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──それから何日たっただろう。
何もなかったように新学期を迎え何もなかったように学校に通いはじめた。
和海ちゃんとは、あの約束をすっぽかした日から何もない。
僕は正直彼女の話を聞ける様な状態ではなく、よく平気な顔で学校に行けるもんだと自分で感心するほどだ。
もちろん、武内先生からも連絡はなかった。
武内先生自身、気づいていなかったのかもしれない。僕に重ねた誰かに気づいて、今は幸せなのかもしれないな。
もしかすると『アツキさん』って、いつか僕を追い越していった、あの人なのかもしれないと、僕は考えていた。
あの時の先生の顔は、本当に優しかったもの。それにあの男の人だって、先生のことを大好きなはず。二人を取り巻く空気のようなものが、きれいな夕焼けの色と相まって目を細めてしまうほど輝いて見えた。
僕は……そのきっかけになれて、良しとしなくちゃいけないのかな?
留衣ちゃんにも大祐にも、この夏のことは話せないまま。自分でもショックすぎて、記憶の奥の方に閉じ込めようとしていた。
でも、なんとなくおかしく思われていたのだろうか。
ある日、また夜中のメールで留衣ちゃんに誘われた。
──馬鹿紗月、いますぐ出てこい──
はは、久々のメールがこれですか。
時間は11時。怒らせると厄介な相手なので行くとしますか。一応、女の子だしね。
「母さん、ちょっと出てくる」
「こんなに遅くに? 明日じゃダメなの?」
「あー、相手が留衣ちゃん」
「……それは……急いで行きなさい。家まで送ってあげなさいよ」
……留衣ちゃんが世界に与える影響について、一度考えてみないといけないかも。
指定された場所は僕の家から少し離れた公園。自転車をこいで秋の気配のする夜の道を走る。
忘れてたけどもう9月も終わるんだ。
進学校で学ぶ僕らは、入学したらすくに受験モードだったからその事で季節を感じることはない。文化祭も体育祭も春に終わってしまうし修学旅行は二年の初夏だ。
しんとした空気のなか虫の声や草の香りで夏が完全に去ってしまったことを知る。
先生とのことがまだ心に引っかかっていかりみたいに僕を次の季節に行かせてくれない。
「……桜ヶ丘公園」
小さい頃は良く来ていたけど小学校を卒業してからは近くを通ったこともない。あ、そういえば6年生の春にクラスのみんなとお花見をしたのもこの公園だったな。
お弁当を広げて、皆で舞い散る桜を見た。あんなにきれいで幸せで、満たされていた時間はどこにいっちゃったんだろう。
……武内先生、どうしてるかな。
花のない桜を見上げてため息をひとつつくと、自転車を降りて留衣ちゃんを探すため公園に入った。
池の回りを桜が取り囲む公園の橋の辺りにいるって……
留衣ちゃんの姿を探す僕の目に映ったのは
「和海ちゃん……?」
まるまる2ヶ月会っていなかった和海ちゃんは少し痩せて髪の毛が伸びていた。
こんな時でも僕は和海ちゃんを好きだなぁって思ってしまうんだ。
「ごめんね紗月くん。留衣に頼んで呼び出してもらったの」
「僕こそゴメン。和海ちゃんがせっかく連絡くれたのにすっぽかしちゃって……」
「あのね、あたし……」
その時、誰が砂利を踏みしめて近づいて来て、僕はとっさに和海ちゃんを背中に隠し足音の方を見た。
……だってこの時間だし、和海ちゃんはかわいいし、今まで一人で待ってたんだし、かわいいし。
「和海、何をしているんだ、こんな時間に。」
……ん、和海? と言うことは。
「……お父さん」
………おっかないお父さん、キターーー!!!
それから僕は宮田宅のリビングに連れてこられ、コーヒーを勧められ。ついでに和海ちゃんは、お前は部屋に行っていなさい、と追い出され、僕はお父さんと二人きり。
ボヘー。
この状況は完全に娘を真夜中に呼び出す町の不良少年の僕、だよね。
うえーん、留衣ちゃん。恨むからね!
「ところで君は、和海とどういう関係ですか?」
──わたくし、突然の極度の緊張の為自己紹介さえ忘れておりました。
「夜分に申し訳ありません。僕は桐豊高校三年の中田紗月です。和海さんとは共通の友人の留衣さんを通じて知り合いました」
「で、娘にどんなご用件ですか。こんな夜中に非常識だとは思いませんか?」
「はい、すみませんでした。ただ、僕を呼び出したのは他の友人だったんです。多分、夏前に和海さんと行き違いがあってから連絡もしていなかったので、気を回して会わせてくれたんだと思います」
「……行き違い?」
あれ。どこまでしゃべっていいんだろう? 和海ちゃんの嫌な噂の事は、お父さん知ってるのかな。それを話せないと、うまく話がつながらないんじゃないの?
どうしたもんかな。
「喧嘩をしたとかそういうことか」
「いえ……。中学の時の話でお互い話していなかったことを他人から聞かされて和海さんに嫌な思いをさせてしまって……」
「……中学の時の事とは……和海が妊娠したとかいう話か?」
──知っていたんだ。僕はお父さんの顔を見て小さく息を飲んだ。
「はい、そうです」
「……どう、思いましたか?」
お父さんの顔はぐっと眉間に寄ったしわのせいで疲れているようにも、悲しんでいるようにも見える。
本当は、和海ちゃん本人に言いたかったことなんだけど、お父さんも和海ちゃんとおんなじだけ悩んだのかもしれないと思ったら、僕のありのままの気持ちを聞いてもらいたくなった。
「和海さんは、過去にあった辛いことのせいで、人と仲良く出来ないと悩んでいました。その男から……彼女の以前の知り合いのようでしたが……彼から話を聞かされた時、この事かとすぐわかりました。その話が例え噂だとしても本当だとしても、これまでの和海さんをみていて、そいつが言うような無責任な行動が招いた結果だとは思えません。子供だって心から人を好きになります」
お父さんは僕の顔をじっと見る。
「……中田、くん。その話は噂じゃなく本当の事だ」
「………」
「中三の時、交際していた男がいてな。秋に、妊娠した」
……やっぱり本当か。
和海ちゃんのあの時の怯え方は尋常じゃなかった。あの野郎、やっぱりアバラの一本でも折ってやれば良かった。
「和海は、高校を一年見送って出産して、高校だけは出て奴と一緒に子供を育てたいから協力してくれと言ってきた。……我が家はあの子が五歳の時に母親が亡くなって。男手で育てたものでそういう常識が抜けていてね。私も悪かったんだ。だから和海がそう言うなら力を貸そうと思ったんだが」
「相手が態度を変えたんですね」
「……ああ」
お父さんは更にしわを深め、思い出すだけで腹立たしいであろうその話を続けた。
「両親が一緒に怒鳴りこんで来てな。『父親はうちの息子じゃない、とんだ不良娘だ、誰とでもそんなふしだらなことをしているに決まっている、息子がかわいそうだ……』もう、どうでもよくなった。和海もさぞガッカリしただろうよ。たった十五で自分の人生を決めた運命の相手がそんな馬鹿で」
「……」
あの男、破門覚悟でボコボコにしてやればよかった……。
「奴は、学期途中に転校したらしくて、和海は噂の矢面に立たされた。そいつは仲間からの人望は厚かったみたいで、和海は嫌がらせを受けるようになり……学校に行けなくなった」
好きなヤツに裏切られて、友達だと思っていたクラスメイトからも酷いことされて、他人が怖くなって、誰も近づけないように髪を切って壁を作りうつ向いてきた和海ちゃん。
彼女が積み上げてきたひとつひとつが、痛いほど愛しい。
「君は、和海を好きか? こんな話を聞いても」
「それは和海さんに直接伝えます。でも……僕も、ちゃんと話さなくちゃならないことがあります。むしろ和海さんやお父さんが僕を選ばないかもしれません」
「そうか……。中田くん、和海は夏前まで楽しそうだった。子供はそのあと中絶して……それからずっと塞いでいたのに」
和海ちゃんの、王子さまだと思った人が違った話を思い出す。
あの時の彼女のこぼれそうな涙。
どんなに怖かっただろう、悔しかっただろう。ずっと心を痛めてきたんだね。
お父さんが僕に頭を下げた。
「これからも仲良くしてやってください。頼みました」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
僕も更に頭を低くしてしばらくそのまま、じっとしていた。
お父さんが廊下に出ていって、和海ちゃんを連れて戻ってきた。
「話が終わったら呼びなさい。中田くんを送っていくから」
「僕は自転車で来ましたから大丈夫です。それよりお父さんも僕の話を一緒に聞いてください」
僕はまず、僕のことを話さなくちゃならない。和海ちゃんとお父さんを前に、ぐっと緊張する。
「最後に和海ちゃんに会った時、あの男が言ってたことは本当。僕はずっと、男の人だけが恋愛対象だと思ってた」
和海ちゃんのお父さんが喉をひゅっと鳴らして息を吸った。目も真ん丸になっている。まさかこんな爆弾を落とされるとは思いもしなかっただろう。
「だけど、和海ちゃんに会って、人となりを知って、どんどん好きになった。いっぱい悩んだ。僕が僕じゃなくなっちゃうような気さえした。……でも、やっぱり僕は和海ちゃんが好きです。僕は男の人とも付き合った事なんてないけど、気持ち悪かったら言って。仕方ないと思うから」
「……ホントの事、言ってくれてありがとう。でも、あたし最初から、知ってた。留衣から聞いてたの。男の子が好きな変わった親友がいるって。でも世界一優しくて、強くて、大好きな親友だって。きっと、和海も気負わないで仲良くできると思うって……あたしも紗月くんのこと、好きです。でも、あたしは……」
「あー、待ってストップ。和海ちゃんの事は、今お父さんから聞いた。和海ちゃん抜きで勝手にごめんね。だから、辛くなること話さなくてもいいよ。その時は、真剣だったんでしょ? それなら仕方ないよ」
……ほんとはさ、そんなに寛容でもいられない気持ちはあるんだよ、自分のことは棚に上げてね。なんだこれ、嫉妬だなこりゃ。
それでも僕は、笑ってた。大祐に笑ってろって言われたし。
大きな粒の涙をこぼす和海ちゃん。泣かないで欲しいけど、いいのか。安心出来るこんな場所なら、泣いてもいいんだね。
そうだね、きっと。
僕らはなぜだか和海ちゃんのお父さんの強力プッシュを受けて、家族公認で付き合う事になった。
そして和海ちゃんを僕の家に連れて行った時は、安田邸を訪れたときの比じゃなかった。
そりゃそうだ。男を連れてくると思った長男が、可愛い女の子を彼女です、と紹介したんだから。
母さんに至っては、泣いていた。大げさな、とも思うけど母さんも悩んでいたんだな、と思うと切なくなる。
それでも僕は道場を継ぐ意思が無いことを三人に告げ今まで通り睦月をビシビシしごいてもらうことにしている。
だいぶ落ち着いてから、武内先生に呼び出されて会うことにした。
先生は僕を見るなり頭を下げた。
「サツキ、本当に申し訳ないことをした。許してくれなんてムシがよすぎるし、訴えたいのなら、僕はサツキのすることに従う」
と言ってくれた。
だから、僕はすべてを水に流すことにした。表面上は。
僕の心の中のささくれる気持ちとか、傷ついた気持ちとかを持ち出したらきりがないのだし、そういう感情と先生をくっつけて記憶に残すことを本当は望んでなんかいない。
本当は『アツキさん』て誰なのかとか、一時でも『僕を』好きでいてくれたことはあったのかとか、あの行動に至るまでの先生の気持ちとか。聞いてみたいことは山ほどあったけど、そんなことを知っても何の意味もないことだと思ってやめた。
でも、ひとつだけ、僕は先生に質問した。
「先生、今しあわせ?」
それだけ聞きかった。先生が知らないどこかであんな悲しいかおをしているのは想像もしたくない。
先生は一瞬驚いてうつむいたけれど、恥ずかしそうな困った様な顔で僕を見て、こくん、とうなづいた。
僕はそれだけで、よかった。
先生が幸せで心から嬉しいんだ。
嬉しい、と思える僕でよかった。
いつか、王子さまが来てくれるって信じていた僕は今、和海ちゃんの王子さまになるべく日々を生きている。
和海ちゃんは今でも人のことが信じられなくて怯えることがある。僕の事さえ疑うことだって。
僕は子供で、彼女になんて言ったらそんな不安を払拭してあげられるのかなんて知らない。抱き締めて背中をさすってあげたくてもそれすら怖がる和海ちゃんになにもしてあげられなくて、無力感にさいなまれることもある。
だけどそのたびに僕は言うんだ。
「いくらでも疑えばいい。信じられなければそれでもいいよ。でも僕は、僕から言わない限り和海ちゃんのことが好きでずっと側にいる。だから不安になっても大丈夫。和海ちゃんが落ちても必ず引っ張りあげるから」
何を言っても、きっと不安なんて取り除けない。どんなにそばにいても、声をかけても。
だから何度でも言うよ。和海ちゃんが好きだよって。
いつか僕らもほんの少し大人になって、キスとかその先のことも一緒にするだろう。
その時に、和海ちゃんが怖がらないように、嫌な過去に囚われないように。
もしかして今はまだ難しいかもしれないけれど、亡くしてしまった小さな命さえ僕と和海ちゃんを結びつけるリボンだったんだと思える様に。
和海ちゃんを幸せな未来にエスコートできる王子さまに僕は、なるからね。
「留衣ちゃんは、和海ちゃんの中学の時なにがあったか知ってたの?」
和海ちゃんと付き合うことになったのだという報告を、近所のカフェで留衣ちゃんにした。
何とかっていうホイップがいっぱい乗ったドリンクをグリグリ回しながら珍しく僕に笑顔で言った。
「知らない。でも、辛いことがあったのは想像出来たから。紗月ならきっと、和海のこと笑わせてくれると思ってたよ」
留衣ちゃんには和海ちゃんに会わせてくれて感謝してるんだけど、言うと何倍返しさせられるか分かんないから、黙ってることにする。
でも、心では、ありがと。
留衣ちゃんこそ世界で一番、頼もしくて優しい親友だよ。
「はぁー。まあ、落ち着いてよかったよな」
「うん、色々心配かけてゴメン」
同じような報告を日曜日、大祐の部屋でした。同じ学区だからまあまあ近所の大祐の家は、古い和風住宅にすんでる(しかも四六時中道場からの雄叫びつき)僕がちょっとビビるくらい今時の静かなマンションだ。
ずっと心配して気にかけてくれていた大祐に事の顛末を説明した。
「そんなの、いいって。しかし、結局お前は、俺を選ばなかったな。
俺は守備範囲外だった?」
……やっぱり、そうだったのか。
僕は申し訳なさと気恥ずかしさで、目をそらしてしまう。
「……えっと、大祐は僕を好きだったの?」
「あ? あぁ、まぁな。たださー、好きにもいろいろあんじゃん。俺はさ、中学の時お前を助けてやれなかったから、必ず幸せになって欲しいって思っててさ。だから、誰でもいいんだ。紗月が笑ってんならな」
「大祐……ごめん、ありがと」
「だから、いいって。……あ、でも、この位もらってもバチあたらないかなー?」
大祐が僕の手を引き腰に手をまわし、あっという間に抱き込んだかと思ったら。
チュッ、とリップ音つきのキスをかましてきた!
「紗月のファーストキス、いただきー!」
な、な、何ぃ!
一瞬イラッと来たものの、あぁ、本当はファーストキスじゃないんだよな、と苦しくなる。
でも思い直してこっちをそれに採用することにしよう。少し、悔しいような気もするけど。
先生との悲しいキスは、きっと忘れられそうにもない。だけど大祐とのキスなら情けない思い出として僕の18歳の夏を彩ってくれそうだ。
「な、にすんだよ!僕のファーストキス返せ!」
「返せるか、馬鹿!」
「大祐まで留衣ちゃんみたいに馬鹿いうな!」
「ウッセ、ばーか!……なんだよ、泣くなよ。冗談だよ」
「……余計悪いよ……ほっとけ」
ほんとは、嬉しくて泣いたんだ。ありがと、大祐。
世界一、優しくてあったかい、僕の親友。
言えなかったけどね。
明日で最終回です。最後までよろしくお願いします!