16stein: ケネス・ブラナー『メアリー・シェリーのフランケンシュタイン(Mary Shelley's Frankenstein) 』(映画)
今回は、ケネス・ブラナー監督/主演『メアリー・シェリーのフランケンシュタイン(Mary Shelley's Frankenstein) 』(1994) を紹介します。
原作に忠実に作ったと言われている作品です。
映画の小説版『フランケンシュタイン The novel of the film』(リアノー・フライシャー著/日暮雅通訳)も交えつつ、紹介していきます。
1.登場人物の比較
原作に登場するヴィクター・フランケンシュタインを始め、エリザベス、クラーヴァル、ジュスティーヌ、弟ウィリアムも重要な役として登場します。
名前もほぼ同じなのですが、何故か父親がアルフォンスからカール・ピーターになっています。
ただ、映画でも小説でも次男のアーネストは完全にいなかった事にされてます。原作でも存在感が薄く途中から消息不明になるので人員削減の点では理に適っていますが。
2.シラーの登場?
1793年頃、ヴィクターが大学でクレンペ教授と口論した後、クラーヴァルが話しかけて親友になりますが、その場面で二人の間を割って通った背の高い人物がいます。その人物が新入生で「運動部の花形のシラー」と呼ばれていました。
シラーといえば、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』と共に、Sturm und Drangを起こした有名なあのフリードリッヒ・シラーなのではと考える人もいるでしょう。
確かにフリードリヒ・シラーはドイツの人でこの時代に生きています。ただ1793年の時点では既に大学を卒業して作家として活躍しており、矛盾しています。
更に小説版では、後にシラーがコレラで死んだと書いてあるので、ただの同名の一般人の様です。
遊びでシラーを入れたため、時代考証までは考えていなかったのでしょうか?
何か別な意図があったのかもしれませんが分かりませんでした。
あるいは、Sturm und Drangの人々と絡ませたかったのであれば、シラーっぽい人を入れるよりも、シラーの『群盗』あるいはゲーテの『若きウェルテルの悩み』の演劇のシーンを入れれば良かった気がします。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んで、自殺した青年を怪物の素材にする方が効率的かもしれません。
3.科学の光と影
この作品は、18世紀末当時の科学や医学について触れつつ、科学の光と影を描いています。
小説版では、ウォルトンが北極点到達を目指した1794年当時の状況について、ベーリング海峡の発見などが具体的に書かれています。
これは、原作の注釈にも入れて欲しいほどです。これがないと現代の読者には北極点到達の凄さが実感できない気がします。
小説で、自然災害や伝染病による犠牲に対して、科学、医学が反抗し始めたと記したり、ウォルトンが自然に対して反抗的な感情を抱いているなど、自然の冷酷さに対して否定的、裏を返せば科学肯定的な描写が見られます。一方、ヴィクターの行為を自然の罰と記すなど、科学に対する影の側面も見られます。
時代背景や『リリカルバラッズ』の引用などに自然との対立の構図が隠れているものの、原作ではその構図があまり明確ではないので、この作品では、明確にした面も評価できます。
原作に登場するヴァルトマン教授とクレンペ教授も、科学の光と影を象徴する重要な役割を担っています。
原作ではヴィクターが一人で怪物を創りますが、この作品では、ヴァルトマンの死後、彼が行っていた基礎研究を引き継いで怪物を造った設定になっています。
ヴァルトマンがマッド・サイエンティスト的に描かれているのは少し残念ですが、一人で一から怪物を創造するよりはこちらの方がリアリティがあります。
また、ヴィクターが大学入学当初にクレンペ教授にパラケルススやアグリッパ等の錬金術を全否定されるシーンが再現されています。
作中ではクレンペ教授が倫理的で、近代科学的な考え方をしている様に描いていますが、原作ではその様な描写は強くありません。
原作はヴィクター視点の為、クレンペ教授を好意的に描写していない側面もありますが、クレンペを善として描くのは余りにも単純化しすぎな気がします。
この時代は、哲学(Philosophy)の一部に過ぎなかった自然哲学(Natural Philosophy)が科学(Science)へと変わり始めた時代です。、その過程で科学が、哲学的倫理的なものを切り落とした点が、ロマン主義者等から冷たい哲学(Cold Philosophy)と批判されています。
その点を考慮に入れると、ヴァルトマンではなくクレンペの方が、現代的な科学の問題をはらんでいるとも考えられます。
あるいは、ヴィクターの科学への情熱(妄想に近いとはいえ)を砕いたクレンペは、教育者としては失格とも言えます。
一方、ヴァルトマンの方は、ヴィクターの魔法的錬金術的な考え方を全否定せず、再び科学への興味を抱かせた点は、後の悲劇につながるとしても、教育者としては正しかったでしょう。
4.怪物の描写
原作にある盲目のド・ラセー老人との交流は、『フランケンシュタインの花嫁』にもありますが原作とは色々と異なっています。それに比べるとこの作品はかなり原作に忠実な形となっています。
原作同様に、ヴィクターに認められなかった怪物はド・ラセー家の隣の空家に身を潜め、そこで言葉を学んでいきます。
現状を理解した怪物はド・ラセー家を助けるために作物を収穫して家の前に置いたりします。それを家族が森の精の仕業だと思う所までは原作にもあります。
更にこの作品では子供達が森の精へのお礼として作物と花を贈り、こっそりと怪物が喜ぶ場面が追加されてます。これは原作にもあって欲しい内容です。
原作の怪物が溺れた少女を助ける場面はない代わりに、類似した悲劇がド・ラセー家の話と融合して再現されています。
ある日地主がお金の取り立てに来てド・ラセー老人と孫娘に暴力を振るいます。孫はその場から逃げ、父と母に助けを求めに行きます。(老人が殴られてる時に映る絶妙な表情の雪だるまがシュールです。)
そこに怪物が現れ、地主を屋根に突き刺して窮地を救います。そして、老人は助けてくれた怪物を家に招いて言葉を交わします。
しかし、そこに娘と合流した父フェリックスが現れ、怪物が原因だと思い無理矢理追い出してしまいます。
つまり、フェリックスが原作の溺れた少女の父の役目も兼ねています。
ド・ラセー家から怪物が追い出されるシーンは原作にも『花嫁』にもありますが、その際老人は呆気にとられて、怪物を否定も弁護もしません。しかしこの作品では、老人が「何をする。よせ」と一言ですが怪物を庇おうとする点は、原作を越えているでしょう。
ただ、その後引越してしまった事を考えるとフェリックスらに説得されたとは思いますが。
怪物が引越して無人となったド・ラセーの家を燃やしてヴィクター・フランケンシュタインに復讐を誓います。このシーンは、怪物の絶望と憎悪を表現すると共にどこか美しささえ感じてしまいます。(もう完全にマフィアと化してますが)
Godfather(マフィアのボス、名付け親)を演じたロバート・デニーロに、神でも、父でもなく、名前すらない怪物を演じさせたのは、対比の効果も狙っていたのでしょうか。(アウトローで暴力で問題を解決する点は同じですが)
映画ではカットされていますが小説版には、鹿狩りで母親が殺された小鹿を、怪物が助けようとして強く抱きしめすぎて潰してしまう挿話があります。
本筋としては重要でない割に手間がかかる映像なのでカットは仕方ないと思いますが、これは原作にあっても良いほどです。
このエピソードは『リリカル・バラッズ』第二巻のワーズワースの『鹿跳びの泉』(Hart Leap Well)を連想させます。
原作では、ワーズワースの『ティンターン僧院』とコールリッジの『老水夫の歌』が引用されていますが、この作品にはない分、ここで補ったのかもしれません。
一方で、原作では草食である怪物について、小説版ではウサギやリスなどの小動物を食べるとしたり、怪物が『失楽園』や『ウェルテル』を読まず、ヴィクターの研究日記だけだったりなどの改悪も見られます。
更に、映画版の怪物は、北極海で襲ってきたウォルトン達の犬を虐殺し、自分の伴侶を創る素材として通りすがりの女性を殺し、ヴィクターの父親も殺すなど、残酷さが増しています。
原作でも怪物はウィリアムやエリザベスを殺すなどの残酷な行為をしていますが、ヴィクターの関係者だけに絞られていて無差別ではありません。
ホエール版の映画における純粋で無差別な殺戮を行う怪物からの影響かもしれません。
一般に流布しているイメージと比べると、この作品の怪物像はかなり好意的ですが、原作ほどには、怪物の内面の苦悩を描き切れたとはいえません。
しかしながら、原作では目の見えないド・ラセー老人だけが怪物の苦悩の一部を理解できた様に、想像力で補う文章ではない、映像ではここが限界なのかもしれません。
5.花嫁の誕生
この作品では、伴侶を作らせる際に、怪物は、あえてジュスティーヌの死体を持ってきます。その事に動揺するヴィクターに対し、「ただの材料だ」と怪物が答えますが、以前に、怪物が自分の体を構成している死体は善人か悪人かと尋ねた時にヴィクターが「ただの材料だ」と答えた事への切り返しでしょう。
知人の死体を使う事に動揺するヴィクターは人間的な感情が残っている半面、自分の周りの事しか考えていないとも取る事が出来ます。
この件もあってかヴィクターは伴侶を造る事を拒否し、怒りに駆られた怪物はヴィクターの花嫁エリザベスを殺害します。
原作ではその後、ヴィクターが怪物に復讐を誓って北極の果てまで追い続けますが、この作品ではその前に、ヴィクターが 殺されたエリザベスの首にジュスティーヌの胴体をつけて、”伴侶”として蘇生させてしまいます。 怪物の為ではなく、自分自身の為に。
そして、ヴィクターと怪物が”伴侶”を巡って奪い合う最中、混乱したエリザベスが自ら火に巻き込まれて死んでしまいます。
原作では、エリザベスが最後に人造人間として復活する事はありませんし、怪物の花嫁も誕生していません。(怪物の花嫁が誕生するのは、ホエール版の『フランケンシュタインの花嫁』です)
この点は、原作に忠実と言いながら改変していますが、原作と『花嫁』を越えた新たな解釈を生み出した点は評価できるでしょう。
6.ヴィクターとウォルトン
他のフランケンシュタイン作品における科学者像は、善良な存在で間違って怪物が創られるか、邪悪な存在で怪物の方に同情的かのいずれかが殆どです。
原作はそこまで単純ではなく、善でも悪でもない人間としてのヴィクターの葛藤と矛盾が描かれています。
この作品も、矛盾した存在としてのヴィクターを描いています。
小説版では、以下に引用した様に、ヴィクターが死に際に自分が怪物をきちんと育てていれば悲劇を防げた事に気付きます。
「もしヴィクターがその責任に答えていたら…
恐怖に駆られてインゴルシュタットを逃げたりせず、自分の立場をはっきりさせ、理解しようとしていれば、生まれたばかりの生き物を養育する事もできただろう。
そうすれば、この怪物はもっと違うものになっていたかもしれない。
憎しみと邪悪さのかわりに、愛情と知恵に満ちた人格を持っていたかもしれないのだ。」
もっと早くに気付いて欲しかったものの、この最期の描写は評価できます。
この作品におけるヴィクターは、『花嫁』等における極端な美化でもなく、自分の考えに熱中してしまう欠点はあるもの、原作ほど性格が悪いとは言えません。
また、派生作品ではカットされる事が多い、原作における語り手で北極探検家のウォルトンも登場します。
ウォルトンは、映画の冒頭と最後に登場し、原作とは違って怪物にヴィクターの葬儀を見守らせた後、北極探検を諦めて帰っていきます。
”自然”に挑む者、あるいはプロメテウスに近しい存在であるヴィクターとウォルトンの違いを描いています。
ちなみに、ケネス・ブラナーは北極探検ならぬ南極探検を行った実在のシャクルトンの役を2001年のテレビシリーズで演じています。そのシャクルトンも南極探検中に、原作のウォルトンと同じく、コールリッジの『老水夫の歌』を読んでます。
7.作中の年表
映画と小説によって、原作ではあいまいにされていた具体的な年月が下記の通り明らかにされています。
1769年 ヴィクター・フランケンシュタイン誕生。
1773年 ヴィクター幼少期にエリザベスとの出会い。
1793年 ヴィクターがインゴルシュタットに学びに行く。怪物を創造。
1794年 ヴィクター、北極海でウォルトンに看取られて死亡。怪物消息を絶つ。
この作品では、ヴィクターがインゴルシュタットで怪物を創造してから北極で死ぬまでが2年とかなり短くなっています。
原作では、インゴルシュタットで2年ほど自然哲学の基礎を学んだ後、怪物創造に約2年、その後は5-6年ほど怪物に翻弄されており、合計で十年程度となっています。
原作は一文で数年が飛んだりやたらと旅行が長かったりするものの、2年は少し短すぎるかもしれません。
ただヴィクターは25歳位で死亡しており、原作とほぼ同じ年齢です。(映画のヴィクターは、演じたケネス・ブラナーが、当時30代だったので、20代には見えないですが)
物語が駆け足になっている点を除けば、おおまかな原作の時代背景とは一致しており、ホエール版の映画に比べると時代考証もしっかりしています。
時間標識より、原作の最後は1799年頃だと考えられるためずれていますが、原作との整合性よりも、映画公開の1994年がちょうど200年に当たる様に、1794年に物語の終わりを強引に設定したのかもしれません。
この作品は、科学や人間における善と悪の対比などの原作の持つ二重性をかなり意識しています。しかし、単なる原作の忠実な再現に収まらず『花嫁』などの派生作品も含めて越えようとした作品と言えるでしょう。