死因:調整役
女神にチートを渡された43歳おじさんは、
異世界を救う前に「契約書」を要求した。
これは、
世界を救わないことで
組織を正常にしてしまった男の話。
その日は、特別な日じゃなかった。
会議は三本。
資料は昨日のうちに揃えてある。
関係各所への根回しも済んでいる。
安西 恒一、四十三歳。
中堅IT企業の主任。
肩書きはあるが、決裁権はない。
いわゆる――調整役だ。
「安西さん、A部署が仕様変更を……」
「了解。Bにはもう話通してあります」
「すみません、Cからも要望が……」
「大丈夫です。吸収します」
いつものやつだ。
誰かが言い出して、
誰かが困って、
最後に俺が帳尻を合わせる。
怒鳴られることはない。
感謝もされない。
でも、回る。
それでいい。
――そう思っていた。
昼休み。
コンビニのコーヒーを飲みながら、スマホを見る。
未読メール、三十七件。
「……多いな」
口に出したが、特に感情は動かない。
いつものことだ。
午後の会議。
炎上案件。
「誰が責任取るんだよ!」
「前提が違うだろ!」
「そもそも聞いてない!」
怒号が飛ぶ。
安西は、深呼吸を一つ。
「整理しますね」
ホワイトボードに、淡々と書く。
・要件
・変更点
・影響範囲
・未決事項
「この変更、正式決定ではないですよね」
「……まあ、そうだけど」
「じゃあ、実装は保留です」
「え?」
「責任の所在が決まってないので」
場が静まる。
その瞬間だけ、
少しだけ、仕事をしている実感があった。
――その直後だった。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「……あ?」
視界が、歪む。
足元が、抜けた。
床に倒れる音がしたが、
自分のものかは分からない。
意識が遠のく中、
なぜか、どうでもいいことを考えていた。
――ああ。
この案件、
結局誰が引き継ぐんだろうな。
そこまで考えて、
安西 恒一の人生は終わった。
⸻
次に目を開けたとき、
そこは、白かった。
天井も、床も、壁もない。
ただ、白い空間。
「……病院?」
声は、ちゃんと出た。
体も、動く。
痛みはない。
「……死んだ、か」
不思議と、納得の方が先に来た。
過労死。
テンプレだ。
まあ、いい。
もう調整しなくていいなら、
それで。
「え、えっと……」
背後から、声がした。
振り返る。
そこにいたのは、
白い服を着た、金髪の少女だった。
浮いている。
羽はない。
表情は――少し緊張している。
「あの……はじめまして。
私、転生管理局・第3課のアリシアと申します」
ああ。
そういうやつか。
「あなたは現在、死亡判定を受けまして……」
「はい」
即答すると、彼女は一瞬言葉に詰まった。
「……話が早いですね」
「だいたい察しはつきます」
白い空間。
女神。
テンプレ。
安西は、静かに言った。
「で、まず確認なんですが」
アリシアが、背筋を伸ばす。
「はい!」
「このあと、
どういう“条件”で話が進むんでしょうか」
――そこで、
少女の表情が、ほんの少しだけ固まった。
アリシアは、こほんと一つ咳払いをした。
「それでは……改めまして。
転生に関するご説明をさせていただきます」
手元に、淡く光る板が出現する。
空中に浮かぶ、半透明のウィンドウ。
――ステータス画面、というやつだろう。
「通常、転生者様には世界救済に必要な能力を付与しております」
“通常”。
もう引っかかる単語が出てきた。
「今回は特別に、こちらのチートスキルをご用意しました」
画面に文字が並ぶ。
・攻撃無効
・防御無効
・状態異常無効
・老化停止
「……」
安西は、しばらく黙ってそれを眺めた。
強い。
間違いなく、最強クラスだ。
「すごい……ですよね?」
アリシアが、少しだけ得意げに言う。
「歴代でも、かなり高水準でして……
普通は、皆さんここで喜ばれます」
「なるほど」
安西は、頷いた。
「確認いいですか」
アリシアの肩が、ぴくりと跳ねた。
「は、はい……」
「攻撃無効というのは、
物理・魔法・精神干渉、全部含みます?」
「えっと……基本的には、はい」
「“基本的には”」
「……例外が、ないとは……」
「ありますね」
「……」
アリシアは、慌てて画面を操作する。
「でも!
少なくとも魔王クラスの攻撃は完全に無効です!」
「こちらからの攻撃手段は?」
「え?」
「攻撃無効だと、
殴れない・斬れない・魔法も効かない、ですよね」
「……はい」
「じゃあ、倒すのは誰が?」
「……周囲の方と協力して……」
「俺は壁役?」
「え、えっと……タンク的な……」
なるほど。
便利ではある。
だが――使いどころが限られる。
「老化停止は」
「はい!」
「寿命は?」
「……止まります」
「帰還条件は?」
「……」
アリシアは、口を開いたまま固まった。
「帰還条件、未設定ですか」
「い、いえ……その……
魔王を倒したら、自然と……」
「“自然と”」
「……」
まただ。
安西は、画面から目を離し、女神を見る。
「これ、性能は最強ですけど」
「は、はい」
「仕様が未完成ですね」
「えっ」
「要件定義が甘い」
アリシアは、完全に想定外の顔をした。
「え、えっと……
皆さん、そこまで細かく見ないので……」
「それは分かります」
淡々と続ける。
「若い人ほど、
“最強”って言葉に期待しますから」
「……」
「でも俺、四十三なんで」
アリシアの顔が、わずかに引きつった。
「期待より先に、
不具合を探す癖がついてるんですよ」
沈黙。
白い空間で、
ステータス画面だけが、静かに光っている。
「……一応」
アリシアが、弱々しく言った。
「このチートで、
死亡リスクはほぼゼロです……」
「“ほぼ”」
「……」
その一言で、
すべてが決まった。
安西は、息を整える。
「じゃあ次は」
静かに、言った。
「業務条件の確認をさせてください」
アリシアの表情が、
先程と同じように――固まった。
アリシアは、深く息を吸った。
「では……業務条件のご説明に入ります」
声は丁寧だが、さっきより少し硬い。
自分でも、何か嫌な予感がしているのだろう。
「転生者様には、異世界にて魔王討伐という重大な使命を――」
「すみません」
安西は、手を軽く挙げた。
「まず、業務範囲を確認したいです」
「……業務、範囲?」
「魔王を倒す、で終わりですか」
「はい、基本的には……」
「その後は?」
「……その後?」
「魔王討伐後の世界安定化、復興支援、後継政権への引き継ぎ。
そこは業務に含まれますか」
アリシアは、口を開き――閉じた。
「えっと……皆さん、倒したら……終わりなので……」
「“皆さん”はそうかもしれません」
安西は淡々と続ける。
「でも契約上、終わりが明記されてないと困ります」
「……」
「勤務時間はどうなります?」
「き、勤務……?」
「常時待機ですか。
それとも依頼発生ベースですか」
「……基本は、世界の危機が発生したら……」
「それ、二十四時間オンコールですよね」
「……」
「休日は?」
「……」
「危険手当は?」
「……」
アリシアの背中が、目に見えて縮こまる。
「す、すみません……
そこまで細かい質問は……」
「想定してなかった?」
「……はい」
「ですよね」
責める調子は一切なかった。
「死亡時の扱いを確認します」
「えっ」
「名誉ある戦死、という話でしたが」
「は、はい……」
「補償は?」
「……」
「遺族年金、慰労金、追悼給付」
「……」
沈黙。
安西は、ゆっくり頷いた。
「補償制度、未整備ですね」
「で、でも……チートがありますし……
死亡リスクは……」
「“ほぼゼロ”でしたよね」
「……」
アリシアは、唇を噛んだ。
「帰還条件を教えてください」
「……魔王を倒せば……」
「自動的に?」
「……自然と……」
「帰還申請は?」
「……」
「拒否権は?」
「……」
ついに、アリシアの声が震えた。
「……マニュアルに……
そこまで、書いてないんです……」
ぽた、と。
白い床に、涙が落ちる。
「皆さん……
“世界のために”って……
すぐ、頷いてくれて……」
嗚咽を堪えながら、言葉を続ける。
「私……
こういうの、初めてで……」
安西は、少しだけ間を置いた。
そして、静かに口を開く。
「アリシアさん」
「……はい……」
「これ、あなた個人の問題じゃないですよ」
彼女が、ゆっくり顔を上げる。
「仕組みの問題です」
「……」
「条件が曖昧なまま現場に放り込んで、
想定外が起きたら、現場の自己責任」
淡々と、事実を並べる。
「それ、かなり危険な構造です」
「……」
「俺は」
少しだけ、言葉を選んだ。
「壊れたくないだけです」
それから、続ける。
「あと……
あなた一人に責任を背負わせる形も、
違うと思ってます」
アリシアの目が、わずかに揺れた。
「……じゃあ……」
震える声で、彼女は言う。
「……どうすれば、いいですか……?」
「上に確認を取ってください」
「……え」
「正式な条件書面を」
安西は、はっきり言った。
「それが出るまで、
本契約は結びません」
「……」
「仮契約なら、検討します」
しばらくの沈黙。
やがて、アリシアは小さく息を吸った。
「……前例、ないです……」
「でしょうね」
「……でも……」
彼女は、震える手で頷いた。
「……確認、取ってきます……」
その瞬間、
白い空間が、わずかに軋んだ。
仮契約。
前例なし。
想定外。
物語は、ここから動き出す。
白い空間に、沈黙が落ちた。
アリシアは、どこかに視線を向けたまま動かない。
たぶん――“上”を呼んでいるのだろう。
数秒。
いや、数分かもしれない。
時間の感覚が、曖昧だった。
「……あの」
アリシアが、小さく声を出す。
「少しだけ……
お時間、いただいてもいいですか」
「構いません」
即答すると、彼女はわずかに驚いた顔をした。
「……怒らないんですね」
「怒る理由がありません」
事実を確認しているだけだ。
アリシアは、胸の前で手を握りしめる。
「……前例が、ないんです」
「はい」
「仮契約という形で、
転生処理を止めたケースが……」
「想定外ですね」
「……はい……」
少しだけ、苦笑いのような表情を浮かべて、彼女は続けた。
「本来であれば、
ここで強制転生に移行する権限も……」
「ある?」
「……あります」
安西は、ゆっくり頷いた。
「でも、しない」
「……しません」
その言葉に、少しだけ安堵が混じっていた。
「理由を聞いても?」
「……」
アリシアは、目を伏せた。
「……条件が、曖昧なままなのは……
確かに、よくないと思いました」
新人らしい、正直な答えだった。
「なので……」
彼女は、空中に光るウィンドウを展開する。
そこに、新しい文字が浮かび上がった。
――《仮契約書》。
「本契約前の暫定措置として……
転生処理を保留し、
条件整理を行う、という形です」
文字を追う。
・転生未実行
・業務未開始
・チートスキル未確定
・双方、解除権あり
「……解除権、双方?」
「は、はい」
「期限は?」
「……未設定、です」
「それも想定外ですね」
「……すみません」
アリシアは、深く頭を下げた。
「でも……
必ず、確認してきます」
「お願いします」
安西は、ウィンドウを見つめたまま言う。
「正式な条件が出たら、
その時に、改めて判断します」
「……はい」
彼女は、少しだけ姿勢を正した。
新人女神としてではなく、
一人の“担当者”として。
「では……
仮契約、締結しますか」
「はい」
光が走る。
だが、何も起きない。
体は変わらない。
世界も変わらない。
ただ、白い空間に、
“保留中”という状態だけが残った。
「……転生しないんですね」
アリシアが、ぽつりと言った。
「今は、しません」
安西は答える。
「条件次第です」
彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「……本当に、想定外の方ですね」
「そう言われるの、慣れてます」
仕事でも、ずっとそうだった。
責任を整理する人間は、
いつも想定外扱いだ。
「……では」
アリシアは、深呼吸を一つ。
「次にお会いする時までに、
ちゃんとした“条件”を用意します」
「期待してます」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。
白い空間が、ゆっくりと遠ざかる。
意識が、また薄れていく。
――だが、今回は違った。
これは終わりではない。
保留だ。
仮契約。
前例なし。
想定外。
こうして、
世界を救わない勇者の物語は、
正式に――始まっていなかった。




