7stein: ウィリアム・ワーズワース / サミュエル・テイラー・コールリッジ 『リリカル・バラッズ』
Like one who, on a lonely road,
さながら 一人、孤独な道を
Doth walk in fear and dread,
恐れ戦き 歩んでは
And, having once turned round, walks on,
一度振り返って、歩き続ける
And turns no more his head;
そして二度と振り返らない
Because he knows a frightful fiend
何故なら、彼は知っている。恐ろしい悪鬼が
Doth close behind him tread.
彼の背後より近づく事を
Samuel Taylor Coleridge
"The Rime of the Ancient Mariner"
サミュエル・テイラー・コールリッジ
『老水夫の歌』
『フランケンシュタイン』第5章 怪物完成時のヴィクターの回想にも引用
The sounding cataract
とどろく瀑布は
Haunted him like a passion: the tall rock,
情熱の如くつきまとい、高き岩
The mountain, and the deep and gloomy wood,
山、そして、深く小暗い森の
Their colours and their forms, were then to him
その色と形とが、あの日の彼には
An appetite; a feeling, and a love,
一つの欲望。一つの感情、一つの愛であって
That had no need of a remoter charm,
それは必要とせぬ。遠い魅力。
By thought supplied, or any interest
思考が与えるそれも。どんな興味も
Unborrow'd from the eye.
目を借りないそれであっても
William Wordsworth
"Lines written a few miles above Tintern Abbey"
ウィリアム・ワーズワース
『ティンターン僧院の数マイル上流で書かれた詩』
『フランケンシュタイン』第18章 クラ―ヴァルの描写でも引用
今回は、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジによる『リリカル・バラッズ』をご紹介させていただきます。
『リリカル・バラッズ』は、イギリス・ロマン主義文学の先駆けとなった、自然や社会や人間について抒情的(Lyrical)に唄った詩集です。
『フランケンシュタイン』においては、この詩集に掲載された『老水夫の歌』と『ティンターン僧院』が引用されたり、メアリー・シェリーとコールリッジ本人に交流があったりするなど、強い影響を受けています。
今回は、この作品の出版経緯と、特に『フランケンシュタイン』と関わりの深いコールリッジの『老水夫の歌』とワーズワースの『ティンターン僧院』を取り上げて比較していきます。
1.出版経緯-初版と第二版以降の相違点-
この『リリカル・バラッズ』は、詩や文章が追加されて何度か改定されています。大きく分けると、1798年に出版された初版と、1800年出版の第二版以降に分類できます。
初版ではコールリッジが『老水夫の歌』、『乳母の話』、『ナイティンゲール』、『土牢』の4つに対し、残りの19詩をワーズワースが書いています。
冒頭に、コールリッジの『老水夫の歌』があり、最後にワーズワースの『ティンターン僧院』で締めくくられています。
後述しますが、個人的にはこの詩の配置の構造が対比的で深みを増していたと考えています。
第二版では、コールリッジが新たに追加したものはなく、ワーズワースがもう一巻分の新しい詩を加え、全二巻となっています。また、初版に相当する第一巻も順序を大幅に入れ替えています。
その背後には、二人の著者の複雑な事情があります。
コールリッジが書き上げた『クリスタベル(Cristabel)』をワーズワースが第二版への掲載を拒否したのです。
幻想的で吸血鬼の要素を持つ『クリスタベル』が、この作品に載せるには合わないと思うのも仕方がないかもしれません。
仮に『クリスタベル』が載った場合、リリカル(叙情的)バラッズではなく、マジカル(幻想的、魔法的)バラッズになった可能性もあります。
ちなみにこの作品は、メアリー・シェリーやバイロン、ポリドリが集まった1816年のディオダディ荘で朗読され、シェリーが発狂したという経緯があり、『フランケンシュタイン』や、ポリドリ、ブラム・ストーカーに代表される吸血鬼ものにも影響を与えています。
それに加え、笑気ガス(N2O)を頻繁に吸ったり、阿片中毒気味だったコールリッジの退廃的な振る舞いにワーズワースが距離を置きたがったのかもしれません。
晩年には、二人の仲は回復しますが、この頃はお互いに方向性が違っていたのかもしれません。
第二版では、第一巻の最初がワーズワースの『諌めと答え』で、最後が『ティンターン僧院』になっています。
一巻目の冒頭に移動したワーズワースの『諌めと答え』(Expostulation and Reply)は、書籍などから得られる死んだ知識よりも、”自然”から直接受け取る感性の方を大事にしようと訴えています。キーツの「科学は虹を破壊した」などに通じる、ロマン主義らしい主張です。
また、初版では冒頭にあった『老水夫の歌』は一巻の最後から二番目、つまり『ティンターン』の前に移動しています。
一巻の最初と最後をワーズワースの自然観が色濃く出た『諌めと答え』と『ティンターン僧院』にした事で、コールリッジの『老水夫の歌』がオブラートに包まれた印象を受けます。
第二巻は、全てワーズワースの詩となっています。そして、第二巻の冒頭には、『鹿跳びの泉』が、最後には『マイケル』が掲載されています。
第二巻冒頭の『鹿跳びの泉』(Hart Leap Well)は、『老水夫の歌』と同じ様に生物を傷つけた事にへの自然の復讐がテーマとなっています。
ある騎士が残酷な鹿狩りをした後、その地に建物を建てたものの、”自然”の怒りに触れて異変が起こり廃墟になったという内容です。
同じテーマの『老水夫の歌』に比べると迫力や深みがない様に感じます。あえて二巻の最初に持ってきたのはワーズワースの対抗心なのかもしれません。
第二巻の最後の『マイケル(Michael, a Pastoral)』は、慎ましい農村での生活と都会での腐敗した生活のギャップを批判しています。自然豊かな湖水地方に長年暮らしたワーズワースの心情が感じられます。
初版から第二版の変更点についてですが、確かにワーズワースの方が書いた文量も多く、彼に全体を統括し色々と変更する権利はあるでしょう。しかし、第二版のやり方は少しワーズワースの意図が入りすぎた感があります。
初版と第二版はもはや別物で、第二版以降は、二人の共著ではなく、分量的にもテーマ的にも、ワーズワース一人の作品になってしまったのかもしれません。
2.ワーズワースの『ティンターン僧院』
『ティンターン僧院』(Lines written a few miles above Tintern Abbey)は廃墟となったティンターンを訪れた際の回想に絡ませながら、自然の偉大さと優しさを唄っています。
詩の最後から8行目で半ば自分を投影させながら”A worshipper of Nature”(自然の崇拝者)と表現していたり、最後の段落では、
Knowing that Nature never did betray the heart that loved her.
自然はそれを愛するものの心を裏切ることは決してないと知っている。
などと訴えており、ワーズワースの自然崇拝的な世界観が色濃く出ています。
『フランケンシュタイン』においては、クラーヴァルを回想しているときに引用されています。
クラーヴァルはこの詩とは対照的に、”自然”に何も悪い事をしていないのに怪物によって殺されてしまいます。
これは、自然ではなく人工的に生まれた怪物が、自然の崇拝者を壊していく、産業化の悲劇を描いているのかもしれません。
3.コールリッジの『老水夫の歌』
『老水夫の歌』(The Rime of the Ancient Mariner)は『失楽園』の次に『フランケンシュタイン』に影響を与えた作品といえるでしょう。
そもそも、『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリー自身が、当時父ゴドウィンの家に出入りしていたコールリッジ本人の『老水夫の歌』の朗読を聞いています。
これで影響を受けない訳がありません。
『老水夫の歌』は物語詩となっています。
主人公の老水夫は、昔、船に乗っていた時に、船員達になついていたアルバトロス(アホウドリ)を矢で撃ち殺してしまいます。殺した理由はあまり描かれていません。生命軽視の気まぐれにすぎなかったのかもしれません。
その結果、アルバトロスを愛していた精霊が怒り、船は異常気象に飲み込まれ、船員達も次々と死んでいきます。老水夫は、罪の証として殺したアルバトロスを首に括り付けられます。
船員の死体が勝手に動いて、船を操縦したりするなど超常的な事が次々と起こります。
死者が動き出すなどの、この幻想的な描写は、『フランケンシュタイン』の怪物の誕生にも影響を受けたのかもしれません。
船員が全て死に絶え、南極の広い海の中でたった一人になった老水夫は、アルバトロスを殺した事を後悔します。アルバトロスを殺して、老水夫が呪われる所は、怪物の花嫁を殺したヴィクターの悲劇を連想させます。
その後、孤独な老水夫は、海に現れた水蛇の美しさを讃えた事で、生命を救われます。
水蛇=サタン=怪物という関係が成立するのであれば、怪物を罵り命を失ったヴィクターとは非常に対照的です。
ヴィクターが罪を後悔し、怪物を認めていれば救われていたのでしょうか? それとも、怪物の方が老水夫と同じ立場だったのでしょうか。
これが所要な物語の粗筋ですが、改心した老水夫が結婚式の客人に自分の体験を語るという入れ子構造を取っています。
この構造も、『フランケンシュタイン』のヴィクターがウォルトンに自分の体験を聞かせる入れ子構造に似ています。
また、最後に老水夫の話を聞いた客人は改心するのですが、ヴィクターの話を聞いたウォルトンも北極探検を諦めて国に帰る点も似ています。
しかしながら、老水夫が
He prayeth well who loveth well both man and bird and beast.
彼は、人間も鳥も獣もすべての生命を愛している。
と言う文章の様に、生命への愛を説くのに対し、ヴィクターは最後まで怪物を殺せと言っている点は対照的です。
恐怖に満ちた幻想が多いながらも生命への愛がテーマにあるのは、『フランケンシュタイン』にも通じる所があります。
4.『老水夫の歌』と『ティンターン僧院』の対比
『老水夫の歌』と『ティンターン僧院』は、いわゆる”自然”を同じテーマにしていながら、前者は荒れ狂い復讐する”自然”への畏怖を描き、後者は優しく従順な”自然”への崇拝という対比になっている事は多くの方が指摘しています。
コールリッジとワーズワースの自然観の違いもにじみ出ている様に感じます。
そこから更にもう一歩深く進んで考察していきます。
『老水夫の歌』は、幻想的恐怖的な要素が強いものの、老水夫はアッシジのフランチェスコの様に全ての生命を愛せよと説いています。つまり、個としての”生命”が中心にある様に感じられます。
一方、『ティンターン』の方は、穏やかで、”自然”(Nature)という言葉が何度も出てきますが、その”自然”は木や川などの全体性で、他の動物などの”生命”、あるいは個についての言及があまりありません。つまり、”自然”、あるいは生態系という全体を中心にしているといえるでしょう。
ロマン主義が環境思想の萌芽として語られる事もありますが、まさにこれは、自然/全体性か生命/個別性かの対立とも取れるでしょう。
SF的に言えば、ガイア理論の影響が見られるアシモフのファウンデーションシリーズの後期などと、人間以外の種の知性化を描いたチャペックの『山椒魚戦争』やブリンの知性化シリーズなどの対立を予期させます。
あるいは、『デューン』の砂虫と『ナウシカ』の王蟲の扱いの対比ともいえるかもしれません。
初版では、二作品が冒頭と巻末に置かれる事で、この対比が印象的になっていましたが、第二版以降はワーズワースの自然観に染められて、対比構造が薄くなってしまいました。
しかしながら、この対比構造は、『フランケンシュタイン』のヴィクターと怪物の語りに引き継がれたと言えるでしょう。
ワーズワースとコールリッジの作品は、『フランケンシュタイン』やロマン主義文学だけでなく、最近の作品などにも影響を及ぼしています。
例えば、コニー・ウィリスの『航路(passage)』では、ブライアリー先生の愛読書が『老水夫の歌』で、作中でも多く引用されています。
また、ワーズワースと言えば、『湖水地方案内』や、虹の詩も有名です。
これを機に、二人の偉大な詩人の連携が産んだ『リリカル・バラッズ』を手に取ってもらえると幸いです。