい……」
「契約前なので、
業務は行っていません」
淡々と、事実だけ。
ミレイアが、
思わず口を開く。
「……転生者なのに……?」
「転生前です」
即答だった。
「契約が成立していないので」
その一言で、
場の空気が、変わった。
「……では……」
ミレイアの声が、わずかに揺れる。
「今までの勇者は……」
安西は、視線を落とさずに答えた。
「契約のない状態で、
仕事をしていた、ということになります」
誰かを責める口調ではない。
だが、
逃げ道もなかった。
アリシアは、
唇を噛んだ。
「……私……
そこまで、考えて……」
「普通です」
安西は、遮るように言った。
「問題にならなかっただけです」
ミレイアが、
静かに尋ねる。
「……それは……
問題が、なかったから……?」
安西は、
少しだけ間を置いた。
「いいえ」
短く、はっきりと。
「問題が、
表に出なかっただけです」
白い空間に、
沈黙が落ちる。
誰も、反論しない。
反論できる言葉が、
存在しなかった。
沈黙は、すぐには破られなかった。
転生管理局。
冒険者ギルド。
そして、仮契約中の転生者。
三者が同じ事実を共有したまま、
誰も次の言葉を出せずにいた。
「……では……」
最初に声を出したのは、ミレイアだった。
震えてはいない。
だが、慎重だった。
「この場合……
勇者ユウトは……
どういう扱いになるのでしょうか」
それは、責任追及ではない。
現場からの、純粋な確認だった。
アリシアは、息を吸う。
「……現行の運用では……
勇者は、世界救済を目的とした――」
「それは目的です」
安西が、静かに言った。
声は低く、穏やかだ。
「扱いの話をしています」
言い換えれば、
立場と責任の話。
アリシアは、言葉を探した。
「……管理局としては……
勇者は、特別な存在で……」
「特別、というのは」
安西は、重ねる。
「雇用ですか。
委託ですか。
それとも、無償協力ですか」
アリシアの喉が、小さく鳴った。
「……そこまでは……」
「決めていない」
代わりに、安西が言った。
断定ではなく、整理だった。
ミレイアは、ゆっくりと頷いた。
「……つまり……
現場では……」
言葉を選ぶ。
「“世界のため”という理由で、
誰かに無理をさせていた、
ということになりますね……」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
アリシアは、
ぎゅっと手を握りしめた。
「……私……」
声が、少しだけ揺れる。
「このままでは……
また、同じことが……」
「起きます」
安西は、はっきり言った。
「善意がある限り」
そして、続ける。
「だから、
俺は動いていません」
二人が、安西を見る。
「動かないことで、
止まる部分があるなら」
「……」
「そこを、
確認したかっただけです」
逃げでも、反抗でもない。
ただの選択。
ミレイアが、
ぽつりと言った。
「……契約書……
必要、ですね……」
その一言は、
とても小さかった。
だが、
今まで誰も言わなかった言葉だった。
アリシアは、
ゆっくり頷いた。
「……はい……」
「……でも……」
ミレイアは、続ける。
「それを、
誰が作るんでしょうか……」
空気が、重くなる。
安西は、答えなかった。
代わりに、
一つだけ問いを置く。
「それ、
今まで誰の仕事だと
思ってました?」
誰も、答えられなかった。
ウィンドウが、静かに閉じていく。
接続が切れる直前、
アリシアの声が聞こえた。
「……確認、取ります」
それは、
第一話とは違う意味の言葉だった。
白い空間に、
再び一人になる。
安西は、深く息を吐いた。
「……さて」
呟く。
「やっと、
スタートラインか」
世界を救う話は、
まだ始まっていない。
だが――
契約書のない仕事は、
もう、当たり前ではなくなった。




