Ⅲ時限目(3)
「待てい、話がちゃうぞ。なんで俺が『明中オールスター感謝リレー』に出場せなあかんねん!!」
廊下にも響く怒鳴り声は、美術準備室の主、田端先生のものだった。
「賞金あるんか? 駄菓子かティッシュなんやろ!? やったら余計にやりたないわ! ボケ!」
内線の受話器が、握り潰されるのではないか、私は冷や汗をかいた。
「だいたいな、確実に一位獲りたいんやったら、若手を指名するもんやろが。元野球部やといっても、俺、じいさんやで? デブデブのヨボヨボ走らせて勝てるわけないやろ。スポーツ経験者やったら、鶯谷もそうやで。あいつ、中高とバレーやったんや。不動のエース、ホッパー真ってな!」
目黒先生に、本当か? と顔で訊かれる。あながち嘘では無い。私は、補欠チームのリーダー歴六年だった。どちらも必ずどこかの部に所属しないとならなかったため、背の高さが活かせそうなバレー部に仕方なく身を置いた。そして、田端先生に指摘したい。リレーに向いている人材は、断然、陸上経験者だろう。
「おん!? もうエントリーしてもうた!? 俺の机開けて、印鑑押させてもらいましたー!? 何してくれてんねんドアホ!!」
叩き壊しそうなぐらいに受話器を置き、田端先生は地団駄を踏んだ。
「撤回させたる!」
肩を怒らせて、こちらへ歩いてこられた。
「えらい遅かったな。俺は今から職員室乗り込んで、大塚の野郎をしばいてくるわ!」
大塚先生だったのか。
「あの男、お次は他人の印鑑を無断で使うか」
一泊移住では、没収したポラロイドカメラをキャンプファイヤー時に破壊しようと考えていた、過激な体育教師だ。目黒先生まで呆れていた。
「リレーと仰っていましたが、こちらも学校の行事なのでございますか?」
「体育大会だよ。生徒がクラス対抗で走ったり、綱を引いたりするんだ」
ロロが感嘆する。「明中オールスター感謝リレー」は、当校の名物競技である。各部活、有志グループ、PTA役員、我々教員が全力でトラックを駆ける。得点に関係ないが、当日限りの共演、そして好もしくは珍プレーを目にすることができて、わりと人気であった。
「一泊移住を終えて、競技の練習が始まったのう。二年は騎馬戦じゃった。わしがコーチになってやっても構わぬのじゃがな」
「本当に戦うのではありませんよ」
目黒先生は、ジゲンⅠの伝説にもなっている、無敗の王だ。
「分かっておるぞよ。首の落とし合いは、懲り懲りじゃ」
手近な椅子に座り、目黒先生は頬の髭をいじった。
「若造、それを貸すのじゃ」
私は持参した四輪市の地図を渡し、皆で広げた。
「スクエイアより先に、暴走の状況だ」
目黒先生とロロが、私の指先を追った。
「市の北西部に、止水緑地がある。緑の石は、緑地内、つながりの塔展望台で私とロロは初めて確認した」
ジゲンゲートの暴走で、緑の石がジゲンⅢに見られ始めた。触れると同じ石にさせる毒を有している。ジゲンⅡでは「大地の害悪」と恐れられてきた。
「ロロがジゲンⅡに毒消しを要請したのだが、石は増えていて、処理が間に合っていない」
「さらに応援をお願いしましたが、増えるペースが速まっており、ますます厳しくなっております」
私が勤務している間、ロロは毒消しに回っていた。
「あれは、ジゲンⅢでいう吸血鬼やゾンビに似ておる。触れて毒石になり、別の者がそれに触れて新たな毒石になり、を繰り返すのじゃ」
「ジゲンⅡでは、わたくしめが生を受けるはるか昔に、『大地の害悪』によって滅びた文明がございました」
目黒先生は、ロロに苦い顔をした。
「薬師と賢者を招き集め、解毒剤の開発を急がせておるぞよ」
私は、つながりの塔にコンパスの針を刺し、円を描いた。
「ロロの情報と、私の実地調査を合わせると、塔を中心として、同心円状に石が分布していることが分かった。約一ヶ月で、市の北エリアと他市の南エリアに及んでいる。目黒先生と市役所の防災対策室に、連絡を済ませた」
ジゲンⅠの王が、胸を叩いた。
「官公庁には、公文書にて注意喚起しているぞよ」
「これで、毒におかされるケースが減ると信じよう。ゲートの在処だが、やはり、つながりの塔だろう」
ロロと目黒先生が、視線を交わした。
「『大地の害悪』が生じている源でございましたものね。クロエ様とお会いして、塔にオーラを強く、長く感じられるようになりました」
「先月は、不安定じゃったと聞いておった。カモフラージュじゃろう。スクエイアが勢揃いせねば、拝ませてもらえぬ仕掛けじゃな」
私は目黒先生に質問があった。
「先月の結婚式に、スクエイアの証を持ったのは百年ぶりだ、と仰っていました。前にもゲートが暴走したんですね。当時のスクエイアを教えていただけますか」
顎髭を摘んで、目黒先生は口を開いた。
「ジゲンⅡは現・教皇、ジゲンⅣは蒼き薔薇の乙女、ジゲンⅢは…………聞いて驚かぬでないぞ」
ロロは縮こまり、私は固唾を飲んだ。
「例の『鍵を持つ人』じゃよ」
私の鼓動が、急に速く鳴った。
「あれは、賢く、慈悲深い人間じゃった。赤き炎がジゲンゲートを次々に呑んでゆく中、決して弱音を吐かず、祖国へ帰りたい者を燃えておらぬゲートへ、留まり生き延びようとする者を安全な所へ、送ったのじゃ。炎に当たっては、火傷を伴って帰されるからのう」
「炎は、ゲートの暴走で発生したんですか?」
「そうじゃ、ゲートがゲートを喰らいにかかったのじゃよ。ジゲンの交わりを断たせまい、わし達は思いをひとつに、炎を吐くゲートを宥めた」
声が掠れだした目黒先生に、ロロがアイスコーヒーを差し出した。礼をして、喉を湿らせてまた話す。
「ジゲンⅢのスクエイアが、鍵をかけようとしたがの、灰になり失われたのじゃ。不吉じゃった。わし達の予感は的中した……炎が再びジゲンⅢのゲートを燃やしにきたのじゃ」
ロロが悲痛な面持ちで祈る。
「暴走したゲートは既に消えておる。スクエイアに打つ手は皆無じゃった。一人、諦めておらぬ者がおった」
「『鍵を持つ人』ですね」
「まだ燃えておらぬゲートを探してくれ、閉じて各ジゲンに隠すと言ってのう。わし達はそれなりに傷を負いながら、成し遂げたのじゃ……ジゲンⅢのスクエイアはもう、おらんかったがの」
陽気な目黒先生も、この時は憂いを帯びていた。
「若造、あの書物に記されておらぬ事実を、特別に聞かせてやろうぞ。『鍵を持つ人』は、ゲートを四基閉じると、身が朽ちる。その後、魂は、生誕の地ー四輪市に着く。繰り返してのう」
メモに残していたら、頭に鈍痛が走った。
「坊ちゃん!」
「平気だよ……。先生、このジゲン以外のゲートは、どこに隠したか、『鍵を持つ人』から具体的に聞いていませんか?」
目黒先生は肩を下げる。
「曖昧な歌を残してさらば、じゃ。ジゲン物語じゃったか、絵本になっておるじゃろ。『はじめに閉めた……』の、あれじゃ」
頬杖をつき、ジゲンⅠのスクエイアは遠い目をした。
「肝心なことは話してくれぬ。独りで抱えて、独りで解決しておった。頭が良すぎるというのも、苦痛なのやもしれぬのう」
私のアイスコーヒーは、氷が半ば溶けて薄まっていた。
「新しい物をお作りしましょう」
「下げなくていいよ、ロロ。もったいない」
グラスを回して、一息に飲んだ。
「ジゲンⅢのスクエイアは、必ず、わし達の元へ来るじゃろう。あの魂は、平和を選ぶぞよ」
「確信があるようですね」
「無論じゃ」
目黒先生が私を手招きした。
「始末に負えぬは、ジゲンⅣのスクエイアじゃ。そなたの身近におるが、なかなかの頑固者でのう」
「交渉決裂したんですか」
「語弊がある言い方じゃな」
「誰なんですか。遠回しに仰られては困ります」
霧雨の音が、間を持たせた。
「乙女はそなたに、名を訊かれる時を待っておるのじゃよ」
幼かった私を生き長らえさせてくれた蒼い薔薇が、ジゲンⅣの住人であることが一層、濃厚になった。
「そなたは優秀ぞよ。わしがヒントを与えてやらぬとも、辿り着けるじゃろう」
「親しくしている女性が、私にはいないんですが……」
準備室の扉がけたたましく開いた。有頂天な田端先生が、演歌か軍歌か逍遥歌なのか分からない音楽を堂々と口ずさんで帰ってこられた。
「おーう! 大塚のやつにお灸を据えてやった! 二度とデカい態度をとらんわ。俺は救世主やな!!」
反応が期待していたものと比べて薄かったのか、田端先生は壁を蹴った。
「なんやじめじめしよって。梅雨でカビてもうたんか、あん!?」
田端先生のような人がいらっしゃるから、芸術家はヒステリックだと誤解されるのではないだろうか。隣で活動している美術部を怖がらせるわけにはいかない。特に、今日は文芸部が来ている。私は腹に力を込めた。
「これはこれは、大変失礼をば致しました、メシア・田端先生!! 華々しい凱旋に私達は心をごそっと奪われてしまいました、ワーオ!!」
目黒先生は笑いを堪えつつ、椅子を太鼓にして祝福した。場の雰囲気を読んだロロは、マホーを唱えて大量のクラッカーを鳴らしたのだった。
「あんたら、俺のツボを心得てるやんか!」
そうしなければ、職場が地獄絵図に早変わりする。私が赴任する前は、どう収めていたのか。やや興味がある。
「リレーは鶯谷先生にしたったで。百メートルなんか余裕やろ! あんたのネーム印、机の上に置きっぱなしやったぞ。押して、右の一番上の引き出しになおしといたで」
幇間を辞めて、スパイクを打ちたくなった。
「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」
「かっこええコメントやな」
『論語』だ。芸術家及び教師の品位を下げたことを、直ちに詫びなさい。
「坊ちゃんが走られるのでしたら、わたくしめはお弁当と幟をお持ちしますね!」
「大抜擢じゃな。ジゲンⅣのスクエイアに、勇姿を見せつけてやれば、懐柔できるじゃろう」
応援する側は、気楽である。体育大会に特殊勤務手当を適用させてほしい。




