表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

深淵へ

作者: フェリシティ檸檬

きみの唇は昔食べた和菓子に似ている。

乾燥しているようなのに、口に入れると溶けるんだ。

そうギルバートがウェールズ訛りで耳元に囁きかけてきたとき、私は苦笑して顔を赤くするしかなかった。

私は彼とキスをすると、いつもその濃く口の周りを彩る茶色の髭に気を取られた。ある程度伸ばされぐるりと唇を囲むそれは、動物に頬擦りしているような錯覚をもたらした。

「サトシ」

 息を抜きながらギルバートは私を呼ぶ。まるで自分の名ではないようにその言葉は私を揺する。

自己紹介の場で、ファーストネームはさとしだと告げ、円滑なコミュニケーションのためにとちょっとしたお愛想として、ほら、今流行っている、日本のゲームがあるだろ、あれに出てくる主人公と同じ名前だよと付け加えると、きょとんとした顔をギルバートは私に向けた。世間知らずとは彼のような人間を言うのだと、私はのちに思い知らされることとなる。

十五年以上前のことだ。

私はロンドンの語学学校に勤めていた。

大学に通いながら、日本語をイギリスの生徒たちに教え、生活費を稼ぎ、日々暮らしていた。ロンドンは寒く、暗く、暮らしにくかった。だが不満だったわけではない。私は暑さが苦手で、ネガティブで、生きづらかった。だから私とロンドンの相性はよかった。霧が深くたちこめるとひどく安心感があり、同時にとても高揚した。すれ違う人の顔さえほとんど見えない。マフラーに顔を埋めながら、生き生きとした足取りで街を縦横無尽に闊歩した。

ギルバート・ジョーンズとは大学で知り合った。彼は三十をいくつか過ぎた私よりも数個年下だったが、まったくそうは見えなかった。

コーヒーのような色のもしゃもしゃの髪と髭をして、目の色は明るい緑、私よりだいぶん背が高かった。痩せ型で、肩の線がくっきりと角を描いているのが印象深く、よくいろんなものにぶつかった。笑うと顔が丸めた紙のようになった。突出した喉仏から、大型犬の吼える音に似た奥深い響きのある声が出ると、どうしても彼の話を聴かざるを得ない気になった。だから私は彼を見上げ、その喉や髭が動くのを観察しながら、よく専攻についての持論や実家にいる家族やペットの話に耳を傾けた。そういうとき、ギルバートは私を見なかった。必ずどこか明後日の方を向き、エメラルドを思わせるまなこを半ばまぶたで隠していた。そういうふうな態度を取る西洋人は珍しく、まるで同国人と話しているような心持ちで、私は彼との時間を過ごした。

お互いの家を行き来するようになるのに時間はかからなかった。

私はもともと人付き合いが苦手であるのに、ギルバートといっしょにいるのは楽だった。よくそのことについてぼんやりと考えた。凍てつく寒さの中転がり込むようにしてどちらかの部屋に辿り着くと、連係プレーでお湯の準備や上着の片付けを行い、体を寄せ合うようにしてお茶を飲んだ。ギルバートは砂糖ふたつ、ミルクたっぷり。私はストレートで。彼のマンションの近くのベーカリーで焼いているスコーンは見事な味だった。ふたりでお茶を飲み、スコーンにバターやジャムやクロテッドクリームを塗り付けて食べる冬の夕べは、何物にも変えがたかった。私は今でもどの時代に戻りたいかと問われたら、迷わずこのときと答えるだろう。窓の外は一面灰色、部屋の中はセントラルヒーティングが効き、湯気の立つティーカップが掌にある。目を上げると視線を外しているギルバートの横顔。ずっとこうしていたいと思った。そんなことは初めてだった。

その年いちばんの冷え込みになった、雪の降る夜、いつものように私の部屋にギルバートは来ていた。軽く私が夕飯を作り、ふたりで食事しようと考えていた。

「何食べたい?」

 私は冷蔵庫の中を覗きながらギルバートを見ずに問いかけた。返事はなかった。おかしいなと思い顔を上げると、すぐそばに彼が立っていた。

「どうしたんだよ」

 冷蔵庫の蓋の向こうで項垂れているギルバートは、具合の悪い動物のようなさまだった。冷気の漏れる箱の扉をぱたんと閉めると、私は心配になってもう一度尋ねた。どうした?と。

 すると珍しく、毛に覆われた顎を上げ、ギルバートは私をまっすぐに捉えた。猫のようなそのふたつの目で。暗い部屋の中(私は明るくするのが好きでなかった)、その瞳はどこからかの光を受けているのかやけにらんらんと輝き、久しぶりに目にしたその美しさに私はほとんど呆気にとられた。

 薄い唇が開いた。

「きみは、気付いてないかもしれないのだけど」

 かすれた、常とはまったく違う声が彼の口から流れた。私はびっくりした。ほんとうに風邪でもひいたのではないかと訝った。

「…それに、言う、つもりもなかったのだけど」

 お互いの目を見つめ合って会話をしたのは初めてではなかろうか、そんなことを思いながら、私は、ギルバートが何を言わんとしているかまったく予想がつかなかった。

「僕は、きみのことが、……好きなんだ。…その、性の、対象として」

 最後の方はほとんど口の中でもごもごと消えていった。しかしすべてが聞こえた。

ギルバートはさすがに目を横に逸らした。毛の隙間から覗く白い肌は耳も含めて朱色だった。

立ち尽くした私は何を言えばいいのか分からなかった。

鈍感な私は、その瞬間まで彼の気持ちにまったく、これっぽっちも、気付いていなかった。

そもそも私には恋愛経験というものがほとんどなかった。

女性にそういうふうに惹かれるということがまずもってなく、男性に対してそうかと言われるとそれも違った。恋愛の気質というものを持って生まれてこなかったようだった。そしてそれに困ったこともなかった。結婚の話になったときあいまいな笑みを浮かべてどう話を変えようかと思案し少し戸惑うくらいであった。

そんな私であったので、このような情熱的な思い(傍目にそうは見えなかったろうが、ギルバートはほんとうに熱い思いを抱いているのが私にはよく分かった、彼が何かを好きだと言うとき、それは生半可なものではないのだ)を明かされるなんてことが自分の人生に起こるとは、到底信じられるはずもなかった。

日本人の中でもその長い学生生活を体現してか若造に見られがちであり、ギルバートと反対のひどいなで肩の、貧相な体つきをした平々凡々たる容姿の自分を好いている、この立派な、賢い頭と温かい心を持ったウェールズ人が。

私は困惑し、ただひたすら唇を舐めた。

「やめてくれ」

 突然ギルバートは言った。

「…その、唇を舐めるの、やめてくれ。たまらなくなる」

 私のその仕草は癖のひとつであった。

乾燥しがちで、かさつく前に舌で潤してしまうことがよくあった。

横目で私の顔を見、言ったことに更に自分で赤面の度合いを増しギルバートは黙った。

何かが私の中でその瞬間、変わった。

ギルバートが私の癖を自分の性衝動と結び付けている、そのことに私は驚くほど興奮した。

唇を差し出してもいい、と思った。

いや、してもいいではなかった。

してくれ、と欲した。

その夜、雪はしんしんと降り続けた。

私はギルバートとキスをした。キスしか、しなかった。永遠のようにキスをし続けた。唇はこうして使うのかと、私は幼子のように思った。

恋人同士になった私たちは、それから長い時間をかけ、互いの体を探索した。

ほくろがどこにいくつあり、どの場所が感じやすく、楽で快感を得やすい体位はどれか。

無駄な肉のないギルバートの白い体はあちこち骨張っていて、私はよくそれを指先でなぞった。くすぐったがるようすがほんとうに愛しかった。

ギルバートは何度か言った。

「きみは深い森なんだ。分け入っても分け入っても、驚きと発見がある。ぼくは子供みたいに家に帰りたくない、ずっとここにいたいって気持ちになる。でも怖くもあるんだ。分かる?」

 中国の古い泉のような色の目を私にさらし、泣きそうな声でそう言うギルバートは、大きな体をしているのに実際小さな少年のように私に映った。恋をした男は皆そうなるのだと、私はその年になってようやく身に染みて分かった。私自身、きっと彼の目にそのように映っていたはずだ。いたたまれないような、叫び出したいような、むずむずした感じが常に胸の中で渦巻いていた。私たちは幼い探検家だった。ふたりできりのない冒険に出ていた。

日本の大学で職が決まったことを告げた日のことは、きっと死ぬまで忘れないだろうと思う。

私たちはパブにいた。

ギルバートは甘いエール、私は夜の闇のようなギネスを飲んでいた。

そこは私たちの家の真ん中らへんに位置する、うまいビールを飲ませるパブで、いつも賑わっていた。

喧騒に満ちた店内で、私はいつ切り出そうかと思い悩んでいたが、ひとくち芳醇な麦の酒を飲み込むと、ぽろりと口から言葉が零れ出た。

「春に、日本に帰る」

 言った途端、目に涙が溢れそうになり、私は慌てた。しかたなくふたくち目を勢いよく飲んだ。

グラスを手で掴んだままギルバートはぴくりともしなかった。

コン、とカウンターにグラスを置いて、彼を見た。

「…どうする?」

 聞いたはいいが、私自身、どうしたいのか分からなかった。別れたくはなかった。だが、ものすごい距離を隔てての、あてのない関係となり、そんなことが続けられる気がしなかった。

ギルバートもふたくち目を含んだ。瞬きを繰り返している。彼は緊張するとそうしてなるべく目を隠すようにした。

「……ぼくは……ロンドンから、離れられない。ここでまだ、研究があるから。きみは、…絶対、日本に戻らなきゃならないの?」

 そして私を見た。責めているような双眼だった。

私は腹立たしかった。私だってしたいことがあり、わざわざイギリスまで来て、ようやく自分の場所を日本の大学で勝ち取ったのだ。生半可な努力ではなかった。ギルバートと同様、私にも研究に対する欲がある。それは今よりずっと強く、自分の恋情を凌駕する力があった。

「戻るよ。ぼくにもぼくの研究がある」

 そうはっきり、叩き付けるように言ってしまった。緑の目をじっと見据えて。

パブを出、連れ立ってうちへと帰り、激しいセックスをした。

もう出て行くのだと思い、声など我慢せず好きなだけ叫び、喘いだ。涙を流しならギルバートにしがみついた。

それから、もう、キスをすることも、セックスをすることもなくなった。そのまま、私は日本に帰った。

メールや手紙の交換すら、私たちはしなかった。なぜだろう。どこか意地になっていた。相手がしてきたらしてやってもいい、とどちらもが思っていたような気がする。

今週末開かれる学会で、うちの大学にギルバートがやってくることになったのを知ったのは、今朝のことだった。

私は紅茶を相変わらずストレートで飲みながら、昨晩来ていたメールのチェックを行っていた。

招かれる教授たちの名前の中に、彼の名を見つけたとき、首のうしろがぞわりとした。

唇を舐めかけると、あの、ギルバートの声がした。

サトシ、きみの唇は。

指の先端で自分のそれにそっと触れる。

時はいっきに遡り、私は古いマンションの一室にいた。

早く私を。

汚れた窓の向こうは雪だ。

そのすべてで探しつくしてくれ。

私はパソコンから離れ、仕事に行く準備を始めた。

ギルバートが好きな色のタイを手に取る。

これは、彼に会うときに。

別のタイを身に付け、家を後にし、雲の覆った空を仰ぐと、口から白く息がたなびいた。

ロンドンの冬。

あの永遠。

きっとまた私たちは、手を繋ぎ、未知なる場所へと足を踏み出す。




おわり 





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ