Ⅰ時限目(4)
年中行事は第一金曜日にしてもらいたい。翌日は腰を据えて研究したいのだ。さらに、入学式と始業式を同日にしてもらえると幸いである。年度始めの三連勤は、準備体操無しに長距離走をさせるようなものだ。つながりの塔に足を運べなかったではないか。前の調査から一週間以上空いてしまった。
出席簿と教科書、授業メモをまとめて片手に持ち、二年三組に入る。卯月早々、扉に黒板消しをはさむ古典的ないたずらをするヤツはいなかったか。ゴールデンウィークを過ぎると、羽目を外す生徒が増えるのだが。
「始めるぞ、起立」
ひと声で大勢を動かすことは、気持ちが良い。五体に快感の震えが走る。
出席簿を開き、席を見渡す。去年は着られていた学生服とセーラー服を、ようやく自分達の物にできたところか。生徒の顔つきは、まだまだ意志の弱さが表れているけれど、腐ってはいなさそうだ。
「出席確認するから、呼ばれたら手を挙げるんだ。旭さん、味原くん」
次は……。
「跡見さん」
日に全然当たっていない手が、天井へ向かって伸びた。跡見仁子、唯一、異なるジゲン出身の生徒である。どこのジゲンかは、未だに教えてくれない。
全員が出席していることを確かめ、二年生の社会科は歴史を学んでいく旨を説明した。男子生徒は、戦国時代が好きだ。この年頃は、強者に憧れを抱きはじめる。私はというと、縄文時代の土器に興味津々だった。模様を教えたのはジゲンⅡの使者ではないのか、ジゲンⅠの住宅様式に影響を与えたらしいが果たして本当なのか、ばかり考えていた。ひねた少年だったのである。
「明後日の始めに小テストをする。時代の名前をしっかり書けるようにな」
退出する前、跡見さんに目配せした。感謝が伝わっただろうか。彼女は私を一瞥して、頬杖をつき空を眺めた。
授業が終わると、廊下の静けさがたちまちに破られる。走り回ったり、つるんで雑談をやりだしたりして、元気なものだ。
「跡見さん、あたしのお姉ちゃんが二年だった時にもいたんだって」
「えー? きょうだいとかいとこなんじゃないの」
女子生徒二人は、私にわざと聞こえるように話していた。
「違う、同じ名前だったの。お姉ちゃん、一昨年卒業したんだけど、跡見さんは留年?」
「中学校で留年は無いよ」
「だよね? 担任がダニーだったのも怪しくて」
ダニーは、私を指している。誰が広めたのかは知らない。苗字を妙な部分で略され、外国人風にされた。
「お姉ちゃんが、ダニーと跡見さん、くっついてんじゃない? って」
二人が甲高い声で叫ぶ。なぜ、十代の女子は何でも恋愛話に持っていくのだろう。教師と生徒が? 有り得ない。
「ダニーが跡見さんと一緒にいたくて、校長先生に土下座してるのかも!」
「うーん、ダニーが土下座すると思う? 私はいつでも正しいです感ガンガン出しているじゃん」
「わっかるー!」
私は早歩きをして、角を曲がり、階段を下りた。
残念ながら、交際の経験は三十三年間、皆無だ。突然一人で生計を立て、私を育てなければならなくなった母を楽にさせるため、この職への道を直走ってきた。ついでに、私の容姿が洗練されていないから、も付け足しておこう。女さえ惚れる美貌の母にも、案外端正な顔立ちの持ち主だった父にも似なかった。+と+を掛けたものの、−の解になってしまったのだ。
「鶯谷先生」
真後ろに、学年主任がいらっしゃった。ひどい寝癖と厚いレンズの眼鏡、薄汚れた白衣はマッドサイエンティストに勘違いされてもおかしくない。いつも心臓に悪い近寄り方をする。こいつに捕まると、面倒なのだ。
「はい」
余計な言葉は、こいつがつつく格好の材料になる。
「田端先生が、なんですけれどもね」
踵を上げて私を見上げ、早口で喋る。きっと、こいつの前世は鳥だ。
「まぁた準備室にプライベートな物を運んでいらっしゃったんです。先生の作品ですかねぇ? 職場を個展の会場にしないでいただきたいですね」
職員室でもできる話だと思うのは、私だけか。
「田端先生の部屋ではないんですから、節度を守っていただかないと。鶯谷先生からも、注意してください。副担任は、担任の女房役ですよ!」
注意しても無駄だ。長く付き合っているからこそ、結果が分かる。
「まさか尻込みしていらっしゃいませんよねぇ? 年齢の垣根は関係ありませんよ。仕事のマナーは皆が守る! それが常識です」
そろそろやめてくださいませんか。通り過ぎる生徒に失笑されて、みっともなさを感じる。
「頼みますよ!」
白衣を翼のようにひらめかせ、学年主任は先に職員室へ行かれた。一方的に話して、一方的に終わらせる、困った社会人だ。
「聞かされる身にも、なってほしいね」
教科書の角で肩を叩き、再び私は歩き出した。