13stein: アイザック・アシモフ『バイセンテニアル・マン(The Bicentennial Man)』/クリス・コロンバス 『アンドリューNDR114』(映画)
Today we declare you The Bicentennial Man, Mr. Martin.
今日をもって、マーティン氏を二百年生きた人間だと宣言する。
世界大統領による、アンドリューを人間と認めた宣言
前回、アシモフのロボット工学三原則に従うロボット達は、人間になる事はできないと書きましたが、例外もあります。
それが、今回紹介するアイザック・アシモフ『バイセンテニアルマン』のアンドリューです。
今回は、フランケンシュタインともかかわりのある三点に絞って紹介したいと思います。
1.三原則への反抗
マーティン家の家庭用ロボットとして働いていたアンドリューには、芸術の才能がありました。
芸術の才能に気付いたマーティン家は、彼に個性を認めます。マーティン家の主人の娘リトル・ミスの協力もあって、 仕事に対して報酬をもらう様になり、ついには自分自身を買取り、完全な自由を手に入れました。
しかし、自由を手にしたはずのアンドリューはある日、悪意ある人間によって命令され、危うく壊されかけてしまいます。
ロボット工学三原則第二条には逆らえなかったのです。
アンドリューは自由になったと思いながらも結局、ロボット工学三原則に縛られている事に気づきます。この屈辱的な経験が、アンドリューに人間になろうという決意を固めさせました。
この物語の直接的な影響は、60年代に盛んだった公民権運動でしょう。
アンドリューとリトルミスの関係は、『アンクル・トムの小屋』におけるトムとエヴァンジェリンの関係に似ています。
また、マーティンの名も、公民権運動で活躍したマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのファーストネームでもあります。
しかしながら、その反抗の手段は、市民的不服従やデモ活動、あるいは暴力でもありません。
アンドリューが取った方法は、自ら、人工臓器や人工皮膚などを開発して、普及させるとともに、自らの機械の身体を人間の生体に近づけていくというものです。
理性的で、かつSF的な少しひねった発想が、アシモフらしく時代の枠に収まらない普遍性を獲得しています。
人間からの差別とそれに対する反逆のテーマは、フランケンシュタインの怪物から引き継がれたものです。
しかし、アンドリューの場合は、フランケンシュタインの怪物と違って、リトルミスがどんな時も彼を支えてくれました。その結果、暴力的な手段を取らず、平和的な方法で人間になる事が出来ました。
フランケンシュタインの怪物にも、リトル・ミスの様な存在がいたら、救われたのかもしれません。
2.不死性
自らの機会の身体の全てを人体に変えたアンドリューは、自分は人間だと主張します。
しかしながら、議会は彼を人間と認めようとはしません。
その一番の理由は、不死の人間がいたら、人々がその不死性を嫉妬するからでした。
その事を知ったアンドリューは、自分の不死性を捨てます。
そして、二百年生きた人間(Bicentennial Man)として、正式に認められ、その生涯を人間として終えたのでした。
サイバネティクス技術の発達で、人間の機械化・不死化が夢物語とは言い難くなった現代では、人間が死に固執する事の古さも感じてしまいます。
人間自体が不死となる可能性までは、考慮できなかったのは時代の限界かもしれません。
しかしながら、ロボットが三原則を越えて死を選ぶ事は、物自体が、自由意志へと変容したとも取れますし、また、生の有限性こそが人間の本質という主張も、一つの在り方として色あせる事はありません。
3.人間性
ロボットを始めとした人間でない存在が、人間になろうとする物語は数多く存在しています。
一般的には、ピノキオが良く知られており、フランケンシュタインの怪物の叶わなかった願いでもあります。
この小説も、そういった物語の一つで、アンドリューは、人工臓器を開発つけていく事で姿から人間に近づこうとします。
人間の姿にこだわるのは、人が神の似姿で造られたとするキリスト教の影響かもしれません。
とはいえ、原作にもまして、映画版はヒューマニズムが強調されており、個人的にはどこか違和感を感じます。
一例をあげれば、アンドリューが完全な人の身体を持ち、恋人と肉体関係になった翌朝に、朝食を食べた時の次の台詞でしょう。
Pig.very smart animal.
豚。とても利口な動物。
obviously not that smart if it ends up as bacon.
でも、ベーコンになったら、明らかに利口じゃない。
Fell like I'm eating myway through the entire food chain.
食物連鎖の全体を食べ歩いた気分だ。
この台詞はどう考えても、食物連鎖について悲しむ訳では無く、揶揄しています。
ヒエラルキーの下だったロボットの自分が、人間と同じ立場、捕食者側に回った事を楽しんでいます。
いわば、フランケンシュタインの怪物が人間になった瞬間に、元の仲間の怪物達を迫害し始めたとも取る事が出来るでしょう。
機械の身体だった頃に、クモを助けた優しさはどこに消えたのでしょうか?
ブラックジョークにしても、少しやりすぎだと感じます。
似た様な台詞は、原作には登場しませんので、映画版の改悪で、人間になる事の意味をはき違えている気がします。
人間の姿に近づく事よりも、人間になりたいと願うその在り方こそが、人間性ではないのでしょうか。
「早く人間になりたい」と願った妖怪人間ベム達が、最後に人間になる事を諦め、怪物として人々を救い続ける選択の方が、はるかに人間的、道徳的だと感じます。
人間性について、ステレオタイプを捨てきれなかった点は少し残念ですが、ロボット工学三原則とは異なる方向性で、フランケンシュタインの怪物に救済を与えた点は、素晴らしいです。
ロボット工学三原則が、創造者側のフランケンシュタイン・コンプレックスを克服したのに対し、『バイセンテニアルマン』は、被造物側のフランケンシュタイン・コンプレックスを解消しています。
前回紹介した『われはロボット』やロボット長編ものが、ロボット工学三原則という法則をテーマにした、『プリンキピア』ならば、『バイセンテニアルマン』は、その法則から逸脱したクリナメン=物自体=意志についての詩『事物の本性について(De Rerum Natura)』と言えるかもしれません。