Ⅰ時限目(7)
「…………む……」
先生が目を覚まされた。おもむろに上体を起こして、ラジオの方を向いた。
「俺……おかしかったやんな」
小人が騒いでいる中、涙をこぼされる。始まってしまったか。
「この子らは、俺らの世界に行きたかったんやんな。ずっと聞かされてたわ。それやのになあ、おい、俺ときたらやで、祟り扱いしてもうたんや……最低なじいさんやでほんま」
興奮する時はとことん昇り、消沈する時はどん底まで降りる性分なのである。奥さんは双方「めんどくさい状態」だと嘆かれていた。
「バリカンあるやろ? 坊主にして反省するわ」
「やめてください。先週剃りましたよ」
「ほんなら、すね毛や。カミソリくれ。ああ、彫刻刀でかまへん、そっちが早い」
版画の専門家にあるまじき使い方をするな。この状態で刃物を握らせては危険だ。先生には、洗面器を赤くした前科がある。
「マー坊?」
あちらもこちらも、世話が焼ける。
「何か、軽くつまめる物ありませんか。実は、小腹が空いてきたんですよね」
覇気が無い顔に、若干赤みがさした。
「あの子達に、ジゲンⅢの味を経験させてあげたいですし」
だらしなく開いていた口が、さっと引き締まった。
「そんなら、パンナコッタとハムチーズパニーニがあるわ。昼食うた店で買うてきてん」
陽気な田端先生の、復活だ。私は心の中で拳を掲げた。
「パニーニはオーブントースターで温めるんがええ。パンナコッタはこの子らに出したれ。適当に器取って分けい」
「はい」
今日は、別の話題を振ることで鬱状態を脱した。状況に適した対処をしないと、ますます悪化する。さっきのやり方が不正解の場合「なんで俺の話を受け流すんやワレ」と怒り狂い木製バットで壁を殴り、数分経つと丸まって号泣する。病院嫌いのため、薬は備えていない。
「ほら、パンナコッタとジュースだよ」
トレイを落としかけた原因は、DJクローバー氏の駄洒落がくだらなかったのではない。
「まこと」
「おそいよ」
小人が二人に減っていた。
「桜と萩は?」
『おそと』
扉に視線を移す。猫が通れる幅まで開いていた。私は部屋の扉を開けたままにしない。母に叩き込まれたのだ。親父が消えて以来、しつけはスパルタ式であった。
吹けば飛ぶようなジゲンⅡの住人に動かせるか……?
「かんたんだよ」
「ぼくたちには」
『あれがある!』
私は顔の右側を手で覆った。
「しまった、マホーか」
マホーは、ジゲンⅡ特有の力だ。呪文を唱えて、それに応じた効果を発動させる。
「ロロねえちゃんには」
「かなわないけどね」
パニーニを切っていた先生が、何事か訊いてこられた。
「小人が二人、逃げたんです」
「おん!? 慣れへん所をうろうろさせたらあかんやろ」
「私が連れて帰りますから、田端先生は朝顔と水仙をお願いします」
残った小人が、腹を抱えて机に足踏みした。
「あんたらな、おもろいことちゃうねんで」
「らじおあきた」
「ぼくたちも」
小人は先生の肩へジャンプして、軽快に廊下へ走る。
「待たんかい!」
敷居に止まり、朝顔は尻を叩いてみせ、水仙はつるつるの顔にあかんべえをした。
「おにごっこだよ」
「でもつかまえたらおわりじゃない」
ルールを付け加えるのだろうか。
「なぞなぞにせいかいしないと」
「だめなんだ」
「せいかいをいってつかまえないと」
「ぼくたちはえにかえらない」
田端先生が頭を掻いた。
「さっさと問題を教えんかい」
小人が帽子の先を合わせた。
「ぼくたちのなまえは」
「なんでしょうか?」
『ひんとはさっきまことにいったよ』
嘘だろう。記憶を辿らなければならないではないか。
「ぼうしのかざりも」
「てがかりだね」
先生は指を鳴らした。
「簡単やんか!」
小人達を掬って、深く息を吸った。
「朝顔! 水仙! 御用や!」
鼻のあたりをつまみ、二人は首を横に振る。
「はずれー!」
「はなのなまえじゃ」
『ありませーん』
恥と外聞をとうに捨てた先生が、地団駄を踏んだ。
「くやしいなら」
「ちえをしぼって」
『おいかけておいで!』
小人達は交互にジャンプして、左右に分かれて廊下を駆けていった。