第3話 「反逆者の記録」
死神省の廊下を、風が逆に吹いていた。
向かうべき方角へ、空気が押し返してくる。
この階層は「下層五番街」と呼ばれている。
死後行政の中でも、不適正魂や自殺者の処理部門が集まる区域だ。
天井の蛍光灯が半分だけ点滅している。
つまり、ここでは昼と夜が同居している。
案内板にはこう書かれていた。
【第四死神室 →】【立入制限(理由:生存反応あり)】
――生存反応?
俺は眉をひそめて、ドアの前で足を止めた。
ノックする前に、中から声がした。
「どうぞ、人間監査官。
ノックは不要です。私は、死を拒否していますから。」
扉の隙間から、黒い煙が流れ出た。
室内は薄い霧に満ちており、その中心で男が笑っていた。
黒いスーツ。だが襟元が開いている。
背中には翼があった。
けれど、片方だけ。
Ⅰ.生きている死神
「第四死神《反逆者》――で間違いないか?」
「呼び方はそれでいい。でも私は、自分を“未死者”と呼んでいる。」
未死者。
つまり“死んでいない死神”。
生死の間に取り残された存在。
俺は机に資料を広げた。
「監査の目的は、あなたの職務内容と倫理適性の確認だ。
死神省は、あなたが“死亡拒否者の救済”を行っていると報告している。」
「救済? あれはただの延命だ。」
彼は軽く指を鳴らした。
霧の中から、半透明の影がいくつも浮かび上がる。
泣くでもなく、笑うでもなく、ただ“止まっている”。
時間の進まない魂たち。
「彼らは“死を途中でやめた”人間だ。」
「自殺未遂者か?」
「そう。死神省は“失敗”と呼ぶが、私は“意志”と呼ぶ。」
男の片翼が、灰色の羽を散らした。
「死は制度になった。だが、生きたいという本能は、制度に従わない。
だから私は、彼らを“保留”にしている。」
「……保留?」
「死神省では、空白はあなたの担当らしいな。」
彼は笑った。「あんたの空白、広げておいたよ。」
机の上の資料の一部が、文字ごと消えていた。
空欄。真っ白。まるで紙が“忘れられた”ようだった。
Ⅱ.反逆の理屈
「あなたの行為は、“死後行政法”の第十三条に抵触している。
『死後処理の遅延は、魂の停滞を招くため、禁止』とある。」
「知ってるさ。でも法は、生きている誰かが作った。
神がいなくなった今、それを守る義理があるか?」
彼は机に肘をつき、俺を覗き込んだ。
「お前も知ってるだろう。神は消えた。
なら、死を続ける意味もなくなった。
この世界は、“死の惰性”で動いてる。」
「惰性?」
「死神たちは、“死ぬこと”を仕事にしすぎた。
生きる意味を、死の定義に依存している。
それは本末転倒だろう?」
言葉の温度が上がる。
だが彼の目は、氷のように静かだった。
「俺の仕事は、死神を監査することだ。
お前が“死を拒否”するなら、それは業務違反だ。」
「監査官。君はまだ“死”を道徳だと思ってるのか?
死はただの機能だ。
私は、それを一時停止してるだけ。
バグみたいなものだ。」
「だが、“死”が止まれば世界も止まる。」
「いいじゃないか。
止まった世界なら、誰も誰かを殺せない。」
その瞬間、俺は息を詰めた。
それは皮肉でも理屈でもなく、祈りのような言葉だった。
Ⅲ.未死者の墓場
「見せてやろう」
男は指を鳴らし、部屋の奥の霧を払った。
そこには、鉄製の巨大なドームがあった。
中で、無数の心音が鳴っていた。
低く、静かに、規則的に――生きている音。
「これは“未死者保管庫”だ。
心臓が止まる直前の魂たちを、私はここに保存している。」
「……蘇生を?」
「いや、停止を延長しているだけだ。
死なないようにするのではなく、死にきれないようにする。
永遠の“瀬戸際”に置く。」
「地獄だな」
「天国よりマシだ」
彼は片翼を動かし、心音のドームを見上げた。
「神は人間に“永遠”を与えたが、
人間は“途中”のほうが幸福だった。
生きるか死ぬか、迷ってる時がいちばん人間らしい。」
「……お前は、神を否定しているのか?」
「神を擁護してるんだよ。
神はきっと、俺みたいなバグを望んでた。
“完璧な死”は、神の仕事を奪う。」
Ⅳ.監査官の質問
俺は資料を閉じた。
「質問を三つする。正直に答えろ。」
「どうぞ」
「一。 お前は死を恐れているか。」
「いいや。死ぬのが怖いんじゃない。生き終えるのが怖い。」
「二。 お前は、死神である自分を愛しているか。」
「嫌いだ。だが、嫌いになれる限り、まだ死んでいない証拠だ。」
「三。 お前は、いつまで反逆を続ける。」
「俺が誰かに“生きたい”と言わせるまで。
その誰かが、お前でもいい。」
沈黙が落ちた。
霧の奥で、心音がゆっくりと増えていく。
俺の心臓も、なぜか合わせるように脈を打った。
「……監査結論。《反逆者》の業務は違法だが、意義あり。
生と死の均衡を保つため、暫定存続を認める。」
「つまり?」
「つまり、“保留”だ。」
男は、満足そうに笑った。
「そう来ると思った。君はまだ人間だ。」
Ⅴ.帰路と余韻
部屋を出ると、廊下に貼られた新しい掲示が目に入った。
【本日のお知らせ】
・“未死者”の増加により、心音保管庫は混雑しています。
・過剰な生存希望は処理に遅延を生じます。
・なお、延命希望者は事前に死亡届を提出してください。
「……誰が書いてるんだ、これ。」
俺はつぶやいた。
すると背後から、《反逆者》の声がした。
「それ、たぶん俺だよ。」
振り返ると、彼は煙のように溶けていった。
「俺がいなくなったら、貼り紙も消える。
それでいいだろ?」
「いや。貼り紙くらいは、残しておけ。」
返事はなかった。
ただ、壁の蛍光灯が一つだけ点滅をやめ、静かに光り続けた。
まるで“保留”を承認したように。
(第3話 了)




