3stein: ジェームズ・ホエール 『フランケンシュタインの花嫁』(映画)
Old Man: We are friends, you and I.
老人:わしとお主は友達じゃ
Monster: Alone...Bad. Friend...Good.
怪物:ヒトリ ワルイ トモダチ イイ
Stranger: Friend? This is the fiend!
旅人: 友達? そいつは、悪鬼だ!
盲目の老人、怪物、及び二人を見た旅人の台詞
今回は、ジェームズ・ホエール監督の映画『フランケンシュタインの花嫁(Bride of Frankenstein )』(1935年)を紹介いたします。
この『花嫁』は、前回の映画『フランケンシュタイン』の続編に当たります。ユニバーサルのフランケンシュタイン映画シリーズはまだ何作か続きますが、ジェームズ・ホエールが監督した作品はこの『花嫁』が最後です。また、以降の作品は、創造者フランケンシュタインの息子だったりと、段々と怪物が単なる道具となる要素が強くなっています。
そういった点で、この作品が原作を意識した最後の作品かもしれません。
今回は、原作を越えていたりする注目すべき6点について述べていきたいと思います。
1.冒頭での原作者の登場
映画の冒頭には、原作者メアリー・シェリーとパーシー・シェリー、バイロンが会話するシーンがあります。
ここで、メアリーの口から、前作、映画『フランケンシュタイン』の怪物は死んでいなかったと告げられ、物語が始まります。
話の内容的には、特につながりがある訳でもなく、この部分を除いても流れは成立します。
ただ、原作及び、ポリドリの『吸血鬼』が生まれるきっかけとなったディオダディ荘の怪奇談義をモチーフにしている構造となっています。(ポリドリはいませんが、カメラマン役でしょうか?)
また、原作の入れ子構造を真似していたり、メアリー・シェリー役と怪物の花嫁役が同じエルザ・ランチェスターだったりと細かなウィットが加わっています。
冒頭で原作者を登場させたのは、ホエールなりの原作への敬意だったのかもしれません。
2.盲目の老人との交流
前作で死んだと思われた怪物は、誰にも受け入れられず暴れまわりますが、ついに負傷します。
傷を負い途方に暮れた怪物の耳に音楽が聞こえます。その音に引き寄せられて、小さな小屋に入りました。
そこにいたのは、弦楽器を奏でている盲目の老人でした。
老人は目が見えないので怪物の正体に気付かず、友人として優しく振る舞います。
怪物の方も彼の優しさに触れて穏やかになり、二人で一緒に暮らし、その間に怪物は、簡単な言葉を習得します。
しかし、ある日、旅人が訪れ、老人が友達だと紹介する怪物を見て、
「友達? そいつは、悪鬼だ!(Friend? This is the fiend!)」と、真実を告げます。
そのまま、旅人と怪物は争い、老人の家も焼けてしまい、怪物は居場所を無くします。
個人的には、悪鬼と叫んだ旅人の方が、怪物にとっての悪鬼だと感じてしまいます。
ちなみに、この旅人の台詞は、綴りと発音が似ているFriendとFiendをひっかけているのでしょう。
監督がそこまで意識していたかはわかりませんが、原作中でも、FriendとFiendを掛けた言葉が色々と出てきます。原作中では怪物の事を、Fiend(悪鬼)と25回も呼んでおり、これは最多のMonsterに次ぐ回数です。
更に、原作中で引用されているコールリッジの『老水夫の歌』の一節にもFiendが含まれています。
このシーンは、明らかに原作の盲目のド・ラセー老人との交流をモチーフにしています。
こちらの怪物の方は、片言で幼児並みの喋り方しか習得できない点は残念です。
ただ、原作では叶わなかった盲目の老人との暮らしが実現します。
二人が密かに暮らす様子は本当に微笑ましいです。
二人だけの閉じた世界であればきっと永遠に幸せであったはずなのに、真実を告げた旅人によって崩壊するのは残念ですが、テーマに深みを与えています。
3.シューベルトのアヴェ・マリア
この感動的な怪物と老人の触れ合いを更に魅力的にしているのが、有名なシューベルトのアヴェ・マリア(正確にはエレンの歌第3番)です。
怪物が心を惹かれて小屋に入るきっかけとなった音楽が、老人が弦楽器で弾いているアヴェ・マリアです。
少し話題がそれますが、原作小説でもド・ラセー老人が具体的な曲名は分かりませんが、何かの音楽を奏でている場面があります。しかし、原作で老人が弾いている楽器はヴァイオリンの様な弓を使って擦る擦弦楽器ではなく、指や爪で弾く撥弦楽器のギターです。
映画のイメージが強すぎたのか、優雅な感じのヴァイオリンではなくギター(時代的にエレキギターはないのでクラシックギターですが)だった事が個人的には少し驚いてしまいました。
老人の演奏は途中で終わりますが、BGMとしてアヴェ・マリアは流れ続けます。
その間、怪物は横たわり、背後の壁には十字架にかけられたキリスト像が見え、孤独だった自分に友人を与えてくれたことに老人が祈りを捧げるシーンが流れます。
非常に感動的なシーンで、音楽も素晴らしいです。
ただ、シューベルトのエレンの歌が作られたのは1825年なのに対し、原作の舞台は18世紀末、原作の初版が書かれたのも1818年であり、時代錯誤が起きて矛盾しています。
映画の方も、冒頭にパーシー・シェリーが登場しますが、彼は1822年に亡くなっているので、それ以前と考えられなくもありません。(どうも、18世紀初頭より後の時代の様な気もするのですが)
監督のジェームズ・ホエールが、この時代錯誤について気付いていたかは分かりません。
アヴェ・マリアは、シューベルト以外にも多くの人が作曲している讃美歌ですので、、それらの中には時代錯誤にならない作品もあります。テーマ的にはこれらでも、キリスト教的な要素を出す分には十分だった気もします。
監督が、時代錯誤に気付いていたとして、あえて入れたのは、知名度を取ったのでしょうか、シェリーと同じロマン派詩人スコットの詩がベースで合っていると感じたからでしょうか。
時代錯誤の回避、キリスト教的要素、曲が有名という事であれば、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス(1791年)でも良かったのかもしれません。
死体(corpus)から創られた怪物の背後に、キリストの聖体(Corpus)が映し出され、BGMがアヴェ・ヴェルム・コルプスなのは皮肉すぎるかもしれませんが。
音楽と絡ませる事ができるのは、小説にはない映画の強みです。このシーンと音楽の組み合わせが、物悲しくも美しいハーモニーを奏でています。
4.プレトリウス博士の暗躍
この作品の鍵を握る存在にプレトリウス博士という新たな人物がいます。
彼は、フランケンシュタインとは違う方法で、小さな人造人間を創造しました。
映像技術が発展した現在では凄さが分からないかもしれませんが、彼が創造した小さな人造人間の映像も、一見の価値があります。
プレトリウスは、フランケンシュタインの元を訪れ、二人で協力して完璧な人造人間を作る事を提案します。
フランケンシュタインは危うくその提案に乗りかけますが、妻エリザベスの説得によって思い留まります。
けれどもプレトリウスは諦めず、自分一人で女性の人造人間を作ろうとして墓場を訪れます。
そこに老人の家から追い出された怪物が現れますが、彼は他人と異なり怪物にまったく驚きません。
それどころか、怪物に友達(花嫁)を造る事を約束して、エリザベスを誘拐させるほどです。
エリザベスを人質に取られたフランケンシュタインは止む無く(途中で夢中になってしまうのですが)プレトリウス博士に協力して、怪物の花嫁を創造する事になります。
映画のフランケンシュタインは、主人公という事もあって、怪物を創造してしまうものの完全な悪としては描いていません。
一方、プレストリウスは完全な悪、いわゆるマッド・サイエンティストとして描かれており、独特な魅力があり科学者の在り方についても考えさせられます。
5.怪物の花嫁の創造
フランケンシュタインとプレトリウスによって、ついに女性の人造人間が誕生します。”花嫁”の方は、特徴的な髪型と顔付きではあるものの、怪物とは違って人間に近い容姿をしています。
そして、怪物は、生まれたばかりの花嫁に近づいて手を握り、「トモダチ?(Friend?)」と嬉しそうに問いかけます。
花嫁の答えは、言葉にならない絶叫による拒絶でした。
それを受けて、穏やかだった怪物の表情が一瞬で変貌し、「アノコ オレノコトキライ ミンナト オナジ(She hate me. like other)」と言って、絶望へと突き落とされます。
原作では、怪物の伴侶が出来る前に、フランケンシュタインが破壊(殺害?)してしまいます。
しかし、映画では実際に完成して怪物も花嫁を得て幸せに...という訳にはいきません。
仮に、原作でも伴侶が出来たとしても、伴侶が怪物を認めてくれるとは限らなかったのです。
花嫁の方は怪物には拒絶反応を示したのに、フランケンシュタインの方には自ら親しげに近づいていきます。醜い者、人造人間同士だからといって惹かれる訳ではなかったのです。
映画での怪物の設定に違いがあるとはいえ、ある意味で原作への悲しい解答の一つと
なっています。
6.怪物の最期
花嫁に拒絶され絶望した怪物は、城を爆破するレバーに手を掛けます。
そこに、フランケンシュタインを心配したエリザベスが訪れます。自らの死を顧みず、互いを心配する姿に怪物は、「イケ オマエタチハ イキロ!(Yes go. You live!) 」と告げて二人を逃がします。
その後、怪物はプレトリウスを捕まえて花嫁と共に、「オマエハ ノコレ オレタチハ シガフサワシイ (You stay. We belong dead)」と言い、レバーを降ろして自爆します。
絶望しながらも創造者とその花嫁を傷つけずに逃がす事に、怪物の優しさが現れています。
原作では、花嫁を殺された(壊された?)怪物が、復讐も込めてフランケンシュタインの花嫁のエリザベスを殺してしまいます。ですがそれでも、創造者のヴィクターに対しては愛憎こもった感情を持ち続けていました。
映画の方では、怪物が内に持っていた優しさが少しだけ良い方向に働いたと言えるかもしれません。
また、自分の運命を悟り、自ら死を選ぶのは、原作の最期にも通じるものがあります。
怪物の花嫁が実際に誕生するという原作の続きを描いた点が、この作品の一番の特徴です。
映画『フランケンシュタイン』の続編であるだけでなく、メアリー・シェリーの原作の続編にもなっています。そういった点でも、名作と呼ぶに相応しい作品です。