創作の喜びを見失いかけたあなたに
生活の糧を得る手段は別にある。
しなくても、物理的には困らない。
それでも、心を潤してくれる。
寂しかったり、つらいことがあったりして、生きる意味や目的を見失いそうになったとき、
時には、誰かと自分を比較して深く深く落ち込んでしまったり……。
取り返したくても、今からの努力ではどうにもならない気がするものを前に、足元が崩れ落ちるかのような気分になったり。
ある程度生きていると、色々なことがあるものだ、と思うのですがーー
創作活動は、精神の糧になる側面があるような気がするのです。
生きるために必要なことは、物理的なことばかりとは限りませんよね。
深い悲しみも、葛藤も、昇華しえるもの。
場合によっては、「ネガティブなこと」と言えるそれらが、「味」となり「個性」となるかもしれない。
普通の生活のなかでは、ときに、ただの「生きづらさ」に繋がりがちな経験さえもが、プラスへと転換できることもあるように思います。
創作活動の素晴らしさはそういうところにもある(他にもたくさんあると思います!たとえば、盆栽でもアクアリウムでも、自分好みのミニチュアの世界を作るのも喜びですよね?そのちっこい世界では、創造主たる創り手は、「神」です(笑))、と私は思います。
もちろん、それを「商業ベース」にのせる段階になれば、気にしなければならないことは出てくるでしょう。
けれども、それは、その段階に近づいた時点から気にしても遅くはないのではないでしょうか?
もちろん、これはその人の年齢や社会的状況によってもちがうのかもしれません。
ヤル気満々で、商業ベースにのせてみせる!って気持ちのときは、そもそもこんなエッセイを開かないと思いますし(たぶん……こんなことを書いている人間の思考回路を覗いてみたいと思われた奇特なかたは存じませんが。)。
それでも、誰かと較べて落ち込むなかで、創作活動が自分自身にもたらしてくれるはずの、喜びであったり、希望であったりを見失って、苦しみへと塗り替えてしまうことは、非常にもったいないことであると私は思うのです。
数字が出ると序列はついてしまいます。つい較べて一喜一憂すると苦しくなる。その気持ちはわかるんですよ。私だってそうです。わかるんですけどね。
それでも、創ることをやめないのは、
きっとそれだけ創作活動が大好きだからだと思うんですよ。
もし、書いたり描いたりがつらくなったとき。
誰かと較べて、苦しくなってしまうとき。
上手くいっていたはずなのに期待されると苦しくて、ブクマの数の変動や評価の上下に感情を揺さぶられ続けたりしてーー行き詰まったとき。
それでも筆を折ってしまう前に、自分が、0からなにかを創り出せることを喜びとしていたことを思い出してもらえたらなぁってちょっと思います。
そして、いったんは、遠ざかることがあるとしても。また、いつからでも始めることはできるのだから、「いったん、寄り道でもすっか!」と、気楽にいくのも手です。
これを書く私自身が、小説やイラストを再開しはじめた(小説自体は中学生から書いていたんです。今書いているもののなかには、その頃に原案をもつものもあります)のが大体いくつになってからか、想像できるでしょうか。
当時から20年以上の時を経て、です。
もちろん、年を重ねて、書きやすくなった面と逆に、非常にやりにくくなった面の両方が存在するのは確かです。若い時代には若い時代の感性があると思いますし。時代に則したものを描く難しさはもちろんあります。
それでも、すべてがマイナスということもないんですよね……。
なので、思い詰めず、自分のペースで自分の道を進む。好きなことをしているのですからーー
そして、高めて行くことは出きるはずだから。将来、どんな芽が出るか、どんな花が咲くか。まだ見ぬ明日の先にある世界を、誰が決めることができるのでしょう。
自分で自分を否定して欲しくない。
自分だけは、自分の大切な作品を貶してほしくない。
苦しみさえも、楽しんでいきましょう!なんて言ったら、変態みたいですかね(笑)?