Ⅰ時限目(5)
「おう、マー坊! ええタイミングに来てくれたわ」
放課後に美術準備室へ寄ると、田端先生がとびきりの笑顔で迎えてくださった。
「適当に座っとけ。コーヒーブレイクや!」
デニム地のエプロンを付けた巨体が、水屋のマグカップを二個つかむ。「マー坊」への指摘はやめておこう。躁状態を崩しかねない。
「今日は部員一人なんや。適当に描かせたれ」
私が美術部副顧問であったことを、ここで覚る。のびのびした部活だから、負担が少なくて時間を研究に回せた。
「ほい、牛乳多めの砂糖控えめ」
「ありがとうございます」
田端先生の傍らに、イーゼルが二台置かれていた。それぞれに立てている絵には、布をかけてあった。
「やっぱし気になるやろ!? 俺の新作を持ってきたつもりやったんや。ところがどっこいスットントン!」
覆いを引っ張り、先生は胸を張った。
「なんでかこの子らに替わってたんや。どうや、懐かしいんとちゃうか」
私は、吸い寄せられるように色鉛筆画へと歩いた。ジゲンⅡの友達と、久々に対面できるとは。時が過ぎるのを忘れるほどたくさん遊んだ日々が、頭に溢れ出す。
左の絵は《小人達のロンド》だ。三角帽子の小人が四人、手をつないで踊っている。丸い顔に目鼻口は描かれていないが、帽子の先に乗った花の飾りで個性を主張しているのである。桜、朝顔、萩、水仙、各季節に咲く花だった。
「めちゃくちゃななぞなぞに、俺らはえらい苦しめられたな」
「皆を楽しい気分にさせたかったんでしょう」
右の絵は《アヴェ・マリアを歌う少女》、あの子……ロロだ。
「優しいあんたは、おやつを食べさせるふりをしてやってたな」
面映い。習慣になっていったので、奥さんが二人分持ってきてくださった。お手数をおかけして申し訳ない。
「いつか絵を抜けられたら、苺を使ったお菓子をあげると約束したんです」
布をエプロンのポケットに収めていた先生が、三度頭を縦に振った。
「あん時は、ロロちゃんの方が大きかったけど、すっかり越してもうたな」
描かれた時期は私の生まれた年に近く、外見は八〜十歳だそうだ。丁寧な言葉遣いで、私を坊ちゃん、または、真さんと呼んでくれた。
「挨拶したったり。おう?」
田端先生は《小人達のロンド》の前で首を傾げた。
「ここだけ出っ張ってる。ごみでも付いてたんか?」
二段になった顎が、私を招く。桜が付いた帽子をかぶっている小人の足に、突起があった。
「塗った際に飛び散った、芯のかすでは?」
「いや、色は一緒やけど、んな雑な仕事するか! 売りもんやったんやで、それなりの額払ったんやぞ。百貨店の催事場や!」
先生が唇を見事なへの字に曲げる。
「羽ぼうき取ってくれ。あっちのキャビネット、いっちゃん上の段な」
言われた通りに動こうとしたら、濁った悲鳴があがった。
「マママ、マー坊、マー坊! えらいこっちゃ!!」
先生が指を差したまま後ずさりしていた。私は羽ぼうきを持って、戻った。
「小人がボコボコ浮き上がってきてんねん!!」
少し目を離したうちに、四人がレリーフのように立体化していた。
「頭が! 手が! 足が! キャンバスから離れていってるぞー!!」
「落ち着きましょう、生徒が驚きます」
小人が一人ずつ、床へ落ちてゆく。軽いのか、あまり音がしなかった。私は、ところてんを突く様子を想起した。
「もぬけの、殻ああぁ〜」
目を回して気を失った先生を、ぎりぎり支える。還暦で肥満は、洒落にならない。この機に節制させよう。