ベッドの盤面
──初夜である。
初夜。
ルチアは貴族令嬢としてこの婚姻には諦めしか抱いていない。
冷ややかな婚約者と言葉を交わしたのは数度のみ。言葉すらろくに交わしていないのに、これから身体を重ねようというのだから皮肉なものだ。
とはいえ緊張はしている。
正直にいえば怖い。
血が出ると聞くし、初めては痛いらしい。
いっそ倒れてしまえば先延ばしに出来るだろうか、などと思う。しかしルチアは健康そのもので、コルセットに締められようとも元気に走り回れるほどだ。加えて、燃えるような赤い髪が、どうにも顔色を良く見せてしまう。仮病も無理だ。
諦めてベッドサイドに目を向ければ、ワインとチェスボードがある。
「……父様や兄様と、よくやったわね」
これはきっとダンナサマのもの。ここは彼の寝室なのだから。他人の物に触れるのは気が引ける──と思ったが、向こうはルチアの触れられたくないところまで触れるのだから、と切り替えた。
ワインを呷り、チェスの駒に触れる。
頭の中を分割する。
超攻撃的な自分が白。堅実な自分が黒。
そうして一人、チェス盤を睨む。
──ハビエルが見たのは、羞じらう乙女でも、誘う娼婦でもなかった。
チェス盤を睨む少女の横顔は険しく、その注意は盤面のみに注がれている。ようやく訪れた夫を一顧だにしない。
ハビエルが見たところ、黒が少しばかり押されているようだ。
激戦であることは倒れた駒と盤面で分かる。彼女が中々のプレイヤーであることも。
ハビエルは無言で近付き──黒の駒を手に取り、一指し。
彼女の渋面がみるみるうちに驚愕と、そして喜色満面となった。しかし、その笑みは夫に向けられたものではない。良きプレイヤーへの賞賛としての笑みだった。
すぐさま彼女は白の駒を進める。
ハビエルも応じて黒の駒を動かした。
──いつしか鶏が鳴いていた。
我に返ったのは二人同時。
ようやくルチアは対戦相手が夫であると認識し、目を丸くした後、苦い顔になる。
嫌われているらしいと嫌でも察したハビエルは、しかし貴族としての体面を口にする。
「……ひとまず、一寝入りしよう」
「……はい」
「私は無理に女人を抱く性癖は持っていない。寝台は共にしてもらう──そうでなければ貴女は屋敷の者に受け入れられず、私は不能と嘲笑われる。ただ君は普通に眠れば良い。私もそうする」
「貴族には御子が必要でしょう」
「優秀な甥がいる。その子に継がせれば良い」
「……」
「信用ならないのは分かるが」
「……あなたの、」
「あぁ」
「そんなに長い言葉は、初めて聞きました」
「うん?」
ルチアはきっと顔を上げ、ハビエルを見据える。
「……婚約していた頃、貴方はろくにお話されなかった」
「あぁ、あれは……。何を話せば良いか分からず」
「……は?」
「女人が好みそうな話題など知らない。君の好きなものも知らない。私は人と関わるのが苦手だ」
「そんな、理由で……」
ルチアの渋面に呆れと怒りが混じる。
「あぁ、しかし……君と同じものが好きで、良かった」
「はい?」
ハビエルはチェスの駒を彼女に差し出した。
「チェスだ。毎晩やろう。君は良い指し手だ。夜更かしには気をつけつつ」
「あなたは思ったより──子どもっぽいのね」
ルチアは初めて彼に向けて、笑んだ。
ハビエルの甥は後にこう語る。
「義父上も義母上も四六時中共にいましたが、言葉は少ししか交わしませんでした。なのに噛み合っていて、彼らの空気は少しも軋んでいなかった。静かで、穏やかな愛が、そこにはあったのです」