6stein: 伊藤計劃・円城塔 『屍者の帝国』
今回は、伊藤計劃・円城塔の『屍者の帝国』について、小説と映画の両面から紹介していきます。
映画化された事もあり有名ですので、一般的な紹介はせず、主に、ザ・ワンことフランケンシュタインの怪物に焦点を当てて、原作と映画の違いについて大きく三点について述べていきます。
『屍者の帝国』の原作、映画のネタバレや偏った意見がありますのでご注意下さい。
1.登場人物の設定
原作では、史実、文学作品等の人物が大量に登場するのですが、映画では描きにくいため、いくつかの人物が取り上げられ、キャラクターとしての描写が深くなっています。
まず、映画では、原作と違って、フライデーはワトソンの友人になっています。
これによって、設定が複雑であるものの物語としては分かりやすくなりました。
ただ、見ず知らずの誰かの死体であるフライデーに新たな意志が生じる原作の展開と、友達が生前の意識を取り戻す(新たな意志の可能性もありますが)映画の展開では、かなりテーマが異なっています。
この辺りは、『フランケンシュタイン』の原作では、怪物は特に誰の脳から創られたかを言及しないのに対し、映画では犯罪者の脳とした事と類似しているかもしれません。
また、ハダリーの活躍が増え、人間味?が増しています。
原作でも、ハダリーが途中から仲間になり、死者として、怪物と戦ったりと活躍しますが、人間らしい振る舞いをするだけで、実は機械的に考えているだけだと明かされます。
原作の『未来のイヴ』に忠実な描き方となっています。
一方、映画では意志を持ち、苦悩する存在として描いています。ハダリーが、人間らしさを得る事も、映画の一つのテーマです。この辺りは、『フランケンシュタイン』でも、怪物を通して間接的に描かれていますので、影響を受けているのでしょう。
そして、ザ・ワンこと、怪物も、映画化によってキャラクターは強化されています。ですが、悪役の方向になってしまっています。それも、原作と違って、『フランケンシュタイン』ないでの怪物の説明があまりないため、少し共感しにくくなっています。
怪物の持っていた、人間とは違う存在であるという苦悩などの要素が、同じ人間ではない存在のフライデーやハダリーに分散されてしまい、怪物には悪役側しか残っていなかったのかもしれません。
2.意志発生の仮説と屍者化技術の発展
原作に登場する、細菌による人類の意志の発生と屍者化技術の関係に関する仮説は、カットされています。説明に時間がかかる割に、結末にそこまで関わらないので、仕方ないのかもしれません。
その仮説とは、人類は、ある菌類によって意志を捻じ曲げられており、その菌類の色々な派閥のせめぎ合いが、人間の複雑な意識を生んだというものです。
しかし、屍者化技術は、特定の派閥の菌類しか生き残らない状況を生み出します。そのため、ロボットの様な単純な意識しか生まれず、屍者達は、悩む事もありません。
更に、死者が増えていくにつれて、特定の派閥だけが生き残る事になり、全ての人類が意志を持たない屍者化してしまう破滅が待っています。
原作中では、怪物がその仮説を述べて、それを防ぐためにワトソンたちと共闘するのですが、途中で怪物が花嫁を創造して姿をくらまします。
その為、この仮説の真偽のほどは不明です。怪物が花嫁を得たいが為についた嘘かもしれません。
意識の起源についての仮説を提唱しながら、屍者化技術の行き着く先にある破滅を、現実の工業化の視点に近い形で指摘しています。
この辺りは、『R.U.R』やアシモフのロボットものにある様な、フランケンシュタイン・コンプレックスの産業工業的な側面に通じるテーマでもあります。
また、この仮説は、伊藤計劃の『虐殺器官』や『ハーモニー』のテーマに通じるものでもあるだけに触れなかったのは残念です。
3.怪物の最期
怪物がラスボスとなり、最後に、ワトソンが殺してしまう展開は、『フランケンシュタイン』が好きな私に取っては、非常に残念です。
原作では、暗躍している怪物をワトソンたちが追いかける展開は同じですが、終盤で、ワトソンたちと共闘し、殺される事はありません。
最後は、ワトソン達と共闘中に、自分の花嫁を実体化して逃げるという終わりです。
怪物に一杯食わされた感はあるのですが、この展開の方が救いがあります
映画で、ハダリーを花嫁の素材に使うのは、現実的です。
原作中では、情報=エネルギー=物質の関係から、花嫁の情報自体から、花嫁の肉体と意識を創造してしまいます。
情報が実体化する事は、SFらしいものの、少しわかりづらいです。
また、ハダリーが怪物の花嫁になる事を拒絶するシーンは、 『フランケンシュタインの花嫁』 の最後と同じ様に、言葉にならない絶叫になる事を期待していましたが、そうはなりませんでした。怪物には、「She hate me like other」の台詞を言って欲しかったのですが、そちらもありませんでした。
最終的に、怪物は花嫁を手に入れる事が出来ず、ワトソンに殺されます。
怪物が半世紀以上抱いていた恋心よりも、ワトソンとフライデーのせいぜい二十年位しかない友情の方が打ち勝ってしまいます。
それでも、ワトソンが、最後にハダリーかフライデーと結ばれるなら、まだ多少は納得がいきます。ただ、最後は二人とも疎遠になるので、怪物の犠牲は何だったのかと思ってしまいます。
怪物が、フライデーを必死で蘇らせようとしているワトソンなら自分の孤独が分かると思ったという台詞には、本当に同じ気持ちです。
物語の構成上、最終的に怪物を殺す展開しかなかったとしても、もう少しワトソンが怪物に共感や理解を示してくれてもよかったと思います。
映画化作品では、怪物は救われないのが、フランケンシュタインものの宿命なのでしょうか。
『フランケンシュタイン』への愛から、否定的な意見が多くなってしまったかもしれません。
日本でも、一部、舞台やガジェットにスチームパンク的要素を持った作品は既にいくつかあるものの、文学作品や史実とも絡ませているこの様な作品は多くありません。
映画、原作共にそれぞれ異なった魅力を持った作品です。
『屍者の帝国』をきっかけに、『フランケンシュタイン』にも興味を持ってもらえると幸いです。