【書籍化しました】ご愁傷さま騎士と添い寝令嬢 やらかしを無かったことにした筈が、騎士様は諦めていませんでした
息抜きに書いていました。
お楽しみいただければ嬉しいです。
リリアは大変恐怖していた。
ここは見知らぬ場所、見知らぬ部屋。
見知らぬ家具、見知らぬベッド。
目の前には真っ青な顔で正座する男性が一人。そして同じく正座する自分…女性が一人。
唯一の救いは、二人とも昨夜と同じ正装のまま、脱いだ形跡がないということのみ。
…やらかした。
その言葉が、この場に最もふさわしい。
+++
ことの発端は王太子の婚約発表のパーティーだった。
お相手は幼少期からの恋人である公爵家の長女。二人ともふんわりと穏やかな雰囲気を纏う、本当にお似合いの方々で、本人達よりも招かれた客の方が感涙する程めでたい婚約。
当然夜会の盛り上がりも凄まじく、ボトルの栓が緩くなる。一体何本のシャンパンが一夜で消費されたことか、そしてそれを呑んだ人々がどれほど酔っ払ったことか。
あまりの泥酔っぷりに騎士が駆り出されたのだから、暫くは皆が酒を遠慮することになるだろう。
ここまででだいぶ話が見えてきたであろう。
いやはやその通り。ここにいる二人はその夜会にてあびるほど酒を呑み酔っ払っていた。
時は戻り夜会の終盤。
リリアは流石に呑みすぎた、とテラスにて風に当たっていた。けれど婚約発表の幸福感を伴った酒の余韻は中々冷めず、段々とウトウトし始めたその時。
バタッ、ズッ、ドテッ
背後からの音に何事かと振り返ると、そこには完全に泥酔した男が一人倒れていた。うんうんと何か唸って、ぶつぶつと呟くその姿に、リリアは関わらない方がいいと直感して後ずさった。
しかしその気配に男が気づいたことで、完全に裏目に出たと気付くももう遅い。男がゆっくり顔を上げた。
輝くような美貌、をちょっと怖くした顔の男がリリアを見る。仕立てのいい騎士の礼服、家紋が刻まれたブローチ、気品がある整った顔。明らかに伯爵家のリリアよりも上の貴族の人だ。自分の直感が正しかったと思うや否や、その男はあろうことかリリアの足に抱き着いてきた。
「うぇっ!?」
「きょーは殿下の婚約発ぴょーだろぉ〜〜〜!!なんでおれの婚約のはなしになるんら〜〜〜!!」
そして号泣。泣き叫ぶ姿は恐らく普段の彼とはかけ離れたものに違いない。ヤバいのを見てしまった。リリアは顔を顰めつつその手を振り払おうと足を動かす。だがこの男、中々離さないどころか腰の辺りまでガッシリと掴み、リリアを座り込ませるまで引っ張ってきた。
相手は酔っ払って力の加減が上手くない。こちらは酔っ払って力が出ない。リリアはそっとテラスのカーテンを閉めつつ、自分の将来が終わったなと思い、死んだ魚のような目で男を見下ろした。
「うっ、ううおおおん!!がんばってやっろ騎士になれらのに〜〜!!結婚のことなんれわからねーよおおおん!!ばあがいないと、おれなんもれきねーよおおおん!!なんればあは…ばあは…おれはばあを守りたきゃっらのにぃぃい」
「あ…そういう…お気の毒に…」
近しい人の訃報と結婚の重圧、騎士としての仕事、それら諸々全てが(あくまで憶測だが)重なってしまうとは、なんと哀れな事か。酒に逃げてしまっても仕方がないだろう。
けれどもこの状況は如何ともし難い。サッサと目を覚ましてどこか別の場所で嘆いて欲しい。切実にそう思うのに、男はリリアの膝に頭をピッタリとつけて、母親に泣きつくような体勢でまたしてもブツブツと話している。ドレスに埋もれてしまった為になんと言っているのか聞き取れなかったが、同じような内容だろう。
本当にしょうがない。暫く我慢して、男が満足して離れるまでの辛抱だ。そう思い、哀れみや労いの気持ちを込めて頭を撫でてやると、若干男が反応した。
全く、手のかかる子供と変わらないとは。なんとなく微笑ましく思ったリリアは、ついでにと優しく言葉をかけてやる。
「大変なのですね。でも困難の全てに向き合うのは、誰にでもできることではありませんわ。貴方様はとても努力し、立ち向かわれておられますのね。とても素晴らしいと思いますわ」
「グスッ……ずびび……うう…」
「ですが今日はとてもめでたい日。少しくらい気を緩めても、誰も咎めはしませんわ。さあさ、お顔をお拭きになって。ホールに戻れば、少しは気分も紛れましょう」
「……ははうえが…いるので…いやです……」
「あらあら、ではわたくしがお暇させていただきましょう。ここでなら人目はございませんから、どうか十分にお気持ちを発散なさってくださいまし」
「…一人になりゅのも…いやです……お願いです、もっとここにいてくらさい……お願いしましゅ………」
「あらあら……」
リリアは苦笑しながらハンカチを取り出して男の頬を拭く。まあ今日くらいはいいか。呂律も最悪な彼を一人放置するのは確かに気が引ける。おかしな事になってしまったが、お互い酒に溺れた身。仕方がないと許して貰えるだろう。多分。
そういうわけで男を膝に乗せたまま、リリアはテラスに寄りかかり、膝枕の体勢をとった。この様子ならすぐに寝落ちするだろうから、そうなった後に彼の母上を呼ぼう。
と、名前すら聞いていないのにどうやって探すのか等々をすっぽ抜かして考えてしまっているリリアは、自分が大変酔っている事すらすっぽ抜けていた。
それから暫くして、男はスヤァと眠りに落ちた。こんな場でこんなドレスで高貴な男性に膝枕。自分までもウトウトし始めたリリアは、完全に冷静な判断力を失っていた。
そのせいで、決定的な過ちをしでかしたのである。
そう、騎士達に発見されたのだ。
幸いにも彼等は事情を察して、互いの家族が迎えに来るまで、場内の客室で休む事を提案してくれたのだが、何をどう間違えたのか、リリアはこの状況を自分の家族に伝えられるのはまずいと思ってしまい、咄嗟に両親にも許可をとっているから近くの宿で休む、そこまで送って欲しいと出鱈目を訴えた後、コテンと眠りに落ちてしまった。
そしてこの有様である。
目が覚め、見知らぬ場所と男に気づいたリリアは真っ青になり、なんとかベッドから逃げ出し、ここから逃げ出し、これを隠蔽せねばと戦々恐々としていた。しかしまたもやその気配に気づかれ男も目を覚ましてしまった。彼も瞬時に状況を理解し青い顔をした。けれどすぐサイドテーブルに置かれたメモに気付いた男はそれを読み、そしてリリアに手渡した。
そのメモを見れば分かることだが、騎士は大変有能だった。秘密の関係にある二人が、この夜会に乗じて逢瀬を望んでいるのだと思い至れる程の洞察力があった。
そういったわけで、王都にある高級な宿の部屋を代わりに借りて二人をベッドに並んで寝かせ、簡単なメモを残し、後はごゆっくりと静かに去ったのだ。
一つ、決定的なミスを除けば…この二人が互いの名前すら知らない赤の他人同士であるという事実に気付けというのも、土台無理な話だが…完璧な対応である。
以上、目眩がするような事の次第を読んだリリアは、数秒かけてようやくこの状況を理解した。間違いは起こっておらず、最悪の事態の回避はできたのだと。一瞬安堵したが、すぐにいやダメだろと思い留まりメモを読み進め…最後にとんでもないことに気づいてしまった。
メモの最後には、とある名前が記されていた。「親愛なるレイモンド・ホーラス殿へお祝い申し上げる」と。
おわかりいただけただろうか。
ここにいる男の名はレイモンド。レイモンド・ホーラスということだ。そしてホーラスと言えば、昔から様々な形で国王に仕え、その功績を称えられる公爵家の名。
公爵家の名。大事なことなので三回言います、公爵家の名。
そしてレイモンドは…。
公 爵 家 の 次 男 で あ る。
二人は恐る恐る目を合わせると、同時に土下座の用意…正座をした。リリアはレイモンドを、レイモンドはリリアを止めたために、まだどちらの土下座も行われていない。
互いの青い顔をみながらの膠着状態。
そして冒頭に至る。
+++
沈黙を破ったのはレイモンドだった。
「その…昨晩はご迷惑をお掛けして申し訳なかった。騎士にあるまじき失態をお見せしてしまい…挙げ句の果てにこの様な事態に巻き込んで…どうお詫びすれば良いか」
何と哀れなことか。レイモンドは泥酔しても記憶が残るタイプの人だったようだ。同じく覚えているリリアからすれば、あれは失態と言うより醜態だろうと思いつつ、それを言ってしまったら彼が更にかわいそうになるので言葉を飲み込んだ。
しかしお互い記憶があるというのは怪我の功名である。途中で寝落ちした彼が自分に対して無体を働く事は不可能だと、双方共に証明できる。騎士が見ていたので尚更。
両家の名を傷つけることは無いとわかれば、自分がここにとどまる理由はない。そう結論づけたリリアはサッとベッドから降り、退散しようとして…崩れ落ちた。
「どうなさいましたか!?」
「失礼しました…足が痺れて…」
羞恥で涙目になりつつも再度部屋を出ようとしたリリアを、レイモンドが呼び止めた。
何かと振り向けば、彼は苦い表情で姿見を指差した。
そちらを見て…またもやリリアは膝から崩れ落ちた。
煌びやかな、しかし落ち着きがあり明らかに高価なドレスはシワができており、ボサボサの頭はリリアのピンクゴールドの髪が大変元気に飛び跳ねており…極め付けは崩れた化粧が目の周りに、威嚇する様な黒い色を塗りたくっていた。それはまるでどこぞの民族の化粧のよう。
つまりはなんというか、伯爵家の令嬢とはとても思えぬ状態になっていた。サッサとここから逃げたいのに、これでは人目につくどころか下手をしたらお縄になってしまう。
orzの体勢で嘆くリリアの元へ、レイモンドが駆け寄る。
「ああ…どうすれば…」
「大丈夫、ここは私にお任せください。ええと…」
「…リリアです。リリア・グレイシスです」
「では、グレイシス嬢。少しお待ちいただいてもよろしいか?」
「え、ええ。構いませんわ」
戸惑いつつもリリアが頷くと、レイモンドは部屋を出て行った。下で何やら騒がしい音がしたが、すぐにレイモンドは部屋に戻ってきた。
宿の主人に簡単な服を用意して欲しいと頼んできたそうで、数分もしないうちに部屋の戸が叩かれた。
レイモンドから奥に隠れてとジェスチャーされたので大人しくしていると、服を持ってきてくれたらしい男性とレイモンドの会話が聞こえた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ああ、朝早くからすまない。それからすぐにここから出立したいのだが、馬車はあるだろうか」
「ええ勿論です。すぐにご用意しますので、少々お待ちくださいませ」
(馬車!助かった…)
高いヒールの履きっぱなしで足を痛めていたリリアには素晴らしい朗報だ。それにしても、馬車を待機させているとは…高級な宿はレベルが違う。感心していると、レイモンドがリリアに服を渡してくれた。化粧を落とすクリームも一緒に。
部屋にある浴室でサッと化粧を落とし髪を整えて着替える。王都の伯爵邸の中でいつも着ている服と同じ作り。
(この宿はリピート確実ね)
若干心の余裕が戻ってきたリリアは、深呼吸をして浴室を出る。レイモンドは剣や所持品の確認をした後、リリアのドレスを宿主に用意させた鞄に隠す。此方もかなり調子を取り戻したようで、とても手際が良かった。
対応力の高さは騎士であるが故だろう。不謹慎ではあるだろうが、相手が彼で良かったとリリアは思っていた。
それからの流れは以下の通りである。
まずリリアが宿を飛び出す。あからさまに泣きながら。それを追ってくるレイモンド。二人は何かを言い合い、最後にはリリアがレイモンドの手を拒絶。諦めた様子でレイモンドがリリアを促し馬車に乗り込みここを発つ。
はたから見れば身分差カップルの痴話喧嘩。貴族と庶民の恋はロマンがあるが、側室等の話で縁を断つケースも山のようにある。今回もその流れを汲むわけだ。
馬車で伯爵邸の近くまで行き、レイモンドが手切れ金っぽく鞄を渡す。それを引ったくって、リリアはそそくさと伯爵邸の裏に行って柵を越えダイナミックただいまをして終了。
これならば、もしバレても喧嘩別れで済む。
+++
と、面白いくらいにうまくいったのが一昨日の話。
正直思い出したくない記憶ではあるが、とんでもないことをやらかしてしまったと自負しているリリアは、謹慎処分のつもりで部屋に篭って黙々と刺繍をしていた。刺繍は死ぬ程苦手だ。だからこれは罰なのだと自分に言い聞かせ、指を動かしていれば思い出す隙が減るという現実逃避を誤魔化していた。
だが、その罰…現実逃避はすぐに出来なくなった。
なぜならば現在進行形で、伯爵邸の客間には何故かレイモンドがいるからだ。しかもその両隣に彼の両親、背後には数人の騎士がずらりと並んでいる。その見た目といい重圧といい、こんなちっぽけな伯爵邸にはオーバースペックすぎる。
お客様がいらっしゃったとだけ聞いていたリリアの母は客間のドアを開けた瞬間卒倒した。父はなんとか堪えたが妻を心配する体で部屋から逃げた。
残ったのはリリア一人(と若干遠い目をした執事)。
リリアは両親にあの日の事を伝えていなかった。正直に言ってしまったら2人共卒倒して寝込んでしまいかねないと思ったからだ。朝帰りになったのは友人の家で二次会をしていたのだと嘘をつき、口裏合わせを願う手紙を友人達に送っていた。
リリアなりにかなり頑張って隠していたのだ。
だがそれら諸々の努力は今無意味なものと化しつつある。何故ホーラス公爵の方々がここにいるのか。そんなのあの一件に決まっているだろう。完全にバレてる。ああ、両親になんといって説明すればいいのか…。
脳内はパニック状態だが、ここで無礼を働き、既にマイナスになってるであろう好感度をこれ以上下げるわけにはいかない。震える手足を誤魔化しつつ、リリアは何とかカーテシーを行う。
「お初にお目にかかります、ホーラス公爵様、公爵夫人様、御子息様に、騎士団の皆様」
「突然押し掛けてすまない、グレイシス嬢。私はシュタイン・ホーラスだ。そちらが私の妻のエメラティ、そしてこれが愚息のレイモンドだ」
「シュタイン様、エメラティ様、…レイモンド様。お目にかかる事ができて光栄ですわ。わたくしはリリア・グレイシス。グレイシス伯爵家の長女です。よろしければ、どうぞお見知りおきをお願いしますわ」
「ああ勿論だとも。さあ、座りたまえグレイシス嬢…いや、リリア嬢よ」
「ありがとうございます」
リリアは何とか対面のソファーに腰を下ろした。すかさず執事により紅茶が出され、公爵様が脚を組み、公爵夫人様がニコニコしながらカップを持つ。
これは完全に長話の態勢。助けを求めるつもりでレイモンドを見ると、何やら息苦しそうに俯いてしまった。逃げ道がない。公爵様方はあの夜の事をお咎めに来られたに違いない。けれど起こってしまったことは事実。それならばせめて、誠意を持って罰されるべきだろう。そう思ってリリアは腹を括ってまっすぐ姿勢を正した。
「改めまして、ようこそおいでくださいました。公爵様方にご足労いただき大変ありがたく存じます。そして、わたくし共のご無礼をお詫び申し上げますわ。ここまで足を運んでいただいたこと、お出迎えの準備ができていなかったこと、どうかお許しくださいますよう願います」
「お気になさるな、何の連絡もなしに来た私達に非がある。詫びと言ってはなんだが、当家自慢のクッキーを贈らせてくれたまえ」
「まあ…ありがとうございます。この香りはクッキーのものだったのですね」
シュタイン公爵が箱をリリアに手渡す。この状態でも香りがわかるということは、恐らく焼いてからあまり時間が経ってないのだろう。勘付いたリリアの様子を見て、シュタイン公爵とエメラティ夫人の視線が交差した。それに気づかずにリリアは執事に箱を手渡し、この場にお菓子の用意をと言付けた。
執事も去り、舞台は整った。
どうか命だけは助かりますようにと願いつつ、リリアは言わなければならない言葉を口にした。
「それで、本日はどのような御用件でお越しになられたのでしょうか」
「うむ、どうやらリリア嬢も気付いているようだな。率直に言うと、我々の用は婚約発表パーティーにて、愚息がリリア嬢に大変な迷惑をかけた事に関連している」
先程から一貫して愚息呼ばわりされているレイモンドが気の毒に思えてくる程、シュタイン公爵の空気は手厳しい。それにリリアもただの被害者ではない。それを説明しなくては、宿から出る際、助けてくれたレイモンドに申し訳ない。
リリアは首を横に振り、緊張で声が裏返りかけつつも必死に話した。
「お待ち下さい、シュタイン様。誤解がございます。確かにレイモンド様は泥酔しておられましたが、それはわたくしも同じでした。ですがその程度は明らかに差があり、適切な対応が可能であったのはわたくしの方だったのです。あの様な事態になったのは、わたくしの失態ですわ」
震える手をぎゅうと握り、真っ直ぐにシュタイン公爵を見つめるリリア。その時ようやくレイモンドが口を開いた。
「落ち着いてください、グレイシス嬢。我々は貴女を責めにきたのではないのです。どうか気を楽にしてください」
「えっ…?」
思わぬ言葉に一瞬固まるリリア。そこへ畳み掛けるように、今までだんまりをきめこんでいた後ろの騎士達が、一斉に頭を下げこう言った。
『どうか、我等の隊長をお救い下さい!』
+++
レイモンド・ホーラスにはある悩みがあった。
それが始まったのは、騎士になってすぐの頃。朝から晩までの鍛練によって程よく疲労したレイモンドは、明日に備えてしっかり休まねばとベッドに入った。しかし待てども待てども眠気がやってこない。寝返りをうったり少し起き上がったり、色々試してみると逆に目が冴えてしまう。目を閉じて横になっているだけでも疲労回復はすると言うが、全く回復した感じがない。
最初は環境の変化によるストレスのせいだろうと医師は言っていた。レイモンド本人も、心身共にストレスを溜めている自覚があった為、慣れてしまえばそのうち自然と治るだろうと思っていた。
しかしその考えが甘かったと、乳母であったばあがいなくなってからレイモンドは後悔した。ずっと世話になってきて、実の祖母の様に慕っていたばあが、遠くへ行ってしまった。その喪失感はとてつもなく、レイモンドは鍛練に没頭することで自らを保っていた。
皮肉な事にその無茶な鍛錬のおかげで、レイモンドは小隊長になった。異例の早さの昇格。周囲は期待の若者だと彼を褒めそやしたが、それはレイモンドに追い討ちをかけることになってしまった。
新米の騎士の時は、どれだけ鍛錬をしようがローテーションにより強制的に休みをとっていた。だが小隊を連れて任務に行く様になってからは、休みなどほぼなくなった。いや、休むべき時間を鍛練に使えるようになってしまったのだ。結成された小隊が少数精鋭部隊であったことも災いした。
そんな生活が続くわけもなく、レイモンドは倒れてしまった。強制的に実家である公爵家へ連れ戻され、治るまで復帰は認めないと、騎士団長から直々に命令書が来たそうだ。
やっと一安心かと思いきや、長く続いた不眠症が簡単に治るわけがない。ばあがいればレイモンドの体調を事細かく見極め、フォローができたであろうが、すでに遠い人となってしまった彼女ほどレイモンドを理解している人間はおらず。結局限界まで疲労を溜め込み、気絶する様に眠る日々がひと月続くハメになった。ようやく公爵家が事の重大さに気付き、本格的に治療をせねばとするも遅すぎた。
レイモンドの不眠症は彼の体に深く根付いてしまっていたのだ。最早往診では対応できぬと医師に言われ、公爵家はレイモンドを国一の病院に入院させる事を決めた。騎士団に復帰できない可能性を考え、レイモンドは治る見込みがなければ騎士団を辞するつもりであり、そうなった場合は小隊の今後をよろしく願う旨を記した手紙を団長に送った。
そして入院するタイミングを王太子の婚約発表の直後に定め、騎士としての最後の舞台になるやもしれぬパーティーで楽しむだけ楽しんで幸福な思い出にしようと、ある意味やけっぱちでハメを外した。
そうして出会ったのが、リリアだったのだ。
あの夜、デロンデロンに酔っ払ったレイモンドは、母であるエメラティに呆れられつつ叱られていた。こんな恥を晒しては、騎士に復帰するどころか結婚すら怪しくなる。もういい歳なのだから、貴方もさっさと良い女性を見つけて今後に備えなさい。あの方はどう?あのお嬢さんは?と、この様な感じで。
エメラティ夫人からすれば、レイモンドが騎士でなくなったとしても、ホーラス公爵家は彼を見放さないという温かな意味合いを含めた説教だったのだろう。
しかし26まで騎士を目指して生きてきたレイモンドが女性の事…ましてや結婚のことなど分かるわけがない。加えるなら言葉の裏を読み取る能力もほぼない。酔って感情的になっていたレイモンドは唐突に泣きだして、唖然とする夫人から逃げだし、誰もいないであろう真っ暗なところ…つまりあのテラスに辿り着いたのだった。
そこから先はリリアもレイモンドもしっかり記憶している。
突然泣きつかれて戸惑いつつも、リリアは優しい言葉をかけ、膝を貸して、数ヶ月ぶりにレイモンドを眠らせた。
宿でレイモンドが目覚めた時、彼を一番仰天させたのはやらかした事ではなく、自分が眠っていたという事実だったわけである。
+++
「あの時は貴女も私も、何事もなかった事にするので精一杯だった。けれどグレイシス嬢は、私を救って下さる女神かもしれないと…そう思うとどうしても貴女を忘れられなかった。秘密を漏らした事、貴女の気遣いを無駄にしたこと、私の持てる全てをもってしてお詫びする。だから…だから、どうか…」
茫然とレイモンドを見つめるリリアに向かって、彼はガバリと頭を下げた。
同時に、気を取り直したリリアの父が、未だ具合が悪そうな妻を支えながら客室のドアを開けた。
部屋に威勢の良いレイモンドの叫びが響き渡った。
「どうか、私と一緒に寝てください!!!」
リリアの母のみならず父までもが、声も出さずに卒倒した。
+++
互いに事情を把握し合った公爵家と伯爵家は、数日間レイモンドを伯爵家で預かり、本当に眠れるようになるのか確かめるところから始める事にした。
リリアがそういう事情があるのなら協力をしたいと申し出たからである。どのみち公爵家や騎士からの依頼とあれば断るわけにはいかないし、何よりレイモンドには恩がある。
それにクッキーの熱。レイモンドが一昨日の事を話したのは、本当にギリギリまで悩んだ後だったのだろう。普通なら高級品を贈って、命令に近い体で頼むべき案件の筈が、クッキー。
でもそれで良かったとリリアは思う。病に立ち向かう相方が金で釣られた人だなんて、レイモンドの心境にとどめを刺しかねない。実際、公爵様方に置いていかれた彼の表情は、死地に向かう戦士の様であるのだから。
「レイモンド様、そのように構えられては、色々とやり辛いのではないですか?その目の隈…あの日以降も眠れていなかったのでしょう?」
「え、ええ…ですが、この様な無理をお聞きいただいている身ですし、その…」
「なんでしょう?」
「…リリア嬢には、迷惑ばかりかけて…それに、貴女にも思う方がおられるでしょうに、私の様な身分だけが高い男の面倒を見ろなど、本当に…申し訳なく…!」
「あらあら、それを気になさってらしたのですね。お気遣い感謝します。ですが大丈夫ですわレイモンド様。わたくしには決まった方もおりませんし、想う男性もおりませんの。それに、あの日わたくしを無事家に送り届けていただいた御恩をレイモンド様に返せるのですから、寧ろわたくしにはありがたいお話なのです。さあさ、まずはお着替えなすってくださいまし。礼服のままでは寛ぐこともできませんわ」
「あ、ああ…いや、はい…」
「それと、レイモンド様。どうか普通に話されてください。あの日の様な話し方のほうが、わたくしは好きですから」
「……そ、そうか…」
今にも死にそうな顔をしたり、青くなったり、赤くなったり、おかしな方だと思いつつも、リリアは彼との再会を喜んでいる自分に気づきつつあった。
その後、リリアの父から服を借りたレイモンドは、少し窮屈そうに袖をまくって、その動作でシャツのボタンが弾け飛ぶというハプニングに見舞われた。騎士の体格には、運動が得意ではない伯爵の服が小さすぎたのだ。堪えきれず伯爵夫人が笑ってしまって、本人達以外には楽しい一幕となった。
執事が大きいサイズの服を購入してきて、ようやく寛ぐ用意ができたレイモンドは、リリアに連れられ屋敷の中を案内されることとなった。
当然だが、王都の伯爵邸は公爵邸に比べればうんと小さい。
祝い事がある時と社交シーズン以外では、避暑くらいにしか訪れない為、最低限の設備しかないのだ。だがそれで十分事足りるので、リリアにしてみれば家庭的なリゾートホテルと言えるほど気楽な場所だったりする。
レイモンドは驚くだろうかと思っていたが、意外にも反応は好感触だった。聞けば、確かに公爵邸は豪華だが広過ぎて面倒だとか。騎士団の宿舎の方が過ごしやすいとまで言われれば、この反応が気遣いではなく本心だと分かる。
「ここがレイモンド様のお部屋ですわ。少し年季が入っていますが、清潔にしてますのでご安心くださいな」
「…凄いな、本当にホテルの一室のようだ」
他の者が聞けば失礼な感想であるだろうが、この伯爵邸においてはこれ以上ない褒め言葉である。実際、平民が利用しているホテルを参考に整えているのだから。少し狭い部屋に、机と椅子、小さなキャビネット、1人掛けのソファ、ベッドが程よい間隔で配置されており、バルコニーからは可愛らしいサイズの庭園が見下ろせる。
公爵邸だと、一つの部屋に風呂や手洗い場、クローゼットに食卓までもが全て揃っており、部屋から出ない事が日常的らしい。他の貴族には羨ましい設備なのかもしれないが、レイモンドとリリアの意見は「落ち着かない」で一致した。
その後案内したリリアの部屋と両親の部屋はさらに簡素で、特に本当にベッドしかない寝室にレイモンドは感心していた。着替えはどうしているのかと聞かれたので、リリアは地下にある家族共有の倉庫も案内した。倉庫、というより雑多な物置部屋という方が正しいだろうか。最低限のドレス、礼服、装飾品は伯爵の執務室で厳重に保管されているが、それ以外の服はここにまとめて置かれている。これにもレイモンドは感心していたので、リリアは公爵邸のクローゼットの規模が気になってきた。恐らく…落ち着かない程なのだろう。
一通り歩いた後、改めて伯爵家とレイモンドは食堂のテーブルを囲んだ。公爵家からの焼き立てクッキーに舌鼓を打ちつつ、リリアがレイモンドと共に夜会での出来事を打ち明けると、意外にも両親二人は落ち着いて納得していた。様子のおかしなリリアの謎が解けてスッキリしたようで、レイモンドに礼をできれば嬉しいとまで言ってくれた。特に父はレイモンドを相当に気に入ったようで、彼の不眠症が治るまで力添えをすると張り切っていた。
+++
夜になり、リリアはレイモンドと共に彼の部屋にいた。
成人した男女がこんな時間に同じ部屋、というのはもうそういう関係だとしか言いようがないのだが、二人は数少ない例外であり、実際甘い雰囲気は皆無だ。
「レイモンド様、あまり気を張らないでくださいね。今日眠れずとも、明日も明後日も、わたくしはお付き合い致しますわ」
「本当にありがとう、リリア嬢。貴女の言葉を聞くと、なんだか…心が随分軽くなる。これだけでも貴女を頼って良かったと思えるのだ」
「ふふふ、嬉しいお言葉をありがとうございます。でも気がはようございましてよ。病気が治られるまで、お礼はしまっておいてくださいな」
リリアは楽しげに笑い、レイモンドも微笑みを返す。十分リラックスはできているようだと感じたリリアは、まず不眠症の原因を探るべきとの考えを伝えた。彼は同意してくれたが、心当たりがありすぎて自分ではわかりそうにないらしい。
「ならば共に考えましょう。ですがその前に、わたくしはレイモンド様の事をあまり存じません。まずはそのお心の重みをお聞きしてもよろしいでしょうか。眠りを妨げてしまう原因のヒントがあるやもしれませんわ」
「ああ、だが…何から話せば良いだろうか」
「あらあら、そんなにあるのですか?では、あの夜会で、レイモンド様が仰っていた事を、詳しく教えてくださいな」
ベッドの上で、向き合って、話をする。
リリアが最初に聞いたのは「ばあ」の事だったのだが、衝撃的なことに、なんと彼女は亡くなったのではなく、文字通り遠くへ──この国からだと二ヶ月かかる地へ──旅に出てしまったのだそうだ。何でも、人類未踏の秘境温泉を探すツアーに応募して当選したらしい。レイモンドが騎士になって世話が必要なくなった為、思い切りよくガッツリ休みを取って旅立ったそうで、レイモンドは帰省するまでそれを知らなかったのだとか。
そりゃあ…ショックだろう…。守ろうとしていた乳母が、人類未踏の旅…騎士になるより逞しい…。
リリアは気の毒過ぎるそのストーリーに同情し、レイモンドの頭を撫でてやった。その時、変化が起こった。
レイモンドが体勢を崩し、リリアにもたれるように倒れて来たのだ。驚いて名を呼ぶと、眠たげな声がそれに応えた。
「…お疲れが溜まっていたのですね。わたくしも眠たくなってきておりました。レイモンド様、先におやすみなさいませ」
「…………おやしゅ………」
聞こえるかギリギリの声でそう呟くと、レイモンドはスヤァと眠りこんだ。リリアは目を丸くしてそれを見守る。
…本当に、不眠症なのか?こんなに安らかに寝ているのに。
そう思ったが、嘘でもリリアは怒る気にならないだろうなと微笑んだ。彼との時間はとても心地良い。もっとたくさん話をしていたい。そう感じているから。
やがて自分も眠たくなってきたリリアは、レイモンドを起こさぬよう気をつけながら横になった。寝る直前までレイモンドの頭を撫でていたからか、その日は犬と遊ぶ夢を見た。
翌朝、二人は伯爵夫人によって起こされた。
事情を知っていても心臓に悪い光景だと青い顔で告げられたリリアは、確かにそうだと思い謝ったが…レイモンドの事を考えると、そばで見守っていたいと意見を通した。絶対に間違いは起こさないので許して欲しいとレイモンドにまで頭を下げられた夫人は、渋々許してくれた。
そして昼にエメラティ公爵夫人が様子見に訪れたのだが、レイモンドの顔色ひとつで成功を確信したらしい。愛する息子を抱きしめて、リリアに感謝の言葉を述べた。その後、用事を終えたシュタイン公爵も喜ばしい結果にホッとしたようであった。
「レイモンド、お前はもうしばらくグレイシス家にお世話になった方が良いだろう。不眠症の原因を調べ、取り除くことは確かに大切だ。根本的な解決をしなくては意味がないからな。だがハッキリ言うが、お前は心身共に壊れる寸前だ。そのような状態では何をしても意味がなかろう。まずは体を休めて、体力の回復を最優先にするよう努めよ」
「はい、父上」
「リリア嬢、改めて御礼申し上げる。愚息ではあるが、レイモンドは失うには惜しい人材だ。眠れぬ病との戦いに希望をもたらしてくれた貴女への感謝は、どの言葉を尽しても言い表せぬ。私の不甲斐なさを許して欲しい」
「いいえシュタイン公爵様、どうかお気になさらないでくださいまし。そのお心を表した言葉こそ、わたくしにとって最上の褒美でございます。ご期待に応えられるよう、レイモンド様の回復を精一杯お手伝いしますわ。…それに、今のわたくしは、ご依頼やご恩返しの為ではなく、己の意思でレイモンド様を助けたいと思っているのです。このような傲慢な考えを、どうかお見逃し願えませんでしょうか」
「…うむ」
やりとりを楽しげに見守っていたエメラティ夫人が、リリアの言葉を聞いてニコニコしている。レイモンドは気づいた。リリアが完全にロックオンされたことに。
「リリア様は本当に誠実で、利口で…素敵なご令嬢ですわねえ…。良いですかレイモンド、しっかり病を治しなさい。そしてリリア様をお守りするのですのよ。…リリア様」
「はい、エメラティ様」
「この子をどうか頼みます。鍛練ばかりで面白みのない息子ですが、貴女を守る立派な騎士になると、私は確信していますのよ。息子が失礼をしたらすぐ私に言ってくださいな。頼ってばかりでは私も夫も収まりが悪いですしねえ、ね?」
エメラティ夫人は一瞬シュタイン公爵とアイコンタクトをし、リリアに向かって華麗にウインクをして見せた。
レイモンドに良く似た絶世の美女による可愛らしいその仕草。思わずときめいてしまい、リリアの顔が赤くなる。
その後の話し合いで、レイモンドが全快するまでの間、リリアは母と共に王都の伯爵邸に残る事になった。リリアの父は領地に仕事があるので戻る。伯爵邸の安全性はレイモンドがいる事もあり保たれるだろうし、公爵邸と近い方が何かと助かるからとリリアは父を説得した。
「ではレイモンド、また来るまでにしっかり養生しておくようにな」
「リリア様とユリス様を、カート様の代わりにしっかりお守りしなさいね」
「承知しました、父上、母上」
「またお越しくださいませ、シュタイン様、エメラティ様」
伯爵家はレイモンドと並んで二人を見送った。
正確には彼らの姿が馬車に消えるまで、動けずにいた。
「…凄かったわね…」
「ああ…流石は、美貌と智勇のホーラス公爵御夫婦だ…」
カート伯爵の呟きに、リリアは思わずレイモンドを見上げた。
彼は肩を竦めてそれに応え、子供っぽく苦笑した。
+++
その後、リリアはレイモンドと二人でティータイムを楽しんだ。話題は勿論、お互いの家族の事である。
レイモンドの家、ホーラス公爵家は様々な人材が生まれ育つ。
シュタイン公爵は宰相を務めており、王家が関わる行事には必ずエメラティ夫人と共に出席する。エメラティ公爵夫人は社交界にてその美貌を崇められており、その存在感のみでその催しの質を跳ね上げる。正に、美貌と智勇の夫婦。
長男は現在城にて大臣となり、シュタイン公爵の跡継ぎとして日々研鑽を重ねている。
三男はレイモンドの三つ下だが、王城のシェフに弟子入りしてもう8年近く経っており、既にいくつかのメニューを任されているのだとか。
レイモンドの姉の長女は、フラーチス公爵家の長男と結婚しており、既に一児の母。ちなみに、先日王太子と婚約した女性はフラーチス公爵家の長女である。
末っ子である次女はあまり表に出ない恥ずかしがり屋だが、とんでもない本好きで、王立図書館から司書にならないかと熱心な勧誘を受けているそうだ。
ホーラス公爵家の話は前から知っていたが、改めて説明されるとその才能の多彩さに驚いてしまう。
公爵家を継ぐのはレイモンドの兄なので、彼はそこまで結婚にこだわる必要はないのだと知り、リリアはなんとなくホッとした。
公爵家の話の後だと何の面白みもないのだが、リリアもグレイシス伯爵家の話をした。
父のカートと母のユリスは社交パーティーで出会い、結婚。
子供は兄のミエルと妹のリリアの二人。兄はまだ結婚していないが、婚約者がいる。すでに一緒に領地の伯爵邸で暮らしているので、リリアは彼女をお姉様と呼び慕っており義姉妹の仲はとても良好である。
そしてリリアは先日5歳になった従兄弟のラシウスの話も付け加えた。カートの甥っ子で、よく遊びに来るのだ。リリアにとっては従兄弟というより息子のような存在なので、子供をあやすテクニックはそうやって磨かれたと言うと、レイモンドは成る程としきりに納得していた。
リリアとレイモンドの会話は途切れる事なくすっかり日が傾き始めるまで続いた。それでも話し足りず、二人は自然と共に時間を過ごすようになっていった。
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それからひと月。
いつも通りレイモンドの部屋で目を覚ましたリリアは、テラスへと顔を出す。そこでは剣の素振りを行うレイモンドがおり、こちらに気づくと爽やかに微笑んだ。
「おはようございます、レイモンド様。お加減はいかがでしょうか?」
「おはようリリア嬢。この通り、良好だ。剣の腕はすっかり鈍ってしまったが、体調は前以上に良くなっている。少なくとも暫くは倒れる心配はないだろう」
「それはよかったですわ。わたくしの支度が済みましたら、朝食にいたしましょう。お母様にもお声がけしてきますね」
「ああ。私も湯浴みをしてくる」
リリアは伯爵夫人の部屋へ行き、その後自室にて着替えを済ませた。この習慣に落ち着いたのは、レイモンドを迎えてから一週間が過ぎた頃。
最初は伯爵夫人が心臓に悪いと顔色と表情で訴えていたのもあり、リリアはレイモンドが眠ったら自室に戻ることを試したのだが、どれも途中でレイモンドが目覚めてしまったのだ。彼が起きてしまったことに気付いた執事が、とても放ってはおけぬ状態だとリリアを起こして伝え、非常に申し訳なさそうなレイモンドをもう一度眠らせる、といった事が三日続いた。
これを聞いた伯爵夫人は心臓云々を言っている場合ではないと覚悟を決め、二人の添い寝を受け入れた。
すると一気に快適なルーティンが整ったのである。
レイモンドが宿舎での生活習慣を維持していた事もあり、彼の目覚めに合わせてリリアが起床。鍛錬を終えるまでに伯爵夫人を起こし、支度し、食堂に集合すると、これが良い具合に朝食の時間となるのだ。レイモンドもだが、女性二人も段々と体の調子が整い、率直に言えば肌が綺麗になった。ピッカピカのモッチモチである。ついでに言えば体重もいい感じになった。
健康な状態であると、人は心も回復しやすい。不眠症で半ば自棄になっていたレイモンドは、本来の真面目で穏やかな性格へと落ち着いていった。少し怖めな美貌もキラキラ度が増した。
最も、彼の醜態をこれでもかと目撃したリリアには、その魅力が半減されてしまっている。こんな整った顔で「おやしゅ」とか「いやでしゅ」とか言っていたのだから当然だ。
閑話休題。
現在食堂にて、メイドお手製のホカホカパンケーキに蜂蜜をたらしながら、三人は今日の予定を話し合っていた。
「いよいよ明日ですねレイモンド様。この様子であれば、治療も次の段階へ移れそうに思いますが、いかがでしょう」
「私もそう思っています。リリア嬢に頼らずとも眠れる様になっていれば、もっと良かったのですが…」
「いいのですよ、何しろまだひと月しか経っていないのですから。半年以上の病ですもの、難しくて当然ですわ。リリアもわたくしもそれを踏まえてレイモンド様を迎えたのですから」
一昨日くらいから、レイモンドはリリア抜きでの入眠を試してみているのだが、結果は残念に終わっている。
伯爵夫人が優しく微笑み、励ましの言葉をかける。今では自分の息子同然にレイモンドと接するようになった夫人は、彼の心が少しでも癒されるようにと、リリア以上に試行錯誤をするようになりつつある。
ちなみに、ユリス夫人とエメラティ夫人はとてもとっても仲良くなった。二人して包囲網を作りつつある事に勘付いているのはレイモンドのみ。けれどそのレイモンドも何もしないでいるので、彼の気持ちは推して知るべしである。
「お気遣いありがとう、ユリス様。…お二人はいつも、私の心を明るくしてくれます。ここに来れて…いえ、グレイシス家の方々と出会えて、本当によかった」
「あらあら、それはわたくし達も同じですわ、レイモンド様。お母様もわたくしも、貴方が来てくださってから、毎日が楽しくて仕方がないのです。ねえ、お母様」
「ええそうね、リリア。街に出向いてお買い物をするのなんて、何年振りだったかしら。騎士の方々とお食事したのもとても楽しかったわ。そうそう、エメラティ様とお出掛けしたのは本当に夢みたいで…ふふふ、とても贅沢な時間でしたのよ」
「それは良かった。母も同じように喜んでましたよ。色違いのブローチを買ったのを今でも自慢されるんです。おそらく明日もでしょうね…」
レイモンドの目が若干遠くなる。ひと月の間、何度か公爵家と伯爵家は訪問し合っていたのだが、エメラティ夫人はその度にレイモンドを捕まえて自慢し、手紙でも自慢し、挙げ句の果てにはシュタイン公爵から「たすけて」との手紙が届いた。
いや、わかっているのだ。エメラティ夫人は暗に「リリアに婚約指輪を」とせっついているのだと。でも嬉しかったのも本心なのだろう。美女過ぎるエメラティ夫人には、同年代の友人がいなかったのだから。
だがきっと、明日の自慢は最後の一押しとなるに違いない。レイモンド自身も、騎士としてしっかり婚約を申し込むべきだと思っている。正直情けないところばかり見せているので、せめて告白くらいは、リリアをときめかせたいのだ。
そのために、騎士団の既婚者に手紙でアドバイスを貰ったり、カート伯爵にプロポーズの時のことを聞いたり、色々と勉強してきたのだから。
サッと、レイモンドとユリス夫人の視線が繋がる。
ユリス夫人は「いける。OK」と瞳でゴーサインをだした。
レイモンドも「OK、信じる」と頷く。
リリアは大きめのパンケーキを切り分けるのに集中していた為、そのやりとりには気づかなかった。
ごほん、とレイモンドは咳払いのフリをした。
「リリア嬢。もしよければ今日、私と街へ買い物に来てもらえないだろうか?」
「ええ、ぜひお供しますわ。お母様は?」
「わたくしはエメラティ様への贈り物を仕上げたいからご遠慮するわ。お二人で楽しんでらっしゃいな」
「ありがとうございますユリス様。リリア嬢、紹介したいレストランがあるので、そこで昼食をご一緒にいかがでしょう」
「まあ、とても楽しみですわ!ではいつもより少しおめかしをしますわね。ご紹介いただく者として出来るだけ相応しくなれるように気合を入れますわ」
瞳を輝かせながら微笑むリリアに、レイモンドがデレッと微笑み返す。そういうところだぞと執事に思われているとはつゆ知らず、彼はどうやってリリアのアクセサリーの好みを聞き出そうかと考えていた。
+++
レイモンドがリリアを連れてやってきたのは、貴族達の間で隠れた名店と言われている高級レストランだった。どう名店なのかというと、文字通り隠れているので、密会をしやすいのだ。もっとも、経営元は王家に繋がっている為、悪巧みには向いてない。あくまでお忍び向きと言うだけである。
レイモンドは予約しておいた席にリリアを連れ、すぐに注文を済ませた。
「ここのビーフシチューはとても美味しいので、ぜひリリア嬢と食べたいと思っていたんだ。貴女を連れて来れて良かった。日頃の感謝も込めて、ご馳走させていただきたい」
「ふふふ、では遠慮なくご馳走していただきますわね。レイモンド様がそんなに仰るなんて、期待でドキドキしてしまいます」
そう言っているうちに、ビーフシチューとサラダ、パンが揃った。酒は例の夜会の件があり、自粛である。
リリアはスプーンで触れただけでほろっと崩れた牛肉に驚きつつ、一口。そして味わうと、思わず唇を指先で塞いで目を瞬かせた。その様子を見てレイモンドは微笑み、自分も食べ始める。小さい頃から変わらぬ味は、デートの緊張を解してくれた。
半分ほど食べ進めたところで、レイモンドが味の感想を尋ねると、リリアは頬を染めながら幼い子供のように笑う。
「とっても美味しいですわ!こんなに美味しいビーフシチューは生まれて初めてです!お肉がホロッとしてて、このまろやかなクリームととてもよく合っていますのよ。シチューも香りが独特で、人参なんてほら!まるでリンゴジャムみたいに柔らかいですわ!シチューのようにとろける食感で、感動してしまいますわ」
「良かった、初めてこれを食べた時の私と同じ感想だ。当時は毎日これを食べたいと駄々を捏ねたりしたものだ」
「そのお気持ちはとてもよくわかりますわ!だって今、わたくしもそう言ってしまうところでしたもの」
「リリア嬢がそういった事を言うのは想像がつかないな。貴女はいつも落ち着いているし、どちらかと言えば嗜める側の方が現実的に想像できる」
「あらあら、お義姉さまにも同じ事を言われましたわ。リリアは我が儘を言われる方だと。でもわたくし、幼い頃は我が儘を言ってばかりでしたのよ?」
「貴女が?それは興味深いな、聞かせてもらってもいいだろうか?…シチューを食べ終えてから」
「ええ、勿論ですわ」
温かいうちにビーフシチューを食べ終えると、リリアはパンに皿に残ったシチューを付けて食べる方法をレイモンドにレクチャーしてもらい、実に画期的な食べ方だと感激した。
サラダも食べ終え、食後の紅茶を楽しむ頃にようやく話題が戻ってきた。
「わたくしは小さい頃、とても甘やかされて育ちましたの。美味しいお菓子や遊ぶことが大好きで、もっと食べたい、もっと遊びたいといつも言っていましたわ。そのうち好みが変わりまして、高級なお食事だとか、素敵なおもちゃだとかを強請って、買って貰うまで泣いていたそうです。ふふ、この辺りは記憶がありませんの。お母様に聞いた時は、我がことながらビックリしてしまいました」
「あ、ああ…私も驚いている。だがそれならまだ可愛らしいものではないか?どこかの男爵令嬢は家計を火の車にしたと聞いたことがある」
「あら、わたくしはここで痛い目を見たからそうならなかっただけですのよ。そのご令嬢の事は存じておりますが、お話を聞いた時はゾッとしましたわ…危ないところでしたから」
「痛い目?」
「ええ、文字通り痛い目に遭いましたの。虫歯になってしまったのですわ」
リリアは苦笑しながら右頬を押さえて見せる。幸い乳歯だったので抜くだけで済んだが、あの時の壮絶な痛みは記憶に焼きついている。レイモンドも少々青ざめつつ沈黙した。自分は体験した事はないが、友人に経験者がいる。と言うよりその友人が虫歯になったところから歯を抜いて腫れが治るまでの一連の流れを見ていた。
「その時お世話になったお医者様が、怖いお顔で『全部が自分の思い通りになると勘違いしているから、神様がお説教をしたのですよ』と仰ったので、それ以来我が儘を言う勇気がなくなりましたの。あのお言葉がなければ、わたくしも心を改めたりしなかったでしょう」
「…なるほど、確かにそれは良い教訓になる。だがそれだけでは今のリリア嬢の様にはならないと思うのだが」
「まあ、流石の慧眼ですわレイモンド様。その通り、この後も話が続きますのよ。レイモンド様は、グレイシス伯爵家の領地のことはご存知ですか?」
「ああ、カート伯爵からある程度お聞きした。農村が多く、教会と協力して孤児院や学校の運営に力を入れていると」
「その通りですわ。わたくしが十歳になった時、お父様に村の学校に行きたいと申し出ましたの。同年代のお友達が欲しいと言って説得したのですが、本来の目的は学力の調査、のつもりでしたわ。お父様だけでなく、お兄様にもバレていたようでしたが…当時のわたくしは、伯爵家に生まれた身として、出来ることは何かを模索しておりましたから、お二人とも何も言わずにわたくしを送り出してくださいました」
「送り出す、と言うことは、寄宿学校だったのですか?」
「はい。身分を隠して、バレずに授業を受けました。…なんて、実は初日から気付かれていたのですけれど。教師の方々にお父様が依頼してくださったのです。わたくしの意思を尊重し、平民として扱って欲しいと。でも、お陰でとても有意義な時間を過ごすことができました。今のわたくしがあるのは、あの日々のおかげなのです」
本来の目的から話がズレてしまったが、レイモンドはリリアの話を最後まで聞きたいと思った。彼女の話は、いつもいつも、レイモンドの心を揺さぶるのだ。今まで多くの人々の身の上話や武勇伝を聞いてきたが、リリアのような、我がことのように共感できる話はなかった。相槌を打つことすら疎かにしてしまう程、レイモンドはリリアの声に耳を澄ましている。
「…学校に行き始めてからすぐ、わたくしは自分が子供達と全く違う事に気付きましたわ。皆は男女問わず意見し、共に学び、共に遊んでいました。その力強さといったら…わたくし、文字や絵だけで、世界のあらゆる物事を理解したつもりになっていた自分を恥じましたわ。たった十歳の娘が出来ることなんて、ほんの少ししか無いのだと…そうわかっていても、彼らの可能性を知ってしまったら、そんな殊勝な貴族らしさなんて、吹き飛んでいってしまいましたのよ」
それからリリアは、悪戯っぽく笑ってみせた。
「お父様に、孤児院の設立や学校教育の強化を提案したのは、わたくしですの」
「へえ…えっ……え!?リリア嬢が!?」
「あらあら、そんなに急に立たれては、紅茶が溢れてしまいますわ。ですが、驚いていただけて嬉しいです。レイモンド様をビックリさせようと思ってましたのよ。…ご機嫌を損ねてしまいましたか?」
「い、いや、驚いたが、それだけだ。すまない。…リリア嬢は本当に…私の予想を飛び越えてしまうな」
「嬉しいお言葉ですわ。レイモンド様も、普通の貴族の男性とは違いますもの。わたくしの話を聞いて下さりますし、女性でありながらと軽視したりもなさいません。だから、色々話してしまいますのよ」
そう笑うリリアに思わず見惚れてしまったレイモンドは、どう返事をすれば良いかが頭からすっ飛んでいった。若干茫然としているレイモンドに、リリアは話を続ける。
「それにこの話も、提案をしたのはわたくしですが、実現してくださったのはお父様と教会の方々でした。孤児院と学校を視察し、報告するというお役目をいただけたのは、皆様のお気遣いがあったからです。でも…わかっていても、嬉しかったですわ」
リリアのこの落ち着きようは、その経験があったからこそのものだ。孤児院や学校に行けば、年下の面倒を見る機会が増えたし、教会に顔を出して慈善活動に参加すれば、シスターや神父の話し方や振る舞いが自然と身につく。
子供のあやしかたの原点はそこだった。
「成る程、リリア嬢の物腰に既視感を抱いていたが、教会のシスターだったのか。言われると確かに…貴女の話し方も、とても似ている。ずっと聴いていたくなるのは何故か、ようやく納得いった」
「ええ、その通りですわ。シスターの皆様は、誰にでもゆっくりわかりやすく、優しい声でお話しするのです。あらあら、と言ってしまうのも、お世話になったシスターの口癖が移ってしまったからですのよ」
「リリア嬢のその口癖は好ましいと思う。貴女と話すと落ち着くのはきっと、その話し方や口癖のおかげだからな」
感心して何度も頷くレイモンドは、ハッと我にかえる。今の流れなら自然にいけるはず。今こそ聞き出すのだ!
「と、んん゛っ…ところで、リリア嬢はアクセサリーに興味はなかったのだろうか?」
「アクセサリー、ですか?そうですね…」
上品に口を押さえて考えるリリアを、口から心臓を吐き出しそうな緊張と共にレイモンドは見つめる。
(頼む、本当に頼む、何かあってくれ後生だから!)
彼の願いが届いたのだろうか。リリアは数秒間考えた後、あっと思い出したように声を漏らした。
「ど、どうだろうか!?」
「寄宿学校にいた頃の話ですが…子供達でアクセサリーを作って、バザーに出した事がありましたわ。その時にブローチを見つけて…どなたの作品だったのかはわからなかったのですが、今でも大切に保管しておりますの。領地の伯爵邸に、ですが」
「ブローチ?具体的にはどんな?」
「小さなお花のブローチでしたわ。ピンク色のお花と紫のお花がくっついていて、上に金色の蝶が添えられている感じです。なんのお花だったかしら…」
「あ、いや、それで大丈夫だ。ありがとう、リリア嬢。貴女は花が好きなのだろうか?」
「ええ、とても。子供達と種から育てたお花は特に、思い出深くて…大好きですわ。ガーベラ、アサガオ、ヒマワリ、コスモス、冬にはクリスマスローズ。枯れてしまったものやうまく咲かないものもありましたが、全て、愛おしい思い出の花です」
愛情、というもので満ち足りたリリアの瞳は、レイモンドを釘付けにするには十分、いやオーバースペックだった。頬を染めて微笑む姿は、女神という他ない。
硬直したレイモンドにリリアが気付く直前、顔見知りのウェイターがゴホンと咳払いをし、水のおかわりをと声をかけてくれた。あまりにもギリギリだった。レイモンドは彼の呆れたような視線をおとなしく受け止める他なかった。
レストランを後にした二人は街を散策し、インクやタオル、本をいくつか買い足した。そしてごく自然に、雑貨屋へと足を運んだ。
レイモンドはユリス夫人への贈り物を買う、と言って入ったが、ほぼ直行でアクセサリーのコーナーに向かった。リリアはなんの疑問も抱かずに指輪のサイズの相談に乗って、自分と母のサイズは同じだと教えた。
全てが揃った。レイモンドが達成感のあまり叫ばなかったのは、ここ最近のメンタルが良好だったからだろう。
+++
運命の日である。
翌日、訪ねてきた公爵家を、伯爵家はこの日の為に戻ってきたカート伯爵とミエルも加えた全員で迎えた。
レイモンドは公爵家側に座って、改めて伯爵家と向き合った。
「最初に言うべきは、リリア嬢への感謝と賛辞であろう。よくぞここまで息子を助けてくれた。貴女の献身的な治療、まさに女神がもたらした奇跡そのものだ。我々は貴女に相応しい礼を用意しきれない…本当に、ありがとう」
頭を下げる公爵家三人に、リリアは大慌てした。
「そ、そんな、わたくし、あ、頭をあげてください!!お願いします!!」
「リリア、公爵様方のお気持ちを受け取りなさい。それが礼儀というものですよ」
「あっ……ぁ…は、はい。も、勿体無いお言葉をありがとうございます。あまりにも…光栄で…胸がいっぱいですわ」
「それは良かった」
ユリス夫人のナイスサポートにより、リリアは落ち着きを取り戻した。シュタイン公爵の満足そうな様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
「では、次に話を進めよう。先日の医師による診断により、レイモンドは十分な回復をし、次の治療のための体力も取り戻せたと判断された。よって今後は、不眠症そのものの治療に専念することとなった」
「具体的には、心理学者と共に原因究明をするようです」
「学者様と?お医者様ではないのですか?」
「ええ、今世話になっている医者は心の問題までは知識が追いついていないそうで、代わりにと紹介をして貰った。何度か相談をしているが、彼に頼る方が良いと私も思っている」
レイモンドの説明に成る程とリリアが頷くのを確認したシュタイン公爵は、カート伯爵とアイコンタクトを交わす。
「よいか?よいか?」という公爵の視線に、「今です」とカート伯爵がゴーサインを出す。
シュタイン公爵は、若干大袈裟に咳払いをし、真っ直ぐにリリアを見据えた。
「それを踏まえて、リリア嬢へ…頼みがある」
「はい、なんでしょうか」
シュタイン公爵の迫力に、落ち着いた返事を返すリリア。その場の空気は「ザワ…ザワ…」と揺れている。リリア以外の全員が息を呑んで…そして緊張のあまり死にそうになっているレイモンドが、震えまくりの声で「リリア嬢!」と叫ぶと、彼女の目の前に跪いた。
「は、はい」
「わ、わたっ私とっ!!!結婚をじぇ、じぇじぇんていに!!ホーラス公爵家へ来てくらじっ………来てください!!」
「………………、……………はい」
ポカンとしていたリリアは、瞬き一つして、しっかりとそう返事をした。リリア以外の全員がギョッとして、彼女に視線を向けるのに、柔らかな笑みがそれを受け入れる。
レイモンドが隠していた手で焦るあまり鷲掴みにし、ぐしゃっとなってしまったケースを、リリアがその手ごと引き寄せる。
その哀れな姿の箱を開き、指輪を目にしたリリアは、頬を染めて涙を溜め、もう一度。
「……はい、レイモンド様。不束者ですが、どうか、わたくしにお供をさせてくださいませ」
その返事を聞いたレイモンドは、喜びのあまり言葉がすっぽ抜けた状態で、リリアを抱きしめた。
空気が変わる。祝福に満ちたそれに塗り替えられる。
カート伯爵とシュタイン公爵は緊張からの解放感でソファーに沈み込み、エメラティ夫人とユリス夫人は半泣きで抱き合って喜んだ。
唯一話についていけず呆然としていた兄ミエルは、このために自分が呼ばれたとジワジワ理解し、執事に婚約書類一式の用意を頼んだ。寝耳に水すぎて白目を剥いていましたよ、と執事は言わなかった。
+++
この日、リリア・グレイシスはレイモンドと婚約し、公爵家へと迎えられた。そして彼女の献身と適切な治療により、見事レイモンドは不眠症を克服したのだった。
後日。
レイモンドの不眠症の回復を大いに手助けた功績を受け、学者から助手にスカウトを受けたリリアは、王城でレイモンドのような患者を助ける仕事に就いた。自力でホーラス家に相応しい人材になった辺り、流石だとレイモンドは褒めちぎった。
原因を作ったのは彼なのだが、言い換えればきっかけは彼。エメラティ夫人はツッコミをそっと胸にしまった。
そしてその数ヶ月後、完治したレイモンドは騎士団に復帰し、見事な活躍をして次々と功績を挙げ、数ある少数精鋭部隊の総合統括部隊長として名を馳せた。
そして陛下より直々に勲章を授与され『栄誉ある騎士』の称号を得たあとすぐに、リリアと結婚式を挙げた。
翌年には双子の兄妹に恵まれ、リリアとレイモンドは幸せな日々を過ごしている。
ちなみに、レイモンドの乳母こと「ばあ」は、見事秘境の温泉を発見し、冒険の記録を元に本を出版した。呆れるほど大ヒットし、レイモンドはまた暫くリリアの膝枕のお世話になった。
お読みいただきありがとうございました。
もしよろしければ、感想や評価をお願いします。
※12/17追記
誤字脱字のご報告、誠にありがとうございます。修正させていただきました。
また、わかりにくい表現の箇所を書き直しております。