4stein: ジョン・ミルトン 『失楽園』(Paradise Lost)
What though the field be lost?
一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?
All is not lost; th’ unconquerable will,
すべて失ったわけではない。まだ、不屈不撓の意志
And study of revenge, immortal hate,
復讐への飽くなき心、永久の憎悪
And courage never to submit or yield.
降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ
ジョン・ミルトン『失楽園』第1巻 105-108行 サタンの台詞
今回は、ジョン・ミルトンの『失楽園(Paradise Lost)』をご紹介させていただきます。
『失楽園』は、聖書の失楽園を題材にした、フランケンシュタインを含む様々な物語の原型となっている一大叙事詩です。
そして、『フランケンシュタイン』に最も影響を与えた作品と言っても過言ではないでしょう。物語の構造的に『失楽園』の創造主とサタンの関係は、ヴィクターと怪物の関係のモチーフです。更に、『フランケンシュタイン』の作中でも、怪物が『失楽園』を読み、アダムとサタンに感情移入しています。
今回は、『フランケンシュタイン』との関係性を指摘しつつ、『失楽園』の6つの魅力を語りたいと思います。
1.あらすじ
一般に普及している第二版は、全部で12巻に分かれています。
大まかな物語の流れとしては以下の通りです。
1-4巻:神に敗れて地獄に落ちたサタンが復讐の為、アダムとイヴを誘惑するために地球へ向かう。
5-6巻:ラファエルによる、サタン率いる堕天使と天使達との戦いの回想。
7-8巻:神による世界の創造や仕組みに関する解説。
9-10巻:サタンの誘惑によるアダムとイヴの堕落。
11-12巻: ミカエルによる未来の予言(アダムの子孫からイエスの救済まで)アダムとイヴの失楽園
創世記の失楽園の話では、文字通りアダムとイヴが知恵の木を食べてエデンの園を追い出されるだけです。
しかし、こちらでは、その前日談に当たるミカエル率いる天使とサタン率いる堕天使の戦いも描き、後日談に当たる、アダム達の子孫の活躍からイエスによる人類の救済までも予言と言う形で軽く言及されています。
失楽園以前の天使と堕天使の活躍の方が目立ってはいますが、これ一つでキリスト教の歴史を大雑把に俯瞰できるとも言えるかもしれません。
ミルトンがそれだけすべてを詰め込んだ作品とも言えます。
2.著者ジョン・ミルトン
著者であるジョン・ミルトンの生涯もかなり波乱万丈に富んでいます。
彼は、英国の清教徒として生まれ、将来は聖職者か宗教詩人になろうと考えていました。
しかし清教徒革命に巻き込まれ、クロムウェルの元で長い間、政務に携わる事になります。
クロムウェルの死後、王政復古が起こり、ミルトンも死刑は免れたものの、地位も視力も失い、不遇の晩年を迎えます。その様な過酷な状況下で口述(既に目が見えなく書く事が出来ない為)したのがこの『失楽園』です。
さらに彼は、『失楽園』の後に、後日談ともいえるイエスがサタンを屈服させる『復楽園』や、視力を失ったサムソンの最期の戦いを描いた『闘士サムソン』を書いています。
そして、一般に広く流布している『失楽園』の第二版を出版した同じ年に息を引き取りました。
正義を貫いたはずなのに、陰謀に巻き込まれて地位も視力も失い不遇の晩年となる点は、『フランケンシュタイン』のド・ラセー老人を連想させます。
メアリー・シェリーはどこかでミルトンのイメージを重ね合わせていたのかもしれません。
3.Sceince Fictionの萌芽
SFはおろか、Scienceという言葉が生まれる以前の作品ですが、SFの萌芽も一部感じられます。
堕落前のアダムとイヴが住むエデンの描写はユートピア的ですし、地獄の描写はディストピアを連想させます。
また6巻のサタンら堕天使と天使との戦いで、サタンが大砲を発明して使う描写も考えさせられます。
まだ見つからない間は、誰の目にも不可能だと思われたものでも、一旦見つかってしまえば、容易に行えるようにという技術の特性を説いています。
更に人類の誰かがサタンと同様の発明をして、戦争と殺戮で人々を苦しめるかもしれないと警告しています。ミルトンの後の時代では、大砲よりも更に残酷な兵器が生まれるのですが。
技術に対するSF的な警鐘の走りといえるでしょう。
第8巻では、天体の運行についてアダムに教える形で色々と語っています。
そこでは、当時、一般的だった天動説だけでなく、異端視されていた地動説も紹介しています。
ミルトンは地動説も知っていましたし、幽閉されていた晩年のガリレオ本人にも会っています。
また、同巻では、他の恒星にも惑星がありそこに生命、 今で言うところの地球外生命体がいる可能性を肯定的に書いています。これは伝統的なキリスト教としては異端であり、ブルーノの宇宙観に影響を受けているかもしれません。
当時としては、ミルトンは科学に対する寛容さと先見の明を持っていたのかもしれません。
『フランケンシュタイン』はSFの元祖と言われていますが、既に『失楽園』にもSFの萌芽があったのかもしれません。
4.メアリー・シェリーの関係者達への影響
『失楽園』の影響を受けているのは、『フランケンシュタイン』だけではありません。
当然、メアリー・シェリーの関係者たちも『失楽園』を愛読し影響を受けています。
シェリー夫妻の知人バイロンからは『カイン』が、メアリーの夫パーシー・シェリーからは『解放されたプロメテウス』 がそれぞれ書かれています。
この二つの作品は『フランケンシュタイン』とも関わりが深いので、別の機会に詳しく紹介したいと思います。
この二人はイギリスロマン派詩人として有名ですが、中でも過激だったため、同じロマン派詩人のサウジーから『失楽園』のサタンをモデルにSatanic School(悪魔派)とすら呼ばれているほどの愛読者です。
5.悪魔サタンの魅力
『失楽園』が単なる神話の枠組みから外れているのは、勧善懲悪の物語であるはずなのに、悪であるサタンが魅力的だと言う点です。
前半6巻までの主役は、サタンと言っても過言ではありません。
この悪役の方が目立ってしまう特徴は、『フランケンシュタイン』にも引き継がれています。
一般的には悪役と見なされがちな、怪物は雄弁で、醜い容姿ながら魅力的です。
その怪物は、自分が新しいアダムでありサタンであると認識しています。
しかし一方で、ヴィクターもある面においては、生命の秘密という知恵の実を食したアダムであり、神の座に登ろうとしたサタンであると言えるのではないのでしょうか。
『失楽園』では、悪役のサタンが魅力的とはいえ、善悪はきちんと分けられています。
しかし、『フランケンシュタイン』では、 ヴィクターと怪物のどちらが善悪なのかが曖昧で、どちらにも感情移入できる構造になっています。
また、『失楽園』のサタンと『フランケンシュタイン』の怪物は様々な共通点を持っていますが、両者の決定的な違いは、本当に孤独かどうかです。
作中でも怪物が嘆いている様に、サタンにも仲間の堕天使たちがいます。
しかし、怪物には、アダムの伴侶たるイヴも、サタンの腹心たるベルゼバブもいません。
全知全能の創造主に抗ったサタンの苦悩さえも、怪物の本当の孤独から来る苦悩に比べれば些細な事なのかもしれません。
6.生の意義への問い
That we were formd then saist thou?
我々は神によって造られたものだと言うのか?
サタンは第5巻でこう言って、自分たち天使が神によって創られた事を否定します。
そして、私たちの力は私たち自身のものだ(Our puissance is our own)から、神に従う必要はなく、反逆を正当化しようとします。
キリスト教の教義としては、神が天使も含めた被造物を全て造ったという考えのため、これはサタンの詭弁です。
しかし、創造主の手ではなく、別の何者かあるいは自発的に生命が誕生したのであれば、人間が生命を作る事も可能でしょう。
ここに『フランケンシュタイン』の生命創造のテーマが見え隠れしています。
もう一人の主人公アダムも自らの生についてかなり悩んでいます。
Did I request thee, Maker, from my clay
創造主よ、私は頼んだだろうか? 私を土塊から
To mould Me man? Did I solicit thee
人の姿に創ってくれと。私はお願いしただろうか?
From darkness to promote me?
暗黒から起こしてくれと。
第10巻 743-745行
この台詞は、知恵の実を食べて罪を犯したアダムが、神が自らを創造した事を呪ってしまう場面です。
「この世に産んでくれと頼んではいない」というこの叫びは、現在でも子供が親に対して言う事があります。
そしてこの部分は、『フランケンシュタイン』の冒頭に引用されています。
自らの生の醜い真実を知ってしまった怪物も同じ思いを抱いた事でしょう。
更に、アダムは罪悪感に駆られ、自らの死を求めて嘆き続きます。
それは自分だけの苦しみに終わりません。自分たちの罪によって彼らの子孫が苦しむことについて嘆きます。
それに対し、イヴは”死”を私たちの方から探そう(Let us seek Death)と提案します。
恐怖におびえながら生きる続ける位ならば、今すぐに自殺をして、自分たちの死によって(子孫達)の破滅を破壊しよう(Destruction with destruction to destroy.)と。
その後、アダムが自殺を否定するので二人とも死ぬことはありませんが、彼らが罪の意識から自殺まで考えるのは印象的です。
これは、フランケンシュタインの怪物が北極の果てで自殺を試みる最期にもつながります。
怪物が自殺を考える際に最も影響を受けたのは、後にウェルテル効果と言われるほど自殺者を出したゲーテの『若きウェルテルの悩み』です。
伴侶を破壊される事で失恋した怪物が、ウェルテルと同じ道を歩もうとする流れです。
しかし、自分の様な存在が生まれない様という、子孫の事まで考えて、北極の果てで自らを灰にしようと試みるのは、むしろ『失楽園』のこの部分の影響でしょう。
怪物にとっては、自分が人工的に創られたという真実自体が原罪だったのかもしれません。
『失楽園』の最後では、アダムとイヴは絶望してエデンを追い出されるのではなく、悲しみの中にも希望を持って、天使ミカエルに連れられて穏やかに楽園を出ます。
楽園追放という悲劇ですが、イエスの救済が説かれており、一筋の希望は残されています。
しかし、『フランケンシュタイン』の怪物には、苦難を共にするイヴの様な伴侶もいませんし、一筋の明るい未来を示す天使も現れません。
怪物はただ一人、絶望して北極の果てへと消えていきます。その地の果てにも、ベルゼバブの様な親友は待っていません。
怪物の救済者は、親友は、いつまでも現れないのでしょうか?