真夏の星空、炎天下の先輩
私が生まれて、小学生に通い始めた頃だろうか。一人大切に私の事を育ててくれた母親に、よく言われた言葉がある。
「あんたなんか産まなきゃよかった。」
すでに聞きなれている私の耳が異常な事はわかっていた。異常な私に対してお母さんが嫌悪感を募らせている事も、わかっていた。
どこかで箍が外れてしまったのだろう。お父さんの顔を私は知らない。覚えている限りの聞いた話じゃ、三歳だったか、四歳だったか。まだ私がガキだった頃に出ていったらしい。人間一人が自分の衣食住も考えつつ子供まで世話をするなんて本来無理な話なのだ。しかもこんなド田舎。思考が悲観的になったって誰も責めやしない。ただ一つだけ、合理的に意見を述べていいのなら。お母さんが私に嫌悪感をぶつけたってそれは貴女の中から消えることはない、なんなら私にまで感染して二倍になるだけ。意味がないって。これは事実。
しかしなぜ、私がその合理的な意見をお母さんに伝えないかと言えば、返答として痛みが返ってくることが合理的に考えてわかるから。
「おはよ、朝ご飯。」
贅沢にも用意された自分の部屋から起きて、いつものようにパジャマ姿で食卓に着いた。誰もいない食卓に、毎朝綺麗に朝ご飯は用意されている。物心ついてから、どれだけお母さんが私に悪態をついて、服で見えない所を殴ってきても、毎朝ご飯だけは用意されてることが唯一の救いだった。
今じゃ気色の悪さだけを心に留めながら朝ご飯を食べている。
「…また、どこかのおっさんのとこに持って行ってるんだろうな。」
私は一体、このド田舎のどの知らない男と一緒の朝ご飯を食べているんだろう。
気づいてから、理由も原理もわからない不快感が胃のあたりに感じ始めた。
・・・
食べ終わり、制服に着替える。鏡の前にいるのは自負できるほど綺麗なスタイルと整った顔の私。私はいじめっ子ではないので、その心境はわからないけど、これが学校でいじめられてる原因なのだとして、この容姿に産んだ母親に産まなきゃよかったと言われては吐く言葉も行く当てがない。何を理由にするわけでもなく耐え続けて今日この日まで生きて来て、鏡の前の私の顔は、随分とやつれていた。
「…死のっかな、今日。」
どうせ死ぬならといつもより可愛く、綺麗に、髪一本一本をほぐして整えて。閻魔様に会う時、恥じのないような恰好でいこう。自分が地獄に行くことに何の疑問もなかった。だって生まれた時から言われ慣れているから、お母さんに。情状酌量の余地なんて微塵もなく、私は地獄行きだ。
「親不孝者…は…っと。罪山盛りでしょ。いってきまーす。」
どうせ勉強する気なんてないので薄っぺらい鞄を持って、一度も買い替えていない靴を履いて。私はいつもと変わらない心身で家を出た。カギは閉めない。というかカギを渡されていない。追い出しても、入ってこれるから。
・・・
「おはよー、マリ。」
「…おはよ、リカ。元気だね今日も。」
「マリは相変わらず世界の終わりみたいな顔だね。こういう時は…夜更かししたな?」
「だって課題多すぎでしょ~…。まだ中学生だよ?」
「マリが溜めすぎなんだって。てかさ、昨日のあの番組見た!?」
「見てない。もちろん録画してるよね?」
「もちもち!一葉君かっこよかったよ!」
「大好きだねぇ、アイドル。おかげで私も好きになっちゃったよ。」
「大貢献!私!」
「あはは。」
楽しそうに会話するお二人さんの横を、お二人さんより少し早いくらいで歩き横切る。アイドルね、私にもそういう推しって概念があれば屋上に行くこともなかったのかな。ちなみに私の家にテレビはあっても見ることはない。私は見ちゃいけないんだと。もちもち、理由も原理もありません。
教室に行くこともなく、鞄もそのまま。持参した内靴を履いてみんなより一つ多く階段を上がり、屋上手前までやってきた。すでに先生たちも私の事なんているようでいないような存在扱いなので、ここに居ても知らんぷり。私が同年代のクソガキに物を隠されようが殴られてようが、知らんぷり。
「またカギかかってる…誰かが飛び降りた時用の言い訳かな。」
屋上を開放していたら、責任が少しばかりは学校に寄るんだろう。果たしてあの無能な大人たちがそこまで考えてるかは疑問だが。…いや考えてないか。ただ言われてる、決まってる動作を繰り返しているだけだな。「カギの戸締りはしっかりと」みたいな。戸締りしか気を付けてないから私に屋上に入られるんだ、バカだな。
「よよっと、ほいほい。」
かちゃり
「相変わらずザルカギ。針金一本で開いてちゃ苦労もないよ。」
最初、泣きながら屋上の扉前に来て、ヤケクソ気味に針金使ったら一分かからず開いてしまったもんだから、涙も引っ込んだ。今じゃベストタイムは五秒。成長を感じる。
「…流石に春は終わっちゃったかな。春好きじゃないから良いけど。」
私だけの秘密基地には、少し生暖かい風と汗をかかせる日差しが入り込んできていた。全く意味のない、私の腰ほどの高さの柵。ぼろぼろでかよわい女の子が蹴っても簡単に外れそう。どうぞ死んでくださいって言ってるようなもんだよこれ。
いつも通り、日陰に入り、座り込む。
「……死ぬって決めたのに、勇気はでない。」
座り込んですぐに後悔した。いざ自殺しようと思っても座ってしまえば中々立ち上がれない。恐怖の感情だけは、忘れられない。
「はぁ…。まぁ、まだいいか。ここまであのいじめ猿はこないんだし。」
どうせ死ぬなら、というより家に帰らなくていいのならと考えられると随分と気持ちが楽だった。あの家は幼いころからのトラウマで、暗くて怖くて、そして、私の帰る家。
・・・
「…ん。」
寝転がっていたら文字通り寝てしまって。太陽が傾き私を起こしてきた。不便な日陰だ、全く。私が寝てる時くらい公転も自転もやめてくれ。
自然に立ち上がって、伸びをして。柵に手をかける。寝ぼけた頭に怖さはなかった。
快晴で晴天。何日和だろ。関係ないけど。
「…もし来世が合って生まれ変われたら…。」
より取り見取りな生物を頭から思い出して、やめた。結局生きなきゃいけないのなら
「いいや。地獄に居よ。」
靴は履いたままで、右足を柵にかける。ためらいはなかった。すでに死ぬ準備はできていた。そのつもりだった。
「ま、待った!待って待って待って!!」
「え。」
私が空に向かって挙げていた手が、突然知らない誰かの手に取られた。
「な、何してんの!?」
「………ふっ…あっはっはっはっは!」
「ちょ…えぇ?」
私が?空に手を?何のために?
合理的に考えれば簡単な話。
…ただただ、救われたかったから。
「希望なんて、捨てたじゃん…私。」
「ん、んー…?え、えーと…その。ど、どうしようかな。」
「で、誰?」
「へ?」
「名前、年齢。はやく。」
「情緒不安定だなこの子…。樋星コウ。十五歳だよ。」
「先輩か。なら早く行ってくださいよ。ため口で話しちゃったじゃないですか。」
「態度の豹変がすごいね、君。…君の名前は?」
「私は…。」
苗字、言いたくないな。けど教えてくれたんだし、礼儀ってもんがあるか。
「私は日崎リメ、十四歳です。…それで樋星先輩。」
「何かな。」
「なんで私の自殺、止めたんですか?」
下心があるなら今すぐ振り返って躊躇なく飛び降りてやる。呪いをかけてやると、そう念じ始めていたのに、先輩の返しは死ぬ気すら忘れる一言だった。
「僕は天文学部なんだけど、もしここで誰かが飛び降りちゃったりしたら夜中星見れなくなっちゃうなーって。」
「は?」
「僕は優等生だからほら、信頼してくれて先生たちもカギ貸してくれるけど。いやかかってなかったんだけど。でも一回誰かが死んだ事例あったら厳しくなるから。」
「……樋星先輩、マジで言ってるのそれ?」
「当たり前!僕の家一階しかないから中々星見にくいんだよ。」
「…ぷっ、ふっ…ふふっ。あははは。」
警戒から、怒りが沸いて、すぐに笑顔に変わってしまった。
なんだこの先輩。馬鹿じゃないの。そういう無神経な人は大嫌いだ。
「よく笑う子だねリメちゃんは…。」
「うわ、いきなり名前でちゃん付け?女慣れしてるんですね、嫌いです。」
「いや慣れてなんか…え、き、嫌い?」
「冗談です。私は自殺しに来ましたけど、先輩は何を?自殺ですか?」
「するかあほ。さっきも言ったけど天文学部で、今夜この屋上で星を見るんだよ。その準備をしにきたら…リメちゃんが飛び降りそうになってたから。もう少し遅かったらせっかく出してもらった屋上立ち入り許可も意味がなくなるところだったよ。」
「先輩って中々その…倫理観ないですね。」
「よく言われる。それじゃほら、リメちゃん来て。」
「…嫌です。教師に今さら突き出されたら…もう、生き地獄です。」
「え?あぁ違う違う。天体望遠鏡持ってくるの、手伝って。」
「…どういうつもりですか。」
「僕一人じゃ重くて時間かかっちゃうからさ。ほら、早く。」
「ちょ、引っ張らないでください!」
その後、半ば強制的に部室まで連れて来させられた。道中いじめっ子の存在を警戒していたが、今はお昼ご飯のようだった。
「ここが、部室ですか?」
「うん。綺麗にはしてるつもりだよ。」
部室は狭くて、沢山本があって。壁にもいろんなポスター、言葉が貼ってあった。私はその中の一つに一瞬目を奪われて、すぐに逸らした。綺麗事だったから。
「…狭いですね。」
「そりゃ僕しかいないからね…天文学部。」
「なんでそんな来年には部員0になる部活残ってるんですか?」
「校長先生が好きなんだってさー、星。よいしょ、これ持って。」
「…。去年は先輩の先輩もいたんですか?」
「いたよ、一人だけ。虹咲先輩って人。太陽みたいに眩しい人だったよ。」
「へぇ…私と真逆ですね。」
「リメちゃんもそこまで暗い人には見えないけどね…。あ、これも持って。」
「…。重いです。」
「えーとあとは…これもか。はい。」
「むー…。」
「あれ…あの部品どこいったかな。探してくれる?」
「わかるわけないじゃないですか!もう!」
そう言いつつ手に持っていた物を一度この部屋唯一の机に置いて、よくわからない樋星先輩の説明頼りに部品を探し出した。
「これですか?」
「そうそれそれ!あとこれとこれと、その今見つけた部品も持ってきて。」
「わかりましたもう最後まで付き合います…。」
結局あと一つ何か乗れば前が見えなくなるほどには物を持たされた。死ぬ死ぬ。荷重で死ぬ。こんな死に方はやだ!
すると持っていた物の半分以上を樋星先輩に取られた。
「はい貸して。じゃ屋上戻るよ。早めにね。昼休みが終わるまでに準備しなきゃ。」
「…夜中に準備すればいいじゃないですか。」
「夜中は部室まで来ちゃダメなんだよ。あくまでまっすぐ、玄関から屋上までなら入っていいって許可だからさ。放課後はすぐ家に帰らなきゃだし…。」
「優等生だからお勉強ですか。」
「そう、優等生だから。」
「鼻に着きますね。嫌いです。」
「うっ…ぼ、僕の唯一の取り柄なんだ。許して。」
困ったように苦笑いをする先輩を見ていたら、とっくに死ぬ気なんて失せていた。今はただ、ここまで手伝わされたのなら星を見せてもらわなきゃ割に合わないと、今日の夜中の事を考えていた。そんな先の事を考えるなんてこと自体、考えてもなかったのに。
屋上まで戻ると樋星先輩は慣れた手つきで天体望遠鏡を組み立てていった。一度こうして見てるだけじゃ真似できないほど複雑で、精工な望遠鏡だ。さっき言っていた虹咲先輩とやらが残していったのだろうか。それともさらにひと昔の先輩とか?
「よし、できた。リメちゃん太陽見ちゃだめだからね。」
「見ませんしまだお昼ですよ?」
「さてこれどこ置いておこうかな…。屋上に野ざらしって訳にはいかないし。」
「…中に入れたらいいじゃないですか。屋上の扉の前のとこ。」
「うわ、思いつかなかった。天才だねリメちゃん。」
「…そういうお世辞言わないでください。大嫌いです。」
日崎さん可愛いね!性格も良いね!運動神経すご、頭も良いんだ。○○君が好きだってさ。良かったね。
このどれもが、わかりやすく不満、妬みで、ぶつけられる。もう散々だ。
あぁまた、嫌なことを思いだしてしまった…。
「…そうだね、ごめん。」
「わかったらいいです。…それじゃあ私家帰るんで。」
「まだお昼だよ?」
「良いんです。どこに居たって変わりません。」
唯一の屋上も、取られちゃったし…。あぁ、家帰りたくないな。
「…見に来なよ。」
「え?」
カギのかかっていない扉に手をかけたら、背中から声をかけられた。
「夜。見に来なよ、星。」
「…別に星は好きじゃないです。むしろ大嫌い。」
何も言ってないのに勝手に照らしてくるから、嫌い。
「なら僕が大好きにして見せる。」
「無責任な言葉は嫌いです。」
「無責任なんかじゃないさ、僕は星の事を…。」
「もういいです。さようなら、先輩。」
「…。」
まだ何か言いたげな先輩を屋上に置き去りにして、私は学校の階段を下りていく。あの先輩のせいで…ゆっくりと降りることになってしまった。最悪だ。
「はぁ…。」
「あ、ねぇあんた。」
「…?」
女の子の声だと認識して身構えたが、よく聞けば全然知らない声色だったので安心して振り返った。ここは三年生の階だから…樋星先輩と同じ、先輩だろうか。
「コウ見なかっ…って言ってもわかんないか。えーと。」
「…樋星先輩なら屋上です。」
「え?あ、ありがと。…って屋上?!立ち入り禁止じゃ…。」
「天文学部で、夜中星を見る準備をしてましたよ。…じゃあもう行くんで。」
「う、うん…。って待った。」
また、私の手が無責任に取られる。仏の顔は三度までだろうが、私は二度でアウトだ。
「放して!……やめてください。」
「な、何よ…ピリピリして…。…なんであんた、屋上にコウがいるって知ってるの?コウの何?まさか…か、彼女?じゃないわよね!?」
あぁ、この女は樋星先輩が好きなのか。
「なんでもありませんよ。ただ私が飛び降り自殺しようとしたところ、樋星先輩に止められただけです。」
「は?…えちょ…はぁ?!」
「それじゃ。」
今度こそ、放心しきったのか何も声をかけず手も取らず私は下の階へと降りられた。学校から出るだけでこんなにも手間がかかるのか。
玄関まで行けば不用心に開いている扉。誰でも出入りし放題だな。久しぶりに自分の靴箱を見ればいつから置いているかわからない画びょうと紙屑。もう面倒くさくなったからうち履き入れなんて見てもない。持参したやつを履いて持ち帰ってる。
「もう帰るのか、日崎。」
「…田中先生。」
大嫌いな大人の一人。いやまず大人が嫌いなんだけども。
いじめを見て見ぬふりするくらいならまぁそこら辺の教師でもするだろう。だが田中先生は一味違う。いじめを見て、どうしたらいいかと一度学級会議的なやつで持ち出してきやがったのだ。流石に名前までは出さないだろうと思っていたら私の名前だけだして「いじめをしてるやつは出てこい」とクラス中に。カスだよカス。まだ消しカスの方が愛着が沸く。
「私がいつ来てもいつ帰っても田中先生なんにも関係ないでしょ。」
「そんなことはない。俺はいつだってお前の事を考えてる!」
「家で自慰してる時にでもですか?きっもち悪いですね。吐き気がします。」
「日崎!先生に対してなんて態度を…
怒号を無視して靴を履き替えて外に出る。先生に対して?私は先生だなんて一ミリも思ってない。だってここまで追ってこないじゃないか。
それは靴を履き替えるのが、めんどくさいだからだろ。
・・・
足を引きずるように家に帰れば、まだまだサプライズは残っていた。
「ただいま。」
「おかえり。早いのね。」
「…お母さん。帰ってきてたの?」
「すぐまた出るわ。お昼食べに来ただけ。」
「そう。…いってらっしゃい。」
「…はやく出ていってほしいのね。」
「え、いやそういうわけじゃ!」
「口答えすんなよ。」
パンッ!と痛みと音が頬を襲った。まるで挨拶をするかのように、この所とりあえず何かしらのいちゃもんをつけて暴力を奮ってくる。
理不尽、それが私のお母さんだ。
それを日常と思ってしまっている私がいる。
「…明日まで帰ってこないから。あとよろしく。」
「…はい。」
がらがらと、建付けの悪い横開きの扉の閉まる音がしてから、全力で中指立ててやった。一応、背中に隠して。あの女が死ねばいいのにと目論んでおいて、勇気もやる気もない。そんな私に中指を立てる。死ねなかったくせに。
冷凍のお昼ご飯を食べ終わってから、さて何しようか。いつもならまだ屋上でぼーっとしてるか寝てるんだから、やることがない。思考を巡らせればやっぱり思い浮かぶのは先輩の事。樋星先輩には一切の興味はない。あるのはやっぱり、星。自分には嘘はつけないな。
「…星を見てる時、星もあなたを見ている、ね。」
部室に貼ってあった一枚の紙に書かれていた、今思えば綺麗事でもなんでもないその言葉を思い出す。深淵がなんとかってやつのオマージュだろうか。深夜テンションで書いたのだろう。先輩が…とは考えにくいけど。
「星なら見てくれるのかな。私の悩みごと全部。私の事。」
認めよう。私は誰かに救われたいんだ。王子様でも赤いマントのヒーローでもなんでもいい。この状況を打破してくれて、その先の黒以外の景色を見せてくれる誰かに、何かに。星なら見てくれるかもしれない。一度そう頭によぎってしまえば、ぼろぼろで折れている私の精神は甘い匂いに誘われる。もしかしたら何かあるかも、なんて。希望の救世主を夢見て。
「…樋星先輩じゃない。星にだから。」
立ち上がってカギをかけずまた家を出た。自分にそう言い聞かせたのは建前で。本気であの先輩の事なんて頭にはなかった。優等生で裕福そうなあの人は、私がこの世界で一番の、大嫌いな人種だ。
・・・
屋上までまた戻る際に田中のやつとかあの樋星先輩大好き先輩に見つかったら気まずいなとか嫌になってたけどよくよく考えたら全然授業中だったので問題なかった。
「…たかそ。」
屋上前の扉には、私のアドバイス通り天体望遠鏡が横に置かれていた。こうしてまたじっくり見てみるとすごく立派だ。これが私と星を繋げてくれる電話機。ロマンあるじゃん。
「…ん?」
天体望遠鏡ともう一つ、見慣れない箱が置かれてあった。開いてみると中には運んできた割には何に使う訳でもなかったいくつかの部品が入っていた。何か調整で使うのかな?よく見ると箱には『天文学部』と。物置き場が出来上がっていた。
「まさか今日から毎日来るわけじゃない…よね。」
あまり考えず、私は秘密基地に入り夜中まで寝て過ごした。私の特技、どこでもすぐ寝れる。
・・・
「パパはどこいったの?」
「私に聞くんじゃないわよ…。あぁもうどうしたら…。」
…夢か。何度も見たからもはや変に意識がある。ノンレム睡眠だっけ?それともレム睡眠?どっちだったかな。
「あんたのせいであの人は…クソッ…!」
「や、やめて!まま、私の本!」
「うるさいわね!」
「きゃっ!?」
「黙っててよ!あんたのせいで…あんたのせいであの人に愛想つかれたのよ!あんたなんか…あんたなんか、産まなきゃよかった!」
それが、私が初めてその言葉を聞いた瞬間だった気がする。もうよく覚えてないけど、あまりに強烈だったのだろう。これだけは鮮明に、海馬に焼き付いている。
・・・
「…おーい。え、死ん…?」
「……生きてます。」
「うわ。」
「なんですかうわって。」
眼を擦り起き上がってみればすでに真っ暗で。けど目が慣れていたからか誰が私の事を起こしたかはよく見えた。
「結局来たんだ、リメちゃん。」
「勘違いしないでください。ここまで手伝わされて星を見ないでいるのはなんだかもったいない気がしただけです。」
「はは、なんでもいいよ。僕の事はないがしろでいい。ただ星は見てほしかったから。嬉しいよ。」
「そうですか。じゃあはやくほら、見せてください。」
「…ないがしろ。」
文句を言いつつも先輩は指を指した先には、すでに準備し終わっていた天体望遠鏡が置かれていた。
「用意が良いですね。私の寝顔でも見ながら準備したんですか?キモいです。」
「リメちゃんって結構自意識過剰だよね…。気持ちよさそうに寝てたから、セットできるまで起こさないで上げようかと思ったんだよ。」
「…ありがとうございます?」
「なんで疑問形。とにかくほら、見てみな。」
「…。」
期待はしていたが、肩を落とすことになることはなんとなく予想できた。普通に考えたら星一つ見たところで何が変わるというのだ。星がわざわざ救いに来てくれるわけでもない。そりゃ隕石でも落ちれば、みんな一緒に死ねるけど。
「何が見えるんですか?」
「星。」
「いやそれはわかってますけど…何の星ですか。」
「この季節はあれでしょ、やっぱり。」
どうしても教えてくれないようだ。イラつく。
この季節ってことは…夏の大三角とかかな。デネブとアルタイルと…忘れたけど。
答え合わせで、私はゆっくりと天体望遠鏡を覗いた。高価なものなので、慎重に。
途端、視界に移ったのは…
「星、だ。」
「ま、まぁそうだよ。星だよ。…あんまり興味は惹けなかったかな。」
「……綺麗。」
「お、そう?」
口に出しといて驚いてしまった。完全に無意識で、不本意ながら言ってしまったから。「ただの光ってる球ですね」って悪態ついて帰る気だったのに。最悪な気分のまま家に帰るつもりだったのに。これじゃ、居座ってしまう。
今まで星なんか興味なくて、なんなら嫌いで、それでも私の心を掴んだその星は、赤くて燃え盛っていて、綺麗にかっこよかった。
まるで赤ん坊が炭酸水を飲んだように、人類が地球を外から初めて見たように、朝起きたら寝坊二時間遅れくらいに、ハっとさせられた。
「…これなんて星ですか?」
「アンタレス。簡単に言えば…さそり座?」
「さそり座って…ってか星座って星を繋げたやつじゃないんですか?」
「そのさそり座の中心の星ってこと。僕はその星が好きなんだ。」
「へぇ…なんか嫌なんで他の星好きになってくれません?」
「…好きになった?アンタレス。」
「っ!!…ま、まぁ…。見てて、飽きません。」
「だよねだよね!星って綺麗だよね!」
「近いです見れないです邪魔です嫌いです。」
「がはっ!オーバーキル…。」
「ふっ…あはは。」
「…リメちゃんはよく笑う子だね。」
「そうですかね。私は…つまらないいらない子ですよ。」
「そんなことないさ。可愛くて可愛い子だよ。」
「語彙無い人に褒められれも嬉しくないです。それとお世辞は…。」
「世辞じゃない。本音だよ。お世辞嫌いでしょ、リメちゃん。」
「…。」
真剣にまっすぐ目を合わせてそう言われるもんだから、一瞬ドキッとしてしまった。この無神経の倫理欠けてる先輩に?バカ言え私。せめて恋するなら星だけにしてくれ。
「…でも、確かに先輩の前だと自然に笑えます。」
「僕が信頼できるから?」
「いえ、何も考えずテキトーに会話できるからです。」
「酷い!」
と、樋星先輩は言うが、私にとっては重宝する存在だった。いつも人の顔を見て、心では震えながら強気に対応する。我ながらダサかったが…こうして先輩とは普通に会話できると、一概に自分のせいじゃないと言えて、気が楽になる。
樋星先輩は泣き真似をしながら私の横に来た。逃げる気はなかった。
「僕も見たい。」
「…散々見たんじゃないんですか?」
「天文学部として何かしらレポート的なのを書く条件なの!屋上開放許可は!」
「めんどくさいですね~…。」
「まぁ、それくらいしなきゃダメな場所だよここは。勝手に入り込んで死のうとする神経図太い子だっているんだし。」
「飛び降りましょうか。」
「ごめんなさいなんでもないです死なないでください。」
「…!」
…死なないで…?
「…ふっ、先輩。人たらしですね」
「よく言われるけどそれなんて意味?」
「…バカって意味です。」
「はは、ひど。」
その後は、あまり会話はしなかった。今のこの空間に、いつも居座っている秘密基地とは段違いの安心感と月明かりだけが満ちていた。先輩は望遠鏡を見て、すぐ何かメモを取っての繰り返し。私は胡坐を掻いて空を眺めていた。
「…先輩。」
「ん?」
「なんでアンタレスが好きなんですか。」
「…アンタレスって、火星に対して対抗心がある、みたいな言い方されてて。ようするに火星の敵みたいな意味があるんだよ。」
「火星の?…樋星先輩は火星嫌いなんですか。」
「嫌いって言うか…まぁその…ひねくれた理由なんだけど、聞く?」
「暇なんで。」
「はいはい。火星って英語でマーズでしょ?マルスって昔の偉大な英雄さんからちなんでつけられた名前なんだけど、そのマルスって英雄さんは随分と慕われてて…誰からも愛されてて。」
私が嫌いなタイプだ。特に嫌なのが嫌いなんじゃなくてただ私が妬んでるだけって部分。最悪。
「…それで火星の敵のアンタレスが好きって、ひねくれてますね。」
「そ、そうだよねぇ…。ってなんでリメちゃんそんな複雑な顔してるの?」
「いや、その話聞いてもっとアンタレスが好きになったのと、先輩はどっちかって言ったらマルス側なのに『自分はそんなんじゃない』みたいな言い方してて腹立ってます。」
「そりゃまた複雑で…。でも僕はマルスなんかじゃないよ。慕われてもない。」
「そうなんですか?」
「友達はいるかもだけど…結局自分をさらけ出せるほどの友人はいない。そもそも慕われてたら天文学部は一人じゃないよ。」
「確かに。」
「…否定してほしいなんて贅沢な事は置いておいて。とにかくそういう理由でアンタレスが好きなんだ。みんなに愛されてる人なんて…羨ましくて、嫌いでさ。」
正直なところ意外だった。そんな私みたいな悩みとは完全に無縁そうな先輩が、そういう思考回路だったなんて。
「…先輩の事キライになりました。先輩の事好きな人だっているのに、そうやって卑屈になってるとこ、ムカつきます。」
「えぇ…。」
「…でも別に、私に寄り添ってるわけじゃない。」
「…!」
「だから、そこだけは…まぁ、認めます。」
「好きにはならないんだ…。」
「なって欲しいんですか?」
「いやいいよ。僕の事は嫌いになっても星の事は嫌いにならないで。」
「わかってます。」
ただ自分可愛さに言っていたのなら嫌いだ。だが…先輩は、少し違う気がした。
・・・
星の鑑賞も終わりその日は解散した。先輩は私がまだ星を見て居たかったらついていてあげると言ってくれたが丁重にお断りした。それに甘えたら日が明けるまで付き合ってもらうことになる。
「星、綺麗だったな…。」
やっぱり自分に嘘はつけない。あの望遠鏡に目を通した瞬間、私は当たり前だが星を見ていて、星も私の事を見ていた、ように思えた。心を奪われた…とまでは少しオーバーだったかもしれないが、今も頭から離れない。あの赤く燃えるような星が。また明日も…先輩は星を見るのかな。
「見ると良いな。」
真夜中、少し浮いた気持ちのまま家にたどり着いた。お母さんはいないはずだけど…どうだろうか。一応声は静めておこう。
「ただい…
すぐに、気づいた。知らない人の靴。お母さんの、靴。
「…だ、れ?」
息を殺して、とりあえず部屋に戻った。そしたら、いた。
知らない男が、私のベットで、鼾をかいて。
・・・
目を覚ましたら、体中痛かった。空は快晴、お昼ごろかな。
「あー…屋上で寝るんじゃなかった。」
あれから家には一度戻りはした。着替えたかったのとお腹が空いたから。
朝の登校時間が過ぎた辺り、チャイムの音で目を一度覚まして恐る恐る家に戻ったら誰もいなくて。何も怪しまれなかったのは多分なんか丁度良くタイミングが重なってくれたんだろう。そもそも私の存在自体そこまで重要視してない気もする。部屋には入れなかった。入りたくなかった。いやでもあそこ私の部屋じゃんって思って勢いよく開いたら…誰もいなかった。残っていたのは煙草と男の人の匂い。
すぐにトイレにかけこんで吐いたせいで、当たり前のように用意されている気持ち悪い朝ご飯もほとんど食べられなかった。
「栄養失調で死んだろかな。…無理か。」
ろくに栄養取ってないくせに体だけいっちょ前に中学生してるんだから困る。ほんとに、色々と。
「ん、んん~…。今日は、どこで夜を過ごそう。」
逃げたかった。どこかに。あの部屋ではもう寝たくはなかった。
実は一回、この田舎唯一の交番に逃げたことがある。成功していればこうはなってない。頭によぎったのは…先輩だった。
「んや、私に逃げ道はない、か。」
…花を摘みたくなった。トイレ行こ。
学校に住んでるなんて、まともな人が見つけてくれたら助かるのかな。
いないかここには。
「ふぅ…ハンカチ欲しいな。」
洗った手を適当に振っていると、最悪な人物に話しかけられてしまう。
「あっれぇ?見てみて、アイツ。学校来てるよ?」
「しかもハンカチ持ってないし。きったな!」
「あはは、無理でしょハンカチすらあの子は。知ってる?あの子のお母さんこの田舎の誰かといつもヤってるらしいよ!」
「うわぁきもぉ!かわいそぉ!」
「…はぁ。飽きないねあんたらも。」
「は?何。強気じゃん。」
「もう一回教えておいた方が良いんじゃない?」
「だね~。リメちゃん今日はどこまで脱ぐ~?」
「あはは!」
はぁ…生意気に数だけいるから困る。どうせやるなら殺してくれないかな、なんて悲観的になって諦めかけてた時だった。
また、みっともなくも考えてしまったんだ。助けてって。
クソガキ共の後ろに、見覚えのある二人がいた。樋星先輩と、先輩の事が好きなあの女の先輩。
「ねぇ。」
「…え?」
「あははじゃねぇよお前ら。…ここ三年のとこなんだけど。」
「へ…み、神門先輩…。」
「別に来て良いけどさ、騒がしくすんのはやめてよ?私達もう受験生だから。」
「あ、その…すいません。」
「か、帰ろ…?」
「うん…。」
複数人のいじめっ子たちは情けない背中を見せて逃げるように二年生の階層に帰っていった。めんどくさいからって一個下の三階のトイレ使ってよかったかも。
「大丈夫?リメちゃん。」
「樋星先輩…と先輩大好き先輩。」
「ちょ、は、あんた馬鹿!!?」
「え?」
すぐに神門先輩とやらに引っ張られ樋星先輩から放されてしまった。
「なんですか。」
「なんですかじゃないわよあんた!わ、私がコウの事好きって…なんでわかんのよ!?」
「見たらわかりますよ誰でも。」
「…マジ?」
「マジです。」
「…とりあえず内緒にして。」
「意味ないですけどね。」
「あんたねぇ…。さっきも、それくらい強気にしなさいよ。」
「さっき?…あぁ、あのクソガキたちにですか。」
「あ、あんた口悪いわね。」
「まぁ育った環境が環境なので。ほら、先輩残しちゃってますよ。」
「…そうね。」
ぼーっと空を眺める先輩の所へ私たちは戻った。星の事でも考えていたんだろうか。
「あ、帰ってきた。ガールズトークは終わったのかい?」
「…鈍感なんですか?」
「そうなの。最悪でしょ。」
「神門先輩も神門先輩ですよ。」
「…否定できないわ。」
「…?あかね、随分とリメちゃんと仲良くなったんだね?」
この人は神門あかねさんというらしい。かっこいい苗字だな。
「戦友みたいなもんよ。」
「勝手に戦わさないでください。…とりあえずありがとうございました。じゃ。」
「待ってリメちゃん。」
「はい?」
「今日も星見に来る?」
…流石に家に帰りたいところではある。もう屋上は、嫌だ。まさか夜中はあんな怖い場所だなんて…。それに雨降ったら終わる。
「…気分次第です。」
その場しのぎでそれだけ言うと先輩はもう何も言ってこなかった。もう片方の先輩は飛んで来た。
「ま、待ちなさいリメとやら!」
「…日崎リメです。よろしくお願いします。」
「あ、神門あかねです。じゃなくて。え?何?あんたもまさか…。」
「ありませんあり得ません。むしろ大嫌いです樋星先輩は。」
「なんだ良かった…。いや良くないわよ大嫌いって何!」
安堵したり怒ったり忙しい人だな
「優等生で、無関心で倫理観ないんで。」
「そこが良いんじゃない。」
「…なら神門先輩も嫌いです。」
「なーっ…もう!かわいくない子!もういじめられても助けないよ!」
「良いです。今度は殴って逃げます。」
「お、おう…その意気よ。」
そろそろ行こうかとした時、チャイムが鳴った。
「じゃあまたね、リメ。」
「…はい。」
神門先輩も名前から入るタイプ…。樋星先輩とお似合いかもしれない。
・・・
目を覚ますとすでに放課後だった。家に戻ろう。このまま屋上に居たら望遠鏡の設置を手伝わされる。立ち上がって扉を開けるとそこに…誰がいるわけでもなかった。
「…何を期待してたんだ。」
そのまま家に戻るとお母さんの靴だけが玄関にあった。今日は痛い思いをしなきゃいけど。
「ただいま。」
「おふぁえり~。」
なんか食ってんな。
荷物を置いて台所へ行ってみるとお母さんがカップラーメンを食べていた。スマホ片手に誰かとメールで会話しながら。
「今日は遅かったわね。」
「…補習。頭悪いから。」
「はん、変なとこ私に似てるのね。」
殴られるかと思ったが、よほどメールが楽しいのか何もしてはこなかった。そんな歳で好きな人とのメールにそこまでわくわくできるなんて、もはや羨ましい。頭の中お花畑なんだろうな。
「そうだ、明日から土日月と連休でしょ。」
「そうだったね。」
「三日間帰ってこないから、好きにしなよ。」
「…わかった。」
それ以上は何も言わずまた食と性の欲求に戻っていくお母さん。こうはなりたくないものだ。
部屋に戻り、着替えだけして…下着の数が少ないことに気付く。
すぐにまた胃液が上がってくる、飲み込んだ。
「…はぁ。」
ここまでくるともう慣れてしまうな。ほんと。そう考えて、考えて考えて、身震いを抑えた。もうやだ…。
一度慣れたとはいえ…これ以上取られるのは良いかと言われれば絶対嫌だった。そうだ、丁度良くスカスカな鞄があるではないか。
「よし、入った。」
…目から液体が流れかけたが、なんとか抑えて、着替えを諸々鞄に詰め込んだ。もうこの部屋は、私の部屋じゃない。
涙はこぼれなかったが、言葉はこぼれてしまった。
「…逃げたい。」
もうこんなところにはいたくなかった。死にたいのに、私の眼には対抗心が宿って仕方がない。こんなところで死にたくない。まだ星を、全然見てない。もっともっと…綺麗な星を見たい、星に見られたい。
「…樋星、先輩。」
鞄を持って、お母さんにちゃんと少し出かけてくるとだけ伝えて家を出た。お母さんから返事はなかったが、遠目で頷いてたし大丈夫だろう。
学校まで戻ってくると、もう日は沈みだしていて。タイミングは良かったかもしれない。相変わらず不用心な玄関を通ると…
「ん?…日崎じゃないか。こんな時間に学校にどうした。」
めんどくさいやつに見つかったな…。ただでさえ使えないのに邪魔までしてくる最悪な先生。あ、そうだ。
適当に、でも完璧な言い訳を思いついた。
「私天文学部に入ろうかなって。で今日星を見に…
「え?」
なんてタイミングで現れるんだ樋星先輩…。手には大量の用紙。どんだけレボート的なヤツ書くつもりなんだ。
「そうなのか?樋星。」
「田中先生……いや僕も初耳です。入るの?」
「え、あ、え。」
…入らない理由も…ないか。
「はい。なので田中先生部活の紙ください。」
「そうか…そうか!日崎!俺は感動した!そして樋星!ありが
「良いから早く。気が変わる前に。」
「お、おう…そうだな。うん。…うん?」
混乱している田中について行こうとすると、樋星先輩もついてきた。
「別に先輩はいらないですよ?」
「いやいや、僕一応部長だから。ちゃんとついて行かなきゃでしょ。」
そういう先輩の顔は嬉しそうで楽しそうで、笑顔だった。なんだか救われた気がした。…私にとってのヒーローは星だけど、会わせてくれたのは先輩だ。
「よし、これでOKだ。よかったな樋星。後継者ができて。校長先生も喜ぶぞ。」
「そうですね。ありがとリメちゃん。」
「明日には退部の可能性ありますけど。」
「な、なんだと。樋星!頼んだ!」
「そりゃそうなったら引き止めますけど、田中先生そういうちょっと投げやりなとこ生徒に評判悪いですよ。」
思わず、先輩の顔を見てしまった。言ってくれたから。私が言う必要なんてない、どうせこの先生は言っても変わらないだろうと決めつけていたことを。
「え、そ、そうなのか。」
すると田中先生は顎に手を当てて考え込んでくれた。
…言ってみれば、変わったのか。
きっと根本的には変わらないし、私のいじめの事も悪びれもしないだろう。
それでも、意味がない、わけじゃなかったのかもしれない。
なんだかどうしようもなくそれがイラついたので…言ってみた。
「私は評判悪いとかじゃなくて嫌いです。」
「ちょちょちょ、リメちゃん。おもしろ。」
「…二人して先生を…。まぁいい、俺は今日嬉しいからな。日崎が誰かと関わってくれたことが、嬉しい。」
「…!…行きますか、先輩。」
「うん。それじゃあ田中先生、明日からのやつ、リメちゃんも連れていきますね。」
「あぁわかった、校長先生に伝えておこう。」
職員室を出て、私は先輩が持っていた紙を半分持つと言った。先輩はありがとうと、その紙の三分の一ほどを私に持たせた。
「樋星先輩。」
「ん?」
「明日からのやつってなんですか?」
「あぁ、実はね…明日から三連休でしょ?」
「はい。」
「せっかくだし山昇ってキャンプでもして、星を見ようかなって思ってさ。どう?リメちゃんもどう?一応さっき田中先生に言いはしたけど、別に親御さんの許可とかなかったら…。」
「行きたい!!……です。」
魅力的な話に思わず食い気味になってしまった…!恥ずかしい…。
「ふっ…あはは。いいよ行こう。もう準備はできてるから。リメちゃんは着替えとかあれば…。」
「もう持ってます。」
「なんで!?……え、ほんとになんで?」
「気にしないでください。…出発はいつですか?明日の朝?」
「そ、そうだね。早く行って色々現地で準備しなきゃだし。それに星だけじゃなくて山も楽しまなきゃ!」
「…私は星だけでいいです。」
「えぇ…。んやまぁなんでもいいよ。僕はリメちゃんが来てくれることが嬉しいから。」
「襲わないでくださいね。」
「襲う?どういうこと?」
「マジかよこの人。」
「え?…え?」
ピュアっピュアな人を置き去りにして早歩きで私は屋上まで昇って行った。中三なんて盛りざかりじゃないのか…。私が汚れ過ぎってのもあるかもしれないが…それでもちょっとそっちの知識なさすぎないか?いや安心できるけども。
・・・
今日はあの高そうな天体望遠鏡で空を眺めることはなかった。すでに鞄に入れている。明日持って行かなきゃなのだから。先輩はまだ荷物確認中で、私は部室の窓から星を眺めている。
「結構コンパクトにまとまるんですね。」
「まぁね。部品がいっぱいある分小さくまとめやすいから。重いけど。」
「頑張ってください。」
「…うん。えーっと?あと必要なのは…大丈夫かな。うん。」
「日曜の朝に下山って感じですか。」
「そうだね。三連休全部は使わないよ。疲れちゃうでしょ。」
「お風呂入りたいです流石に。」
「だよね。おっけ、準備終わり。それじゃあささやかな歓迎会でもしようか!」
「歓迎?誰をですか」
「いやいや、リメちゃんをだよ。天文学部の新入部員なんて入ると思わなかった。」
「あの、ほら、誰でしたっけあの私の事助けてくれた先輩。」
「あかね?」
「それです」
「それって…。」
「神門先輩とか誘えばよかったんじゃないですか。仲良いでしょう。…というかお二人ってどういう関係なんですか?」
「幼馴染だよ。幼稚園の頃くらいだったかな。最初はあかねも天文学部入りたがってはいたんだけど…ほら、あかねって運動神経良いから。」
「ほらって言われても知らないです。」
「え、そうなの?!全国大会まで行ったバスケ部、あれあかねのおかげなんだよ!?」
「知らないです。」
「あぁそう…。でもそれで他の部活に引っ張られちゃって。」
「で、こうなったと。不幸な人ですね、先輩。」
「そんなことないさ。リメちゃんがいるからね。」
「…たらし。」
「みたらし?」
「甘い人ですね…っと。それじゃそろそろ帰ります。」
「歓迎会してないんだけど!」
「なんか用意してるんですか?さっき入ったばっかりなのに。」
「してない…けどこの部活については教えておきたい。」
「まぁ…はい。星見るだけじゃないんですか。」
私は立ち上がったが座り直した。帰りたいかと言われれば帰りたくはないから。どうせもう出かけているんだろうけど。お母さん。
「それはそうなんだけどさ。星見てレポート書いて、学園祭とかで誰も見ない展示したりなんだけど…。」
そりゃだれも来ないですよねと言うのは流石に酷かったのでやめておいた。
「でも実はこういうのがあって。」
樋星先輩が棚から取り出したの本はメモ帳の用で、タイトルに「言い残したいこと」と書かれてあった。
「なんですかこれ。」
「これはね、卒業していく天文学部の先輩が書いていく意思表示みたいなもんなんだよ。天文学部の伝統行事みたいなものかな。僕はこれが好きでさ。」
「ふぅん…。」
開いてみると確かに、いろいろな文字の形をした言葉が書かれてあった。「絶対にロケットに乗る」だとか「あの子に告白してやる」とか。ぱらぱらとみて、ふと見たことがある文があったから止めた。
「『星を見ている時、星もあなたをみている』…。これってそこの紙と同じこと書いてませんか?」
「あぁ、うん。虹咲先輩の言葉なんだ。」
「確か一個前の…。」
「そう、僕の先輩。気に入っちゃって、書道部の友達に書いてもらって飾ってるんだ。良いよね、これ。」
「意味わからないですけどね。」
「そう?僕は『君は一人じゃない。見れば見てる』みたいで良い意味だと思うけどなぁ。」
「……想像力豊かですね。」
「はは、ありがと。」
あまり褒めたつもりで言ったわけじゃないのだが…。
「…帰ります。」
「うん。引き止めて悪かったね。じゃあ明日の…八時半くらいに。」
「わかりました。それじゃ。」
「また明日。」
「…また明日。」
部室を出て、まだ少し明かりのついている学校から出て、誰もいない家に帰ってきた。カギは開いてなかったけど裏口があるのでそこから忍び込む。私は用意周到ですから。
もうお母さんはあの男とどこか旅行にでも行ったんだろう。お金はあるからな。
明日はお風呂に入れないだろうから、ちゃんと体を洗おうとお風呂場に行った。
で、気づいた。あの男も風呂入ってるのでは?なんなら風呂でヤっててもおかしくねぇな。
「…いっか。」
あんまり何も考えないでお風呂に入った。別に気にしなければいつもと変わらなかった。温まった体を寝巻きで包み、ソファで寝た。いつもの嫌な夢は見なかった。明日、どんな星座を見れるか。ただそれだけを夢に見た。
・・・
多分八時半学校に最低限の荷物を持って行くとすでに樋星先輩がいた。まぁまぁな荷物を持っている。
「おはようございます、先輩。まだ涼しいですね。」
「そだね、おはよリメちゃん。寝ぐせついてるよ。」
「愛嬌です。」
「可愛げないね…。」
治らなかったんだから仕方ないじゃん。照れればよかったのか?
「その荷物全部持ってくんですか?」
「そだよ。重いのは天体望遠鏡だけだし、大丈夫。」
「ならいいです。」
「心配してくれてはいると信じてるよ。じゃあ徒歩で行こうか、学校の裏山。」
「遠出はしないんですね。」
「しないよ、十分田舎だから綺麗に見えるからね。歩いて麓まで…十分くらい?」
「ちか。」
私たちは荷物を持って歩き始めた。セミの声が響く中、田んぼ道を通って、くだらない会話をして。
「先輩は神門先輩の事どう思ってるんですか?」
「え?どうって…まぁ友達?」
「ダメですね。」
「いきなり否定された…。」
「もう少し神門先輩と腹割って話してみてくださいよ。面白そうです。」
「どういうことなの…。でもまぁ後輩のアドバイス、聞いたよ。家に帰ったら話してみる。」
「そうしてください。ちなみに今日の事神門先輩には言ったんですか?」
「言ってないよ、なんで?」
「…はぁ。」
「えぇ?」
男女二人で一応夜を過ごすんだ。伝えておかなき後が怖い…。いやでも伝えたらまず止めるか、ついてくるのか。ついてきては欲しかったかもしれない。
十五分で確かに山のふもとまで来た。先輩曰くここから十分ほどでほどよい平地に出られるらしいのだが…。
「はぁ…はぁ…。」
「リメちゃん体力無いねぇ…。」
「うる…さいです…はぁっ。」
運動なんてろくにしてないからな…。
「あ、見てみて、リメちゃん。」
「なん…ですか?」
死に物狂いで登ってる私に見せてきたのは、クロユリだった。珍しいな、こんなところで…。確かあんまいい花ではなかった記憶。
「なんか不吉…。」
「でも綺麗でしょ。リメちゃんに似合う。」
「…本気で言ってますかそれ?クロユリの花言葉知ってるんですか?」
「んー…知らないけど、似合うよ。ちょっと絵描いとこ。リメちゃん先行ってていいよ。もうまっすぐだから。」
「それじゃお言葉に…あまえ…て!」
なんとか足を持ち上げて先輩を置いて先に進んだ。
クロユリって花言葉…確か『恋』と『呪い』じゃなかったかな。先輩はどっちの意味で私に似合うって言ってくれたんだろ。
考えてまず、恋はないなと思った。鈍感で星に恋してそうな人だから。
しかしそれ以前に花言葉知らないって言ってたことを思いだした。花言葉を知らない男ってレッテルが似合う。
「ふっ、疲れてて頭おかしくなってるな。」
「そうなの?大丈夫?」
「…早くね?ですか?」
「スケッチ程度だから、見てみて。」
見せてくれたクロユリの絵はスケッチ程度ではなく綺麗に描かれていた。
「樋星先輩って絵も描けるんですか…。」
「優等生だからね。」
「はいはい。そゆとこ大嫌いです。」
「またまたぁ、嫌いは好きの裏返しでしょ。」
「黙ってください。」
「はい。」
そうして登りきると、確かに平地にでた。風も少なく、もう夏なのに随分と涼しいのは木の枝の日影がうまい具合にできているからだろうか。
「…はぁ、空気が気持ちいですね。」
「だよね。僕も去年虹咲先輩に連れてきてもらったんだ。」
「ここもあの部室のメモ帳みたいに、引き継いでいかなきゃですね。」
「そうだよ。頼んだからねリメちゃん。」
「…はい。」
果たしてこんな女の部活に新入部員が来るのかは怪しい所だ。ついたらすぐに先輩は色々な準備をしだした。キャンプ用具は一通りそろっていて、趣味なのかと聞いてみたら校長先生が用意した道具を天文学部にプレゼントされているとのこと。校長星好きすぎだろ。できる限りの手伝いをして、疲れたらぼーっとして。
お昼ごろにはご飯を含めて、ようやく全部の準備が終わった。
問題は起きたけど。
「いやぁまさかテント一個忘れるとは…。」
「バカですね。」
持ってきたインスタントのラーメンをすすりながら、先輩の失敗を馬鹿にした。一瞬「まさか無知のフリして襲う気か?」と考えたがテントが無いことに気付いた先輩のあの落ち込み様と泣きそうな顔を見てないな判断した。
「うぅ…ごめんね。僕は外居るから。」
「良いです、一緒に寝ましょう。」
「え、いいの?」
「ピュアな先輩には何の心配も…あ、いや神門先輩が…。」
「あぁ気にしなくていいよ。あかねには今日の事言う気ないから。」
「え?」
「…そりゃまぁ、わかるよ。長い事一緒にいるし、わかりやすいしね。」
「そ、そうなんですか!?」
まさかのカミングアウトに箸を落としかけた。朝は話してくれなかったのに…。キャンプテンションか。
いや確かにわかりやすいのはそうだしな…。
鈍感系の人じゃないじゃん先輩。行けるよこれは神門先輩。
しかし、樋星先輩が続けた言葉は神門先輩には決して伝えられない言葉だった。
「ただねぇ…僕、あかねのこと女の子として見れなくて…。」
「えぇ、つまんな。」
「露骨にテンション下げないでよ!?」
「良いですもう終わった話ですから。で今日は何の星見るんですか?」
「女の子って恋バナ好きじゃないんだ…。」
「あぁ、あれほんと意味わからないですよね。○○君が好きだってさ!とか、知らねぇよって感じです。嫌いですよ恋バナ」
「くちわる、ははっ。」
作り笑いじゃない笑顔だった。こういうところに神門先輩は惹かれたのかな。私はそこまでドキドキは感じないが。
「…ただまぁ、伝えたほうが良いんじゃないですか。」
「え?」
「神門先輩にです。このまま期待させておくのも、なんだか可哀想な気がしませんか。神戸先輩が。」
「…そう思う?」
「少なくとも私は嫌ですかね。生まれてから恋なんてしたことありませんが、もしそういう立場だったらなんだか遊ばれてる気がして。叫びます。」
「さ、叫ぶ…。」
「はい。
「そっか…そうだね。伝えるよ。」
「まぁそれで、幼馴染として会話できなくなるのが嫌ならやめた方が良いと思いますけど。ごちそうさまでした。」
食べ終わったカップ麺をゴミ袋に入れて背伸びをする。
「んや、心配ないさ。むしろ幼馴染として、もっと仲良くなるよ。」
「ふふっ、なめてますね恋愛。」
「一回もしたことないリメちゃんに言われたくない。」
「…たしかに。」
お腹も膨れたので先輩と常識の範囲内で、山で遊んだ。
滝見つけたり虫探して騒いだり。
「滝綺麗だったね。でもリメちゃんとどっちが綺麗かって言えば
「見てください綺麗なテントウムシと蝶。」
「うわぁ!?僕虫むりむりむり!!」
「…へへ。」
「やめてその笑顔怖いから!近づけないでテントウを!?」
星が見える頃まで先輩で遊んで…間違えた、先輩と遊んでいるとすぐに日は沈んで。私たちは天文学部としての活動を始めた。
「おわぁ…あ、アンタレス見つけましたよ。」
「う、うん…よかった。それじゃそのまま夏の大三角探して…はぁ。」
「なんでそんな疲れてるんですか?」
「君が虫持って追い回したんでしょうが!全く…疲れたよもう。」
「これが…デネブかな?」
「聞いてないし。見せて。」
そんな調子で夏っぽい星のリストから私が見つけては先輩が絵を描いてレポートを作り上げていく、この作業を繰り返した。単調作業と普通の雑談。楽しかった。本来学校という場所はそういう場所のはずなのに、私は教室のクラスメイトの名前すらわからない。
「…授業受けようかな。」
「え、リメちゃん受けてないの?」
「まぁ、はい。いじめられてますし、勉強も…やる気出ないって言うか。」
「あーまぁわかる。僕が同学年だったら守ってあげられるんだけどね。」
「どっちかと言えば神門先輩の方が良いです。」
「あぁそう…。」
「でも先輩が隣の席だったら…。」
それなら学校に行くのも楽しいんだろうな。
「僕の隣大変だよ。すぐ寝るから、起こさなきゃ。」
「ずっと見ててあげますよ。…あ、これ…なんでしたっけ。」
「…ベガだよ。」
「見てないのによくわかりましたね!」
「まぁなんとなく。それにほら、星のリストあと二つだったし。」
「それもそうですね。すごくなかったです。」
「素直なやつだ。最後は…アルタイルか。知ってる?ベガとアルタイルって…。」
「織姫と彦星でしたっけ。流石に知ってますよ。」
「あのお話、悲しいけどロマンチックだよね。一年に一度しか会えない、なんて。」
「先輩ってロマンとか考える人でしたっけ。」
「リメちゃんは僕の事をなんだと思ってるの…。はい。」
「?」
渡された紙はレポート用紙でもなんでもなく、星が書かれたメモ用紙だった。
「これ…もしかしてベガですか。」
「うん。どう、特徴捉えてる?」
言われてもう一度見てみると、さっき望遠鏡で見たベガと同じだった。
しかしなんか…星の枠がとげとげしてるとことふわふわしてる部分がある。これは模写というよりイラストって気がするけど。
「そりゃもう。私でもわかりましたよ。やっぱ絵上手ですね。」
「…リメちゃん。」
「はい?」
「何か、嫌な事でもあった?」
「…え。」
「勘だけどね、なんか前はもっと活き活きしてるけど…今日はずっと、助けを求めてる感じがする。本当に勘だけど。」
「それ…は。」
エスパーなのか、樋星先輩は。
私は戸惑って、でもすぐに決めた。
「…そんなことないです。いじめとか、慣れてますし。」
「そう。」
「だけど…本当に耐えられなくなったら。」
言っていいのか、それ。迷惑じゃないのか。
今さら一人でやってきた私が…誰かの上手く借りれるのか。
言い淀んでいると、先輩が私の手を持ってくれた。
「…頼っていいよ。全部解決できる、とは言い切れないけど…それでも隣にはいてあげる。約束だ。」
差し出された小指。もう良いんじゃないか、逃げずに立ち向かってもいい。もちろん一緒に逃げたっていい。何にしろ、行動を起こすときじゃないのか。
「…全力で体重乗せて、頼りますよ。」
「いいよ。リメちゃん軽いし。」
「重たい女です、私は。」
「ならテントが吹き飛ばされずに済むね。」
「は?」
「ごめんなさい…。」
先輩は十枚くらいのレポートを大切にホチキスで止めて鞄にしまった。これで活動してますよ感を出すらしい。ほんとなんであるんだろうこの部。
天文学部の活動も終わって、すぐ寝ることになった。一緒に寝ると言った以上、逃げることはできない。逃げようとしたのは樋星先輩だけど。
「…どこ行くんですか。」
「え!?あれまだ寝てない…。」
「良いからほら、隣。」
「うぅ…。」
「普通逆なんですけどね…。そんなに嫌ですか、私と寝るの。」
「ハレンチな!」
「…嫌ならいいです。出ていってもらえば…」
「違う!そういう訳じゃ…ないんだけど。リメちゃんが嫌かなって。」
「私は別に。樋星先輩には一ミリも何の感情もありませんので。」
「あ、はい。じゃあ寝ます。」
「ん、おやすみなさい。」
「おやすみ…。」
ここまでされるとこっちまで恥ずかしくなるじゃないか。気にしない気にしない。
明日はすぐ帰るんだから。すぐ…帰る、んだっけ。
今までなら、帰りたくないなぁとどうしようもない希望をあげて終わっていた。
だけど不思議と、帰っても学校がある、天文学部がある。と別の希望にすがれるからか、何の不安もなく眠りにつけそうだ。
「…樋星先輩。」
「寝てないの?」
「ありがとうございます。あの時、止めてくれて。」
「…僕は、自分勝手に止めただけだよ。」
「先輩のおかげで星に出会えました。…お礼と言っちゃあれなんですけど。」
「え?」
私はもぞもぞと起き上がって、先輩の横まで移動し、ぎゅっとした。
「な、何を…。」
「ぬくもり、分けてあげます。夜は寒いんで。」
「…君が寒いだけなんじゃない?」
「おやすみなさい。」
「はぁ…おやすみ。」
人肌を感じながら寝るのなんて、何年ぶりだろう。安心と信頼の温かさを私はいつから忘れてしまっていたんだろうか。もしかしたら感じた事さえなかったかもしれない。
・・・
朝起きるとすでに先輩は帰り支度をしていた。クマが少しできていたからかあんまり眠れなかったのかもしれない。
「ごめんなさい。」
「朝はおはようじゃないの…?」
「暑苦しかったかなって。それで寝不足なんじゃないですか?」
「んー…寝不足ではあるけどリメちゃんのせいではないよ。」
「なら良いです、早く帰りましょう。」
「あ、うん…。朝から変わらずドライだね。」
「きゃぴきゃぴしてみましょうか?」
「見たいけどそれはリメちゃんじゃない気がする。」
「ですよね。」
そう言ってくれるのが、好……嫌い。わかった気にならないでほしい。
褒められて、認められた気に、なるなよ、私。
学校まで戻るのにそう時間はかからなかった。来た時もそうだったし、なんなら帰りは下りなんだから体力も使わない。帰ってきた学校は休日だから生徒の姿は見当たらず。先生が何人かはいそうだ。
「リメちゃんごめんだけど、荷物天文学部に置くの手伝ってくれない?」
「はい、もちろんです。」
「リメちゃんが素直だ…。」
「帰っていいですか。」
「お願いします手伝ってください。」
いくつかの荷物を持って校舎に入って、絶句した。
「…お母さん。」
「あぁリメ!どこ行ってたの!?ちゃんと置手紙でもいいから、心配させないで!」
「えっと…。」
「あれリメちゃん親御さんに許可取ってなかったの?」
「いや、その…。」
「良かった丁度良く帰ってきて。」
「田中先生…?」
何だこの最悪なコンビ。
「田中先生、天文学部の事、リメちゃんのお母さんに伝えなかったんですか?」
「いやその…聞く耳を持たなくてな。朝からずっと『リメはどこ!』の一点張りで…。」
うちのお母さんがごめんなさい。
「…勝手に出ていってごめんなさい。」
「本当にそうよ!全く…すいませんでしたご迷惑おかけして。」
「い、いや良いんですよ。こちらも連絡が行っているか確認せずに。」
「はい、それじゃあ帰るわよ、リメ。」
「…うん。」
手が震えてるのが自分でもわかった。帰ったら…何されるんだろ。痛い目ならまだいいけど…あの男がいたら……考えたくない。
引っ張られる腕、痛い。でもすぐに痛みは引いた。
「あ、ちょっとすいませんリメちゃんのお母さん!」
「…何?」
「天文学部部長のひ……コウという者なんですけど!今リメちゃんにお手伝いしてもらっていて…片付け終わるまでリメちゃんお借りできませんかね!」
「……あなたが部長さん…。お世話になったのなら、まぁ。そうね。リメ、じゃあ私先帰ってるから。」
「う、うん…。わかった。」
やけにすんなり引いたな…。人の目があるからか?常識あったんだなうちの親。
「…。」
「…!!」
最後、私の腕を放して帰っていく、最後の瞬間の、あの、目。
恐怖と寒気と…言葉にできない絶対服従の、目。
…あれが
「あれが自分の子にする目なのか?」
「…先輩。」
「田中先生、片付けとかするんで、リメちゃんのお母さんが騒いでたの解決したって職員室に。」
「あ、あぁ。そうだな。…ちゃんと伝わってはいたんだな、天文学部でキャンプ行ってるって話。あれがヒスか…ごっほん。と、とにかく、任せたぞ。」
「…はい。」
田中先生の無責任さは変わらないな。ここまで異常な親子に何も思わないのか?いや、感じているから逃げたのか。
「田中先生はダメだな…。」
「…。」
「リメちゃん、片付け終わったら君の家行っていいか。」
「え?」
「…お母さんに何されてるんだ。」
「べつ…に…何も。」
「…とりあえず部室行こう。」
荷物を持って、私たちは部室へと戻った。何の会話もなく。お母さんどうして樋星先輩の事何も言わなかったんだろ。「あなたがリメを連れ出したの!?」とか言いそうだったのに。
…あ、そっか。もう良いのか私の事なんて。野垂れ死んだら困る、くらいにしか考えられてないんだ。
「…荷物、ここでいいですか。」
「うん。」
「じゃあ私…。」
「待って、行くって言ったでしょ。」
「…大丈夫ですよ、何もないです。先輩が考えてることなんて起きてないですよ。だから安心して…
その瞬間だった、先輩は私を壁に力強く押し付けてきたのだ。
「いたっ…!?」
「…。」
「ちょ、やめて…くだ……さい、よ。」
そのまま腕を抑えられて、先輩が私の服をめくり、お腹を出された。
見られたくない、紫色のアザ。
「……これで、大丈夫だって?」
「…なんでお腹ってわかったんですか。」
「……やっぱり今から行く。お母さんに話を
「意味ないですよ!そんなことしても!!」
「…リメ。」
「あの女に対して先輩が何ができるって言うんですか!所詮子供のくせに!馬鹿の癖に!無責任に…決めつけて…そういうところが、大嫌いだって…嫌いだって…。」
溢れないでくれ、やだ、やめて。見せたく、ない。
「泣いていいから。」
「っ!?」
掴んでいた腕を放して、先輩が私の事をぎゅっと抱いてくれた。あったかかった。でも、手が震えていた。
「…うっ…うわぁああああ!!」
箍が外れたんだ。強気に生きて、不良みたいにして。自分を強く見せて周りなんか怖くないって、言い聞かせていた、心の箍が。
一人で、世界の端っこで泣いてる時だって惨めなのに、こんな…こんな人前で泣くなんて。
「…ぐすっ…もう、良いです。」
「…うん。」
ふっきれた。多分酷い顔をしてるだろうけど、いいやもう。
「はいハンカチ。」
「…こういうとこ嫌いです。女性が無く前提でハンカチ持ってるの。」
「まぁ…手拭きには使わないけど。」
「汚いです。」
「ご、ごめん…。」
人の事は言えない。
「…じゃあ行こう。」
「何を、しに。」
「君を奪いますって宣言。」
「え?」
「君の環境なんて知らないけど、きっといられない場所なんじゃないの?いつでも着替え持ってて、山登りも食い気味だったのはそういうことでしょ。」
「……まぁ、はい。じゃあ、やれるだけやってください。」
「相変わらず態度変わるの早いね君は…。ははっ、じゃあまぁ行こうか。」
「はい。」
樋星先輩は手を繋いで、一緒に学校から家まで来てくれた。別に何か会話するわけじゃなかったけど、私の手の震えはなくなった。
家について、樋星先輩がインターホンを鳴らしてくれた。誰も、出ては来なかった。…いやまさかな。さっき帰ってきたばっかりだろ。
「先輩こっちです。」
「え、リメちゃんカギないの?」
「はい。」
「…こりゃ強敵だ。」
裏口から先輩を入れて、家の中に入った。リビングに、いたのは。
「…お母さん、その人。だれ。」
「…!?り、リメ?!」
「あん?なんだ…?……あ!?コウ!?」
「え。」
「……マジかよ。」
部屋にはお母さんと、知らない男の、あの日私のベットで寝て、私の下着を盗っていったであろう人がソファに座っていた。その男が、先輩の…名前を…?
ここは田舎だ。みんな知り合いみたいなもんで、みんな…顔見知りで。
「父さん、あんた何やってんだよ!!!」
「…は、はは。こりゃ運命だな。おい。なんだ、日崎さんとこの娘さんと付き合ってたのか?」
「樋星さんあの男の子が…?」
「あぁそうだ。俺の愚息だ。」
「なんだよこれ…意味わかんねぇ…。」
「せ、先輩…。」
「リメ、ごめん…。俺も…あぁそういうことかよ、くそっ!」
先輩がこんなに慌てて、顔が真っ青で。私も多分同じで。
「まぁこれで色々手順飛ばせんじゃねぇのか。日崎さん。」
「そ、そうね。リメ、聞いて。この人が…。」
「言うんじゃねぇそんなこと。リメ、あの男は最悪の…。」
「あぁん!?テメェコウ!!ほったらかしてたら随分と生意気になったもんじゃねぇかよ!?散々殴ってやったの忘れたのか?!」
「っ…。」
…だからお腹にあるってわかったんだ。一番、見られないし殴りやすい場所。
「…先輩、行こ。」
「…。」
「待ちなさいリメ!」
「うっさいババァ。」
「なっ…!」
今度は私が先輩の手を引っ張って、逃げた。全速力で、走って、走って、走って。
交番にまで来た。唯一の交番。
入ろうと思ってやめた。引き止められるだけだ。
「…んーどこに行けば…。」
「リメちゃん、もう良いよ。」
「良くないですよ。このまま先輩家帰ったらきっと…。」
「リメちゃんは屋上にでも逃げて…」
「なら一緒に。」
「ごめん、なんとかするから。今は…一人で考えさせてほしい。」
「…わかり、ました。」
「…ごめん。」
「謝らないでくださいよ。また考えましょう。今日は…戦略的撤退です。二人だったらいずれ…。」
「ごめん、な。ほんとに。俺のクソ親父とリメが一緒に居たら…ダメだ。」
それはまぁ、なんとなく。中学生の下着持ってくんだからわかるけど。
「…先輩。」
「…すまない。」
私の腕を振りほどいて、先輩は去っていった。
…次会う時はいつもの調子だよね。
先輩の背中に私は大きな声で呼びかけた。
「せーんぱい!!!絶対学校来てくださいね!!約束ですからね!!」
何も返しては来ないで、ただ振り向いて、笑って手を振ってくれた。
笑顔だったから、少し安心できた。
もっと近くで見ればよかった、その笑顔に…どれだけの複雑な感情と決意が乗っていたか、私は遠すぎて、気づけなかったんだ。
・・・
それから私は家に戻った。学校に行くのが正解だったんだろうけど…途中で雨が降ってきたもんだから。恐る恐る家の中に入って、靴が無い事を確認した。お母さんはどうやら仕事に行ったらしい。どんな状況でも欠かさないなんて、流石大人と言うべきかな。先輩のお父さんは…どうだろ。探し回ってるか、お母さんと一緒に仕事に行ったか。
それから次の日、三連休最終日にもその次の日の学校の紐、お母さんは帰ってこなかった。
「…逃げたかな。」
まだ確信じゃないけど、もしこれで完全に私を捨てたのなら大人に助けを…求める?いや私一人じゃダメだ。大人は信用できない。かと言って他の手も出せないし…。せめて先輩とだな。
とりあえず学校に行こう。先輩と今後について話そう。
朝起きて、自分で朝ご飯を作って、着替えて、学校に向かった。
遠目から見てもわかるほど、人だかりができていた。そりゃ朝だし、登校時間に来てるんだからいつもの事だ。
いつもと違うことは、パトカーが停まっていたこと。
「…馬鹿」
学校まで走った。学校の生徒と、周りの家の人の野次馬が集まっていてよく見えない。その人だかりのなか、唯一見覚えのある人を見つけた。
「神門先輩!」
「…り、リメ。ねぇどうして、なんで……ねぇ!」
「落ち着いてください。一体何が…。」
「コウが…飛び降り自殺したって…あぁああああああ!!」
「…は?」
なに、いってるんだこの人。
「…嘘、ですよね。」
「嘘じゃないわよ!私だって…見ちゃったもん…見たんだもん…あああああああああああああああああああああああ!!!」
泣き叫ぶ神門先輩を支えて…脳がフリーズしていた。
先輩が死んだ?自殺して?
どうして…なんで…。
「……『言い残したこと』…。」
「…え?」
「神門先輩。今ここどうなってるんですか。」
「え…どうだろ。まだ救急車待ってる…だけじゃないかな。」
「警官は…ヤジ止めてるだけ。」
「…ちょっと、リメ…?」
「すいません、ちょっと…行ってきます。」
「ま、待ちなさいよ!?」
静止を振り切って、私は学校を裏周り、誰もいないのを確認してから裏口から入った。私は用意周到だから。
「先輩…せんぱい!!!」
階段をかけのぼって、天文学部の部室に入る。
「はぁっ…はぁっ…。」
そこにはいくつかの空のペットボトルや、食べ物のゴミが入ったゴミ袋があった。先輩はここにいたんだ…。
「あれ、ない…。」
天文学部の伝統の、『言い残したこと』をかくメモ帳が見当たらなかった。
「…じゃああそこか。」
部室を出て、屋上へと向かう。
屋上へと続く扉の前の、あの『天文学部』って書いてある箱の中。
あそこになら…。
「~~~!!なんでないの?!あ、屋上か。」
ガチャン!!
「開かないし!針金…ないし…。」
…これじゃはいれない。こんなおんぼろなのに…このままじゃ先輩が残してるかもしれない物が…回収されちゃう。
「リメ!」
「っ!?」
振り向くと階段下に、神門先輩が立っていた。
「受け取って!」
「え、ちょ。」
投げられたカギは上手くキャッチできず、落としてしまったがすぐに拾った。
屋上のカギだった。
「早く行きなさい。私が先生とか止めとくから!」
「…あざす!」
私が追って飛び降りるなんて微塵も思ってないんだな…。
もちろん追う気はさらさらないが。
カギを使って屋上に入るのなんて初めてだったから、少し手間取りつつも外に出られた。
「箱…箱…あ。」
何もない屋上だから、すぐにわかった。端っこの、陰になる場所。私がいつも、寝る場所にその箱はあった。
「この中に……あった。」
『言い残したこと』と書かれたメモ帳。ここにあるってことは先輩が触れた証拠。
「…さいご、最後のページ…あ…書いてある。」
心を落ち着けて、私は読んだ。先輩の、最後の言葉。
『もう耐えられない。』
広い空白を目いっぱい使って、ただそれだけが書いてあった。
「……んだよ。」
メモ帳を、地面に叩きつけて…空を仰いだ。
「もう屋上入れないじゃないですか…先輩。」
自分で止めておいて…で自分が飛び降りる?
「大嫌いです、自分勝手なところ…。」
この後の事考えようって、約束破って。
「嘘つくとこも…嫌いです。」
助けるって言って、自分だけ楽になって。
「無責任で…期待持たせて…あぁもう!そういうとこがだいっ…
思いっきり息を吸って…何も言わず、吐いた。
「…何これ。」
見つけたのだ、箱の中に。一枚手紙のようなものを。これは…?
どうやら、私宛の手紙のようだった
『リメちゃんへ
きっと君は僕の事が嫌いになってると思う。勝手に逃げたから。
約束もしたのに…無責任で自分勝手で…本当にごめん。
僕は君と一緒には戦えない。どうしようもなく怖いんだ。
細かいことを伝えはしないけど、僕にとってあの人はトラウマそのもので。
もし失敗したら…負けちゃったら…きっと君を恨む。
もちろん、君のせいなんかではないんだ、決して。
でも…ごめん、やっぱり恨むと思う。
それは嫌だった。だから、逃げたんだ。
実はさ、思い出したくもない毎日を送ってて、ある日、死んでやろうと思った。
飛び降りてね。
天文学部ってのを理由に、屋上のカギを借りて…でもカギは開いたんだよ。
先客がいたんだ。
君を止めてしまった以上、僕は無責任に言葉を紡げなかった。
リメちゃんの前で無理をして…気づけば自分は誰かを救えるヒーローだって勘違いしていたみたいだ。結局、トラウマの前じゃ何もできなかった。最終的に君のせいになんかにするヒーローにだけは、なりたくなかった。情けない話だよ。
ただ、一つ自分で自分を褒められるのは、君に『星』という存在を教えられたこと。僕は君を救えないけど、きっと星は君の支えになってくれる。
後追いするな、なんて言う資格はないよ。
それでも、リメにはもっと生きてほしい。もっと、星を見てほしい。
僕が見れなかった分まで。
だけどまぁ死人に口なし、僕の最後の言葉なんて気にしないで良いからね。
君と話している間は、自分の事が好きになれたよ。
僕に最後、ヒーロー役をやらせてくれて、ありがとう。
PS・クロユリの花言葉『恋』っての、知ってた。君の事が、好きだった。』
随分と、涙もろくなったもんだな、私。
手紙を持つ手に力が入って、涙が流れて、くしゃくしゃになっていく。
「…何が『恋』ですか、これじゃ、『呪い』です。」
もう一度空を見上げた。青かった。どうしよもなく綺麗だった。
「…追いませんよ、私の心には、アンタレスが光ってますから。」
私は、私を助けてくれる何かを求めていた。それは星だと、貴方は言った。
でもやっぱり私の中の救世主は、貴方なんだよ。
マルスみたいにみんなに慕われてなくても、私には救いだった。
先輩が私にとっての星だったんだ。
だって私が先輩を見てる時、先輩はちゃんと私の事を、見てくれていたじゃないか。
なのにあなたは卑屈に、自分は役になっていただけなんて…決めつけて。
勝手に死んで。
「ほんとに…さ。」
息を吸って、下にいる人たちの事も何も考えないで…青く広がる空に向かって叫んだ。
「だいっっきらい」
朝でも、星は私の事を見てくれていて、
だからちゃんと素直に言ってやった。言ってやったんだ。最後に。
「…私も…好きでした、先輩。」
小さな最後のつぶやきは、風に流されて消えていった。誰にも、言い残せないまま。