「鉄砂漠の渡り方」③
ガルバが盗人のような慎重さで立ち上がる。
(……よし、いくぞ……!)
アムポが単車にしがみつきながら蚊の鳴くような声で、
(……単車に乗ってかないのか……?)
(……バカッ、そんなことしたらエンジン音で一発で居場所がバレるだろうが……っ)
ガルバにあっさりと切り捨てられて、アムポは泣きそうな顔をする。
その気持ちはアルシノエにも痛いほどわかるが、そうも言っていられない。
正直、立ち上がる動作でさえどこかにいるであろうファイバを刺激しそうで怖かったが、このままここにいたところで状況は悪くなる一方なのは火を見るより明らかだ。
選択の余地など最初からないのだ。
アルシノエはゆっくりと立ち上がる。
アムポもレウコもスラも立ち上がった。
ナシカだけが、立ち上がらなかった。
全員がナシカを振り返る。
今まで一度も言葉を発さなかったナシカは、背後の単車にへばりついたまま顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。縋るような目つきでみんなを見上げる。
(……立てって! ナシカ……!)
ガルバが鋭くささやく。ナシカがいやいやをするように激しく首を横に振る。口が動く。う・ご・け・な・い。吐き出されたのは息だけで、声さえ出ない。ようやく十を越えたばかりのナシカの心は、とうに限界を迎えていたのだ。(……ナシカッ)苛立ちもあらわにガルバが無理矢理ナシカを立たせようとする。金属音、
その瞬間、全員が固まった。
身じろぎもできない。指一本さえ動かせない。眼球だけで必死に周囲を探る。呼吸も忘れて聞こえる音をうかがう。うかがう。うかがう。
おかしな音は聞こえない。
アルシノエはみんなと視線を交わした。聞き間違い、かな? そうだよね? そうだと言って――そう訴えかけたが、聞こえた音を否定してくれる目はひとつもなかった。
ガルバが、ゆっくりと銃口を上げる。
再び、金属の転がる音。
限界だった。
「うあっ、わあああああああっ!!」
突然、ナシカが狂ったように叫び声を上げ、バネ仕掛けのように立ち上がって脇目も振らずに駆け出した。
「あっ、バカ――」
ガルバの声が、全てはもう手遅れであることを告げていた。
ナシカによって破られた緊張の糸は、もう修復不可能だった。
「うわあああああっ!!」
「ああああああっ!!」
アムポが、スラが、つられたように後を追った。
「あ、ちょっと!?」
アルシノエも一瞬、、一緒に行っちゃえ、という衝動に突き動かされた。このまま恐怖に身を任せて駆け出してしまえば、どんなに楽か。そんな思いが頭をよぎる。
そのときだった。
すぐそばの瓦礫と鉄屑の丘が、目を疑う規模で揺れた。
なにが起こったのかと考える暇もなかった。ほんの二、三メートル横の瓦礫と鉄屑があり得ない大きさで盛り上がり、ぞっとするような速度で一直線に逃げた三人へ向かっていった。アルシノエもガルバもレウコも何も出来なかった。ただ呆然と、眺めるしかなかった。あまりにも絶望的な速度の違いだった。ナシカとアムポとスラの、耳を覆いたくなるような悲鳴。あれだけあった距離が嘘みたいに縮まっていく。なにやってるのよ本気で走って! と思っているアルシノエの心のすぐ横で、そのままそいつをどっか遠いところまで連れていってくれればいいのにと思う心がある。もうどう足掻いても逃げ切れない距離。先頭を走るナシカが、コケた。
あっ、という間もなかった。
倒れたナシカをアムポが追い越し、スラが飛び越え、そして、
鉄砂漠が弾けた。
大量の鉄屑と共に、ナシカの身体は宙を舞っていた。そのときにはまだ、ナシカは確かに生きていた。恐怖と絶望に塗り固められたその顔を、アルシノエはこの先一生忘れることはできないだろう。真っ黒い、六本の、束になった触手がいとも簡単にナシカの身体を絡め取り、あっという間に鉄砂漠の中に飲み込んでいった。
そして、「そいつ」が地面の中から姿を現した。
攻性繊維体――ファイバ。数世紀にも亘って地球上で争い続けている、人類の敵。
それは、およそこの世のものとは思えぬほどの異質な生物だった。ファイバは群れる。ファイバ同士でも無論そうだが、ファイバそれ一体が、いわば人類以上とも言われるほど高度な社会性を持った群体なのだ。その身体は、繊維体と呼ばれる黒くて細長いゴムひもの化け物のような単体が無数に撚り合わさってできている。さらに繊維体はある程度のまとまりであらゆる器官や構造を独自に作り上げる。手足になるものや捕食器官になるものや視聴覚器官になるものや共振器官になるもの、それらを統括する中枢繊維体すら単体が撚り合わさって出来たものだ。そのためファイバは、繊維体の規模に応じて、ある程度決まった形を取る。
目の前に現れたそいつは、シーカーの間で六本足と呼ばれているやつだった。全長五メートルほどもある芋虫状の胴体に、呼び名の由来である六本の細長い足が生えている。胴体の先端にある、繊維体が丸まって出来た大小四つの赤い目玉が、熱と可視光で逃げ続けるアムポとスラを捉えていた。