蘭陵王 金庸城の戦い
北斉天保九年、晩秋の朝霧が金庸城の城壁を包んでいた。城下に陣を張った北周軍の旗が風にはためき、十万の兵が城を囲んでいる。城内では籠城戦が始まって既に一月が過ぎ、兵糧は底を尽きかけていた。
「殿下、このままでは城は陥落いたします」
蘭陵王高長恭は、部将の報告を静かに聞いていた。二十八歳になる若き王の美貌は、戦場でも変わらず輝いていた。しかし、その美しい顔立ちが敵を惑わし、味方さえも戦意を削ぐことがあるため、彼は常に鬼神の面を着けて戦に臨んでいた。
「敵の包囲は厚いか」
「はい。宇文護の指揮する精鋭が四方を固めております。特に北門と西門は重兵が配置されており、突破は困難かと」
高長恭は城壁の上から敵陣を見渡した。確かに北周軍の陣形は堅固だった。だが、彼の鋭い眼は敵陣の微かな隙を見逃さなかった。
「東南の丘陵地帯、あそこの守りは薄い」
「しかし殿下、あの辺りは湿地帯で騎兵の機動は困難です」
「だからこそ、敵も警戒を怠っている」
高長恭は微笑んだ。
「我らは夜襲をかける」
その夜、月は雲に隠れていた。高長恭は五百の精鋭を選り抜き、密かに城を出た。全員が鬼神の面を着け、黒装束に身を包んでいる。まるで冥界から現れた亡霊の軍勢のようだった。
湿地帯は足音を吸収し、彼らの接近を隠してくれた。敵の前哨を無音で制圧し、本陣に向かって進む。高長恭の剣技は神業に近く、一太刀で敵兵三人を薙ぎ払った。
「鬼だ!鬼神が現れたぞ!」
北周兵たちの間に恐怖が走った。暗闇の中で踊るような高長恭の剣舞は、まさに超自然的な美しさと恐ろしさを兼ね備えていた。
「蘭陵王だ!蘭陵王が来たぞ!」
その名前が戦場に響くと、北周軍の士気は一気に下がった。一方、城内から聞こえてくる太鼓の音に励まされ、北斉軍の守備隊も城門を開いて出撃した。
夜明けと共に、戦況は北斉軍に有利に傾いた。高長恭の神懸かりな活躍により、北周軍の包囲網は破られ、敵は退却を始めていた。
しかし、勝利の瞬間、思わぬ事態が起きた。追撃の最中、高長恭の面が敵の矢によって割れ落ちたのだ。その瞬間、戦場に息を呑むような静寂が訪れた。
月光に照らされた高長恭の美貌は、敵味方を問わず全ての者を魅了した。まるで天上の神が地上に降臨したかのようだった。
「なんと美しい…」
思わず武器を下ろす北周兵たち。しかし、その隙を突かれることを恐れた北斉軍の兵士たちも、王の美貌に見とれて動きが鈍った。
「殿下!」
部将の叫び声で我に返った高長恭は、素早く予備の面を着けた。だが、一瞬の隙は致命的だった。北周軍の弓兵が一斉に矢を放ち、高長恭の左肩に一本の矢が突き刺さった。
それでも高長恭は怯まなかった。負傷した左腕を押さえながらも、右手の剣は衰えることなく敵を斬り伏せていく。その姿はまさに不死身の鬼神そのものだった。
「王よ!我々も続きます!」
兵士たちの士気は最高潮に達した。王の勇姿に感動した彼らは、死を恐れることなく敵陣に突進した。
戦いは日が昇りきる頃に終わった。北周軍は完全に撤退し、金庸城は守り抜かれた。城内では勝利を祝う声が響き渡っていた。
しかし、高長恭だけは複雑な心境だった。彼の美貌は確かに敵を惑わしたが、同時に味方の戦意をも削いでしまう。この矛盾こそが、彼が常に面を着ける理由だった。
戦後、高長恭は一人城楼に立っていた。左肩の傷は深かったが、それ以上に心の傷が痛んでいた。
「殿下」
老将軍が近づいてきた。彼は高長恭の幼少期から仕えている忠臣だった。
「今日の戦い、見事でございました。しかし、お心に何か…」
「将軍よ」
高長恭は振り返った。
「この顔は、果たして武将にとって恵みなのだろうか、それとも呪いなのだろうか」
老将軍は静かに答えた。
「殿下の美貌は確かに時として障害となりましょう。しかし、それ以上に殿下の武勇と智謀こそが真の武器なのです。今日の勝利がその証拠です」
「そうかもしれぬが…」
高長恭は空を見上げた。
「いつか、この顔のために身を滅ぼすことがあるやもしれぬ」
それは予言のような言葉だった。後
の歴史が示すように、蘭陵王の美貌と武勇は皇帝の猜疑心を招き、ついには悲劇的な最期を迎えることになるのだった。
金庸城の戦いは、蘭陵王高長恭の武名を天下に轟かせた。しかし同時に、美貌ゆえの宿命的な悲しみも浮き彫りにした戦いでもあった。
その後、蘭陵王の物語は楽曲「蘭陵王入陣曲」として後世に伝えられ、美しき武将の伝説は永遠に語り継がれることになった。
戦場で舞うように戦う鬼神の面の下の美貌。それは、武勇と美しさ、栄光と悲劇を併せ持つ、古代中国史上最も魅力的な英雄の象徴となったのである。