010 ボクとみなさんと私
みなさん、こんにちは、はじめまして。
ボクの名前はヒカルといいます。
ボクは今、ボクシングジムでお掃除ロボとして日夜問わず、働く毎日です。
「はーい、あんよはじょーず。ここまでおーいで」
目の前でボクを手招きしているのは、会長さんです。
010 ボクとみなさんと私
ボクは会長さんの招かれるままに、フロアのゴミをちりとりながら歩みを進め、そのふところに抱かれます。
「はーい、じょーずですよー。よくできまちたねー」
会長さんはボクの頭を優しく撫でて、うれしそうに笑います。
ボクもお仕事をほめてもらえて、うれしくなります。
「……なにやってるの、おじさん」
ジムの玄関で、マネージャーさんが立っていました。
青ざめた顔でボクと会長さんを見つめています。
「おう、おはよう。見ろよ、かわいいだろ」
会長さんはボクを抱きかかえて、マネージャーさんに見せますが、マネージャーさんは哀しそうな顔です。
ボクもちょっぴり哀しくなります。
マネージャーさんは事務室に入り、電話を始めました。
「もしもし? はい、私です。実はウチの会長のことなんですが……。もともとおかしいんですけど。はい、……ああ。やっぱり手遅れですよね。あ、そうそう、駅前に新しいクレープ屋さん知ってます? いえ、私はまだ行ってないですけど。あっ、もう行ったんですね。どうでした? あー、そうですよねー。それで今度、新しいカフェもできるみたいなんですよー。それと昨日のあのドラマ見ました? あの女、ばっかですよねー。男も男であんなのにひっかかってさー。あっはっはっは」
マネージャーさんの楽しそうな話し声が練習フロアにも響いてきます。
「俺の事をわかってくれるのは、お前だけだからな」
会長はとても心のこもった言葉で、ボクに話しかけてくれます。
たとえ機械でも、ほめられるとボクはうれしくなります。
会長はボクを床にやさしく下ろし、再びスイッチを押します。
ボクは再び歩みを進め、ジムのフロアをキレイキレイにごみをちりとっていきます。
会長さんは椅子に腰を下ろし、ボクの働きぶりを優しいまなざしで見守ってくれます。
長年使い込まれた形跡のある、柔軟体操用のマット。
ちゃんと分類別に分けて置いてあるゴミ箱。
多少、穴があいてもガムテープでぐるぐる巻きにして、大切に使っているサンドバッグ。
ホコリやカビだらけになって、誰も使っていないのに、見栄えのためといってあちこちに吊るしてあるグローブ。
ボクはそんな会長さんが愛してやまない、このボクシングジムのフロアのゴミをしっかりとちりとっていきます。
チリチリチリ……。
それはボクだけに聴き取ることのできる周波数。
見上げると天井に黒い頭巾と装束をまとった、何者かが張り付いています。
あれがよく会長さんやマネージャーさんの言うゴキブリというものなのでしょうか。
カサカサと天井に張り付いたまま、器用に上下左右に動いています。
「おじさんー?」
事務室からマネージャーさんが出てきました。
フロアの中を見回して、会長さんを探しているようですが、見当たらないようです。
会長ならさっき、こっそり外に出ていきましたよ。
ボクはそう伝えたいのですが、悲しいかなボクはお掃除機能しかないただのロボット。
命じられたこと以外はできない存在。
「まーた、こっそり外に逃げたのね。あれで自分はいっぱしの経営者を気取っているんだから、ほんと笑わせてくれるわ」
マネージャーさんは会長さんに厳しい人です。
会長さんはみんなに黙って外にしょっちゅう出かけるなんてそんな事するわけがありません。
きっと深い事情があると思います。
だって、こんなお掃除しかできないボクをしっかりかわいがってくれているんだもの。
会長さんは誰にたいしても公然と振る舞い、会員の皆さんに好かれています。
ボクはいつもそんなジムの光景をしっかり記憶しています。
会員の皆さんが使ったバンテージやグローブを、フロアに置き忘れて帰っても捨てたりはせず、しっかりと保管して名乗り出る人が現れるのを待っています。
飲みかけのペットボトルや持ち込んだペットボトルを、勝手にジムで販売している飲み物の入っている冷蔵庫に入れても怒らずに、気前よく使わせてあげています。
プロのボクシングジムである以上、確かに選手の事は大切です。
しかし、一般の会員の方も同じように大切です。
誰にでも分け隔てなくボクシングの楽しさを知ってほしい。
それが、私がこのボクシングジムを経営していく上で掲げた理念なのですから。
会長さんは、いつもこう話しています。
そして、それを聞きながらボクはいつもジムのフロアをちりとっているのです。
ボクはなんでみなさんが会長さんにもっと優しくしてあげられないか、本当にわかりません。
「……それは会長が、会長だからなのさ」
いつの間にか目の前にゴキブリ装束の人間が立っていました。
しかもボクの人工知能に直接話しかけて来ています。
はたして人間なのでしょうか。
そして、人が返事ができないことをいいことに再び天井に張り付いて、天井のパネルをくるっと回転させて、姿を消しました。
ピシャーンと稲光がジムの中を照らします。
気づけばジムの外には暗雲が垂れ込めています。
旧世代の掃除機ではコードから直接給電を受ける形ですが、ボクは新世代のバッテリー搭載、自動ロボット掃除機。
ピカーンでもバリバリーンでもゴロゴロドンガラガッシャーンでも全く問題ありません。
それはともかく雨が降り出してきました。
「あらやだ、おじさんは……まあいいか。たまには雨でずぶ濡れになるがいいわ」
マネージャーさんはそう言って、少し開けてある窓をしっかりと閉めていきます。
「しかし、この雨じゃ、しばらく誰も来ないわね。えーとヒカルくん?だっけ。お掃除がんばってちょーだいね」
ボクは声をかけられてうれしくなります。
例えロボットといえど、やはり存在を認めてもらうのはうれしいもの。
しかも名前まで呼ばれた。
ボクの中でマネージャーさんの存在が大きくなります。
ロボットもやはり誰かのために働きたいものなのです。
ボクはフロアを掃除します。
それがボクにできる、たった一つの仕事だから。
掃除を終え、ボクはホーム位置で待機して充電します。
ボクの一日の仕事は会長さんが開館時間の三十分前にジムに来て、まずはフロアの掃除。
そして、開館時間になり、会員さんがジムに訪れ始めたらいったん待機。
来なかったら、そのまま来るまで掃除を続行します。
……ここだけの話、バッテリーが切れるまでずっと掃除をし続けることがあるのは内緒です。
でもボクは優しい会長さんのために働くことが幸せなのです。
たとえバッテリーが尽きようとも、この信念は決して尽きることはないのです。
日が落ちる夕方になると、選手やプロテスト生がジムに来て、にわかにジムが活気づき始めます。
トレーナーさんとビキニパンツの人がいつもリングで、互いに殴りあうスパーリングという練習をしているのが、毎日の光景です。
トレーナーさんとビキニパンツさんはいつも練習をともにしています。
トレーナーさんは選手ではないのに、なんで選手のビキニパンツさんと練習しているのかはわかりません。
常にパンチをよけ続けて、まともにもらうこともないので、痛い思いをするのが好きではないようですが。
ふと視線に気づきます。
雨の中、ジムにやって来たトレーナーさんです。
傘も持たずにやってきたのか、髪の毛から靴下まで全身ずぶ濡れです。
「あらやだ。雨もささずに来たわけ? ずぶ濡れじゃない」
「すぐ乾かしますよ。ちょっと離れていてください」
はいはい、とマネージャーさんは事務室に入っていきました。
再び稲光がジムの中を照らします。
トレーナーさんはつま先立ちになり、両手も上に伸ばして、円錐型の体勢になります。
そして、そのままくるくると回転を始めました。
ぎゅいんぎゅいんぎゅいん。
すごい勢いで回転速度は高まり、トレーナーさんを濡らしていた水分がジムの天井、床、窓にびっしゃりと貼りついていきます。
そして、やがてトレーナーさんの身体は床を離れ始めます。
ぴしゃーん、ぴしゃーん、ぴしゃーん。
場を盛り上げるのか、稲光が何度もジムを照らし出します。
そして、徐々に回転速度はゆるまっていき、着地と共にトレーナーさんの回転は止まりました。
先ほどまでズボンと長袖のシャツだった服装も、ハーフパンツと半袖Tシャツに変わっていて、そして両こぶしにはバンテージまで巻かれていました。
顔を上げ、トレーナーさんはボクを自慢気に視線に向けてきます。
ボクがせっかくキレイキレイにしたジムを汚すなんて、いったいこの人は何様なんでしょうか。
「おねがいしまーす」
ビキニパンツさんもジムにやってきました。
そして、トレーナーさんと同じくずぶ濡れでした。
もっともビキニパンツさんはビキニパンツだけなのですし、坊主頭なのでずぶ濡れでも特に困ることはないようです。
「灼熱のっ、ポオォーズ!」
ビキニパンツさんが突然、叫んでマッスルポーズを決めました。
ビキニパンツさんの全身が真っ赤に赤くなり、全身から蒸気が吹き上がります。
「ぶるるるああああああっ!」
雄叫びと共に全身から熱風が吹き上がり、ジムのあちこちから火の手があがります。
「あちっ、あちっ、あちちっちっ」
トレーナーさんの髪の毛や衣服にも火の手があがり、転げまわっています。
「消化班、出動します!」
マネージャーさんが防護服全身フル装備で出てきて、四角いケースから伸びたホースから消火剤をジム中に散布し始めました。
もちろん、その消火剤は私にも散布され、排気口から塞ぎます。
……消火剤の散布は続きます。
ボクの人工知能に……会長さんの、笑顔が……映ります……。
ボクの意識は……、ゆっくりと……暗い……闇の……。
か……ゆ……う…………ま…………。
………………………………。
私がジムに戻ると、そこには真っ白な粉まみれになって燃え尽きているヒカルの姿がありました。
「ヒカルぅ! うごいてくれ、ヒカルぅ! うごいてくれよぉ!」
私はうおおおおおん!と泣き叫びました。
そんな私を三人が冷たく見下ろしています。
許せません。私のヒカルを!
懸命にこのジムのために毎日働いてくれていたヒカルを!
「返してくれよ! ヒカルを返してくれ! この子がいったい何をしたというんだ! この子には何の罪もない! ただ毎日、このジムの中を掃除していただけじゃないか!」
「また新しいのを買えばいいじゃないですか」
私は殴りました。今まで生きてきて、一番力を込めて殴りました。
彼の全身が回転し、扉にたたきつけられ、ガラスに亀裂が入りましたが、そんなことは気にしません。
「おじさん、言う通りじゃない。掃除機ロボットなんてまた買えばいいじゃない」
私は決して女性には手を挙げません。
しかし、しかしです。
「会長、また新しいのを買いましょうよ。代わりなんていくらでも電器屋で売ってます」
プロの選手というのは、ジムにとっての資産です。
そして、私は経営者。
会長というジムの経営者。
経営者たるもの、ジムの資産を棄損させるわけにはいきません。
決して選手の価値を貶めることはしてはならないのです。
しかし! ……しかしです!
「お前らには人の心というものがないのか! 血も涙もないのかよ! ひとでなし!」
私の絶叫がジムにこだまします。
「明日までにネットでいい掃除機探しとくから」
「自分もロードワークついでに家電量販店でカタログもらってきますから」
どうして、どいつもこいつもヒカルをただの機械扱いするのか。
私にはまったく理解できません。
「ところでさぁ、クレープ食べに行かない?」
「え、おごりですか」
「モチのロンよ。おねーさんがおごってあげる」
「やったぁ、ありがとうございます!」
二人は足取り軽く、ジムを出ていきました。
私の瞳から涙が溢れます。
私の悲しみなど誰にも理解してもらえない。
なぜなのか。どうしてなのか。
この大切なものを失った悲しみをどうすればいいのか。
「なんで、誰も、私のこの悲しみをわかってくれないんだ……」
「自分の気持ちなんて所詮、誰にもわかってなんてもらえないんですよ……」
分かったことを言う。
「会長だって、今のこの俺の痛みがわからないでしょ?」
顔を上げると足が曲がり、手が折れて、片目が潰れていました。
どう考えてもたった一発のパンチでここまで重傷になるのはおかしいのですが、それはきっと考えてはいけないのでしょう。
「どんなに傷ついても、人はそれでも立ち上がらなければいけないんです」
彼の口から吐き出された血が、白くなったヒカルに降りかかります。
「失われたものは戻ってこないじゃないんだよ! わかれよ、それを!」
私は彼の胸倉をつかみ、床にその体を押し倒します。
めきめきと彼の肋骨が折れた音がしましたが、そんなもの今の私にとってはささいな問題です。
「またあした……来てください……。本物のロボット掃除機というものを……お見せ……しますよ…………」
そう言って彼は、ごぼっと血を吐いて瞳を閉じました。
彼の身体から流れ出る血液がジムの床を染めていきます。
私の涙が、血で染まる彼の腕に零れ落ちました。
私の慟哭。
それはとても長い時間のようで短い時間のように感じられました。
遠くから響いてくる救急車のサイレン。
きっとヒカルを助けてくれ。と呼んでも来てはくれません。
なぜならヒカルはロボット掃除機。
気持ちはわかりますが、また新しいものを買ってください。と言われるのが関の山。
私を照らす月の光。
とてもやさしく感じられる光。
いつの間にか雨は止んでいました。
……私は立ち上がり、ジムを出ました。
ビルの外に出て、ふと鍵を閉めていないことに気づき、また階段を上って鍵を閉めます。
入口の取っ手を押し引きして、しっかりと鍵がかかっていることを確認します。
ジムの中には血まみれの床の上で手足が折れた重傷者と、消火剤に真っ白に染まってもう動かないロボット掃除機。
誰かがうっかり入ってしまったら、えらいことになってしまいます。
ふと服装を見回すと一滴も血がついていないきれいなものでした。
もう何も考えたくない。
私はおぼつかない足取りでジムを後にします。
どんなに苦しくても悲しくても、それでも夜が明ければ、明日は来てしまうのです。
満天の夜空に浮かぶ大きな月とその星空。
見上げるとそこにはヒカルの顔。
ヒカルは今日、お星さまになったのです。
……元気でな、さよなら。ヒカル。
ボクは夢を見ていました。
それは会長と楽しくジムを掃除する夢。
ボクがフロアをちりとって、会長が窓をふいていく。
ボクも笑い、会長も笑って。
ボクがリングのマットを水拭きして、会長がそれを乾拭きして。
ボクは幸せでした。本当に幸せでした。
そして、それはとても幸せな夢でした。
「それは本当にただの夢だろ」
その言葉にボクは視界を開きました。
「お前が掃除をしていたとき、会長はずっと椅子にふんぞりかえってテレビを見てただけだったじゃねえか」
目の前にはボクの排気口から、血を注いでいるトレーナーさんがいました。
手は折れて、足はねじまがり、胸からは肋骨が飛び出しています。
「でもお前は幸せだよ。ロボットのくせに泣いてくれる人がいるんだからな」
吐血しながらもしゃべっています。
「どうして……」
ボクは驚きました。
「声が……しゃべれる……!?」
「これで血も涙も、お前にはあるだろ?」
「そんな……」
「掃除、頼むぜ。さすがにオレも疲れたよ」
トレーナーさんは倒れこみました。
そして、瞳を閉じ寝息を立て始めました。
「ボクは……」
トレーナーさんの身体が月の光をまとって、ケガだらけの身体が少しづつですが治っていくじゃありませんか。
この人、人間なんでしょうか?
ただでさえ頼りない会長だ。一人でも多くの〝仲間〟が欲しいのさ。
私の人工知能への呼びかけ。
「あなただったんですね」
ゴキブリってのはいい形容だ。でもほんとは忍者衣装なんだぜ、あれ。
トレーナーさんの表情がほんのわずかですが微笑みました。
そして、もうボクの人工知能に話しかけることはありませんでした。
……ボクは、血と消火剤まみれで汚れたジムの清掃を始めました。
明日、ジムに会長さんがやってきたとき、なんといって挨拶をしようか。
会長さんはボクを見て、なんて言ってくれるのでしょうか。そして、どんな風に笑ってくれるのでしょうか。
そんな色々な想像をして、ボクはジムを隅々までルンルン気分で一晩中、掃除を続けたのでした。
続く