Ⅰ時限目(14)
真っ青な顔をしてうつ伏せになっている田端に、小人は戸惑っていた。
「名前で失敗してもうたといえばやすいの『安』に『立』の生徒を『あだち』と呼んだらめっちゃキレられたわ『あんりゅう』やったんや。ちいさいの『小』に『橋』もあったわな『こはし』ちゃうんやで『おばせ』やで俺アホやからふりがな振られてても分からへんねん」
疲れているんだ、きっと。小人は田端の背に乗り、マッサージの足踏みしてあげた。
「いわゆる難読漢字やんなへっへっ。なんでやろ全然読まれへんくせにその熟語やら地名やら彫ったったら日展受かるんやからなおかしいやろ」
ぐっすり眠らせるマホーをかけてあげられたらいいのに。使うことを許されるのは、ランク4からだった。
「つまんないよ」
大の字になったら、足音が二人分聞こえた。
「まこと! ロロねえちゃん!」
先に絵へ戻った仲間も加われば、お久しぶりのパーティーを開けただろう。
「田端先生のそばについていてくれて、ありがとう」
「エスターテがあそんでいたから、ぼくもいってみたんだ」
小人はすべり台の要領で、田端の背から降りた。
「つんとしているけど、おいしそうなにおいもしたんだもん」
匂いの発生源を、真は知っていた。
「あーあ、もっとあそびたかったよ」
小人は背伸びして、真に抱っこをせがんだ。
「ぼくのなまえ、おもいだした?」
「寂しい思いをさせて、悪かった。答えられるんだけれど、お願いを聞いてもらえるかな」
真は小人を片腕で抱いて、田端の隣で屈んだ。
「先生、嬉しいニュースです」
田端は耳を傾けた。
「なんやねん」
「ロロが来てくれましたよ」
真の目配せした意味を汲みとり、ロロは田端の元へ早歩きした。
「おじさま、お久しゅうございます。ロロです」
「…………」
ちょうど三秒後に、田端は身を起こしてあぐらをかいた。
「ほんまか、ロロちゃんか!?」
田端はロロの両手を握り、激しく上下に揺さぶった。
「絵以上にお利口さんでべっぴんさんなお嬢ちゃんやな!」
「恐れ入ります。おじさまは、お変わりございませんようですね」
情緒不安定な所と食の好みを含めてね、と真は胸の内で代わりに答えた。
「うーっし! あんたら、今夜は俺ん家に泊まってけ!! 寿司とろか、寿司!」
田端の太っ腹な提案に、小人ははしゃぎ、ロロは肩をすぼめた。
「おすし、くれるの!? やったー!」
「あいにくですが、小人の皆様とわたくしめは、ふるさとの食事会を控えているのでございます」
田端は、バイクの空噴かしに劣らない笑い声を発した。
「遠慮はいらんで。たらふく食うて、ジゲンIIIのふかふか毛布でぐーすか寝とけ!」
真がわざと咳払いをする。教師として十一年働き習得した、注意を引きつけるテクニックだ。
「先生、大事なお役目を果たしていただかないと」
「おう?」
「鬼ごっこの締めくくりをお願い致します」
真はルール完全版を説明した。
「つまりやな、さっきロロちゃんが当てたから、この子の正しい名前を呼んでやれるんは、マー坊か俺なんや」
田端は自身の顔を指した。
「俺でええのか?」
「ぜひ」
彼も鬼の一員だ。そして、陽気な状態を維持させるためにも。
「わー」
小人が廊下へ走り出す。帽子の先端を飾る春の花が、ふりこのように揺れる。
「ほいで、春は伊国語で何て言うねん? カルパッチョか?」
田端のキャッチャーミットに、小人はあっさり収まってしまった。小人が遅かったわけではない。昔取った杵柄で、ジャージのゴムを極限に伸ばすほどの腹周りであろうと、瞬発力は高かった。
「先生が昼休みに行かれた所と同じですよ。大盛りペペロンチーノを頼まれた、あの店」
田端は運に恵まれていた。最後が、春の小人であったのだから。
「プリマヴェーラ! あんた、プリマヴェーラやったんか!」
「せいかーい」
プリマヴェーラは田端達に手を振って、しゃぼん玉に変わった。
「あしたも、あそんでね!」
割れて散らばった微細な水滴は、霞のように漂った。酸味のある黄色い果実の香りを撒いて。
「運動だけは、勘弁してもらいたいなあ」
次の朝、筋肉痛に悩まされるだろう。真は、母が度々見ていたドラマの台詞を口にした。
「『三十過ぎたら走らない事です』、その通りだ」
一方で田端は「俺、臭ってたか!?」と誰にともなく訊ねていた。